小麦と卵が焼ける、甘く懐かしい匂いがした。 エレキギターの弦に掛けていた指を外して、呂号はふと顔を上げた。甚平もその匂いに気を取られたのか、本の ページをめくる乾いた摩擦音が止まっていた。匂いの発生源は台所で、空気の流れに乗って壁と床の僅かな隙間 から流れ込んでくる。昼下がりの日差しの筋だけが目に映る呂号は、エレキギターを足の間から持ち上げて本棚に 立て掛けると、ピンヒールの編み上げブーツを履いた足を組んだ。背中に当たった分厚い本がずれ、図書室の中に 硬い異音が広がった。匂いに混じって聞こえる話し声や物音を聞き取りながら、呂号は言った。 「うんと小さい頃。僕にはお父さんとお母さんとお姉ちゃんがいた」 甚平は呂号に振り向いたのか、衣擦れの音がした。 「いるんじゃない。いたんだ。僕は生まれ付いてひどく目が悪かった。そのせいで誰の顔もよく見えていなかったから まともに覚えちゃいない。けれど確かにいたんだ。僕とお姉ちゃんは揃って小さい布団に寝かされていた。お父さんと お母さんから名前を呼ばれた。世話をされた。可愛がられた。僕とお姉ちゃんはいつも一緒だった」 お姉ちゃん、お姉ちゃん、と舌っ足らずな声で呼んでいた記憶もある。 「狭くて古いアパートの一階。薄暗くて湿っぽくて埃っぽかったがそれが僕の世界の全てだった。お父さんの宝物の エレキギターだけが綺麗でぴかぴか光っている。お母さんからは化粧の匂いがした。お父さんからは鉄臭い匂いが する。お父さんは鉄工所で朝から夜まで働いていたからだ。だからお父さんの手は硬くて大きくて熱かった。お母さんは 僕とお姉ちゃんの世話で大変そうだったけど温かかった。柔らかかった。良い匂いがした」 エレキギターのネックに手を掛け、呂号は弦の一本を爪先で弾いた。 「けれどある日僕は連れ出された。お父さんもお母さんもお姉ちゃんもいない場所に連れて行かれた。知らない大人に 抱えられて車に乗せられて遠くに運ばれた。寂しくて怖いから泣いてしまったら知らない大人は謝ってきた。けれど 僕は怖かったから更に泣いた。泣き疲れて寝入った頃に車はどこかの家の前で留まった。そして僕は別の大人に 引き渡されて知らない家の中に入らされた」 ごめんな、ごめんな、と、呂号を連れ出した壮年の男がしきりに謝る声が今でも耳に残っている。 「その日から僕はその家の子供にさせられた。僕のお父さんとお母さんじゃない人が僕の新しいお父さんとお母さん だと言い張った。お兄ちゃんとお姉ちゃんだと見知らぬ子供を何人も紹介された。あのアパートより広いけどまるで 片付いていなくて物と子供だらけで薄汚い家だった。見知らぬ子供達は僕をいじめた。新入りだからだ。だから僕は やり返した。そうしたらもっといじめられた。二人の大人も僕をいじめた。思い出したくもない」 生まれつき視力が弱いことと体の至る所に炎症が出来てしまう持病が、里親とその家族の嫌悪感を煽っていた。 目の前のものもはっきり見えないほど目が悪いせいで他人の顔を覚えられず、食事もいつもこぼしてしまうし、要領も 誰よりも悪かった。風呂に入れば炎症が滲みて泣き叫び、服を着せられれば素肌が擦れて泣き叫び、薬を塗られても 痛いからとまた泣き叫んだ。だから、彼らの嫌悪感が膨れ上がって憎悪になるのは時間の問題だった。 「そのうちに僕は皆から分けられるようになった。生活する場所も食事する場所も食事の内容も飲む水も何もかも。 カビ臭い段ボール箱が詰まった押し入れの下に布団と一緒に押し込められた。暗くて狭いのが嫌だから外に出ようと するとふすまを蹴られて怒鳴られた。喉が渇いても水も飲ませてもらえなかった。食べることを許されていたものは 干涸らびて硬くなったパンだけだった。ろくに飲み食いしていないのに出るものは出る。だけど出せばもっと怒られる から精一杯我慢したけど結局は無駄だった。