南海インベーダーズ




閑話的公休日



 忌部家之墓。
 古臭い墓石に刻み込まれている家名は、長い年月を堪え忍んだ末に掠れていた。最も古く最も大きな墓石には、 忌部継成、との名が刻まれていた。それは墓の敷地の一番奥に建てられ、その後に建てられた比較的新しい墓石 は忌部継成を守るかのように並んでいた。言うならば、将棋の王将である。その墓の主が忌部家の先祖であること は考えずとも解るが、自分のルーツに然したる興味は湧かなかった。
 伊号は感動も感慨も覚えず、敷地だけは無駄に大きい実家の墓を見渡した。墓石の手入れは、この墓地を管理 している寺院に金を払って丸投げしているので、玉砂利の間から雑草も生えていなければ苔も付いておらず、線香 も定期的に上げられていて、金属製の花瓶の水も腐っていなければ仏花も枯れていなかった。伊号は実家の墓に 来るのは初めてだったが、今後、二度と来ることもないだろうから、少しぐらいは景色を覚えておこうと思った。辺り 一面、様々な家名が刻まれた墓石が並んでいて、黒か灰色しか視界に入ってこない。この墓地は都市部に程近い はずなのに、不思議な静けさが漂っている。御彼岸が近いからだろう、墓参りを済ませた形跡がそこかしこにある。 この下には何百人もの人間の骨が埋まっているかと思うと多少は神妙な気持ちになった。だが、自分は忌部家の 墓の下には入れないだろう。忌部家の家族にすらなれなかったのだから。

「てか、いつのまに死んでんだよ」

 喪服姿の伊号は唯一自由の利く首を動かし、膝の上に置いた骨箱を見下ろした。

「親父」

 桐で出来た長方形の箱は思いの外軽く、骨の重みらしきものはほとんど感じなかった。骨箱を包む純白の風呂敷を ロボットアームで解くと、遺骨が入った箱が姿を現した。乗せてあるだけの蓋にロボットアームのマニュピレーターを 掛けようとしたが、躊躇し、伊号はため息を吐いた。空しさとやるせなさと、猛烈な寂しさに駆られたからだ。
 忌部家之墓の側面には、新たな名前が彫られている。享年五十八、忌部我利。だが、戒名は一文字も彫られて おらず、次兄の遺恨の深さを思い知らされた。我利と書いてワレトシと読む父親の名の傍らには先妻の名と戒名が 彫られていた。享年三十一、忌部ゆづる。自分の本名と一文字違いなのだ、と、今更ながら知った伊号は、父親と 後妻である自分の母親が長続きしなかった理由も知ってしまった。更に言えば、父親の神経が解らない。

「普通、前の女と一文字違いの名前を後妻の娘に付けるかよ?」

 それなら、愛されなくても当然だ。伊号はなんだか笑えてきたが、笑ってしまうと空しさが一層強まるので、頬を醜く 引きつらせるだけに止めた。たとえ、まともに育てられてごく普通の子供として生きていたとしても、これほど面倒な 家庭環境では捻くれるのは時間の問題でしかないだろう。もう一人の二十歳年上の長兄には会ったこともなければ 名前も知らず、母親が十六歳の時に産んだ三歳年上の長姉も同様で、二人には一度も会わずに一生を終えること だろう。彼らと顔を合わせたいような気もしているが、会ったところで何をどうしようというだろうか。血筋が滅茶苦茶 な兄妹が、当たり前に親交を持って当たり前に馴れ合って当たり前に同居出来るわけがない。夢のまた夢だ。

