忌部島上空、高度二万メートル。 地球は丸く、宇宙は暗い。緩やかなカーブを描く水平線を透き通った淡青の成層圏が包み込み、遙か彼方に日本 列島の南端が見えている。忌部島は米粒よりも小さく、火山から立ち上る噴煙がうっすらと尾を引いている。頭上に 横たわる天の川は地上から見た時よりも鮮やかで、見覚えのある星座もいくつかある。東側から昇ってきたばかり の太陽の存在感は計り知れず、光条を受けるだけで圧倒される。空と海の間に絶妙な造形の雲が散らばっており、 刻一刻と移り変わっていく。何時間見ていても飽きない絶景で、宇宙飛行士の心境が少しだけ理解出来た。 「うおおおおお……」 紀乃は圧倒されるあまりに唸り、拳を固めて振り向いた。 「すっげぇ! 私ってすっげぇ! さっすがインベーダー!」 「そりゃお前も凄いが、もっと凄いのはゾゾだろうが」 紀乃の背後に浮かぶフンドシ、忌部が言うと、その隣に浮かぶ甚平も小さく頷いた。その拍子に、丸まりがちな背に 載っている大きなリュックサックが揺れた。 「あ、うん、そりゃ紀乃ちゃんも凄いけど、ゾゾの生体改造技術も有り得ないっていうか」 「てかさー、もうちょっとこの絶景に対するリアクションってないの?」 紀乃は浮かんでいるのをいいことに胡座を掻き、むくれた。だが、二人の言うことも尤もだ。紀乃は地球の絶景と 自分達を隔てている膜と、三人の真下にある花弁を見やった。直径五メートルの泡を生み出している花弁は同時に 適度な酸素を作り出す上、泡を通り抜ける太陽光線の紫外線を遮断し、更には気温を保ってくれていた。何をどう やればそんな植物を作れるのか、紀乃はもちろん忌部も甚平も見当が付かない。普段の様子が所帯染みている ので忘れがちだが、やはりゾゾは科学者だ。それも、恐ろしく優秀な。 「んで、忌部さん。どの辺に落とせばいいんだっけ?」 紀乃は頭上を仰ぎ、地球の重力に囚われている無数のスペースデブリに感覚を集中させた。 「太平洋側に二三散らばらせて落として、日本海側には目標地点の近隣に落とせ。但し、絶対に大陸との国境には 落とすなよ。ただでさえ近隣諸国との情勢が不安定なんだから、余計なことをして戦争を起こしたくはない」 忌部が透明な指で落下地点を示したので、紀乃はその指がどこにあるかを確かめてから、その先を辿った。 「戦争なんて起きちゃうの? この前みたいに、スペースデブリを海に落とすだけだよ?」 「あ、うん、起きちゃうの。ていうか、これから僕らがやろうとしていることは、れっきとしたテロ行為っていうか、まあ、 侵略行為には変わりないっていうか。それに、僕らの扱いは人間じゃないけど、国籍はれっきとした日本人だから、 日本国内に対する侵略行為なら、問題は大きくならないけど、他の国にちょっかいを出しちゃうと有事が起きるって いうかで。まあ、自国に対する侵略行為も本当は良くないことなんだけど、致し方ないっていうか」 甚平は少し気まずげに丸い目を伏せ、瞬膜を開閉させた。 「それはそれとして、なんで忌部さんが付いてくるの? 福井県にある八百比丘尼の洞窟に行きたいって言ったのは 甚にいだけど、そういうのは忌部さんには関係なくない?」 紀乃が訝ると、忌部は言い返した。 「お前らはどっちも未成年だし、ちょっと目を離すと何をしでかすか解らないからな。要するに引率だ。それに、俺が いた方が変異体管理局の動静も掴みやすい。連中の行動範囲も知っているし、山吹と田村が立てる戦略のクセも 把握している。だから、役に立つはずだ」 「そうかなぁ」 ねえ、と紀乃が甚平に向くと、甚平は口籠もりながら答えた。 「あ、うん、その辺は忌部さんの言う通りっていうか。だから、一緒の方がいいっていうか」 「甚にいが言うならそうなのかなぁ……」 紀乃は今一つ腑に落ちなかったが、スペースデブリを掻き集めて人工の流星を作ることに集中した。抗いがたい 星の力、地球の重力に従って衛星軌道上を漂う無数の金属片は、大海に埋もれる砂粒にも似ていた。任務に従事 して役割を終えた人工衛星が破損したもの、打ち上げられたロケットの残骸、宇宙飛行士が落とした細かな備品が、 宇宙空間に拡大していく紀乃の感覚に触れ、運動エネルギーを奪われて制止する。遠い昔に爆破された軍事 衛星を中心に据え、空間を円形に湾曲させて重力をレンズ状に歪め、スペースデブリを寄せ集めて一塊の金属塊 へと変化させる。