南海インベーダーズ




鋼鉄男的半生譚



 忌部一族。
 子供の頃は、その一族に生まれたことを不幸に思ったりはしなかった。堅実だが子煩悩な父親、病弱だが穏やかで 心優しい母親との間に長男として生まれた忌部鉄人は、将来に対して何の不安も抱かずに生きていた。両親の 仲は良く、父親も母親も笑顔が絶えない。産まれたばかりの五歳年下の弟、次郎とも仲良くしようと思っていたし、 幼い弟は単純に可愛らしかった。自宅は都内有数の敷地面積を誇る屋敷で、家族四人の他に何人もの使用人が 出入りしていた。漆喰塀に囲まれた土地は広大で、鉄人が通っている小学校の敷地がそっくり入ってしまうほどで、 母屋の他にも離れや蔵がいくつもあり、庭の池には鮮やかなニシキゴイが泳ぎ、庭園は追いかけっこや隠れんぼに 事欠かなかった。父親がどんな仕事をしているのかは解らなかったが、いつも見知らぬ大人達が忌部家の屋敷を 出入りしていて、両親はその相手に追われていた。大人達は鉄人にも存分に物品を与えて御機嫌を取っていたが、 ある日、それが途絶えた。かと思いきや、大人達は弟の次郎をこぞって甘やかし始めた。
 大人達の態度が変わる切っ掛けは、ホンケのゴゼンサマにエッケンした直後からだった。それを境に両親の仲も 目に見えて悪くなり、母親は伏せっていることが多くなった。父親は屋敷に帰ってこなくなり、使用人は日を追うごとに 減っていき、幼い弟は大人達から構い倒されるか、放り出されているかのどちらかだった。屋敷を訪れる人間の 数は減るどころか増える一方で、一日中次郎が他人の腕に抱かれていることもあった。だが、弟とは対照的に鉄人 を構う人間はいなくなり、両親ですら鉄人を構わなくなった。子供心に、ホンケのゴゼンサマとエッケンしたから家族 がダメになったのだ、と理解していたが、ダメになった理由までは解らなかった。母親を求めて泣き叫ぶ次郎を頑なに 手放そうとしない大人達は難しい言葉を口々に話していたが、鉄人の姿が見えると途端に口を噤んだ。次郎は兄に 助けを乞うように更に泣いたが、大人達は鉄人と次郎を遠ざけてしまった。鉄人は、両親の仲が悪くなったのは 次郎のせいなのでは、とも思うようになったが、両親に言及する勇気はなかった。余計なことを口にして両親の仲を 完全に引き裂いてしまいたくなかったからだ。三度の食事も、父親は外で、母親は離れで、鉄人は居間で、次郎は 他の部屋で見知らぬ大人を相手に、という具合で、同じ食卓を囲んだ記憶はほとんどなかった。食事の内容も一切 覚えていない。崩壊寸前の家族に転機が訪れたのは、母親の容態が悪化したからだった。
 十歳の頃。鉄人は久々に父親の顔を見たが、何の感慨もなかった。母屋の奥の間へと連れて行かれた鉄人は、 外出着と思しきスーツ姿の父親、忌部我利と座卓を挟んで対峙していた。主が留守がちになってからは手入れする 頻度が下がった中庭は荒れていて、庭木の枝葉は不揃いだった。日差しは眩しかったが薄ら寒かったので、秋頃の 出来事なのだろう。疲れた面差しの我利は無表情な長男を見つめていたが、深々と頭を下げた。

「今まで帰ってこられなくて、すまなかった」

 我利は長男から目を逸らすまいと尽力しながら、言葉を探っているのか、しきりに髪を掻き乱していた。

「何か、あったの?」

 差して興味はなかったが沈黙が耐えられず、鉄人は父親に尋ねた。

「俺には、母さん以外の嫁さんがいる。だが、相手はまだ九歳の娘だ。帰ってこなかった間は、その娘のいる屋敷に 行っていたんだ」

 我利は鉄人を正視出来なくなり、荒れた中庭に向けた。

「どうして?」

「本家の御前様がそうしろと仰るからだ」

「嫌なら嫌だって言えばいいじゃん」

「嫌だと言ったところで、聞いてくれる相手じゃない。増して、俺は御前様から恨みを買っているんだ。だから、余計に 逆らえん。逆らえば、今度こそ俺は御前様に殺されるに違いない」

