南海インベーダーズ




地球外知的生命体的単騎行



 行き着いた先は、臨海副都心の倉庫街だった。
 右腕の付け根からの出血はようやく止まったが、失血がひどい。骨も筋も無理に裂かれたので、千切れた筋繊維が 垂れ下がり、分厚い肌も断面付近が剥がれている。臓器の損傷はないが、弾丸の雨を浴びた際に出来た細かな 傷がちくちくする。血圧と体温は生体操作で保っているが、ワン・ダ・バの体液を借りて補充しなければ生命維持は 難しいだろう。背中に触れるコンテナの冷たさが、負傷によって熱を発し始めた体に優しかった。
 月明かりの先に、ワン・ダ・バが横たわる東京湾が見える。藍色の波は穏やかに揺れ、南海を思い出させる潮騒 が聞こえてくる。だが、潮の匂いはまるで違う。排気ガスを始めとした化学物質が混じり合った、発展途上の文明の 匂いだ。気管には悪いが、嫌いではない。右腕の付け根から流れ出ている血液と体液がアスファルトを汚していて、 コンテナの外装を焼け焦がしていた。ゾゾは緩く息を吐いてから、居たたまれなさそうに俯く紀乃を見やった。

「怒らないでね」

 紀乃はゾゾの向かい側にあるコンテナに寄り掛かり、エナメルブーツのつま先を見つめた。

「ゾゾの後を追い掛けるつもりなんてなかったの。だけど、ゾゾがどこに行くのかがどうしようもなく気になって、外に 出たの。そしたら、ゾゾが一人であの屋敷に向かっていくのが解って、だから……」

「私の身を案じて下さったのですか」 

「うん。だって、放っておけなかったし」

 紀乃はつま先を揺らし、こつん、と太いヒールでコンテナを叩いた。

「で、念のためにって思って、倉庫から電磁手錠を出して持ってきたの。良かった、なんとかなって」

「よくありませんよ、何も」

 ゾゾは露出した肩の骨を左手で押さえ、尻尾の先でアスファルトを叩いた。

「私や他の皆さんに相談もなしに、勝手に動かないで下さい。今夜のことは、全て私に非があるのです。紀乃さんや 皆さんを巻き込みたくないから単独行動を取ったというのに、追い掛けられては困りますね。怒りはしませんけど、 呆れました。大体なんですか、あなたは一度クソ野郎の手中に落ちたではありませんか。不用意に奴に近付けば、 今度こそ手込めにされるかもしれないのです。前回は虎鉄さんと芙蓉さんが危ういところを助けて下さいましたが、 毎度毎度、都合の良いことが起きるわけがありません。龍ノ御子たる生体情報の持ち主であると同時に、女の体で あることも自覚して下さい。クソ野郎は、紀乃さんが十六歳になるまでは手を出さない、とかなんとかほざきやがった らしいですが、単純にあいつのストライクゾーンが十六歳だというだけであって十六歳以下でも以上でもお構いなし なんですよ。その辺もきちんと覚えておいて下さいね。あまりに無謀な行動を取られてしまうと、いくら私でもフォロー のしようがなくなるんですから」

「やっぱり怒っている」

 紀乃は唇を尖らせ、つま先でアスファルトを蹴った。

「言うべきことを言ったまでですよ。助けて下さったことについては、感謝しますけどね」

 ゾゾは紀乃の横顔を見たが、目を逸らした。

「ゾゾの生体情報、取られちゃったってことでいいのかな」

 紀乃はその場に座り込み、膝を抱えた。ゾゾは失った右腕を補うように尻尾を動かすが、反応は鈍かった。

「ええ、間違いなく。私という個体から生体情報を採取するのに必要な肉片はほんの数グラムですので、あれだけの 量があればワンであろうが何であろうが動かせることでしょう。もっとも、クソ野郎はワンを奪い取る気はないようで、 波号さんを利用して代用品を造り出し、それを利用してニライカナイへと至るつもりでいるようです」

「そんなことって、出来るの?」

「理論の上では可能です。ですが、波号さんに掛かる負担はとてつもなく大きいです。クソ野郎の生体組織によって 波号さんのコピー能力に幅が出来たとしても、人間ですし、増して幼い女の子ですから、物理的にも精神的にもすぐに 限界が訪れてしまいます。ワンと同じ質量の肉体は都心のビルや土を吸収すれば造れないこともないのでしょうが、 まず、一時間と保たないでしょう」