仕方ないから自分の布団に染み込ませて処理した。それが何日 続いたのか解らない。だけどある日いきなりふすまが開いて外に引っ張り出されて風呂に入れられてまともな服を 着せられて家から外に連れ出された。行政の人間が来るからだった」 里親にきつく腕を引っ張られて、見知らぬ街を連れ回された。だが、ろくに物も食べていなかったので栄養失調で 一層視力が悪くなり、病状も悪化していて、格好だけは綺麗だが足元はふらふらしていた。泣けばもっと怒られると 解っていたから、お腹が空いたとも疲れたとも言えずにされるがままになっていた。 「商店街だと思われる場所を歩いている時に僕は覚えのある匂いを感じた。凄く凄く覚えのある匂いだった」 呂号は深く息を吸ってから、吐いた。 「お父さんとお母さんとお姉ちゃんの匂いに違いなかった。だから僕はすぐさま里親のぬるぬるした手を振り払って 逃げ出した。相変わらず周りはよく見えなかったが匂いを辿れば問題はなかったからだ。周りを行き交う大人達の 足元を擦り抜けて走ったがすぐに息切れがして足がもつれた。背後から里親が怒鳴る声が聞こえてきたが無視して 走り続けた。そのうちにお姉ちゃんの背中を見つけた。だから僕はお姉ちゃんと呼んだ。だけど僕の声はほとんど 出なかった。腹に力が入らなかったからだ。そうこうしているうちにお姉ちゃんは遠ざかっていく。お父さんとお母さん と手を繋いだまま行ってしまう。僕は追い掛けようとしたけど転んだ。里親に後ろから蹴られたからだ」 その一件が、里親の憎悪に油を注いだのは言うまでもない。 「その日から僕はえげつないことをされた。他の子供や里親はまともなものを食べているのに僕の前に出されたのは 正真正銘の生ゴミだった。カレーに使ったイモやニンジンの皮だった。カレールーの箱やビニールだった。その隣で 里親と他の子供はまともなカレーを食べていた。その次の日も同じことをされた。里親と他の子供はオムライスを 食べているのに僕の前には卵の殻とタマネギの皮と鶏肉が入っていたパックだった。その次の日もそのまた次の 日もずっとずっとずっとそうだった。だから僕はそういう食べ物が嫌いだ。僕を蔑むための道具だからだ」 呂号はいくらか吐き気を覚え、顔を歪めた。 「中でも最悪だったのがケーキだった。あいつらは僕を部屋の隅で正座させておいて食い散らかした。その後には べたべたに汚れた箱と皿とフォークが残る。僕にはそれを舐めろと言う。舐めなければ殴るからだ。だが舐めたら 舐めたで馬鹿みたいに笑い転げる。だから僕はどちらも選びたくなかった。けれど腹が空いてどうしようもないのが 情けない現実だった。だから僕は……舐めた」 他人の唾液とクリームとスポンジの滓がまとわりついたフォークは匂いからして汚かったが、今、ここでこれを 口にしなければ、次はいつ物を食べられるのかが解らなかった。だから、そうせざるを得なかった。生きていくために それ以外の手段がなかった。いつも、本当の両親と姉が助けに来てくれることを願っていた。けれど、どれほど時間が 経とうともそんなことはなかった。だから、最初から何もなかったことにした。 「僕にはお父さんはいない。僕にはお母さんはいない。僕にはお姉ちゃんはいない。食べたいものなんてない。好きな ものなんてない。欲しいものなんてない。寂しくなんかない。寒くなんかない。眠くなんかない。怖いことなんてない。 僕は何も求めやしない。僕に必要なのはエッジの効いたヘヴィメタルとエレキギターだけだ」 求めなければ、欲しくなくなるからだ。呂号はエレキギターを抱き寄せ、冷たい感触を味わった。 「斎子露乃なんてこの宇宙のどこにも存在していない。僕が僕になったのは局長に拾われて改造手術を受けて甲型 生体兵器と化した瞬間からだ。