 我利の額にはべっとりと脂汗が浮き、顔は苦悩で歪んでいた。

「どうして?」

 鉄人が同じ質問を繰り返すと、我利はしばらく逡巡した末に長男を見据えた。

「俺は御前様から、ゆづるを奪ったからだ」

 忌部ゆづる。鉄人の母親の名であり、我利の妻である女の名だった。彼女について、鉄人は知っていることの方が 少ないかもしれない。生粋の御嬢様育ちで伏せがちだからか、浮世離れしていて、二人の息子に対しても実子と いうよりも歳の離れた兄弟のような扱いをしてきた。寝込むたびに息子達から引き離されているせいで、親子らしい 感覚が失せていたのだろう。ゆづるから抱き寄せられると、女性らしい柔らかさの中に病人の匂いが混じっていた。 手料理なんて食べたこともなければ、絵本を読んで聞かせてもらったこともなければ、手を繋いで外を出歩いたこと もない。接する機会が少なすぎるからだろう、鉄人の中ではゆづるという人間の存在感に厚みはない。だから、母親に 対する愛情も薄かったが、執着も煩わしさも薄かった。そんな母親にも、人間らしい過去があったとは意外だ。

「奪ったって、どういうこと?」

 多少なりとも興味が湧いた鉄人が問うと、我利はスラックスを履いた膝を握り締めながら、重たく話し始めた。

「俺は元々、忌部家の当主の器じゃない。一応、直系ではあるが、それほど血も濃くなければ変な能力もないんだ。 だから、俺は本当ならゆづるに近付けるはずもなかったんだ。ゆづるは本家の御前様と同じ竜ヶ崎家の一人娘で、 本家の御前様からお手つきを頂いた後には、跡継ぎの婿養子をもらうはずだったんだ。だから、一生縁がない相手 のはずだったんだ。だが、俺は、一番上の兄貴に連れられて御前会合に行った時、竜ヶ崎家の御屋敷でゆづるに 会ったんだ。その日はゆづるが本家の御前様からお手つきを頂く日で、そりゃあもう、綺麗になっていたんだ」

 我利が語った過去は、思春期に足を踏み入れかけていた鉄人には強烈なものだった。二十一歳の頃、忌部家の 三男である我利は次の御前として指名されるであろう長兄に連れられ、本家である竜ヶ崎家を訪れた。その日は、 竜ヶ崎家、滝ノ沢家、忌部家の御三家会合が開かれる日で、それぞれの御前だけでなく血族の男達も多く集まって いた。女達は食事の支度や御前様にお手つきを頂く娘達の支度に追われ、忙しそうだった。生まれてこの方、御前 には縁がないと思っていた我利は戸惑っていたが、長兄の傍で女達から注がれるままに上等の日本酒を飲んだ。 会合をダシにした宴会が一段落してから我利は酔いを覚ますために外に出たが、竜ヶ崎家の本邸は忌部家の屋敷 を上回る広さだったので少々迷った。せっかくだからと月明かりを頼りに庭を散歩していると、木の傍に娘がいた。
 竜ヶ崎家の家紋が入った桜色の振り袖を着た、子供っぽさを残した面差しの娘だった。長い髪は結い上げられて 赤い花のかんざしを刺され、顔も品良く化粧が施されている。だが、顔色は悪く、表情も恐ろしく暗かった。娘は我利に 気付いたが、樹齢数百年はありそうな巨木を仰いでぽつりと呟いた。あなた、紐をお持ちではありませんか、と。 我利はすぐに悟った、この娘は首を括って死にたいのだと。我利は反射的にネクタイもベルトも外して庭木の中に 突っ込んでから、そんなものは持ち合わせていない、とかなり強引に断った。娘はきょとんとしたが、急に笑い出し、 帯を締めた腹を抱えるほどに激しく笑い転げた。彼女の笑いで我に返った我利は恥ずかしくなったが、自殺しそうな 娘が笑い出したのだから良しとするか、と思い直してその場を去ろうとした。すると、娘は我利を呼び止めたので、 今度は何の用だと尋ねてみると、娘は竜ヶ崎ゆづるだと名乗った。それには我利も聞き覚えがあり、本家の御前様 にお手つきを頂く娘の一人であり、本家の御前様である竜ヶ崎全司郎の実の孫でもあった。
 ゆづるは冷たい手で我利の腕を掴むと、振り袖の裾が乱れるのも構わずに蔵へ連れ込んだ。明かりは一切なく、 カビ臭く埃っぽい空間の中で、ゆづるは着物の下に隠していた細すぎる肢体を曝した。我利の汗ばんだ手を導いて そこかしこに触れさせながら、ゆづるは泣いた。御前様と交わって子を産めば生きていられないかもしれない、屋敷 から出られずに一生を終えるのは嫌だ、だからせめて御前様以外の種の子を産んで死にたい、と。突拍子もない 要求に我利は混乱し、怒鳴りもしたが、ゆづるは我利の上から動こうとしなかった。それどころか我利に縋り付き、 懇願してきた。押し問答を繰り返したが、我利はゆづるに押し切られて、弱い月明かりを頼りに彼女の肌を探った。 だが、その肢体は骨格どころか乳房も尻も薄っぺらい子供そのものの体で、子供を産めるとは到底思えなかった。 夢中で事を終えた我利はゆづるの着物を直せるだけ直してやってから、母屋に連れて帰ってやった。訳の解らない 出来事を払拭するために酒を呷ったが、ちっとも酔えなかった。それから十ヶ月後のある日、本家の御前様は我利 だけを呼び出し、何事かと竜ヶ崎家に出向いてみると赤子を抱いたゆづるが待ち構えていた。その面差しはあの夜 とは打って変わって晴れやかで、どことなく誇らしげでもあった。誰の子なのか、考えるまでもなかった。

