最初に向かったのは、小松の工作場だった。 漁船の艤装を剥ぎ取って作ったらしい、カーブの付いた壁と屋根がある掘っ立て小屋と、がらくた以外の何者でも ない錆びた部品や千切れたゴムチューブなどが散らばる一角だった。かつての集落からも海岸からも離れていて、 タンカーと直結した灯台から二キロほど後方に位置している。小松が動き回るうちに地面が削れたのか、それとも 最初からそういう地形なのかは解らないが、アリ地獄を思わせる擂り鉢状の土地の底で小松は作業していた。 「おーい」 直径二十メートルはある擂り鉢の縁から紀乃が声を掛けると、小松は右腕から出している溶接機を止めた。 「何だ」 「今、忙しい?」 「いや、別段」 小松は溶接が終わった鉄板を下ろし、メインカメラに被せていたカバーを外して頭部に収納した。 「俺に用か」 「うん、あのね、小松さんって、誰かもう一人いるってこと知ってる?」 擂り鉢の底にいる小松とは距離があるので紀乃は声を張るが、小松は声量を変えなかった。 「知っていることは知っているが、知っていることを知っていてはならない」 「……はあ?」 何を言っているのか解らなかったので紀乃が眉根を顰めると、小松は繰り返した。 「知っていることを知っていてはならない。だから、要するに知らない」 「でも、最初に知っていることは知っているって言ったじゃん。それは違うわけ?」 「知っていることを知っている、と言っただけだ」 「じゃあ、知っていることになるじゃん」 「だが、俺は知っていることを知っていてはならないとも言った。つまり、知っていないということだ」 「でも知っているんじゃん」 「だから、知っていることを知っていてはならないから知っていないということなんだ」 「だから、知っていないことにはなっているけど、小松さんは知っていることを知っているんでしょ?」 ちょっと苛ついた紀乃が食い下がると、小松は溶接機を出したままの右腕を掲げた。 「だから、知っていることを知っていてはならないから知っていないということなんだ。理解しろ」 「じゃあ、次はミーコさんに聞いてみよ」 埒が開かない、と紀乃が踵を返すと、小松は右腕を大きく振った。 「理解しているのかしていないのか、それを答えてから行け! すっきりしないじゃないか!」 そう言われても、小松の言い分を充分理解出来なかったのだから仕方ない。理解していないことを言ったら、また 似たようなことになりそうだったので、紀乃は足早に移動した。背後からは小松の文句らしき声が聞こえていたが、 そのうちに収まった。次はミーコを捜さなければならないが、これが面倒だ。ミーコは言動と同じように行動パターンも 不可解で、道順通りに歩くことすらしない。斜面を登った紀乃が高台から平地を見渡していると、遠くから奇声が 聞こえた。紀乃は少し温くなったドクダミ茶で喉を潤してから、ミーコの姿を捜しながら斜面を降りた。歩くに連れて、 意味を成さない言葉の羅列と物音も近付いてきた。集落と畑から少し離れた砂浜に降りた紀乃は、波打ち際で駆け 回っているミーコを発見した。服も靴も脱がずにばしゃばしゃと波を蹴散らしていて、どこから見つけてきたのか全長 一メートルはあろうかという立派なシャコ貝が抱えられていた。 「ミーコはミーコがミヤモトミヤコー!」 筋が切れたのかだらしなく口を開けたシャコ貝の内側には、白く艶のある糸状の物体が蠢いていた。 「ひぃっ!」 炎天下なのに鳥肌が立った紀乃が身動ぐと、ミーコは急に立ち止まり、紀乃に振り向いた。 「ミーコがミーコのミヤモトミヤコ!」 得意げに寄生虫が詰まったシャコ貝を頭上に担いだミーコに、紀乃は逃げ出した。 「それ持って来ないでぇっ!」 ミーコのミーコでミヤモトミヤコッ、と繰り返すミーコの足は、恐ろしく速かった。シャコ貝は巨大で、おまけにミーコが 寄生させて増殖させたであろう寄生虫が溢れんばかりに詰まっていて、ミーコの足取りに合わせて解す前の生麺 のような固まりがぼとぼとと落ちていた。