月のない夜だった。 そんな夜だからこそ、部屋の明かりを消してしまいたくなる。数多の星々が普段以上によく見え、絶え間ない潮騒 と木々のざわめきに混じる虫の音色が涼やかだ。紀乃は自室の窓際にある机に腰掛けて、夜空に見入っていた。 東京にいた頃は、星空なんて気にしたことがなかった。街明かりが眩しすぎて、月明かりすら紛れてしまっていた。 だから、星を目にしても興味は湧かなかった。だが、この南洋の島では別だ。星が見えすぎるのでどれがどれやら さっぱりだが、心惹かれるようになっていた。最低限の知識として、夏の大三角と冬の大三角、北斗七星に北極星 ぐらいは知っているが、緯度が違うので見え方が違う。ゾゾに尋ねれば教えてくれるかもしれないが、何か癪だ。 「おやおや、紀乃さん」 すると、そのゾゾが窓の外から顔を出した。紀乃は面食らい、机から落ちかけた。 「ぞ、ゾゾ。てか、なんでいきなり」 「ヤシガニを捕まえに行きませんか、紀乃さん」 はいどうぞ、とゾゾから懐中電灯を手渡され、紀乃はきょとんとした。 「ヤシガニ? って、そんなカニがいるの?」 「ええ、おりますとも。名前はカニですがヤドカリの仲間でして、雑食性の陸生の甲殻類なのです。普段からその辺りを ウロウロしているのですが、こういった月のない夜こそ捕まえるのが簡単なのですよ。ですが、充分に気を付けて 下さいね。ヤシガニのハサミは強力なので、指を挟まれてしまっては簡単に切り落とされてしまいます」 「じゃあ、なんでゾゾだけで行かないの?」 紀乃が机から降りると、ゾゾは首を横に振った。 「一人きりで黙々とヤシガニを捕まえても、面白味も何もないではありませんか」 「そりゃそうかもしれないなぁ」 退屈凌ぎに丁度良いかも、と思い、紀乃は電灯を付けてカーテンを引き、セーラー服からジャージに着替えた。 「で、そのヤシガニっておいしいの?」 「ええ、それはもう。南洋諸島では昔から食されていますし、私も何度か調理しましたが、濃厚でした」 「んじゃ、明日の御飯だね、ヤシガニ」 紀乃は一通り着替え終わると、カーテンを引いて顔を出した。 「では、昇降口でお待ちしております」 ゾゾは一礼し、裏庭から去っていった。紀乃は電灯を消して窓を閉め、カーテンも引いてから、ゾゾから渡された 懐中電灯をナップザックに突っ込み、サイズが大きめな長靴を取り出した。元々は漁船で使われていたものらしく、 どことなく魚臭いが使うのに支障はない。恐らく、小松の工作の材料になっていた漁船が出所だろう。準備を終えた 紀乃が昇降口に向かうと、小松も来ていたが、ミーコだけがいなかった。 「あれ、小松さんも一緒に行くの?」 紀乃が人型多脚重機を指すと、小松は半球状の頭部をぐりんと回した。 「暇だからな」 「ミーコさんはおりませんが、どこかで奇行に興じているのでしょう。さあ、参りましょうか」 ゾゾは懐中電灯を付け、先に歩き出した。紀乃は彼の尻尾に続き、小松は上半身を一回転させて前後を変えて から二人の歩調に合わせた速度で六足歩行した。ゾゾが日々熱心に手入れをしている田畑と集落を通り過ぎて、 森に入ったが、木々の間隔が狭すぎたので小松は一歩入ったところで止まらざるを得なくなった。木を切り倒せば 入れないこともないのだが、そんなことをしてはヤシガニが逃げてしまう。慣れた足取りで森の奥深くへ向かうゾゾと 立ち往生している小松を紀乃が見比べていると、小松は右腕を軽く振った。 「いいから行け。俺はここで待っている」 「あ、うん。一杯取ってくるからね」 紀乃は小松に手を振り返してから、ゾゾを追った。懐中電灯で足元を照らすと雑草の海に一本の太い筋が付いて いて、ゾゾの尻尾の痕だと知った。その筋を辿っていくと、マングローブに囲まれている空間でゾゾが紀乃を待って いた。その手には早々にヤシガニが捉えられていたが、ヤシガニを直視した紀乃は声を潰した。 