南海インベーダーズ




絶対的少女兵器戦線



 草木も眠る丑三つ時。
 足跡が残らないように波打ち際を歩きながら、忌部次郎は回収地点に向かっていた。インベーダーらは寝静まり、 騒がしいのは海ぐらいなものだ。辺りが暗いと、ただでさえ朧な輪郭は見事に闇に溶ける。隠密行動にはもってこい だが、回収される時には恐ろしく見つけづらい。忌部の姿を肉眼で見つけることが出来る人間がいるとするならば、 それは余程の視力の持ち主だろう。忌部を回収してくれる彼女の目は人工衛星であり、超小型偵察機であり、無人機に 搭載された高感度カメラだ。彼女に掛かれば、一分と立たずに忌部の居所を見つけ出してくれる。それが嬉しくも ある一方で、その人間離れぶりが恐ろしくもあった。
 弱々しい月明かりを吸い込んでほのかに光る珊瑚礁の砂浜を進み、岩場の前で立ち止まる。忌部は北側に目を 凝らしていると、夜の闇に紛れる塗装を施された機体が接近しつつあった。忌部は岩場によじ登って、その機影に 向けて見えないであろう手を振った。すると、正面から見ると平べったい機影は翼を左右に振り、合図を送り返して きてくれた。数分と立たずに接近した機影は、甲高いエンジン音と猛烈な機械熱を放ちながら降下し、海面に円形の 細かな波紋を広げながら静かに着水した。忌部は岩場から降りて浅瀬を泳ぎ、操縦席がないためにのっぺりとした ノーズの回収機のハッチを開け、機内に体を滑り込ませた。びしゃびしゃと海水を滴らせながら、配線と計器で狭苦しい 空間に体を収めた。すると、暗闇の中で液晶画面が発光している通信機から少女の声が上がった。

『つかてめぇ、そんなんで乗ってくんじゃねーし! 機材が錆びるし湿気で傷んじまうんだよ!』

「仕方ないだろう、泳がなきゃ乗れないんだから。せめてタオルなりなんなり用意しておいてくれ」

『てか、世界最強美少女のあたしが見苦しすぎる弛んだ体を曝すような男に気を配るわけがねーし』

「服を着るぐらいなら、俺は潔く死ぬ」

 見えないのをいいことに濡れた髪を掻き上げた忌部に、通信機から不愉快げなブザー音が響いた。

『うぇー……』

「なんでもいいから、発進してくれ。行き先はいつも通りだな?」

『てか、他に行く場所もねーし?』

 少女の今一つやる気のない言葉が終わると、回収機のエンジンに再び熱が入り、海面から浮上させた後に旋回し、 目的地に向けて発進した。窓がないのでその代わりとして外の様子を映し出しているモニターを見下ろし、忌部 は忌部島の全体を目にした。火山、森、集落、畑、灯台、砂浜。一見すれば、本州から遠く離れた離島で地元民が 慎ましく暮らしているようだが、その実は人類に危機をもたらしかねない輩が隔離されている。忌部も住民の一人では あるが、あの四人とは根本的な意味が違う。国家の安全に尽力する現場調査官であり、インベーダー達を監視する という重大な任務を背負っている。その割に危機感が薄くなりがちなのは、彼らに流されかけているせいだ。
 報告と休息を終えたら、気持ちを引き締め直さなければ。




 数時間のフライトを終えた回収機は、滑走路に荒々しくランディングした。
 戦闘機でももう少し優しく降りるだろうに、とは思うが、文句は言えない立場だ。忌部はモニターにぶつけかけた頭 をさすり、海水と汗が混じった液体が広がる床から腰を上げた。エンジン熱だけでなく機械熱が充満している機内は、 サウナも顔負けの蒸し風呂だった。元々は偵察用である無人機を忌部一人が乗れるように改造しただけであり、 人を乗せて運ぶための飛行機ではないのだから贅沢は言えないが、もう少し改善してくれと毎度ながら思う。
 ハッチのロックを解除して機体から這い出した忌部は、全身に吹き付けた潮風の強さに顔をしかめた。忌部の 周囲には回収機の整備要員達が待ち構えていたが、彼らは忌部には一切構わず回収機の冷却と清掃に取り掛かり 始めた。相変わらず俺の扱いは悪いな、とは思うが口には出さずに、忌部は汗ばんだ足跡を連ねながら滑走路に 併設しているメンテナンスドッグから基地内に入ると、罵声が飛んできた。