砂にまみれたそれらは生々しく動き、海水とも粘液ともつかない液体と砂を 混ぜるようにのたうち回っている。ミーコが寄生虫を繁殖させている様を瞬時に想像した紀乃が苦い唾を飲み下すと、 ミーコはだらしない笑顔を浮かべてにじり寄ってきた。 「ミーコがミーコのミヤモトミヤコ」 ミーコはシャコ貝を下ろし、自分の口を開いて濡れた手を突っ込むと、喉の奥から寄生虫の固まりを出した。 「ひぃやあああああああっ!」 喉から出せる限りの悲鳴を振り絞った紀乃は、全速力で逃げ出した。だが、ミーコは容赦なく迫ってくる。砂を蹴る 軽快な足音が近付き、寄生虫を無遠慮に撒き散らす影が追い、後少しで襟首を掴まれる。ああもう死ぬ、と紀乃が 絶望すると、不意にミーコの足音が途絶えた。それでも怖いので出来る限り距離を開けてから振り返ると、ミーコは 何者かに襟首を掴まれて引き摺られていた。ミーコともう一人らしき足跡が白い砂を抉り、それが波打ち際に至った かと思うと、突然ミーコは浅瀬に放り出されて頭を押さえられた。ミーコは激しく抵抗し、真っ黒に日焼けした手足が 乱雑に飛び跳ねていたが、次第に勢いが失せ、ミーコは四肢を投げ出してぷかりと海面に浮かんだ。 「ぎゃああああああああっ!」 先程とは違う意味で悲鳴を上げ、紀乃は駆け出した。その拍子にまた暴発し、砂浜が派手に吹っ飛んだ。ミーコ もう動いていない。死んだ。明らかに溺死した。放っておくのは良くないと頭では解っているが、ミーコを助け起こせば その隙に寄生虫をたっぷりと飲み込まされそうで恐ろしい。紀乃は、脇目も振らずに廃校に戻った。 理解出来ない出来事ほど、怖いものはない。 汗ばんだ体を流して食卓に着いた紀乃は、妙な気持ちになっていた。 それもそのはず、波打ち際で何者かに頭を押さえられて溺死したはずのミーコが、紀乃の後に風呂に入って海水 と砂を洗い流して清潔な服に着替えて食卓に着いていたからだ。小松は余程作業に没頭しているらしく、彼の分の 昼食は先にゾゾが運んでいったようだ。だが、例の五人目の食器は並んでいない。 疲れた体には優しい酢醤油で味付けられたナマスウリを食べながら、紀乃は上手く理解出来ない出来事の連続に 疲れてきていた。昨夜、部屋に人の気配を感じたのが発端だが、暴発したサイコキネシスには手応えがあった。 手を触れずにものを動かす超能力を使ったのだから、手応え、というのは妙だなと自分でも思ったが、それ以外に 適当な表現が思い付かなかったのだから仕方ない。そうめんのような身をほぐしたナマスウリを食べ終えた紀乃は、 甘辛いタレで味付けられたカボチャモチを囓り、その後に魚のぶつ切りの味噌汁も啜った。 「味噌だ」 こんなものまで作っていたのか、と紀乃が感心すると、ゾゾはナマスウリを口に入れた。 「ええ、味噌ですよ。去年仕込んでおいたものが上手く出来ておりましたので」 「……それはそれとして」 ばりぼりとキュウリの味噌漬けを噛み砕いた紀乃は、握り箸で料理を食べるミーコを指した。 「どうして生きているの?」 「どうしてドウシテドウシテシテシテシテ?」 よく煮えた魚を骨ごと噛み砕いたミーコは、それを嚥下してからにんまり笑った。 「ミーコはミーコでミヤモトミヤコ、ミーコのミーコがミーコだから」 「要約すると、ミーコさんは宮本都子さんの肉体を借りて生きていますが、宮本都子さんであった頃の意識や記憶は ほとんど失っています。なので、今のミーコさんは寄生虫が寄せ集まって出来上がった一種の群体であって、ミーコ さんという個人の意識はありません。ミーコさんとは、寄生虫同士が接続して出来上がった生体ネットワークの中に ある意識の表層なのです。進化の最中にいるミーコさんは、生体ネットワークの意思の疎通が完全ではないので、 支離滅裂な言動に見えるだけなのです。そして、ミーコさんは宮本都子さんの肉体を操縦して活動していますが、 同時に宮本都子さんの身体機能を限界近くまで引き出しているので、大抵のことでは生命活動を停止しないの ですよ。