事を起こしている宇宙空間は遠く、暴風をも防いでいる巨大な花の泡は音も遮ってくれるので金属 同士がぶつかる音は聞こえなかったが、紀乃の神経には長年宇宙空間に曝されていた金属片の強烈な冷たさが 流れ込んできていた。太陽光に熱されているもの、放射線を帯びているもの、人工衛星としての機能は失っている が回路は生きているもの、など様々で、金属片が一つ一つ重なり合うたびに、アルミホイルを歯で噛んだ時のような 尖った冷たさが神経の末端を刺してくる。どちらかと言えば、不快な感覚だった。 「紀乃、もういいぞ。直径は五メートルもない方がいい、着弾と同時に燃え尽きる程度でないと海洋汚染が心配だ」 自分の目の上に透けた手を重ねてレンズ代わりにし、上空を見上げていた忌部は指示した。 「えーと、この次はどうするんだっけ?」 直径五メートル程度の金属塊を遙か上空に浮かばせながら紀乃が問うと、甚平が説明した。 「あ、うんと。大気圏再突入させる角度は浅く、でも、高度は高くね。地上から百キロメートル程度が妥当。そこから 東京湾をピンポイントで狙うのは視認では難しいし、そこまでしなくてもいい。これは陽動だから」 「うん、大体解った!」 紀乃はサイコキネシスを強めて金属塊を高度百キロメートル付近にまで上昇させ、力をしならせた。 「せぇーのっ!」 無数の星々の間に、一つの流星が滑り落ちた。数秒後、それは大気圏摩擦による炎に巻かれながら緩い角度で 落下し、一直線に太平洋側へと向かっていった。寄せ集めた金属片は紀乃のサイコキネシスから解放されても尚も 固まっており、過熱によって溶接されてしまったらしく、空中分解する危険性はないようだった。赤い尾を引きながら 海へと吸い込まれていった金属塊は、数十秒後、太平洋に墜落して水柱を立てた。 「茨城の沖合い数十キロ、ってところか。まあ、無難だ」 忌部は透けた手を丸めてレンズの焦点を調節し、目を凝らした。 「で、次はどこ?」 高度百キロメートル付近で次なる金属塊を作りながら、紀乃が忌部に問うと、忌部は静岡県沖合いを指した。 「静岡の下辺りにでも落としてやれ。落下地点が多ければ多いほど、現場が混乱する」 「あ、でも、福井県側にスペースデブリを散らばらせるのは忘れないでね。あの辺に避難勧告を出してもらわないと、 人払いが出来ないっていうか、ちゃんと目当てのものを見られないっていうか。あ、えと、それで、散らばらせるのは 一カ所だけじゃダメっていうか。ていうか、むしろ、目立っちゃう。一つだけ変だと、そこに行くってことを敵に知らせる ことになっちゃうっていうか。だから、その辺は重々気を付けて」 甚平が弱腰に忠告すると、紀乃は笑った。 「解ってるってぇ。そんじゃ、二発目、行ってみよー!」 調子が出てきた紀乃は、二発目の金属塊を忌部の指示通りの静岡県沖合いに落下させるべく、ほんの少しだけ 角度を付けて大気圏に再突入させた。なぜ再びが付くのか、と、忌部島を出発する前に甚平に聞いてみたところ、 人工衛星やロケットは一度地球上から発射されたものだから再びが付く、のだそうだ。物腰が弱すぎて情けなさが 際立つ従兄弟の青年は、紀乃が知らないことを本当によく知っている。他人と接するのが苦手なせいで、知識欲が 人一倍強いのだろう。だが、本人はそれをひけらかすことはなく、むしろ恥じ入っているのが不思議だ。甚平が言う には、自分の知識など表面を浅く撫でているだけであって本当に理解しているわけではない、だそうだが、紀乃から してみれば浅く撫でるだけでも充分すぎるほどだ。やっぱり勉強って大事だ、と今更ながら思う。 二発目の金属塊は、落下中に施した入射角の微調整のおかげで無事に静岡県沖合いに落下し、今度も巨大な 水柱を立てた。三発目の金属塊は甚平の指示通り、細かなスペースデブリを作り、それを福井県沖合いに向けて 投下した。高度百キロメートルから大気圏再突入の際は金属塊だが、沖合いの数百メートル上空で空中分解させて スペースデブリを散らばらせた。日本海側は地球の丸みがあるので忌部でも目視しづらかったが、紀乃の感覚には 手応えがちゃんと返ってきた。