「だったら、それを阻止しなきゃダメじゃん。波号って子を死なせるのは良くないもん」

「ええ、そうなのですよ。そうなのですが……」

 ゾゾは右腕があった場所に左手を添え、自分への腹立たしさに任せて握り締めた。

「私の生体情報を得たクソ野郎を止める手立ては、最早、ありません。今でこそ、ワンは私の制御下にありますが、 クソ野郎がゴ・ゼンとしての能力を取り戻したら、ワンを奪われてしまいます。ワンをコピーして巨大化した波号さん とワンがクソ野郎の配下となれば、手の付けようがありません」

「だったら、また私が行ってゾゾの右腕を」

「いけません。私の右腕を奪い返したところで、クソ野郎は既に生体情報を採取しているはずです。無駄足です」

「じゃあ、どうしたらいいの? ねえ、どうすればいいの?」

 焦りと不安に駆られた紀乃が前のめりになると、ゾゾは規則正しく並ぶコンテナを一瞥した。

「逆転出来る機会があるとすれば、クソ野郎がワン並みに巨大化させた波号さんを利用して超越空間を開いた瞬間 ぐらいなものでしょう。上手くいけばクソ野郎を異空間の狭間にでも放り込めるのですが、今のままではまず不可能 です。忌部さんはゴ・ゼンとしての能力は足りていますが、過剰融合する傾向がありますので、再び合体してワンを 操縦して頂くのは酷です。まかり間違えば忌部さんは溶けて消えかねません。ミーコさんと小松さんのおかげでワン は安定していますが、首の縫合手術を終えていないので不完全です。今のままでは、正直、勝ち目はありません」

「だったら、どうしてゾゾはワンを動かして東京まで来たの?」

「それは……」

 紀乃を助けたかったからだ。ゾゾはそう言いたかったが、口籠もった。たったそれだけのために、分が悪くなると 解っていながら、ワン・ダ・バの蘇生手術を行った。ミーコと小松を犠牲にした。愚行などというレベルではない、エゴの 暴走だ。欲望に負けている。自分が情けなくてたまらず、ゾゾは口の端を歪めた。

「役に立たせてよ」

 立ち上がった紀乃はゾゾに歩み寄り、腰を曲げて目線を合わせてきた。

「大丈夫だよ、やり直せるよ。だって、まだ全部終わったわけじゃないもん」

「ですが、紀乃さん」

 ゾゾが躊躇うと、紀乃はゾゾの傍らに寄り添った。服が汚れるのも構わずに体を寄せ、柔らかな肌が接した。生体 電流を感じ取らずとも、思考を読み取らずとも、紀乃の怯えは肌で感じ取れた。ゾゾは左腕で紀乃を抱き寄せようと したが、押し止めた。紀乃は酸性の血溜まりにスカートの端が浸るのも気にせずに、ゾゾにしがみついてくる。紀乃の 髪を比較的汚れの薄い爪先で梳きながら、ゾゾは胸中を締め上げる苦しさと戦った。