「馬鹿兄貴。クソ兄貴。アホ兄貴。最低兄貴。死ね兄貴」

 と、そこまで罵倒してから、伊号は言い直した。

「いや……死なれたら、ちょい困るか。生きてられても面倒だけど、死なれたらマジウゼェし」

 今頃、次兄はどうしているのだろうか。忌部島に赴任している最中にインベーダーとして分類され、その後は彼らと 行動を共にしているが、先日は乙型一号・斎子紀乃と変異体三十九号・鮫島甚平らと連れ立って福井県小浜市を 訪れ、一暴れしてから忌部島に帰っていった。透明なので顔も見たこともなければ、妹だとは名乗ったこともないし、 兄扱いしたことなど一度もないが、こうも身寄りがないと頼りたくなる瞬間がある。遠い昔、伊号が何も知らない幼児 だった頃、マンション暮らしの伊号とその母親を訪ねてきてくれた父親に縋り付いた時の安心感を得たくなる。今は それを竜ヶ崎全司郎に求めているが、どれほど彼を好こうと、あの感覚を味わえたことはない。思い返してみれば、 あれは伊号が父親をそれなりに愛していたからだろう。首の骨を折られても母親を嫌いきれないのも、伊号が母親を 愛して止まないからだろう。どれだけ惨いことをされようとも、子供染みた盲目的な信頼は消えなかった。

「いづる」

 珍しく本名を呼ばれ、伊号は万能車椅子を回して振り向いた。

「んあ」

 声の方向を辿って目を動かすと、ずらりと並ぶ墓石の間に中年の女が立っていた。過ぎ去った年月の分、老けて いたが、忘れるはずもない顔と声だった。喪服を着て仏花の花束を手にしている伊号の母親、忌部かすがは、石畳に 低いヒールの足音を響かせながら近付いてきた。伊号は嬉しいと思った一方で、大いに混乱した。

「なんでこんなところにいんだよ、てか、どうしてここに入れんだよ。封鎖したはずだし?」

 伊号は寺院の周囲に目線を巡らせて、変異体管理局の警戒態勢を確かめるが、道路にも上空にも隙間はない。 となれば、許可を得て入ってきたのだろうが、だとしても妙だった。生体兵器である伊号は変異体管理局の名実共に 所有物であり、人間として扱ったりはしない。山吹と秋葉は例外だ。だとすると、と伊号が墓地と寺院を繋ぐ石畳を 見やると、その秋葉が無表情に伊号を見つめていた。彼女も喪服姿だが、その下はきっちり武装している。

「田村の奴、余計な気ぃ回しやがって。いらねーよ、そんなん。あたしだけでマジ充分だし」

 気恥ずかしさと照れ臭さを誤魔化すために伊号が毒突くと、かすがは伊号の膝の上の骨箱に目を留めた。

「いづる。お父さんのお骨、まだ入れていなかったの?」

「うん。てか、骨ってどこから入れんの? それが解らねーから入れようがないし」

 伊号がロボットアームで骨箱を掴んでかすがに差し出すと、かすがはそれを受け取った。

「ここから入れるのよ。ちょっと待ってなさい」

 かすがは墓の敷地に入り、玉砂利を踏みながら墓石に歩み寄ると、二つの花瓶に挟まれている家紋が印された 石を動かした。その下には小さな穴が隠されていて、風雨を浴びていないからか、隠されていた部分の墓石の色は 作られた当時の色合いを保っていた。伊号は万能車椅子を進め、納骨室に繋がる穴を覗き込んだ。

「おー、こんなんなってんだ」

「ねえ、いづる」

 遺骨を入れる穴から顔を上げたかすがは、立ち上がり、伊号と目線を合わせた。

「ん」

 伊号が気のない返事を返すと、かすがはハンドバッグから数珠を取り出し、握り締めた。

「お兄さん……次郎君って、今、どうしているか解るかしら」

「んー、まぁな。人工衛星使えば一発だし。でも、ママには言えねー。部外者だし、服務規定違反になるし、馬鹿兄貴の 行動もマジ国家機密だし? あれでもインベーダーだし」

「そう、それは残念ね。それで、今日はお休みなのかしら?」

「まぁな。公休ってやつだし。有休はねーけど」

 伊号はやる気なく答えていたが、母親の思い詰めた面差しに不安に駆られ、問い掛けた。

「ママ、馬鹿兄貴となんかあったん?」

「次郎君は、お父さんが亡くなる直前に隔離施設にお見舞いに来ていたようなんだけど、私がお父さんのお見舞いに 行った時には帰ってしまった後だったのよ。もう一度だけでも、直接会ってお話ししたかったんだけど」

