南海インベーダーズ




寄生虫女的殲滅譚



 土の味がした。
 口一杯に湿った土が詰まり、手足といわずに全身が没していた。目を開けても何も見えず、瞼を上げると眼球に ざらりと砂混じりの土が擦れて痛む。舌と喉の水分を吸い込む土は塩辛く、海の香りがする。息を吸おうとしても、 土に阻まれて空気が肺に及ばない。ここはどこなのだろう。ようやく辿り着けた墓土の中なのだろうか。だとすれば、 その中で生き返ったのか。何度味わっても、死の淵から戻っても嬉しくもなんともなかった。愚かしく生き続けると、彼に 会いたくなってしまうからだ。今一度死んでしまおう、と、土を喰らおうと顎を開くと、全身を包む土が背中に向かって 引き摺られ始めた。土が溶けるように下方に吸い込まれていくと、肌をなぞる土の感触が変化して乾いた砂の感触が 流れていった。半開きにしている眼球に光の欠片が差し、眩しさに負けて目を閉じた。

「まただ」

 まだ、死ねない。

「どうして、死ねないんだろう」

 あの時、確かに死んだはずだった。芙蓉の能力で液体と化して地面に吸収され、寄生虫の一匹も残さずにただの 水と化して世界に溶け込んだ。それなのに、両目は青く澄み渡る空を捉え、肺には新鮮な空気が入って膨らんだ。 意識がはっきりしているのは、恐らく、一度溶けて固まった影響だろう。通常時は寄生虫の一匹一匹に意識も知性も 分散されていて、一個の生命体ではなく群体に近い状態だ。だから、思考にも整合性がなく、言動も不安定なのだが、 今は違う。自分一人の意識が寄生虫で構成された脳に行き渡り、冴え冴えとしている。

「もう、嫌だ……」

 死にたいのに、この体は死なせてくれない。知性も理性も記憶も失ったつもりでいたのに、思い出したくもなかった のに、自分が自分であるために必要な女王寄生虫はこの手で握り潰したはずなのに。

「ここ、どこだろう」

 砂が厚く積もった体を起こし、周囲を見渡した。見覚えのある場所だ。アリ地獄のように逆円錐状に抉れている、 独特の地形。ばらばらに分解された漁船、風雨に曝されて赤茶けた錆の浮いた金属片。そこかしこに付いている、 六本足の足跡。彼の、小松建造が趣味に没頭する工作場だ。懐かしさと共に罪悪感が込み上げ、体を折り曲げて 砂に突っ伏した。砂をぎしぎしと奥歯で噛み締めながら、ミーコは過去の記憶と戦った。
 死ぬ自由すら、奪われている。




 宮本都子は、ごく普通の家庭の長女として生まれた。
 父親はサラリーマン、母親はパート勤め、狭いながらも住み心地の良い一軒家に暮らしていた。両親の仲も良く、 弟も生まれ、なんら問題のない人生だと子供ながらに思っていた。お小遣いがちょっとだけ物足りないと感じる時は あったが、家族仲も良く、時折起きる諍いも可愛いものだった。学校でもクラスに溶け込んで、気心の知れた友達も 何人もいた。勉強も嫌いではなかったし、物事を理解していくのがとても楽しかったので、成績もそれなりに良い線を 引いていた。このまま、高校、大学と進学、就職し、自分はごくごく普通に生きるのだと漠然と信じていた。
 その妄信が破られたのは、小学六年生の夏休みのことだった。その日も茹だるように暑い日で、都子は自由研究 として工作をする準備を進めていた。作るものは早々に決めていたし、他の宿題は当の昔に終わらせているので、 純粋に物作りを楽しもうと思っていた。画用紙には丸木組みのログハウスの模型の設計図が仕上がっていて、後は ホームセンターで買い揃えてきた材料を使って作れば、二三日もしないで出来上がるはずだった。
 都子は自分の学習机の隣に置いていた段ボール箱を開き、ログハウスの材料を取り出そうとした。だが、その中は 空っぽで、木材が入っていた名残の木屑が底にいくつか散らばっているだけだった。一瞬、都子は目を丸めて声を 上げかけたが、止めた。両親にも弟にも、これが何のための材料なのかはちゃんと教えてあったし、段ボール箱の 蓋にもきちんとその旨を書き記してあった。それなのに、なくなっているということは。