「それが……俺?」

 鉄人が呆然としながら呟くと、我利は頷いた。

「そうだ。それからすぐにゆづるは俺と結婚して、この屋敷に来たんだ。本家を継ぐはずだった一人娘を嫁にもらう なんてことは到底許されるものじゃなかったが、本家の御前様は俺とゆづるを許して下さった。その時はな」

「その時は、ってことは」

「本家の御前様は、ほとぼりが冷めた頃に俺とゆづるを追い詰めに掛かってきたのさ」

 我利は俯きがちの鉄人を見やり、いくらか落ち着いた口調で述べた。

「本家の御前様は、俺を忌部家の御前に指名したんだ。俺にはそんな能力もなければ資格もない、それなのに屋敷や 財産の何から何まで押し付けてきた。それが俺の兄弟や両親に諍いを生まないわけがない。俺の両親、つまり、 お前の祖父母だが、自由に金が使えなくなると解ったら屋敷を出ていった。忌部家の御前になるはずだった一番上の 兄貴はそれに納得が行かないと言って、本家に乗り込んで暴れた。他の兄弟もゆづるに手を出した俺を憎んだり 蔑んだりして、親戚を含めたほぼ全員から絶縁された。竜ヶ崎家と関係のない暮らしを送りたがっていたゆづるは、 忌部家に縛り付けられてしまい、俺を白い目で見るようになった。俺に残ったのは、この屋敷と鉄人だけだった」

「でも、母さんは父さんと仲が良かったじゃないか」

「そりゃ、鉄人が見ていたからだ。俺もゆづるも愛し合って結婚したわけじゃないし、お前が出来たから一緒になったに 過ぎない。だが、鉄人は俺の最初の子供だし、ゆづるもそう思っていたから、大事にしたかったんだよ。だから、鉄人には まともに育ってほしかったんだ。そうか、俺とゆづるは仲良く見えていたのか。だったら良かったよ」

「仲が良くないんだったら、なんで次郎が産まれたの?」

「そこはまた、ややこしい話でな」

 我利は骨張った手に不似合いな結婚指輪を填めた左手を、そっと撫でた。

「形だけとはいえ、仲良くしているとそれらしい気分になってくる。愛し合っていたわけじゃないが、心から嫌い合って いたわけでもなかったんだよ。おかしなもんだが、親戚やら親兄弟やらと縁を切られたせいで俺もゆづるも妙な諦めが 付いたんだろう、形だけじゃなくて本当に仲良く出来るようになったんだ。だから、次郎がいるんだ」

「だけど、今の父さんと母さんは仲が悪いじゃない。仲直りした証拠の次郎がいるのに」

「それもまた面倒な話でな。次郎がいるから、俺とゆづるは行き違ったんだ」

 我利は結婚指輪を守るように右手を重ね、顔を強張らせた。

「本家の御前様は、次郎を俺の次の御前に指名したんだ。俺の場合は形だけの御前だったが、次郎は本物の御前 なんだ。その証拠に、あいつには変な力がある」

 我利はジャケットの内ポケットを探ると、小石を取り出して座卓に置いた。

「鉄人。こいつに触ってみろ。竜の肉だ」

「何これ? ただの石じゃないの?」

 訝りながら、鉄人は小石を眺め回した。どこからどう見ても、普通の石だ。表面は濁った灰色で艶はなく、手のひらに 収まる大きさだった。こんなものに触ったところで、何がどうなると言うのだろう。鉄人は不信感丸出しの目で父親を 見やったが、我利は急かしてきた。渋々、鉄人が小石に触れると、触れた指先から肩に電流が駆け抜けた。