「え? それ、変じゃね?」

 伊号は母親を見上げ、片眉を曲げた。

「ママと馬鹿兄貴が、親父のいた隔離施設で一緒にいたの見てるし。てか、監視カメラの映像をちょろまかしただけ だから、音声までは拾えなかったけどさ。あれ、間違いなくママだったし。あたしが見間違えるわけねーし」

「……え?」

 嘘でしょ、と言いたげに、かすがは口を半開きにして目を丸めた。

「あたし、ママに嘘なんか吐かねーもん」

 伊号が顔を背けると、かすがは伊号の首にそっと触れてきた。

「嘘だなんて思っていないわ、いづる」

 かすがは水仕事で荒れた手を這わせ、伊号の細い首筋からうなじをなぞった。

「首を痛めてしまった時のこと、話してくれないかしら」

「てか、あれ、ママがしたことじゃん。なんであたしに聞くんだよ、そんなん」

「いいから、教えて。本当のことを知りたいのよ」

「あ……まあ、うん。ママが遊び歩いてばっかで、やっと帰ってきて、嬉しかったから飛び付いたら、その時に」

 脆弱な肌に触れる母親の指先の温もりに戸惑い、伊号は途切れ途切れに答えると、かすがは首を横に振った。

「私は遊んでなんかいないわ! 増して、あなたとお父さんをほったらかしにするもんですか!」

「でも、あたしは全部覚えてんだ! ママがあたしをヒールを履いた足で蹴っ飛ばしたのも、丸一日放っておかれた のも、若い男を何人も連れ込んだのも覚えてるし! 嘘じゃねーし!」

 伊号は心なしか身を乗り出して言い返すと、かすがは伊号の首から手を外し、憎らしげに唇を曲げた。

「そう……解ったわ」

 お父さんのお骨を入れてあげてちょうだい、と言い残し、かすがは足早に去った。伊号は母親を引き留めかった が、声が出せず、ロボットアームの尖端すらも上がらなかった。納骨するための穴を曝したままの墓に向き、伊号は かすがが墓石まで運んだ父親の骨箱の蓋を開けた。灰混じりの遺骨は驚くほど量が少なく、子供の遺骨と言っても 差し支えがないほど、どの骨も細くすり減っていた。父親の死因は誰からも聞かされていないが、きっと余程の大病を 患っていたのだろう。不意に込み上がってきた涙が骨箱の中に零れ落ちて、遺灰が絡んだ遺骨が少々濡れた。 伊号はロボットアームに挟ませたハンカチで目元を拭ってから、骨箱を傾けて小さな穴に角を当て、父親の遺骨を ざらざらと墓石の中に流し込んだ。空っぽになった骨箱に蓋をして膝の上に乗せて、純白の風呂敷で包みながら、 伊号は何の気なしに空を仰ぎ見た。墓の敷地を囲む木々に縁取られた、秋の気配が滲む空が広がっていた。
 また、一人になってしまった。




 予定が頓挫するのは空しい。
 それが一大決心をした日であれば尚のことだ。山吹は銀色の手中でビロードの小箱を弄びながら、回数を数える ことすら嫌になるほど繰り返したため息を吐いた。デートコースも仕事の合間に練りに練って考えた、プロポーズの 言葉も何度も何度も推敲してクサすぎない程度に格好良く仕上げた、スーツもクリーニングに出して綺麗にした上に アイロンもきっちり掛けた、愛車のジープ・ラングラーも洗車して車内も掃除した、ついでに変異体管理局の宿舎の 自室も徹底的に掃除した。それなのに、当日になって、秋葉は伊号の父親の四十九日に付き合うと言って。