後は、もう二三発ほど金属塊を落としてから、高度数千メートルにまで降下し、泡を 破った花弁を大気圏外に飛び出させて証拠隠滅してから、福井県上空まで高速で移動し、忌部の無線機で変異体 管理局の無線を傍受して地元住民の避難完了を確認し、甚平が行きたがっている八百比丘尼の洞窟に向かう。 インベーダーともなると、フィールドワークも一苦労だ。 変異体管理局、管制室。 六発目の落下物が日本海側に着弾した。管制室が予測した着弾地点とは数メートルの誤差はあったが、陸地 への被害は一発もない。さながらチャフのようにばらまかれたスペースデブリの金属片も、日本海の浅瀬に一つ二つは 落ちただろうが陸地へは掠ってもいない。誰の仕業かは考えるまでもない。インベーダーの中でこれほどの能力を 持ち合わせているのは、乙型一号・斎子紀乃しかいない。メインモニターを見上げながら、敵ながら感心しつつも 山吹は少し違和感を感じた。斎子紀乃の単独行動だとしたら、落下地点が正確すぎる。日本海側には合計三つの 落下物が投下されているのだが、いずれも日本の領海内であり、隣国の国境を掠ってもいない。それはそれで非常に ありがたいのだが、社会の成績が平均点だった中学三年生がそこまで気を遣えるだろうか。 「こりゃ忌部さんもいる感じっすね。演習から二日後で良かったっすよ、ギリで整備点検が完了しているんすから」 山吹が肩を竦めると、真波は腕を組んだ。 「あれで忌部君は要領が良いわ、インベーダー共と共闘関係を結んでいても不思議じゃない」 「一連の襲撃は、何かの目的があっての上の行動に思えます」 秋葉が発言すると、真波は各現場からの情報が羅列されている複数のモニターに目を配らせた。 「海上自衛隊と海上保安庁の配備は順調に進んでいるようね。各現場は彼らに任せておくとして、山吹君は伊号と 虎鉄と芙蓉を率いて太平洋側に、田村さんは電影とガニガニを率いて日本海側に向かいなさい。どちらかに何かを 仕掛けてくるはずよ」 「ですが、変異体管理局の守りはどうするんすか?」 山吹が問うと、真波は答えた。 「波号がいるし、呂号も辛うじて使えないこともないわ」 「では、やはり呂号の処遇は……」 秋葉が切なげに目を伏せるが、真波は意に介さなかった。 「どれだけ値が張ろうが、兵器は消耗品よ。資金を投入しただけの成果は上げたのは確かだけど、耐久性がない のは否めないわ。廃棄処分しなければ、何の役にも立たない小娘を国民の血税で養うことになってしまうのよ。あれ は生かしておくだけで金が掛かるから、それこそ、世間から非難されてしまうわ。だから、呂号を廃棄処分するのは 我々にとって必要な措置なのよ」 山吹は秋葉を見やると、秋葉は意見したそうだったが、唇を噛んだだけだった。呂号にはこれまでの働きに応じた 余生を与えてやるべきでは、と、山吹も言いたかったが、真波の性格からしてそれはないだろう。軍艦や戦車なども、 退役すれば扱いが大きく変わる。大戦中に英雄的な活躍をした軍艦も演習で爆撃されて海中に沈んでいるし、 高性能な戦車も演習では的にされて破壊される。戦闘機は博物館などに展示されるがそれもごく一部の話であり、 ほとんどは分解されてスクラップにされる。呂号は、その後者にされてしまったらしい。彼女の音楽の才能は能力に 由来する部分が多いが、音波操作能力を失ったからといって、生まれ持ったギターの才能が錆び付いてしまうとは 思いがたい。だから、廃棄処分などせずに、彼女の才能を存分に発揮出来るような場所で生かしておくべきでは。 山吹はそれを意見しかけたが、真波の指示が届いた人型軍用機格納庫からの通信に応答した。 「はい、こちら管制室の山吹っすけど」 『ジョージー! 電影なのさー!』 「そっちの準備は整ったんすか、電影。ガニガニの電圧も大丈夫っすか?」 『電影もガニーも大丈夫なのさー、いつでも出撃出来るんさー。でも、ジョージーは電影と一緒じゃないんさー?』 「今回は俺とむーちゃんは別動なんすよ、別動。俺とイッチーと虎鉄と芙蓉で太平洋側の守りを固めて、むーちゃんと 電影とガニガニは日本海側を守るんす。ガニガニは初出動っすから、先輩の電影がしっかりやるんすよ」 『うー! 了解やいびーん!』 いつも通り明るい調子で、電影は通信を切った。 「乙型一号が忌部君と襲撃に出てきたとなれば、忌部島はがら空きね。忌部君はともかく、乙型一号がいなければ 忌部島の守りは隙だらけ。他の連中も面倒だけど、乙型一号がいなければ防御する以前の問題よ。