「……私が捨てたんだ」

 都子は頭を押さえ、呟いた。

「そうだよ、私が捨てたの」

 都子の口を使って、もう一人の都子が喋る。

「なんでそんなことをするの? いつも言っているじゃない、余計なことはしないでって」

「余計なことって? 余計でもなんでもないよ、これは必要なことなんだから」

「あんたが言う必要と、私の必要は正反対みたいだね」

「だって、都子は小松さんちの建ちゃんに会いに行かなきゃならないんだから。だから、ミーコが捨てたの」

「嫌だよ、あんな気味の悪い子。近付きたくもない」

「でも、行かなきゃダメだよ。だって、都子は建ちゃんと仲良くならなきゃいけないんだから」

「だーから、私はあの子が嫌いなんだってば。従兄弟ってだけじゃんか」

「行かないのなら、ミーコが行かせてあげる」

 きゃほははははははは。自分の喉が甲高い笑い声を上げ、都子はすかさず両手で口を押さえた。が、その両手が 自分の意志に反して口から剥がれ、空っぽの段ボール箱を閉じ、体が勝手に出掛ける準備を始めた。ポシェットに 財布を入れ、服を着替え、鏡の前に立って髪を整え、合い鍵をポケットに入れると、家を出た。ぎくしゃくした動作で 自転車に跨った都子は、泣きたくても泣けなかった。自転車のスタンドを蹴り上げてペダルを踏み、小松建造の 実家を目指して炎天下の道路を駆け抜けていった。
 物心付いた頃から、都子の中にはもう一人の都子が存在していた。都子が小さい頃に両親が呼んでいた渾名を 使って、自分のことをミーコと呼んでいた。ミーコは都子の意志とは正反対のことをしたがり、今もそうだった。都子が 食べたいものとは違うものを食べ、遊びたくもないクラスメイトと遊び、したくもないことをしてばかりいた。それが、 大人からは他人の嫌がることを率先してやる良い子に見えていたようで、都子の評判は悪くなかった。クラスの中で 浮きがちなクラスメイトと遊ぶことも、人に分け隔てなく接する性格の良い子だと思われているらしい。だが、実際は 違う。都子は嫌だ嫌だと思えば思うほどに、体が反対方向に向かってしまうだけだ。ミーコを押さえ付けられれば、 どんなに自由に生きられるだろう。自転車を目一杯漕ぎながら、都子は唇を噛んだ。
 小松建造の実家に辿り着くと、幼き日の小松は無表情に木材をいじくっていた。家の模型らしきものを組み立てて いたが、都子が作業場に入っても目も上げなかった。日に焼けているわりに外で遊び回らない性分だからだろう、 小さな背中は前のめりに丸まっていた。都子が声を掛けると、小松は面倒そうに目を上げた。生気の欠片もない、 濁った目だ。子供ながらに世の中全てを疎んでいるかのような表情が心底嫌だから、会いたくなかったのに。だが、 都子はまだミーコの支配下にあった。ミーコの意志により、都子は小松に話し掛けた。

「それ、イヌ小屋?」

 やめてくれ、黙ってくれ。小松は釘を打ち付けていたトンカチを止め、目を向けた。

「ねえ、建ちゃん。それ、イヌ小屋でしょ?」

 建ちゃん、なんて呼びたくもない。都子は小松を愛称で呼んだ気色悪さで寒気がしたが、態度は崩れなかった。

「……違う」

 拒絶の意志を露わにした小松は都子に興味を示さずに、作業に戻った。

「じゃあ、何? まさか人形の家ってことはないよね、男の子なんだし」

「違う」

「じゃ、何のために作っているの? 教えてくれたっていいじゃない」

「別に、なんでもない」

「そんなの、答えになってないよ」

 答えなんて聞きたくもない。都子はミーコに抗おうとするが、ミーコに操られた体は材木に腰を下ろした。

「建ちゃんっていつもそう。何考えてんだか、さっぱり解らない」

 嘘を吐け。いつも、と言えるほど顔を合わせていないじゃないか。前回、小松に会ったのは親族同士の交流を図る 集まりの時で、その場でも小松は下を向いてじっとしていた。都子は話し掛けもしなかったし、構いもしなかった。 当然、一言も言葉を交わさなかった。それに、その時、都子は本家の御前様からプレゼントされた大人っぽい浴衣 に袖を通してみたくてそわそわしていた。だから、小松のことなんて視界に入れもしなかったのに。

「ねえ、建ちゃん」

 吐き気が込み上がるほど甘ったるい声を出し、都子は小松に近付いた。

「お願いがあるんだけど」

「……何」

 小松は都子から必死に目を逸らしながら、板を置いて角を合わせた。

「夏休みの工作、手伝ってくれないかな。建ちゃん、器用だから得意でしょ?」

 馬鹿を言うな。あのログハウスは、一人で完成出来る程度の工作だ。材料も子供のお小遣いで買える範囲だし、 それを踏まえた上で選んだ自由研究だ。いつか住みたいと夢に描いた家だから、尚更他人には触れられたくない。 気味の悪い笑顔を貼り付けている自分を内側から傍観しながら、都子は必死にミーコを意識の上層から引き摺り 下ろそうとしていた。だが、ミーコは頑として引き下がらない。