「ガニガニだって生き返った、ミーコさんと小松さんだって最後の最後は幸せになった。だから、なんとかなるよ」

 紀乃はゾゾの胸に額を当て、静かに言った。ゾゾは張り詰めていたものが緩み、紀乃の髪に鼻先を寄せた。

「ようやく、紀乃さんに触れさせて頂けましたね」

「ゾゾの方が嫌がるかと思ったから、近付かなかったんだよ」

「おやおや、それはそれは」

「だって、私、ゾゾの役に立つどころか足を引っ張っちゃったんだもん。ゾゾの方こそ、私に愛想尽かしたでしょ?」

「そんなわけがありますか。埋め合わせは、そうですね、紀乃さんが御飯を作って下されば充分です」

「え? そんなんでいいの? だって、私がミスっちゃったせいでこんなことに……」

「あなたのせいではありませんよ、全てはクソ野郎が元凶なのですから。ですが、それ以上のことをなさって下さるの でしたら、快くお受けしますが?」

 ゾゾは喉の奥でくつくつと笑いながら、紀乃の頼りない背に左手を伸ばした。手が触れた瞬間、紀乃の背はびくりと 引きつったが、抗わずに委ねてきた。背中から腰に手を下ろし、軽く引き寄せると、紀乃は顔を向けないままでは あったがゾゾに体重を掛けてきた。柔らかく甘ったるい匂いが一層濃くなり、胸中の締め付けも強まる。手付きには まだ躊躇いが残っているので力は込めていなかったが、越えるべきではない線につま先を掛けただけでも、快感は 鮮烈だった。少女の体温は冷え切った体には特に心地良く、肉付きが控えめな体を抱いた感触は訳もなく優しい。
 やはり、自分の内には竜ヶ崎全司郎が潜んでいる。体の奥でじっと息を殺し、魂の根底に住み着き、ゾゾが紀乃に 対する欲望を抑えられなくなる瞬間を待ち侘びている。ゾゾの体液を浴びすぎて崩れ落ちそうなほど腐食が進行 したコンテナから背を外し、気恥ずかしげに縮こまっている紀乃を見下ろして、ゾゾは改めて自分を戒めた。紀乃を 愛しているのなら、扱いも丁重にすべきだ。そして、愛情と欲情を混同しないようにしなければ。
 本当に、紀乃を愛するならば。




 これは現実の光景なのだろうか。
 病室の窓から見える景色は、昨日までの景色とは懸け離れていた。東京湾には、推定十五万メートルもの規模を 誇る宇宙怪獣が横たわり、街明かりは一つ残らず消えている。唯一機能を果たしている総合病院には、秋葉の他 にもインベーダー絡みの負傷者が運び込まれてくる。今し方も救急車が乗り付け、ストレッチャーを押していったが、 戦闘でも起きたのだろう。銃声も聞こえ、ヘリコプターらしき機影が墜落する様も窓から見えていたが、被害の程度 までは解りかねる。虎鉄と芙蓉と斎子紀乃が反乱を起こした際、秋葉は波号を竜ヶ崎から引き離す絶好の機会だと 踏んで竜ヶ崎の自室に踏み込んだ。だが、波号は秋葉の言うことに耳も貸さず、それどころか。

「むーちゃぁあああんっ!」

 思い掛けない声に秋葉は動揺し、ベッドからずり落ちかけた。すかさず病室のドアが全開になり、迷彩服姿の山吹が 飛び込んできた。なぜ、ここが解ったのだ。秋葉が目を丸めると、山吹は秋葉の傍に駆け寄った。

「大丈夫っすか、むーちゃん!」

「丈二君。なぜ、ここが」

 秋葉が驚きつつも訝ると、山吹はへらっと笑った。

「窓明かりで解るっすよ、そんなもん。そこら中が真っ暗っすから、逆に見つけやすいんすよ。んで、変異体管理局 関係の医者に聞いて、病室も教えてもらったんす」

「どうして?」

 竜ヶ崎に乗せられたとはいえ、山吹を利用してしまったのに。秋葉が目を伏せると、山吹は快活に笑う。

「いいじゃないっすか、また会えたんすから」

 今度こそ嫌われた、とばかり思っていた秋葉は、安堵しすぎて涙腺が緩みかけた。戦闘状況は継続しているし、 非常事態宣言も解除されていないのだから、入院している身であっても緊張感を保つべきだ。そう思うも、波号から 二度も攻撃された辛さが今になって沸き上がる。だが、これ以上は無理だ。踏ん張りきれなくなった秋葉は、自由の 利く左腕で山吹に縋り付き、震える唇を歪めて嗚咽を零した。