だから……僕は僕であるべきなんだ」 「そう」 呂号の話を聞き終えた甚平は、肯定も否定もしなかった。だが、その短い言葉の中には、甚平なりの労りと慈しみが 籠もっていた。呂号は甘く優しいが故に胸と腹を締め付ける匂いを拒絶するために、膝に顔を埋めた。 「僕は僕なんだ」 「うん、解っているよ」 甚平は頷く。呂号はレザージャケットを纏った細い腕に爪を立て、ぎちりと握る。 「僕はお父さんもお母さんもお姉ちゃんも嫌いじゃない。嫌いになりたくない。だからなかったことにしたんだ」 「うん」 「なかったことにすれば辛いこともなかったことになるんだ。僕はただの兵器だ。敵を破壊するためだけの道具だ。 それだけだ。人間でもない。ミュータントでもない。インベーダーでもない。生体兵器なんだ」 「うん、うん」 甚平は頷くだけで、何も言わなかった。いつも通りの反応で、だからこそ余計に苦しくなった。いっそのこと否定か 非難をされたら楽だろう、とも思った。甚平からお前は人間だと言ってもらいたくもあった。しかし、そうと言われたら 言われたで突っぱねてしまうのが目に見えている。それを解っているから、甚平ははっきりしたことを敢えて言わずに いてくれるのだ。呂号はエレキギターのネックを握る手に力を込め、唇をきつく噛み締めた。 聞き慣れた足音が、図書室に近付いてくる。歩き方と靴底が擦れる音だけで、それが誰かなど考えなくても解って いる。呂号はエレキギターを握り締めて俯いていると、引き戸が開き、一層濃い匂いが流れ込んできた。 「あ、えと……呂号、いる?」 それは、紀乃だった。呂号は本棚の陰で身を縮めたが、甚平が答えた。 「あ、うん、露乃ちゃんならいるよ」 「ちょっと、いいかな。本当にちょっとだけでいいから」 紀乃はいつになく気が弱く、引き戸を開けたはいいが中に入ってこようともしない。甚平は紀乃と呂号の間で視線を 動かしたのか、瞬膜が開閉する音がした。呂号は胸中に滲む甘えたい気持ちを持て余し、舌打ちした。 「なぜ僕なんだ」 「う、うん。呂号じゃなきゃダメっていうか、そのためにやったことだし」 紀乃は気まずさを紛らわすためなのか、スカートとは違う布地をいじっていた。エプロンかもしれない。 「何をだ」 心の内では気遣われて嬉しいのに、疎まずにはいられない。呂号がヒールで床を小突くと、紀乃はびくついた。 「あ、ええっと、その」 姉の声色は弱ってしまっているが、余程の決心を固めてきたのだろう、言葉の端々に意地が見え隠れしている。 だが、それを汲めるほど呂号にも余裕はない。好意を寄せられること自体に慣れていないから、その好意に対して どんなことを返せばいいのか解らないからだ。甚平は口籠もった紀乃と押し黙った呂号を見比べていたようだが、 椅子を引いて腰を上げたのか、椅子の脚と床が擦れる音が甲高く響いた。 「あ、えと、僕、邪魔だね。ちょっと退席するね」 そう言い残すと、甚平はぺたぺたと足音を連ねながら図書室を出ていった。太く長い尻尾の尖端が引き摺られる 音も伴って、日差しを陰らせる大柄な体は遠のいていった。紀乃は甚平を引き留めようとして、手を伸ばしたような シルエットがうっすらと見えたが、声は掛けずにその手を下げた。紀乃は一度深呼吸してから、言った。 「ホットケーキって、好き?」 「嫌いだ」 呂号は即座に言い返したが、紀乃は食器を載せた盆を抱えて図書室に入ってきた。 「でもさ、ちょっとだけでもいいから食べてみてよ。ゾゾはおいしいって言ってくれたし」 「あのトカゲはお前に対して甘すぎる。だから褒めるに決まっている」 「そりゃまあ、そうなんだけど」 紀乃は半笑いになりながら、手にしていた盆を机に置いた。 「僕はそんなものは食べない」 一度でも甘えてしまえば、終わりだ。呂号は顔を背けると、紀乃の影が目の前に屈んだ。 