もっとも、ミーコさんの本体とも言える女王寄生虫を破壊してしまえば別でしょうけどね」 ゾゾが丁寧に補足してくれたが、そのせいで紀乃はあの寄生虫の固まりを思い出して気持ち悪くなった。 「うえぇ……」 「ところで紀乃さん」 ゾゾはドクダミ茶を啜ってから、紀乃に向いた。 「小松さんに何か聞いたようですが、私達からは情報は引き出せないものだと思って下さい」 「あうっ」 紀乃が気まずくなると、ゾゾは紀乃の湯飲みにドクダミ茶のお代わりを注いだ。 「知ろうとしたところで知れるものではありませんし、そもそも知ろうということからして誤りなのです。知らずにいれば、 それだけで懸念を抱かずに済みますし、私達が知っていることを知っていると政府側に知られたら、どうなっても 知りませんよ、紀乃さん」 「……やっぱり知っているんじゃない」 紀乃はちょっとむくれながら、熱いドクダミ茶を一口含んだ。 「私達がこうして好き勝手に暮らしていられるのは、ひとえに政府側が私達を良い意味で放り出してくれているから です。いわゆる生殺しというやつですが、その中途半端な状態を保つためにはこちらも均衡を保っておかなければ ならないんです。なので、不用意にあちらとの距離を狭めようと思わないで下さい」 「でーもなんか納得いかないなぁ」 紀乃は茶碗に残っていた白飯に味噌汁を掛け、流し込んだ。 「ねえミーコさん、もう一人の誰かのことって知ってる?」 「ですから、今し方申し上げたでしょうに。あなたの聴覚器官には穴でも開いているんですか」 ゾゾは紀乃に呆れ、尻尾の先で床を叩いた。 「知ってるシッテルシッテルテルテルテル!」 ミーコは空になった茶碗と汁椀を重ね、箸を持った手を振り上げた。 「え、本当!? 教えて教えて!」 やっと正体が解る、と紀乃が中腰になると、ミーコは飯粒の付いた口元を舐めた。 「それはそれそれソレハ、イ」 しかし、何者かの名を口にする前に、ミーコは椅子ごと窓吹っ飛ばされた。後頭部からガラスに突っ込んだミーコ は仰向けに外に放り出され、寄生虫の切れ端が混じった血飛沫が上がった。破片で動脈でも切ったらしい。 「ひえええ」 少しは慣れてきた紀乃が控えめに悲鳴を上げると、ゾゾは首を横に振った。 「だから言いましたでしょうに。ああなりたくなければ、紀乃さんは詮索しないことです」 洗い物の後に窓を張り替えませんとね、と面倒そうに付け加えたゾゾに、紀乃は尋ねた。 「で、結局のところ、ゾゾは知っているの?」 「知っていることを知っているためには、知っていなければなりませんからね」 自分の食器とミーコの食器を重ねたゾゾは、椅子を引いて立ち上がった。 「さあ、これでこの件はお終いです。あまりミーコさんをいじめてはなりませんよ、紀乃さん」 「いじめてないって」 目に見えない誰かが原因なのだから。紀乃は自分の食器を片付けると、洗い場に運んだ。その際に割れていない 窓から外を見下ろすと、血溜まりに突っ伏しているミーコはおかしな角度で首を曲げていた。今度こそ死んじゃった んじゃ、と紀乃が危惧していると、ミーコはがばっと起き上がって首を曲げ直し、肌に刺さっていたガラス片を次々に 引っこ抜き、血と泥で汚れきった服を気にせずに駆け出していった。 「ご馳走様ソーサマーサマササマー!」 「いえいえ」 ゾゾはその言葉に丁寧に返してから、洗い物を始めた。紀乃は血の痕を点々と残しながら走り去っていくミーコを なんとなく見送っていたが、今更ながらぞっとした。あれが自分の身に起きたら、間違いなく死ぬ。死んでも死なない ミーコとは違うし、対抗手段として有効であろう超能力がほとんど役に立たないのだから。だが、腑に落ちないままで いるのは気分が良くない。だが、ミーコのように海水に顔を浸けられたりガラスに叩き込まれたりしたら、死ぬ。 途端に、紀乃の好奇心は萎んだ。 10 6/4 |