南海インベーダーズ




鋼鉄男的半生譚



 首を戒める太い輪が、敗北の証しだった。
 電磁手錠と同等の効果を持つ電磁首輪は屈辱感を否が応でも煽り立て、自由を奪われた事実を認識させてくる。 鍵付きのフックが付いた太い鎖が垂れ下がっていることもまた、底なしの絶望を与えてくる。手足だけは解放されて いるが、そんなことは何の慰めにもならない。紀乃は重たい瞼を上げ、鏡と向き合った。
 大きな姿見に映る自分は、目が死んでいた。生気は欠片もなく、纏う空気は淀んでいる。それなのに、着ている服 だけは煌びやかなのが気持ち悪い。紀乃は生まれて初めて袖を通したドレスの裾を抓んだが、嬉しいと思えるはず もなかった。いわゆるロリータ系のドレスで、シュガーピンクの布地が程良く日焼けした肌には今一つ似合わない。 パフスリーブの袖口にパニエを着込んで膨らませたスカートはいかにも女の子らしく、レースとフリルがこれでもかと 言わんばかりに使われ、腰と胸元には大きなリボンが結んである。反面、背中は大胆に開いていて、リボンがクロス する以外に肌を隠すものはない。だから、ブラジャーを付けることは許されず、パニエの下にはドレスの色に合った レース地のガーターベルトと白いストッキングを履かせられ、両足はエナメルの真紅のハイヒールに収まっていた。 紀乃を着せ替えたのは意外なことに一ノ瀬真波で、終始険しい顔をして機械的に作業を行っていた。
 悪趣味だ、と紀乃は心底思ったが、それを口に出す気力すらなかった。服を着替えさせられた時に施された化粧に よって顔色は隠れているが、血の気は引きっぱなしだ。新品のハイヒールのかかとを引き摺って歩いた紀乃は、 仕切りのカーテンを引いた。その先にはだだっ広いが薄暗い部屋があり、これ見よがしに大きなベッドが設置されて いた。そのベッドの上では波号が鼻歌を歌いながら絵本を読んでいて、伊号が人形のように横たわって広い窓から 外をぼんやりと眺めていた。そして、ゾゾに酷似した別人が、尻尾を揺すりながら単眼を向けてきた。

「着替え終わったようだね」

 紀乃は返事もせずに立ち尽くしていると、ワイシャツにスラックス姿の竜ヶ崎は腰を上げ、歩み寄ってきた。

「さあ、その顔を見せておくれ」

 嫌だ、と言って駆け出したかった。エレベーターに飛び込んで、下の階に逃げたかった。体当たりして窓を破って、 海に飛び込みたかった。それが無理なら、コンクリートに叩き付けられてしまいたかった。紀乃は嫌悪感のあまりに 体が小刻みに震え出したが、竜ヶ崎は後ろに回り込んで紀乃の退路を塞ぎ、太い指で髪を一束持ち上げた。

「日に焼け過ぎたのだろうね、随分と傷んでいるよ。だが、呂号に似て真っ直ぐな髪だ」

 整髪料の甘い匂いが零れる髪を鼻先に寄せてから、竜ヶ崎は紀乃の首筋に指を差し込んだ。

「さすがは私の直系だけあって、出来の良い個体だ。ゆづるの骨を喰って生体情報を解析しておいて良かったよ、 おかげで上玉を見逃さずに済んだのだからね」

 硬く施錠された電磁首輪の縁をなぞった指先が、ガーゼを貼られた頬に触れる。

「この傷も綺麗に治るとも。跡が残らぬように治療させたのだからね」

 頬の次は、うっすらと色の付いたグロスを載せた唇を親指で縁取るように擦った。

「服を着せてくれ、とは命じたが、化粧しろとまでは命じていなかったのだがね。真波も勿体ないことをしてくれる」

 竜ヶ崎は腰を曲げ、単眼を細めて紀乃の目を覗き込んできた。

「どうだね、気分は」

 最悪だ、と言えれば良かった。唾でも何でも吐き付けてやれれば良かった。泣き出して暴れ出せれば良かった。 だが、そのどれも出来ず、紀乃は竜ヶ崎に促されるままに歩き出した。