「このままだと全然間に合わないんだもん。その代わり、建ちゃんの宿題見てあげるからさぁ」

 間に合う。絶対に間に合う。それを、お前が材料を捨ててしまったんじゃないか。

「その必要はない。とっくに全部終わっている」

 小松は表情を見せないなりに嫌悪感を覗かせている。そうだ、そのままこのイカれた女を突き返せ。

「えぇー、そんなの有り得なくない?」

 有り得る。有り得ている。だから、お前も早く私に体を返せ。

「有り得ている。証拠なら、俺の部屋にある」

「じゃ、何したらいい?」

「手伝わない。だから、何もしなくてもいい」

「……じゃあ、とっておき。パンツ見せてあげる」

 死ね。私の体ごと死ね。

「いらない」

「えぇ、即答!? 男子なのに、その方が有り得なくない!」

 私はこんなに馬鹿じゃない。馬鹿なのはミーコだ。お願いだから気付いてくれ、この女は頭がおかしいと。

「でも、本当に困っているの。だから、建ちゃん、お願いだから手伝って」

「俺に頼んでいる暇があったら、その時間で工作をすればいい。それだけのことだ」

 小松は至極真っ当なことを言った。嫌いな少年だが、それについては全面的に同意する。

「意地悪」

「俺は正しいことを言っているだけだ」

「それが意地悪だっての。じゃあね、建ちゃん! また来るからね!」

「来なくていい。手伝わないからだ」

「そこまで言うんだったら、絶対に手伝わせてやる!」

 都子は作業場から飛び出し、自転車に跨った。自宅に戻る道を数百メートル走ったところで、電池が切れるように 体の自由が戻ってきた。ペダルを踏む足から急に力が抜け、よろけて道端の草むらに倒れ込んだ。途端に吐き気が 迫り上がり、都子はその場にげえげえと吐き戻した。胃酸の味と消化途中の朝食の味が喉の奥にこびり付いて、 それがまた吐き気を催させる。口元を拭ってから、都子は倒れた自転車を押し、歩き出した。

「うぅ、うぁ……」

 ミーコの思い通りになんてされてたまるか。工作は自分一人でするんだ。自分だけの力で、自分が住みたい家を 作るんだ。だから、小松建造にもミーコにも邪魔されたくない。けれど、しばらく歩くと、またもミーコが都子の肉体を 支配し、自転車に跨って猛烈な勢いで漕ぎ出した。きゃひほはははははは、と奇声を上げながら。
 その後、都子の記憶は曖昧だ。楽しみにしていたことを目の前で奪われるのが耐えられなくて、ミーコに抗うだけ の精神力がなかったからだ。小松を連れてホームセンターに出掛けた都子の姿をしたミーコは、前に買った材料と 全く同じものを買い揃えながら、都子が胸の内に秘めていた夢をべらべらと喋った。気が狂いそうな思いで、都子は 小松との買い物を終えて帰宅した。一度自分が捨てたものとそっくり同じものを段ボール箱に詰めると、ひどい頭痛 に襲われた。この頭を割ってミーコを引き摺り出せたらいいのに、と切望しながら、都子は頭を抱えて呻いた。

「ミーコはミーコで宮本都子なの。だから、宮本都子はミーコでミーコなの」

 自分の口が引きつり、喉が独りでに声を発する。

「だから、馬鹿なことを考えないでよね? お仕置きするんだから」

 ひゅ、と耳元で空気が切れた。都子の体は大きくしなり、学習机の角に思い切り額を衝突させた。頭蓋骨を通じて 脳全体に響く震動と額が切れた痛みに負け、都子は喘ぎながら謝った。もう一人の自分に。

「ご、ごめんなさいぃ……」

「どう、痛い? 痛いでしょ? ミーコに逆らうと、もっともおっと痛い目に遭うんだから。きゃひほははははは」

 嗚咽に引きつる喉が上擦った笑い声を放ったせいで、都子は吸おうとした息を吐き出してしまい、肺に入りかけた 空気が外に出て酸素が上手く吸収出来なくなった。額から鼻筋を伝って滴る血を拭おうにも、息苦しさのあまりに 目が眩んだ。笑いたくないのに笑い続けた都子は、床に散らばる血の雫に涙を混ぜた。ミーコとは一体何者なのか、 なぜそんなものが自分の中にいるのか、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。朦朧とした意識の 中で、都子はミーコにせめてもの仕返しとして頭皮に爪を立てて力一杯引っ掻いた。ぶちぶちと髪が千切れ、爪の 先に皮膚が詰まり、新たな血が床と服に飛び散る。額を切った痛みとは違う痛みが頭全体に広がり、幾筋もの血が 顔を汚していく。都子の考えが功を奏したのだろうか、喉の動きが一つだけになった。血塗れの手で顔を覆い、都子は ようやく自分の意志で喉を動かし、自分自身の声で高らかに笑った。
 自由とは、なんと素晴らしいのだろうか。





 


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