南海インベーダーズ




インビジブル・インダクション



 とにかく寝苦しい。
 紀乃は自分の呻き声で目を開け、汗ばんだ額を拭った。枕代わりにしている丸めたタオルを広げ、首筋を 拭ってからシャツの裾にも手を突っ込み、胸と腹の汗からも汗を拭き取り、一息吐いた。夜明けは遠く、カーテンの端から 見える外界は真っ暗だ。窓を閉め切っているので室内の空気は淀んでいるが、夜気のおかげでうなされるほど暑くは ないはずなのだが、やたらめったら寝苦しく、薄気味悪い影に覗き込まれている夢を見た。

「なんてストレートな悪夢だ」

 紀乃は目を瞬かせてベッドから降り、電灯のスイッチを入れた。オレンジ色の柔らかな光が広がる室内を見渡した が、他者の姿はない。寝苦しいと思ったらミーコに抱き付かれていた、ということはこれまでにも何度かあったが、 今日は大人しいようで校舎も静かだった。外では涼やかな虫の音が鳴り、遠い潮騒も聞こえてくる。だが、それ だけでは寂しすぎるので、紀乃は机に近付き、船舶用無線を改造したラジオのスイッチを入れた。ぶちぶちと雑音が 混じる音に耳を傾けていると、薄暗い部屋の隅で物音がした。壁や天井の軋みとは異なった音で、濡れた物体を ぺたりと貼り付けたかのような重みと柔らかさが混在していた。なんとなく気になった紀乃は、電灯の明かりが行き 届いていない部屋の隅に近付くと、その音が素早く移動した。同時に、何者かの息吹も。

「え?」

 何事だ、と不審に思った紀乃が音源を追うと、音は速度を増して移動した末に突然引き戸が開いた。

「うわあっ!?」

 紀乃は心臓が痛むほど驚いて絶叫した途端、暴発したサイコキネシスが引き戸を吹っ飛ばした。

「ぎゃあっ!」

 と、同時に紀乃の悲鳴よりはいくらか野太い悲鳴が上がり、引き戸のガラスに丸いものが突っ込んだらしく球体の 抉れが生まれ、いびつな破片が散らばった。引き戸の木切れとガラスを踏み割った何者かは、べしゃべしゃと濡れた足音を 散らしながら廊下の奥に消えた。紀乃は喉が引きつり、軽い頭痛を覚えながら、無惨に壊れた引き戸を見下ろした。 そこには、紀乃の身長よりも二回りほど大きな人型が出来上がっていて、ガラスが割れ損なった部分には何者 かの顔型がはっきり付いていた。額と頬の皮脂に唇の痕、おまけに唾液らしきもの。これは、間違いなく。

「……人間じゃん」

 間を置いてから紀乃は理解した。が、首を捻った。

「でも、誰?」

 ミーコでもないし、かといって小松であるわけがなく、ゾゾという可能性も皆無だ。

「いかがなさいましたか、紀乃さん」

 いくらか早足でやってきたゾゾは、おや危ない、と壊れた引き戸を一跨ぎして紀乃を抱え上げた。

「いけませんよ、紀乃さん。ガラスの破片があるのですから、足を切ったらどうするのですか」

 そのまま紀乃はベッドまで運ばれ、ゾゾは紀乃の素足を冷たい手で掴んで持ち上げた。

「傷でも付いて、雑菌が入ってしまったら大変ではありませんか。さあ、よくお見せ下さい」

「ちょ、ちょっと」

 紀乃はゾゾの手から足を振り解こうとしたが、ゾゾの方が力が強かった。冷たくも骨張った手の感触が肌に染み、 足首から脛に這い上がってきた。おまけに足の裏を丹念に眺め回され、妙な羞恥心が湧いてしまった。ゾゾの 手が紀乃のジャージの裾をめくろうとしたので、紀乃は慌ててゾゾを蹴り飛ばした。