「……キモッ」 ゾゾの右手で甲羅を掴まれている甲殻類は、紀乃が想像するカニとは懸け離れていた。紀乃が思うカニとは、赤くて 八本足が生えた平べったい甲殻類で、いわゆるズワイガニである。だが、ヤシガニは外骨格が青黒く、小さな目と 触角が生えた顔はザリガニに似ている。八本の足の中でも特に大きな鋏脚はまるでペンチで、ゾゾの言う通り、 こんなものに挟まれたら紀乃の指なんて簡単に切り落とされそうだった。ゾゾが持ち上げているために裏返しに なっているヤシガニは、わしゃわしゃと脚を動かしてハサミを高く掲げて捕獲者を威嚇していた。 「そんなことを言ってはなりませんよ、紀乃さん。食べると結構いけるんですから」 絶滅危惧種ですけど、とゾゾが呟きながらカゴに入れたので、紀乃はオウム返しに言った。 「絶滅危惧種?」 「ええ、そうですよ。南洋諸島では大変なご馳走とされていたのですが、それ故に乱獲されてしまい、個体数が激減 しているのだそうです。もっとも、私達にはあまり関係のない話ではありますが」 「だったら、良くないことなんじゃ」 良心の呵責に苛まれた紀乃が眉を下げると、ゾゾはカゴの中で暴れるヤシガニを見下ろした。 「そうでしょうか? 私達はこの島に隔離されている身分なのですから、食べられるものは食べませんと」 「それはそうかもしれないけど、でも、なんかなぁ……」 紀乃が複雑な思いに駆られていると、森の外から小松のライトが激しく差し込んできた。強すぎるライトで一瞬視界を 失った紀乃とゾゾは、少し間を置いてからそれぞれの懐中電灯を向けた。鬱蒼と茂ったマングローブの枝葉の先 には、小松の巨大なシルエットともう一つの巨体が屹立していた。 「わあああああ!」 動揺した小松が森に突っ込んできたので、呆気なく何本もの木がへし折られた。紀乃が立ち尽くしていると、ゾゾが 素早く紀乃を抱えて跳ね上がった。たった一度の跳躍でマングローブの高さを優に超えたゾゾは、手近な枝に 着地して紀乃とヤシガニのカゴを抱える腕に力を込め、尻尾を幹に巻き付けて落下しないようにしてから、ゾゾは首を 突き出して目を凝らした。その視線の先では、小松が騒々しく暴れている。 「おやおや、あれは」 「え、何、何?」 紀乃はゾゾに倣って目を凝らすと、混乱しきった小松がぐるぐると回転させているライトが異物を僅かながら 照らし出した。物悲しささえある悲鳴を上げている小松に覆い被さってきたのは、ゾゾが捕まえたヤシガニの数百倍 はあろうかというヤシガニだった。ムチのようにしなるヒゲが小松の頭部を叩き、ペンチどころかパワーショベルの 油圧カッター並みのサイズのハサミで小松の足の一本をねじ曲げていた。 「痛、いだだだだっ!」 過電流のフィードバックで痛みを感じた小松が悶え苦しんでいると、巨大ヤシガニのが毛むくじゃらの口から糸状の 物体がつるりと垂れて地面に落ちた。それを見た紀乃が顔をしかめると、ゾゾは一度瞬きした。 「原因は、考えるまでもなさそうですね」 「きゃほはほははははははははははははははっ!」 そして、その原因が奇声を放ちながら森の奥から駆け出してきた。 「ミーコがミーコのミヤモトミヤコ!」 泥だらけ砂だらけのミーコは満足げに巨大ヤシガニを見上げると、会心の笑みを見せた。 「ヤシガニガニガニガニ!」 「やっぱりお前が原因かぁっ! ええいこんなもん、俺の溶接機で!」 痛みのあまりに頭に血が上った小松が右腕から溶接機を出して巨大ヤシガニに向けると、ミーコはむくれた。 「やだそれやだヤダダダダ!」 「じゃあ、とっととこいつを大人しくしろ!」 小松が音割れするほど声を張ると、ミーコはその音の大きさにびくっとして、仕方なさそうに命じた。 「ガニガニ、イイコイイコイコイコ」 途端に巨大ヤシガニは潮が引くように大人しくなり、小松の足からハサミを外して後退した。足を破壊される危機を 脱した小松は、ため息を吐くように蒸気混じりの排気を噴いた。