「痛っ!?」

「お前も、そうだったんだな」

 これはお前にやる、と我利は鉄人に小石を渡してから、不意に表情を緩めた。

「変な能力があるのは本家の御前様のお手つきで産まれた子だけだとばかり思っていたが、そうじゃないんだな。 俺達と同じ血が混じっていれば、変な能力が出てくる可能性もあるってことなんだ。最初からそうだと解っていれば、 俺はゆづるが本家の御前様に手を付けられたんじゃないかと疑わずに済んだのにな。しなくてもいい仲違いをしなくて 済んだのにな」

「だったら、母さんとまた仲直りすればいいだけじゃん」

 鉄人は痺れの残る指先で、怖々と小石を小突いた。だが、あの電流は二度と訪れなかった。

「そりゃ、俺もそうするつもりだったんだ。だが、本家の御前様はそれも面白くないらしくてな。だから、俺に九歳の 嫁さんを宛がってきたんだ。滝ノ沢家の三女で、名前はかすがというんだ。本家の連中がゆづるにあることないことを 吹き込んだらしくて、ゆづるは俺が当の昔にかすがに手を出していると思って俺とは口も利かなくなっちまったんだ。 一番良いのは、そのかすがって娘を呼び寄せて、ゆづるの前で釈明してもらうことなんだが、相手は滝ノ沢家の娘 だからな。本家の御前様から嘘を吐けと言われたら、それ以外は喋らないはずだ。滝ノ沢家は本家にどっぷり依存 しているから、些細なことでも本家の御前様の機嫌を損ねるような真似はしないんだ」

「だけど、相手は人間だろ? 話せば解ってくれるかもしれないじゃん」

 父親の体温が染み付いた小石を握った鉄人が意見するが、我利は難色を示した。

「そう簡単に行けば、俺もゆづるも本家の御前様に良いようにされちゃいない」

「父さんがダメなら、俺が会ってみるってのは?」

「気持ちは嬉しいが、お前に何が出来る。九歳の子供だとはいえ、本家の御前様がお手つきをする予定の女だぞ。 下手に機嫌を損ねてみろ、すぐに本家の御前様に泣きつかれて、俺もお前も潰される」

「滝ノ沢の屋敷ってどこにある? 今から言って、話してみる」

 鉄人が立ち上がると、我利は慌てた。

「おい、何も今すぐ行くことはないだろうが!」

「あんな話をしておいて、俺に何もするなって言うのかよ!」

 鉄人は袖を掴みかけた我利の手を振り払ったが、手の甲と我利の腕が触れた瞬間、鈍色に変色して硬直した。 鉄人はぎょっとして手を引っ込めると、我利の腕は元に戻ったが、何が起きたのか解らなかった。

「恐らく、それが鉄人の能力だ。さっきの生体接触で活性化したんだな」

 我利は元に戻った腕をさすりながら、複雑な顔をした。

「十歳の子供でしかないお前が滝ノ沢家に乗り込んだところで、言い含められて利用されるのがオチだ。気持ちだけで 充分だ。それ以外には何もいらない。ゆづるとの仲は、自分でなんとかする」

 重たい動作で立ち上がった我利は、悔しげな鉄人を見下ろした。

「俺は、鉄人にとっても次郎にとってもいい父親じゃなかっただろう。ゆづるにとっても、いい夫じゃなかっただろう。 だが、俺にもまだ出来ることがあるはずなんだ」

 擦れ違いざま、我利の手が鉄人の頭に触れ、過ぎ去った。その手の温かさが一層悔しさを煽り立ててきて、我利が いなくなった頃合いを見計らって鉄人はぼろぼろと泣いた。最後には号泣となり、我を忘れて声を上げた。母親が 死んでしまう寂しさと、父親がまた家庭を顧みなくなるであろう予感と、可愛い弟だとばかり思っていた次郎は得体 の知れない化け物だという恐怖が混ざり合った結果だった。滝のように溢れてくる涙を手で拭うと、その一粒一粒が 鉄の礫と化して畳に散った。自分もまた化け物なのだと認識したが、それを恐れられるほどの余裕はなかった。
 状況を理解するだけで、精一杯だった。





 


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