「見過ぎだ!」

「おやおや、痛いですね」

 単眼の上に強かに蹴りを食らったゾゾは、残念そうに引き下がった。

「痛くなかったし、ガラスの上は歩いてなかったんだから、傷なんて付いてないよ」

 紀乃は裾を直してから、素足を隠すように正座した。

「それはどうでもいいとして、私達の他に誰かいるの? あれ、どう見たって人間がぶつかった痕跡だし」

「いいえ、私達の他には誰もおりませんよ」

「嘘だぁー」

「嘘など吐くものですか。特に紀乃さんが相手では」

「でも、あれはどう見たって人間じゃん」

「忌部島に隔離されている時点で、私は当然として、皆、人間扱いされていないのです。ですので、誰かがいたとしても、 それを人間と称するのはそもそもの誤りなのです」

「でもさぁ」

 紀乃が食い下がろうとすると、ゾゾは一度瞬きした。

「私達の他には、この島には誰もいません。あまり深くお聞きになるようでしたら、その不安を紛らわすために私が今夜 一晩添い寝でもしてさしあげますが」

「それはやめて」

 紀乃が真顔で拒絶すると、ゾゾは冗談とも本気とも付かない口調で言った。

「おやおや、それは残念です。紀乃さんの生態を細密に調査する、良い機会だと思ったのですが」

 ゾゾは衛生室を出ると壊れた引き戸を玄関に運び、掃除用具入れからホウキとチリトリを持ってきて割れたガラスや 木片を片付けてから、使っていない教室の引き戸を外して運んできた。それを敷居に填め込んでから、警戒心を剥き出しに している紀乃に単眼を向けた。

「では、紀乃さん、おやすみなさい」

「おやすみ」

 紀乃は素っ気なく返してから、電灯を消してベッドに寝転がった。ラジオからはやけにテンションの高い深夜番組が 流れてきていたが、ボリュームを絞ってあるので寝入るには丁度良い囁きだった。リスナーからの馬鹿馬鹿しい 投稿を面白可笑しく読み上げるDJの声に時折笑いながら、紀乃はとろりとした眠気に引き摺られた。
 今度は、寝苦しくなかった。




 翌朝。いつものように朝風呂に入り、いつものように朝食を終えた。
 小松とミーコは早々に外に出てしまい、残されたのは紀乃とゾゾだけだった。質素だが手間の掛かった料理で 膨らんだ胃の重みによる安心感に浸りながら、紀乃は熱いドクダミ茶を傾けていた。付けっぱなしのテレビからは政財 界のニュースが流れていたが、何が何やらさっぱりだ。ゾゾは解らないでもないらしく、洗い物をしながら時折尻尾を 振っていた。番組の話題が政治から芸能のゴシップに変わった頃、ふと、紀乃はゾゾが洗う茶碗を数えてみた。
 釜や鍋を洗い終えたゾゾは、洗い桶に浸していた人数分の茶碗を洗っている。洗剤は使わずにヘチマを乾燥させ たスポンジを使っているが、油汚れも綺麗に落ちている。小松の茶碗、ミーコの茶碗、紀乃の茶碗、ゾゾの 茶碗、そしてもう一つ。あれ、と訝った紀乃は箸の数も数えてみたが、やはり一膳多い。

「どうかしましたか、紀乃さん」

 紀乃がじっと見過ぎていたせいで、ゾゾが振り返った。やはりエプロン姿は似合わない。

「ねえ、ゾゾ。一つ多くない?」

 紀乃がゾゾの手元を指すと、ゾゾは皿の水を切って洗いカゴに置いた。

「いえいえ、そんなことはありませんよ。たとえ、一人分の食器が多く見えても、それは気のせいです」

「やっぱり多いんじゃない」

「ですから、多いということ自体が気のせいなのです。これまで、私達以外の誰かが食卓に付いていたことが ありましたでしょうか? 思い出してもごらんなさい、私達の食卓は常にこの部屋ですよ。小松さんは体格の 都合上、外でミーコさんに食べさせてもらっていますが、その最中に誰かが部屋に入ってきたことがありましたか?  ありませんよね? ということで、私達の他にはこの島には誰もいないのです」