「伊号、波号」

 竜ヶ崎が声を掛けると、二人は同時に反応した。

「なあに、パパ?」

「んだよ」

 波号は上半身を上げて振り向き、伊号は首だけを上げた。竜ヶ崎は紀乃の肩から腕に手を這わせ、笑う。

「すまないが、今夜は二人だけで眠ってはくれまいか」

「えぇー。やだよぉ、そんなの。パパがいないとつまんなーい」

 波号が拗ねると、伊号もむくれた。

「てか、そいつに構ってんじゃねーし。あたしらで充分じゃね?」

「今夜だけだとも」

 竜ヶ崎が二人を宥めると、波号は足をばたつかせた。

「それ、約束だからね? 嘘吐いたらパパでも許さないからね?」

「マジ今夜だけだし。明日からはあたしらだけだからな」

「ああ、約束するとも」

 竜ヶ崎は二人に頷いてみせると、さあ、と紀乃の背を軽く押した。竜ヶ崎の肌と紀乃の肌が接触し、その部分から 波状に寒気が広がって、紀乃は血管の末端まで毛羽立つほどの悪寒に襲われた。だが、竜ヶ崎に支えられている せいで倒れることすら出来ず、歩くしかなかった。足元ばかりを見ているせいで、周りはほとんど目に入らなかった。 内装は質素だが絨毯は分厚く、大人が横たわれそうなほど大きな机には書類が何枚か置かれていたが、整理整頓 されている。壁に作り付けられた本棚にはみっちりと本が詰まっていたが、甲型生体兵器の少女達のために置いて ある本の方が多いらしく、伊号が読むであろうティーン向けのファッション雑誌と波号が読むであろう絵本が何十冊と 収まっていた。それらを目の端に捉えながら足を進めた紀乃は、竜ヶ崎が開けたドアの中に踏み入り、少しだけ 目を上げた。ワンフロアをぶち抜いて作ったワンルームだとばかり思っていたが、別室があったらしい。

「さあ」

 竜ヶ崎は後ろ手にドアを閉めると、腕を伸ばして前を示した。紀乃は竜ヶ崎が示した方向に目線を向け、動かし、 動かし、視界に入ってきたものを認識した。部屋自体の広さは先程の部屋の半分以下だったが、内容物は遙かに 多かった。壁に作り付けられている本棚には溢れんばかりに学術書が詰まり、ホワイトボードには難解な計算式が 並び、本の塔が出来ている大きなデスクには覚え書きらしき紙が乱雑に貼り付けられている。窓らしきものはなく、 壁は全て剥き出しのコンクリートで、実用一点張りだった。これだけならば、どこぞの大学教授の研究室と言っても 通用しそうだが、決定的に違うのは、部屋の中央に薄いカーテンに囲まれたベッドが設えてあることだった。先程の 部屋は竜ヶ崎の外面であり、この部屋こそが竜ヶ崎の内面なのだ、と紀乃は漠然と思った。

「怖いことなどない」

 竜ヶ崎は不意に紀乃の背を押してよろめかせ、ベッドに近付けた。

「恐れることなどない」

 ヒールが絨毯に取られてバランスを失った紀乃がベッドに倒れ込むと、竜ヶ崎は尻尾を振りつつやってくる。

「拒むことなどない」

 糊の効いたシーツに縋り付いた紀乃の背中から、竜ヶ崎は覆い被さってくる。

「私とゾゾは同じものなのだよ。私を受け入れれば、奴を受け入れたのと同じことになる」

 体温の低い巨体が、マットレスに沈んだ紀乃を圧迫してくる。尻尾の先でカーテンが引かれ、閉鎖空間の内側に 更なる閉鎖空間が作られる。薄布一枚ではあったが、今の紀乃にとっては途方もなく分厚い壁だった。カーテンを 透かして差し込んでくる蛍光灯の明かりは病的に青白く、薄青のシーツに淡い影が落ちた。

「心を開き、私に全てを委ねたまえ。さすれば、君の血は彼の地に至る道を開くだろう」

 竜ヶ崎は身動き一つしない紀乃を仰向けに転がし、その傍に腰を下ろすと、電磁首輪に繋がる太い鎖のフックを ベッドの天蓋を支えている金属製の柱に掛けて施錠した。

「すぐに答えを出せとは言わんよ、すぐにとはね。だが、よく考えてみると良い。誰に付くべきなのかをね」

 竜ヶ崎の硬い手が、紀乃の乱れた前髪を掠めるように撫でてきた。薄いカーテンに区切られたベッドの上は広く、 シーツからは清潔な糊の匂いがかすかに漂う。投げ出したままの足はかかとが浮いてしまい、片方のハイヒールが 脱げて転げ落ち、ぽこんと軽い音を立てた。竜ヶ崎はもう片方のハイヒールを紀乃の足から脱がせると、ベッドの下に 揃えて置いた。その手付きは妙に慣れていて、伊号も呂号も波号もそうやって着替えさせては自分好みの少女に 仕立て上げてきたのだろう。だから、紀乃は竜ヶ崎の新しい着せ替え人形だ。呂号が抜けてしまったから、穴埋め として手元に置く意味もあるのかもしれない。紀乃は瞬きすることさえ忘れていたので、瞼を開閉させて乾き切った 目を潤し、グロスを剥ぎ取られた唇を僅かに引き締めたが、それだけで精一杯だった。
 両親は、忌部は、ワン・ダ・バは、生きているのだろうか。