「良い様なんだよコノヤロウですぅ。てめぇみたいな底辺野郎はむーちゃんには似合わねぇんだよスカタンですぅ」

 山吹の向かい側に座る美青年は、にやにやしながらダージリンの香りが漂うティーカップを傾けた。

「兄さん、もうちょっと言葉を選んだ方がいいと思うんだけどなぁ。山吹君だって一生懸命なんだし」

 その隣に座る同じ顔の美青年は、苦笑しながらクッキーを囓った。

「留香は良い子っすねぇ、マジでマジで。それに比べてこっちの女装野郎は」

 山吹はげんなりしながら美青年の兄を見やると、彼はこれ見よがしに高笑いした。

「みゃはははははははははは! ていうかボクは最初っから山吹とむーちゃんは一緒になるべきじゃないと思って 止まなかったんですぅ! だから、山吹のプロポーズなんて失敗するのが宇宙の必然なんですぅっ!」

「その辺については後でやり返すとして、なんすか、二十九にもなってその格好と口調は。アイタタタタッ」

 山吹は顔を逸らしたが、それでも、美青年の兄の方である兎崎玲於奈の素っ頓狂な格好が目に入ってしまった。 山吹の中学時代の同級生であり、その後もなんとなく交流が続いている、いわゆる腐れ縁とも言うべき関係の青年 である。兎崎玲於奈とその双子の弟である兎崎留香の実家は、高度経済成長期に開店して以来地元に根付いた 商売で堅実に生き延びている洋菓子店で、玲於奈は三年前に独立して自分の店を構えている。弟の留香もまた、 美容師の資格を取得し、兄とほぼ同時期に独立して近所に店を構えている。どちらの店も繁盛しているのは、二人 の腕が優れているからだけではなく、恐ろしく出来の良い容姿が女性客を引き付けて止まないからだ。
 兎崎兄弟は日本人の父親とフランス人の母親の間から産まれたのだが、父親の遺伝子を母親の胎内にそっくり 置き忘れてきたらしく、正しくフランス人形のような母親の生き写しだ。二人が置き忘れた遺伝子を全て得たのか、 二人の妹の兎崎今日子は厳つい顔立ちにがっしりとした体格の日本人の父親にそっくりで、世の中は不公平だ、 と思い知らされる家族なのである。ちなみに今日子女史は陸上自衛隊に入り、WACとして忙しく働いている。
 そして本題に入るが、三十手前にして美貌を保ち続けている双子は、それぞれの美貌を全く無駄にしない服装と 髪型にしなければ気が済まない性分であり、今日もそんな具合だった。玲於奈は二次元の美少女顔負けの鮮やかな ピンク色のロングヘアに流行りのゆるふわパーマを掛け、どことなくウサ耳に見えるリボンを結んでポニーテールに 仕立て上げたばかりか、いわゆる姫系のシフォンのワンピースに太いストライプのレギンスを履き、挙げ句の果てに エナメルのショートブーツを履いているという気合いの入れようだ。下着も女物に違いない。対する留香は兄よりも 少しだけまともなのだが、こちらも美容師をしているだけあってセンスが常識からは逸脱していて、赤いスエードの ロングジャケットを羽織って襟の立ったシャツを着て、タイを付けてブローチ状のタイピンを留め、フリンジの付いた 革製のブーツを履いている。ちなみに、髪はふわふわのロングヘアを後頭部で一括りにしていて、控えめな栗色に 染めてあるものの、どこからどう見ても王子様である。白馬に乗っていない方が違和感がある。

「……ひでぇ。しかもがっつりフルメイクで盛りまくってるし」

 山吹が真顔で呟くと、玲於奈はむくれた。

「むーちゃんがボクのお店に来るって言うから、いつもよりちょーっと張り切っちゃったんですぅ! それをなんだよ、 そのドン引きリアクションは! 文句を言う前にボクの美貌を褒め称えやがれってんだよコノヤロウですぅ!」