「どうしても?」 「どうしてもだ。嫌いだからだ。僕がそういうものは嫌いだと教えられなかったのか。忌部辺りに」 「うん、教えられた。でも、ホットケーキにした」 「馬鹿かお前は」 「だって、私が得意なのってそれぐらいしかないんだもん。仕方ないじゃない」 紀乃は呂号を無理に立ち上がらせようとはせず、隣に腰掛けて本棚にもたれた。 「次からは、呂号が好きな味にしてみる。で、どんなのが好きなの?」 「ブラックコーヒー。ブランデーが滴るほど浸った重たいケーキ。ドクターペッパー。ひたすらに塩辛く動物性油脂の 固まりとしか言い様がないマカロニチーズ。恐ろしくパテが分厚くチーズが滴るハンバーガー。半ポンドのステーキ。 砂糖抜きのコーラ」 「アメリカ人みたい。てか、そっち側に影響されすぎ」 「悪いか」 「悪くないけど、そんなんじゃ高血圧で死ぬよ? でなくてもすんごい太るよ?」 「馬鹿にするな。食べた分だけ歌えばいい。弾けばいい。何も残らない」 「じゃ、ほとんど砂糖は入れないで、塩気の効いたチーズ味にしたら食べてくれる?」 「考えておいてやる」 「解った! 次はその味で作るね!」 紀乃は弾かれるように立ち上がったので、勢い余ってスカートの端が翻った。 「ふん」 紀乃の気持ちは嬉しいのだが若干気が引けてしまい、呂号は顔を逸らした。 「ねえ、その、えと」 紀乃はスカートの端を押さえながら、呂号を見下ろしてきたらしく、光が陰った。 「呂号は、まだ私のことが嫌い?」 「……嫌いじゃない」 ここまでされて、嫌えるものか。絞り出すように本音を零した呂号は、膝を抱えて背を丸めた。 「だがどうすればいいのか解らない。僕は兵器でお前はインベーダーだからだ」 何の躊躇いもなく姉やインベーダー達に甘えてしまえればいいのだろうが、そんなことをしてしまえば、これまでの 自分を全否定することになる。甚平には恩があり、多少なりとも親しみを感じているので近くにいるが、それ以外は 別だ。紀乃にしてもそうだ。だが、姉だ。本物の両親の愛情を受けて育った、掛け替えのない半身なのだ。 「お父さんとお母さんのこと、恨んでいる?」 紀乃は不安げに声を落としたので、呂号はしばらく考えてから答えた。 「いや」 「そっか。お父さんとお母さんもそうだといいね。ううん、きっとそうだ」 紀乃は自分に言い聞かせるように言い、意味もなく頷いてから、ドクダミ茶を湯飲みに注いだ。 「じゃあ、ここに置いておくからね。気が向いたら、ちょっとでもいいから食べてみて」 紀乃は図書室から出ていき、振り返りもせずに廊下を小走りに去っていった。呂号は不意に紀乃を引き留めたい 衝動に駆られたが、既に紀乃の足音は校舎の端まで遠のいていた。僅かに浮かせた腰を下ろして床に付け、呂号は 所在をなくした右手でエレキギターを掴んだ。お姉ちゃん、と呼ぶべきだった。まだ行かないで、と言いたかった。 ありがとう、嬉しいよ、と御礼を言うべきだった。自分が生体兵器でさえなかったら、簡単に言えていただろう。いや、 そんなのはただの言い訳だ。自分の本心を曝け出すのを怯えているだけだ。 「ありがとう……お姉ちゃん」 もっとも、今、言っても紀乃には聞こえないだろうが。呂号は食べやすいように四等分にされているホットケーキの 一切れを囓り、ふっくらとしていながらほろりと口溶けの良い生地を噛み締めた。たっぷり掛けられた黒蜜の滑らかな 舌触りがアイスクリームの冷たさに混じり、おいしかった。意地を張るついでに我が侭を言った自分が情けないが、 紀乃が怒っていないことで心底安堵した。家族であるというだけで全て許されるわけではないが、許されたことで 家族だと認めてもらえた気がする。それが嬉しくも切なく、呂号はホットケーキを食べながら目元を擦った。 ほんの少し、塩味が混じった。 10 10/27 |