 息を吸い、吐くと、脳に酸素が行き渡る。
 頭が割れかねないほどに痛く、無理に無理を重ねてきた体がここぞとばかりに悲鳴を上げている。軍事演習の際に ひび割れて溶接した背中の傷は完治しておらず、鋼鉄化が解除された途端に皮が引きつり、繋がり切らないまま 放置していた肉が裂けて傷口が開いてしまった。血は流れ出さないが、痛いことには変わりない。だが、この程度 で音を上げてはいられない。立ち上がって戦うのだ。娘を、妻を、弟を救い出すために。
 虎鉄は口に溜まった血液混じりの唾を吐き捨ててから、支柱に括り付けられた電磁手錠の鎖に歯を立て、噛む。 鋼鉄化能力を封じられてさえいなければ、手錠など紙切れのように引き千切れるが、それがなければ虎鉄はただの 男に過ぎない。どこにでもいる、家庭を守ろうとした挙げ句に泥沼に突っ込んでしまった愚かしく情けない父親だ。 愛娘に思いを馳せながら、虎鉄は歯形だらけになった電磁手錠の鎖に食らい付く。竜ヶ崎全司郎への憎悪を筋力 に変換して噛み締めるが、口中の傷から滲んだ血と唾液が歯を滑らせ、がちぃんっ、と上下の歯が空しく衝突した。 その際に上の歯が欠けたらしく、尖った破片が舌を刺してきた。それをコンクリート製の床に吐き捨ててから、再び 鎖に歯を立てていると、足音が近付いてきた。虎鉄が目を上げると、制服姿の秋葉が歩み寄ってきた。

「無駄な抵抗はするべきではない。常人の力では、電磁手錠はまず破壊出来ない」

「生憎、俺は常人じゃない。だから、その忠告は無意味だ」

 虎鉄は鎖を噛みすぎて裂けた口角を引きつらせ、笑みに似た威嚇の表情を作ったが、秋葉が制服のジャケットに 袖を通していないことに気付いた。秋葉は右肩をテーピングで固定していて包帯も巻き付け、ブラウスは左腕だけ 袖を通していたが右腕は外に出していて、ボタンも半端に留め、ジャケットは背中に乗せているだけだった。

「お前、その肩、どうしたんだ? 俺と溶子はそこまでお前らを痛め付けたつもりはないが?」

 虎鉄が問うと、秋葉は右肩に左手を軽く添えて目を逸らした。

「大丈夫、問題はない。軽度な脱臼に過ぎない」

「紀乃はどうしているか、知っているか?」

「乙型一号については把握していない。よって、譲渡すべき情報を取得していない。あなた方に対する全ての権限は 局長にのみ与えられることが決定した」

「つまり、俺達を生かすも殺すもクソ野郎の匙加減一つってことか」

「言葉は悪いが、それが事実」

 秋葉の口調は平静だったが、表情はいつになく暗かった。虎鉄と芙蓉が変異体管理局を裏切ったことではなく、 別のことが原因で気が滅入っているようだった。恐らく、秋葉の右肩を外したのは波号だろう。芙蓉と力を合わせて 手当たり次第に局員を壁や床に埋め込んだのに、皆が皆、ほとんど無傷で脱していたのは、波号がサイコキネシスで 彼らを救出したに違いない。だが、波号は過剰な情報摂取によって情緒不安定に陥っていた。その勢いで、秋葉を 傷付けたのだろう。傍目からでは秋葉と波号は歳の離れた姉妹のような関係に見えたが、見た目ほど簡単では なかったのかもしれない。それは、誰しもに当てはまることではあるが。
 虎鉄は俯いた秋葉と対峙していたが、目を動かした。普段は戦闘機を収めている格納庫が、反逆者達と竜の首を 隔離する施設に様変わりしていた。至る所に重武装の自衛官が配置され、扉という扉は封鎖され、逃亡を許す隙は 一切見受けられなかった。伊号の無茶苦茶だが的確な操縦で輸送された、忌部次郎が融合したままの竜の首は、 体液の太い筋を引き摺って強引に詰め込まれていた。虎鉄と同じく電磁手錠を填められて拘束された芙蓉は、能力の 助けとなるバイオスーツを脱がされて入院着に似た薄布を一枚だけ着せられ、生々しい痣と傷が目立つ素足を 投げ出して座り込んでいた。芙蓉は秋葉に気付いて顔を上げると、長い髪を鈍重な仕草で掻き上げた。