「いや無理っす。本気で無理っす。いい加減に現実を見定めろよ、社会人だろうが」

 山吹が冷静に言い返すと、玲於奈は拗ねた。

「つまんねぇ男になりやがってコンチクショウですぅ」

「それについては山吹君が正しいよ、兄さん」

 留香が自分のティーカップに紅茶のお代わりを注ぎながら言うと、山吹は留香にも言った。

「いや留香も無理っすから。ていうか、なんで王子様ルックなんすか? 白タイツなんて履いてないっすよね?」

 見目麗しいがいい歳をした双子はやたらに長く本数が多い睫毛に縁取られた大きな目でお互いを見つめ合うと、 揃って相手の格好を非難した。玲於奈に言わせれば留香は中途半端で、留香に言わせれば玲於奈は突き抜けて すぎている、だそうだが、論点はそこではないと山吹は心から思った。二人の性癖がややこしいのは今に始まった ことではなく、中学時代はそれはそれは面倒だった。女装紛いの服装が大好きではあったが男色の気は一切ない 玲於奈は下手な女子よりも美しいセーラー服姿で登校しては男子にも女子にも言い寄られ、なまじ成績も良かった ものだからある種の学園のアイドルと化してしまった。といっても、テレビでありがちな珍獣を持て囃す状態に近く、 少女漫画の定番シチュエーションとは根本的に違う。言い寄っていた男子も女子も、玲於奈を面白がっていただけ である。そして、派手好きで威勢が良すぎる兄とは対照的に物静かで真面目な性分の留香は、中学高校の六年間 をきっちりと学ランで通ったが、彼もまた姿形が良すぎたので少年性愛の気がある教師から言い寄られてしまった。 今でこそ美容師として落ち着いているが、そのせいで高校時代の留香はそれなりに荒れたらしい。山吹は双子とは 進路を違えたので二人の高校時代は与り知らないが、大体の想像は付く。

「んで、むーちゃんとはどうなんですぅ」

 玲於奈は店の内装に合わせたロココ調の椅子に座り直し、イチジクのケーキにフォークを刺した。

「最近は仕事に生きているって感じっすよ、仕事に。だから、デートの時間も割けないんすよねー」

 山吹は同じケーキにフォークを刺し、切り分けた。

「それはそれで結構じゃない。ストイックな秋葉ちゃんらしくて」

 留香は早々にイチジクのケーキを食べ終え、秋の新作の試作品である栗のロールケーキの皿を取った。

「そりゃあまあ、むーちゃんは俺よりもよっぽど有能っすからねー」

 紅茶のお代わりをティーカップに並々と注いで、山吹は足を組んだ。普段は玲於奈と甘ったるいケーキが目当て の女性客でごった返しているイートインコーナーも、今は三人だけの貸し切りだ。それもそのはず、今日は玲於奈の 洋菓子店が定休日だからである。フランスでパティシエの修行をするついでにセンスを磨いたというロココ調の内装 は一昔前の少女漫画そのもので、店内のそこかしこにバラが飾られ、店の看板にもロゴにも大きくバラが描かれて いる。店の名もそんな調子で、その名もアモーレ・ローズ。直訳すると愛のバラだ。ちなみに留香の美容院の名は、 ブランシュ・ラパン。直訳すると白ウサギ。こちらは割と普通である。

「まあ、ボクらは善良かつ平凡で健全極まる一般市民ですからぁ、山吹とむーちゃんのお仕事についてとやかく 言う資格もなきゃ権利もないですけどぉ、あの子、捕まっちゃったらどうなるんですかぁ?」

 玲於奈は金のスプーンで紅茶を掻き回し、やや声を低めた。

「あの子、って?」

 山吹が聞き返すと、玲於奈はロールスクリーンを下ろした窓に目をやった。

「乙型生体兵器一号だけど反逆してインベーダーになっちゃった、斎子紀乃ちゃんですぅ。あの子、ボクの実家の お店の近くに住んでいたんですぅ。その子のお父さんが月に一度だけシフォンケーキを買いに来ていたからぁ、ボクは よーく覚えているんですぅ。そりゃ確かに、あの子のおうちはちょーっとお金がなさそうな感じはしたけどぉ、どっこに でもいそうな普通の家族だったんですぅ。何がどうなって紀乃ちゃんがインベーダーになっちゃったのかはボクなんか が与り知ることじゃないですけどぉ、紀乃ちゃん、政府に捕まったら処刑されちゃったりするんですかぁ?」

 口調こそふざけていたが、玲於奈の横顔は強張っていた。

「あの子のことは僕も知っているけど、普通の女の子だよね? 山吹君があの子や他のインベーダーとどんな戦いを しているのかは解らないし、知りようがないけど、でも……」