「丈二君……」

「俺がいない間に、一体何があったんすか?」

 山吹は秋葉を支え、入院着の下から垣間見えた右肩がテーピングされていることに気付いた。

「話す。けれど、一度には無理」

 秋葉が山吹の戦闘服に顔を埋めると、山吹はベッドに腰を下ろし、秋葉を抱き寄せてくれた。

「だったら、ゆっくり話すっす。俺も、むーちゃんに色々と話すことがあるっすから」

 秋葉は涙を拭ってから頷き、一つ一つ、話し始めた。山吹を箱詰めにして忌部島に送り込むという作戦を立案した のは真波だが、最終的な決定を下したのは自分であると言うこと。山吹の身柄と引き替えに東京に連行された紀乃 と忌部が上陸した直後、虎鉄と芙蓉が反乱を起こし、変異体管理局が機能を失ったこと。その最中に波号から攻撃 され、右肩を脱臼してしまったこと。忌部と異星体の頭部が融合合体し、竜ヶ崎を倒そうするも逆にやり込められて 虎鉄と芙蓉共々逮捕されてしまったこと。電磁手錠を填められて能力を封じられた虎鉄の口から、竜ヶ崎の過去の 悪行を語って聞かせられたこと。無条件に虎鉄の話を信用したわけではなかったが、一概に嘘とは言い切れないと 判断し、伊号と波号を竜ヶ崎から引き離して戦闘から離脱させようとしたこと。だが、その際、波号がサイコキネシスで 操ったナイフによって背中の皮を切り裂かれ、負傷したこと。それらを話し終える頃には、山吹の戦闘服の胸元には 涙による大きな染みが出来ていた。山吹は話を聞く間、ずっと秋葉を慰めてくれた。それがなければ、心の根本が 折れてしまっていたかもしれない。辛いのは、山吹も同じだろうに。
 秋葉の話が一段落すると、山吹も話し始めた。忌部島に荷物扱いで落とされた後、忌部島の真の姿が宇宙怪獣 戦艦であるとゾゾから語って聞かされたこと。ゾゾと多次元宇宙空間跳躍能力怪獣戦艦ワン・ダ・バの本来の目的は、 宇宙空間を跳躍する新技術の実験を行うためであったこと。竜ヶ崎全司郎の正体はゾゾの生体分裂体であり、 ワン・ダ・バを操縦するために生体情報を分け与えられていること。竜ヶ崎の目的とは、遠い過去にニライカナイと 呼ばれるゾゾの母星に旅立った女性と再会すること。そのためだけに、竜ヶ崎は御三家の女性達を孕ませて子を 産ませ、龍ノ御子と呼ばれる生体適合者を作り出そうとすると共に、竜ヶ崎家、滝ノ沢家、忌部家の御三家を繁栄 させてきたこと。その弊害で、多くのミュータントが生まれてしまったこと。ミーコこと宮本都子と小松建造は、我が身を 犠牲にしてワン・ダ・バを復活させてくれたこと。二人は幸せになったこと。竜ヶ崎は詰めに入りつつあること。

「この戦いから、逃げるのは簡単っす」

 語り終えた山吹は、秋葉の腰を引き寄せ、その頭にマスクフェイスをもたせかけた。

「でも、そんなんじゃダメっす。俺達はここまで深く関わっちまったんすから、局長が俺達を放っておいてくれるはずも ないっすよ。だから、むーちゃん。俺と一緒に戦ってくれないっすか。出来ることがあるなら、するべきなんす」

「了解」

 秋葉は泣き濡れた頬を拭ってから、頷いた。山吹は頷き返してから、秋葉を見つめた。

「じゃ、まず、最初に話しておくことがあるっす。主任も、十中八九ミュータントっす」

「主任? けれど、主任はただの人間であってミュータントではないはず」

「俺もずっとそう思っていたんすけどね。ほら、この前の公休日の時、むーちゃんの携帯が行方不明になって、俺と むーちゃんが行き違ったことがあったじゃないっすか。仕事がないはずなのにむーちゃんに仕事が割り当てられて いたり、イッチーの親父さんの四十九日の法要に行ったはずになっていたり、俺のメールが届かなかったり、って。 むーちゃんには深追いするなって言ったっすけど、どうしても気になったんで調べてみたんす」

 山吹は、いつになく真剣に語った。

「忌部島、っつーか、ワン・ダ・バが海上基地に接岸してすぐ、資料室に潜り込んでハッキングしてみたんす。どうせ 誰もいないんすからね。それまで、俺達は敵についての情報しか調べなかったし、興味を持っていなかったじゃない っすか。ていうか、敵も味方も元を正せば同じものだってことに気付いていなかったんすよ。だから、局員のどこから どこまでが局長や忌部さんの血縁者なんだろうって思って、洗いざらい調べてみたんすよ。変異体管理局の権限で 政府のデータベースにも潜れるところまで潜って、時系列と照らし合わせてみたんす。そしたら、主任は二十一歳の 時に病気療養ってことで丸一年も休職しているんす。だから、主任の病歴も洗ってみたんすけどね、あの人は持病 なんてないし手術したことだってないんす。てぇことはつまり、病気療養って名目の産休だったってことっす」

「なぜ、産休だと言い切れる?」

「こいつが動かぬ証拠っす、証拠。主任しか使えない機密文書の棚をぶっ壊したら、出てきたんす」

 山吹は戦闘服の内ポケットを探ると、小さな冊子を取り出した。一ノ瀬真波、紗波、との名前が記入されている、 可愛らしいデザインの母子手帳だった。秋葉はその母子手帳を受け取り、開いてみたが、中身は真っ新でほとんど 記入されていなかった。経過の数字もなければ記録の数字もなく、母親の我が子への感心のなさが窺えた。秋葉は それを少々腹立たしく思いながら最後まで捲ると、見慣れた字で署名されていた。命名、紗波。竜ヶ崎全司郎。