「ねえ、田村ちゃん」

 秋葉は芙蓉とも向き合いづらいのか、返事も返さず、目線も反らしたままだった。

「あなた、山吹君のこと、好きなんでしょ?」

 山吹の名に秋葉は反応しかけたが、目線は床に据えていた。

「私はね、てっちゃんが好きなの。だからね、てっちゃんとの間に出来た紀乃も露乃も大好きなの」

 芙蓉はいつになく真摯に語り、電磁手錠を填められたた両手を握り合わせた。

「あなたも解るでしょ? 田村ちゃんは、他でもない山吹君のために体を張って戦っているんだから」

「多少の理解は可能。けれど、それは共感ではない」

 秋葉は躊躇いがちに返すと、芙蓉は握り合わせた手を見つめた。

「ええ、そうでしょうね。それが当たり前よ。私だって、あなたが私達のことを理解出来るとは思えないし、たとえ理解 してくれたところで、何の解決にもならないもの。だけどね、もう、どうしたらいいのか解らなくなってきちゃったのよ。 やるべきことは全てやったつもりだった、娘達から嫌われても憎まれても良いから目的だけは果たそうって誓った、 どんな汚い手を使ってでもあの腐れた男を潰そうって決心して変異体管理局に乗り込んだのよ。でも、結果は見ての 通り。竜ヶ崎を出し抜いたつもりだったのに、逆に出し抜かれてやり込められて、紀乃だけじゃなくて次郎君まで 犠牲にして……。取り返せるものなんて、もう、何もないわ」

 芙蓉は背を曲げ、握り合わせた手に額を当てた。

「本当なら、今頃、俺達は当たり前に生きているはずだったんだ」

 虎鉄は鎖に負けて折れた歯を吐き捨て、唇の端から血を垂らした。

「狭い借家だが一軒家で、俺と溶子は二人の娘と一緒に暮らしているんだ。紀乃は明るくて元気で優しい姉で、 露乃は気難しくて自分の世界に籠もりがちだが音楽の才能に溢れた妹で、俺は鉄工所で汗水垂らして働いて、 溶子はパートに出て生活費の足しを稼ぐんだ。世間では夏休みが開けたばかりだから、休み気分が抜けない紀乃を 頭の切り替えが早い露乃がなじったり、学期開けのテストの成績を比べたり、盆休みに出掛けた家族旅行の写真を アルバムに貼り付けたりするんだ。紀乃の部活の応援に行こうと俺が言うと、紀乃が嫌がるんだ。それを見て、露乃が ちょっとは嫌味を言うんだ。思春期に入ったんだから距離感を持て、と。またそれを見て溶子が笑うんだ。だからって お父さんに冷たくすることないんじゃないの、ってな。珍しく露乃が俺に甘えてきたと思ったら、新しいエレキギターを ねだるためなんだ。前の奴は俺のお下がりで使い古しだから冴えた音が出ない、なんて言うんだ。そしたら、今度は 紀乃が言うに違いないんだ。露乃だけが買ってもらうのはずるい、ってさ。俺はそんなに稼ぎは良くないが、二人が 喜んでくれるならと、タバコも酒も減らそうと思うんだ。どうせ、今、買わなくても誕生日には何かを買ってやる羽目 になるんだから。そんなことを、二人が大人になるまで繰り返すはずだったんだ」

 呂号との名を与えられた露乃の肌に触れた指先を震わせ、虎鉄は背を丸める。

「俺達は、ただ、人生を元に戻そうとしただけなんだ」

 この手で、また二人の娘を抱き締めたかっただけだった。竜ヶ崎全司郎に奪い取られた幸福を奪い返すために、 忌み嫌っていた自分の能力とも、身の上とも向き合った。あらゆるものを鋼鉄と化す能力さえあれば、あらゆるもの を溶かしてしまう妻の能力があれば、どんな苦痛にも耐えられると、どんな困難も溶かせるものと信じていた。だが、 そんなものはただの妄想だった。虎鉄は折れた歯で裂けた唇を歪め、鉄の味がする舌を動かして語り出した。
 忌むべき一族の歴史を。





 


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