 留香はティーカップに残った紅茶に視線を落とし、俯いた。

「それは、俺の範疇じゃないっす。政府と司法が判断することっす。俺はあくまでも現場の人間っすから」

 山吹が曖昧に答えると、玲於奈は物憂げに頬杖を付いた。

「でもぉ、インベーダーになった時点でミュータントはいかなる法律も適応されないって話ですぅ。だから、司法なんて 関係ないんじゃないかって思うんですぅ。だからぁ、死刑でも何でもやっちゃってOKってことですぅ。ともすれば、誰か に殺されたって文句が言えない立場なんですぅ。それって、本当に正しいことなんですかぁ?」

「インベーダーは危険な存在かもしれないし、実際、山吹君は体をダメにされちゃっている。でも、一括りにするのは 危険なことだよね。相手の意見も聞かずに一方的に決め付けるのは、諍いが起きたり、憎み合ったりする原因にも なる。思い出したくもないけど、僕の高校時代はそんな感じだったから、余計にそう思った。僕は顔と体型がこんなん だから、男なのに女みたいに扱われていたし、僕に付きまとった教師もそうだった。僕は普通なのに男色の気が あるって勝手に決め付けて、何度嫌だって言っても寄ってきた。なんでかは解らないけど、他の男子もそんな感じに 思っていたらしくて、僕がどれだけ嫌がろうが逃げようがへらへら笑っているだけだった。女子は女子で、僕を見て きゃあきゃあ騒いでいるだけだった。辛くて辛くてたまらなかったから他の教師になんとかしてくれって頼んでも、僕の 気のせいだ、とか、可愛がられているだけだ、とかなんとか言って、僕が誘ったことにされそうになった」

 留香は当時の怒りが蘇ったのか、華奢な肩を怒らせた。

「だから、僕は戦ったんだ。おかげでなんとかなったけど、紀乃ちゃんはどうなんだろう。誰にも相談なんて出来ない だろうし、味方をしてくれるはずの政府は敵に回るし、御両親からも引き離されている。踏ん張れるわけがないよ」

「なんで二人共、そんなにインベーダーに同情的なんすか。乙型一号もっすけど、他のインベーダーも国家に対して 重大な危機をもたらす反逆行為を行っているから、俺らは戦って退けているんすよ? なのに、なんでそんな」

 山吹が二人を諌めようとすると、玲於奈は柳眉を曲げた。

「サイボーグになった拍子にドタマが潰れたんじゃねぇだろうなコノヤロウですぅ? 昔の山吹だったら、そんなことは 言わなかったですぅ。ともすりゃあれか、ガチガチな勧善懲悪のヒーロー気取りかよスットコドッコイですぅ」

「あながち間違いじゃないっすけどね、間違いじゃ」

 山吹はマスクを開いて水分摂取用のチューブを伸ばし、湯気を上らせる紅茶に差した。国家の敵と味方の線引きを はっきりさせておかないと、事態は混迷の一途を辿る。だから、山吹や秋葉は戦い続けている。玲於奈と留香の 言い分も解らないでもなかったが、そんなものはただの感情論だ。斎子紀乃の身の上には山吹も多少なりとも同情 するが、それだけだ。それだけなのだ。そう思っていなければ、戦えるわけがない。玲於奈と留香はもう少し意見を 言いたげだったが、お茶会の空気を悪くしたくなかったのか、別の話題に移った。
 玲於奈と留香のお喋りを聞き流しながら、山吹は携帯電話を開いた。秋葉からのメールはなく、まだ伊号の父親の 四十九日の法要は終わっていないようだ。終わり次第合流する、とは言っていたが、公休日は既に三分の一が 経過している。寺院からの移動時間も踏まえると、秋葉と合流した頃には昼過ぎになっているだろうから、せっかく 組み立てたデートプランが台無しだ、と落胆しつつも、プロポーズする機会を逃したことになぜか安堵した。
 慣れ親しんだ相手ほど、畏まるのは照れ臭いものだ。





 


10 10/29