紀乃とカゴを抱えたゾゾは身軽に跳躍して樹上から 飛び出すと、尻尾で木々の枝を弾いて落下軌道を調節してから、ミーコの背後に着地した。 「ここ数日、お姿を見かけないと思っていましたが、そんなことをして遊んでいたのですね」 「うっわデカ! ていうかデカさの分だけキモさ増大!」 巨大ヤシガニを真下から見上げた紀乃が目を丸めると、ミーコは自慢げに胸を張った。 「ガニガニ強い凄く強い強いヨイヨイヨイヨイ! それはそれはレハレハ、ガニガニでっかいからカラカラカラ!」 「小松さんよりも一回り大きいですし、胴体も丸めていますから、全長は七メートルないし八メートル……」 大味そうですね、とゾゾが若干ずれた感想を述べると、ミーコは巨大ヤシガニの足にしがみついた。 「ガニガニなんでも食べるベルベルベル。だからだからねダカラダカラ、本州本土襲う襲わせるセルセルセル!」 「なるほど。理に適っていますね」 ゾゾが納得すると、ダメージが回復してきた小松も単眼のようなメインカメラを向けてきた。 「安直だが、まあ悪くない」 「襲わせる……って、なんか特撮みたい」 紀乃が半笑いになると、ゾゾはもっともらしく頷いた。 「ええ、特撮の世界です。ワンダバですね」 「じゃあ、やっぱり正義の味方も出てくるわけ? 光の巨人とか仮面バイク乗りとか五色のアレとか」 「いえいえ、そんなに大したものは出てきません。せいぜい国防を担う兵器が出動する程度ですよ」 「なんだあ、つまんない」 紀乃が子供染みた不満を零すと、ゾゾは笑った。 「現実とは得てしてそんなものですよ、紀乃さん」 「だが、こいつをどうやって本土に上陸させるんだ? ヤシガニは泳げないんじゃなかったか?」 小松が巨大ヤシガニを小突くと、ゾゾは顎をさすった。 「それもそうですね。上手い方法を考えませんと、ワンダバ以前の問題ですね」 「じゃ、どうする?」 紀乃が三人を見回すと、ミーコは小松を指した。 「小松! 船! 船! 作れクレクレクレ!」 「おお、それはいい考えですね。エンジンでしたら様々な漁船からむしり取ったものがありますし、船体に必要な部品も 傷んでいないものを寄せ集めれば、巨大ヤシガニを輸送出来るものが出来上がることでしょう。では、小松さん」 ゾゾが小松に向くと、小松はメインカメラにカバーを半分被せた。 「勘弁してくれ。俺は船を造る技術は持っていない」 「それに、ここから本土までは丸一日は掛かるよ。その間、外に丸出しじゃ日射病で死ぬんじゃない?」 紀乃が巨大ヤシガニを指すと、ミーコは幼児のように頬を膨らませた。 「やだやだヤダダダダ! 本土! 上陸! させるセルセルセルセル!」 「困ったものですね」 ゾゾは尻尾の先で地面を叩きながらしばし考え込んだ後、人差し指を立てた。 「でしたら、こういうのはどうでしょうか」 ゾゾの提案に、皆、顔を見合わせてしまった。突拍子がなさすぎて意見することも出来ず、紀乃は得意げなゾゾを 見上げるしかなかった。ミーコは丹誠込めて育てた巨大ヤシガニに手を加えられるのが面白くないらしく、大人の腕で 一抱え以上はある足にしっかり抱き付いていた。小松は反対も賛成もしないつもりのようで、巨大ヤシガニに捻ら れて壊れかけた足を引き摺りながらその場から立ち去った。ゾゾはミーコに説得に掛かり始めたので、紀乃は一足 先に廃校に帰ることにした。ヤシガニを食べてみたい気持ちは本当だが、絶滅危惧種と聞いては気が引けてくる。 ヤシガニは紀乃や皆以上に理不尽な理由で追い詰められているのだから、ちょっと好奇心に駆られたというだけで 希少な一匹の命を奪うのは良くない。と、そこまで考えて、巨大ヤシガニが本土を襲うのはいいのだろうか。この島は 小笠原諸島南洋で、海を北上すれば東京だ。紀乃は胸中に罪悪感が募ったが、自分のやることじゃない、ミーコ さんがやることなんだから、と罪悪感を振り払い、そのうちに駆け足になった。 まだまだ、開き直りきれていないようだ。 10 6/7 |