「否定されすぎると余計に怪しいんだけど」

「詮索は無用ですよ、紀乃さん。時間の無駄ですので」

「時間なんていくらでもあるじゃない。学校があるってわけでもないんだし」

「ですが、仕事はいくらでもあります。炊事洗濯掃除に野菜の収穫に魚釣りに仕込みに人類の生体改造研究に、と 私の日程は詰まりに詰まっています」

「でも私は自由だし」

「案外こだわりますね」

「ゾゾがおかしいんだよ。素直に誰かいるって認めればいいじゃない、そうすれば私もしつこくしないよ」

「いえ、それを認めるわけにはまいりません。認めてしまったら、それはそれは困ったことになりますので」

「たとえば?」

「ぬかみそが腐ります」

 真顔と思しき声色で言い放ったゾゾに、紀乃は言い返しかけたが飲み込んだ。これ以上押し問答を続けてもゾゾは 五人目の存在を認めないだろう。だが、そうまでして認めないのは妙だ。隠されれば隠されるほど気になってきたが、 ゾゾ以外の二人からは何も話を聞いていない。紀乃はドクダミ茶を飲み終え、立ち上がってスカートを払った。

「ごちそうさま、おいしかったよ」

「それはどうも」

 紀乃がゾゾの手元に空の湯飲みを渡すと、ゾゾは紀乃にぐいっと顔を近寄せた。

「よろしいですか、紀乃さん。誰がいようと、それは私達にはなんら関係のないことなのです。見つけることがあった としても、見つけなかったことにしなければいけないのです。いえ、そもそも見つけるという認識自体が存在して いないのです。ですから紀乃さん、何があろうと、何が見えようと、見なかったことにするのが高度な知的生命体の 努めなのです。解りましたか?」

「否定の否定は肯定なんだけど」

「その肯定を否定すれば否定は否定なのです」

「まあ、いいや。そこまで言うんなら、何がいようと見なかったことにする」

 紀乃は一歩身を引き、冷蔵庫から冷えたドクダミ茶が入った水筒を取り出した。

「私、これから散歩してくるね。お昼頃には帰ってくるから」

「ええ、どうぞどうぞ。きちんと日除けして、水分と塩分を欠かさないで下さいね」

「解ってるって」

 紀乃は居間兼食堂を出て衛生室に戻りながら、冷えた水筒を抱えて考え込んだ。ゾゾの言いたいことはなんとなく 解ってきたが、あそこまで見つけるなと言われれば見つけないわけにはいかなくなってきた。存在していないようで 存在している五人目を見つけるのが良くないことだとしても、一目見れば満足する。隠されているのが気に食わない だけであって、五人目がどんな輩なのか知りたいわけではないからだ。
 衛生室に戻った紀乃は、海岸沿いを散歩するために丁度良い服装に着替えることにした。セーラー服は日常では 支障はないが、歩き回るには不向きだ。初日にゾゾに連れられて山登りをした後、剥き出しの肌が雑草で切れていたり、 虫刺されも多かったからだ。こんな島では日に焼けるなと言う方が無理だが、焼けすぎては体に悪い。ジャージの 上下に着替え、ゾゾが何かの布を使って作ってくれた帽子を被り、水筒を入れたナップサックを背負った紀乃は、 引き戸を開けかけたが一旦振り返った。

「ん」

 すると、部屋の隅からまた物音がした。

「さあ、出発だあ」

 わざとらしく言った紀乃は引き戸を開けて廊下に半身を出したが、すぐさま振り返った。また、物音がした。

「あれえ、何か忘れたような気がするぅ」

 紀乃はびしゃんと強めに引き戸を閉めると、衛生室の中を歩き回り、窓を閉め、カーテンを引き、ベッドの掛布を 捲り上げ、中身が入っていない棚を無意味に揺らしたりしてから、音源の部屋の隅に向いた。じっと目を凝らして みるが、やはり何かがいる様子はない。が、紀乃以外の何者かが発しているらしい汗臭さがつんと鼻を突き、なぜか 脳裏に部活帰りの男子の姿が過ぎった。紀乃があからさまに顔をしかめると、ぎしっと板張りの壁が軋み、軋んだ 部分がうっすらと湿った。しばらく睨んでいると、湿った箇所の下には雨粒のような水滴が滴り落ちてきた。いっその こと触ってしまおうか、と紀乃は思ったが、姿も見えなければゾゾが頑なに存在を認めようともしない相手に不用意に 触れるのは良くない、と判断して身を引いた紀乃は、本当に忘れかけていたタオルを掴んで自室を出た。昇降口 から出る前に牽制の意味を込めて衛生室に振り返ってみるが、特に異変はない。

「気のせい……にしちゃあ生臭いんだよなぁ」

 独り言を漏らしながら、紀乃は歩き出した。とりあえず、小松とミーコにも話を聞いてみなければ。





 


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