連中が忌部島に 帰還する前に攻撃部隊を編成し、上陸させましょう。今度こそ根絶やしにしてやれるわ」 真波が攻撃部隊に連絡するべく無線機を取ると、秋葉が止めた。 「主任、それはガニガニとの契約違反に当たります」 「契約も何も、相手はヤシガニの化け物よ? 違反したところで、私達は何の罪にも問われないわ。それに、相手は インベーダーなんだから、法律に守られてすらいないわ。そんなものと約束を守ったところでどうなるの」 「ガニガニには人格と知性があります。それについては私が保証します。ガニガニが私達の命令に従順なのは契約を 継続しているからに他ならず、忌部島を襲撃しないという約束を守り続ければ、ガニガニは我らの生体兵器として 働いてくれます。もしもその契約を破れば、ガニガニは私達ごと海上基地を破壊するでしょう。彼には、それだけの 能力が備わっています」 真波の目を見据えて秋葉が言い切ると、真波は無線機を下げた。 「随分な自信ね、田村さん」 「私は、電影共々ガニガニを一任されました。部下に信用されたければ、部下を信用するのが道理かと」 「あなたらしいわね」 真波は唇の端を引きつらせたが、無線機を上げた。 「けれど、私はあんな化け物を信用していないわ。単なる消耗品に信用されようだなんて、思ったこともないわ」 秋葉が手を伸ばしかけたが、真波は躊躇わずに無線機に攻撃部隊へ出動要請を掛けた。冷淡で事務的な言葉が 電波に乗って待機中の自衛官達に届いた、かと思われたが、何秒経とうとも応答はなかった。電池切れかと真波が 沈黙している無線機を睨み付けると、管制室の自動ドアが開き、やる気の欠片もない伊号が入ってきた。 「おーす」 寝起きの伊号は赤いチェックのミニスカートの裾が乱れ、黒のブラウスの襟も曲がっていて、赤いメッシュが入って いるツインテールも右側しか結ばれておらず、万能車椅子のキャタピラの動作も心なしか鈍い。生欠伸を噛み殺し ながら三人の近くに来た伊号は、モニターを一瞥しただけで状況が解ったのか、無線機を持った真波に言った。 「てか、今、無線もだけど通信が遮断されまくってるし。うちじゃねーし、政府の連中だし。携帯のも電話のもネットのも 全部死んでるし、てか、サーバーも落とされまくってるし。主任の無線もあれだろ、遠距離通信用に中継局があるやつ だし。それはうちの管轄のはずなのに、政府の連中が手ぇ回したみたいだし。仕事超早えー」 「私の許可も取らずに、どこの誰がそんなことを決定したのよ」 無線機を叩き付けるように置いた真波に、伊号はけらけらと笑った。 「んなの知らねーし! てか、あたしらにはマジ関係ねーし!」 「状況確認のために政府と連絡を取ってくるわ。あなた達は指示通りに」 真波はそう命じてから、足早に管制室を出ていった。苛立った調子で床に打ち付けられるハイヒールの音が完全に 遠ざかってから、伊号はロボットアームで左側のツインテールも結び、山吹と秋葉に目をやった。 「政府が情報統制のために色んな通信網を落としたのはマジだけどさ、主任の無線落としたの、あたしだし」 「そりゃどうもっす。でも、なんでまたそんな親切なことを」 伊号らしからぬ行動に山吹が不思議がると、伊号は長い睫毛に縁取られた目を丸め、山吹を凝視した。 「ロッキーが廃棄されるって、マジなん?」 「否めない事実」 躊躇いつつも秋葉が呟くと、伊号は唇を半開きにしてから、大きく歪めた。 「……マジウゼェ」 伊号の罵倒は、差し当たって思い付く人間全てに向けられていた。真波、山吹、秋葉、変異体管理局上層の幹部 局員、そして、自分を含めた生体兵器。語彙が貧弱で短い言葉の中には負の感情が一切合切混ぜ込まれていて、 やり場のない感情が迸らせた力が放り出されたままの無線機をショートさせていた。サイボーグであるが生体兵器 ではない山吹は、伊号の心中を事細かに察することは出来ないが、伊号が少なからず呂号に対して共感に近しい 感情を抱いていたのは喜ばしいと場違いな感想が過ぎった。伊号は誰に対しても横柄で不躾な態度を取り、呂号 に至ってはライバル意識を通り越した敵対心を抱いているのだと思っていた。けれど、そうではないのかもしれない。 だが、呂号が廃棄処分されてしまっては、伊号の感情の行き場は完全に失われてしまう。 どちらの少女も哀れだ。 10 10/8 |