「紗波ってのは、恐らくはーちゃんの本名っす。はーちゃんは産まれて間もなく変異体管理局に引き取られた、って ことになっていたっすけど、実のところは変異体管理局の中で産まれたんじゃないっすかね。医療設備も整っている っすし、どんな子供が生まれても内密に出来るっすし、手回しする手間が省けるっすからね。相手が局長だってことは 驚きはしなかったっすけど、母親が主任ってのはさすがにビビったっすね。で、それを踏まえて考えると、主任も 多少の能力を持っていてもおかしくないってことっす。はーちゃんの母親なら、尚更っす。だから、きっと、この間俺と むーちゃんが行き違っちゃったのは、主任がむーちゃんに変身していたんじゃないかって考えたんす」

 山吹は秋葉の手元を覗き込むと、秋葉は母子手帳を閉じた。

「では、局長は実の娘を兵器利用し、主任も実の娘を兵器利用しているということになる」

「そうっすよ。はーちゃんに常時ゴーグルを被せていたのは、きっと、顔を隠しておく意味もあったんすね。でないと、 はーちゃんが主任に似ているって誰かが気付いちゃうはずっすから」

「はーちゃんの意志は、どこにあるのだろう」

 秋葉が悔しさを滲ませると、山吹は秋葉の左肩に手を回した。

「今からでも遅くないっす、やるだけのことをやってみるんす。何もしないでいるよりは、ずっとマシっす」

「同上」

 秋葉は母子手帳に目線を落とすと、怒りとも悲しみとも付かない感情が広がった。お腹を痛めて生んだ我が子を 愛せない人間がいる、ということは知っている。それが真波であり、愛されずに兵器利用されているのが波号である ということが、一層複雑な思いを生む。波号は過剰な情報を吸収して一気に自我が成長したように見えるが、根底は まだまだ幼い。秋葉を攻撃したのは、竜ヶ崎に気に入られたいがための行動ではないのだろうか。他人に対して 攻撃的になっているのも、自分を守りたいがためのことではないだろうか。どれも仮定に過ぎず、秋葉の一方的な 思い込みかもしれないが、波号を放り出してしまいたくなかった。甲型生体兵器と現場監督官補佐という関係だけでは 終わりたくない、いや、終わらせてはならない。真っ新な母子手帳を握り締め、秋葉は決意を固めた。

「丈二君。頼みがある」

「なんすか、むーちゃん?」

 上体を曲げて覗き込んできた山吹に、秋葉は言い切った。

「結婚して。そして、はーちゃんを養子にする。主任もあの子を愛さない。局長もあの子を人間だと思ってくれない。 だから、せめて、私だけははーちゃんを人間として生かしてやりたい」

「俺から言うつもりだったんすけどねー、それは」

 山吹は照れ笑いしつつ、戦闘服の胸ポケットを探ってビロードの小箱を取り出し、秋葉に差し出した。

「んじゃ、俺からも改めて。結婚して下さい。新婚で子持ちなんて上等じゃないっすか、マジ上等」

「ありがとう、丈二君」

 秋葉は山吹の手からビロードの小箱を受け取ると、蓋を開け、小さな宝石が填った細い指輪を確かめた。

「いやいや、こちらこそよろしくお願いするっす」

 山吹は秋葉の頬にマスクを付けると、秋葉は左手を山吹のマスクに添えて腰を浮かせた。

「だから、私は丈二君が好き」

 山吹の答えを待たずに、秋葉は乾いた唇を冷たい外装に押し当てた。山吹は秋葉の背中に腕を回すと、右肩の 脱臼に気を遣いながら抱き寄せてくれた。久々に感じる山吹の存在感と、金属の肌であろうとも感じ取れる愛情の 深さを味わいながら、秋葉はこの心地良さを波号にも伝えてやりたいと心から思った。
 誰かの記憶と経験を借りていなければ生き続けられない波号、一週間ごとに記憶を失ってしまうために狭い世界 の中でしか生きられない波号、竜ヶ崎によって能力の幅を増やされたせいで情緒不安定に陥った波号、いずれは 呂号と同じように使い捨てられてしまう運命にある波号。単純な同情だけでは、安易な愛情だけでは、陳腐な優しさ だけでは、波号を救い出せるわけがない。秋葉は唇を引き締め、山吹の肩越しに闇に没した都市を見据えた。
 余計なことは、一切考えるな。





 


10 12/10