「うっわ海水と汗臭ぁっ! ついでにオッサン臭ぁっ!」

 遠慮もなければ躊躇もない文句を吐いたのは各種センサーと連動したゴーグルを被った少女で、服装はいわゆる ゴスパンクである。真紅のブラウスの上にビスが付いた黒いレザーのベスト、赤と黒のチェックのプリーツスカートは 黒のレースのパニエで膨らんでいて、足には黒と白の横ストライプのニーソックスと革製の編み上げブーツを履いて いた。ツインテールの髪にも、服装に合った赤のメッシュが入っている。その身は高性能な万能車椅子に収まって いて、車輪はどんな段差も乗り越えられる万能キャタピラであり、車椅子の後方には武器を兼ねたロボットアームが 何本も折り畳まれていた。少女はロボットアームを動かしてゴーグルをずらして目を出したが、またゴーグルを 掛けてサーモグラフィーで忌部の存在を確かめた。

「なんでもいいから、とっととシャワー浴びてきてくんね? てか、服着ろよ。お前の汚ねーモンなんて見たくねー」

「見られるのなら存分に見てくれても構わないんだが」

 忌部が半ば本気で言い返すと、少女は万能車椅子を反転させて発進した。

「金払われたって見やしねーよんなもん!」

 艶が出るほどワックスが掛けられた床に無遠慮なキャタピラ痕を残しながら、少女は忌部の視界から姿を消した。 ほのかに残る機械熱と少女が付けていた化粧品の匂いが混じった空気を吸ってから、忌部は嘆息した。言動だけ を見れば、彼女は全身不随だとは思えない。脳改造手術の後遺症で首から下の神経系統が麻痺しているだけで、 その他は至って健康だからだ。おまけに、物質社会に浸かり切った筋金入りの現代っ子だ。彼女の名は識別名称・ 甲型生体兵器伊号、通称イッチーである。
 忌部はいい加減に自分の部屋に帰ろうと、男子寄宿舎に繋がる渡り廊下に向かった。温室のようなガラス張り の渡り廊下は正に温室で、直射日光がある分、回収機内よりも強烈な暑さが肌を刺した。空調のおかげで汗の大半が 乾いたのだが、また吹き出してきた。忌部は格好悪いと思いつつも熱々の床をつま先立ちになって歩いていると、 いきなり背中から蹴りを入れられた。背骨と骨盤に綺麗にめり込んだ靴底は硬く、ヒールが鋭く尖っていた。

「邪魔だ」

 つんのめった忌部が振り返ると、声の主であるゴーグルとヘッドホンを被った少女が足を振り上げていた。

「今度は呂号か」

 忌部は背中をさすりながら少女と向き直ったが、少女は忌部には目線を向けなかった。それもそのはず、彼女は 病気で光を失っているからだ。身長は忌部の腰よりも少し上程度で、世間一般の少女に比べればいくらか発育 は遅れている。にもかかわらず、その服装は大人ぶったヘヴィメタルファッションだった。
 視力を失っても僅かながら光を感知出来るので、光を増幅する機能を持ったゴーグルはダークグレーのメタリックで、 髪型は切り口が一直線のボブカットで、レザージャケットには安全ピンがじゃらじゃら付いている。ダメージ加工を 施されたタンクトップではドクロが英語で呪詛を吐き、血飛沫が散っている。幼い肢体には不釣り合いなレザーの ホットパンツの下にはこれもまた不釣り合いな網タイツを履き、今し方忌部を蹴ったのはピンヒールのロングブーツだ。 当然のように、腰には太くて邪魔そうなチェーンベルトが巻き付けられ、動くたびに金属音を立てていた。
 彼女の名は識別名称・甲型生体兵器呂号であり、通称ロッキーだ。愛称が付いたばかりの頃は、ロックとメタルの 区別も付かないのか素人め、と散々罵倒された。だが、趣味の割に性格は内に籠もりがちで、任務の時でさえも やる気がない時も多い。おまけに口数が少ないものだから、何を考えているのか解らない。ちなみに十五歳である。
 呂号は少女が使うにはごついヘッドフォンを被り直し、ヒールを鳴らしながら忌部の傍を通り過ぎた。進行方向は 男子寄宿舎だぞ、と忌部は言いかけたが、そんなことを言ってまた蹴られては面倒だと思い直し、忌部は今度こそ 自室に戻ろうと足を速めた。呂号の特徴的な足音は階段を昇っていったので、恐らく、男子寄宿舎の屋上に昇る つもりなのだろう。基地内では雑音が入るからと、人気のない場所に行くのは彼女の常だ。
 忌部はほぼ一ヶ月ぶりに帰ってきた部屋の電子ロックに暗証番号を入力し、解除してドアを開けると、同室の男が PSPのゲーム画面から目を離さずに声を掛けてきた。

「おー、お帰りっすー」

「俺の居所が解るんなら、もうちょっとまともに出迎えてくれないか?」

 忌部が顔をしかめると、男は銀色の外装に覆われた手を上向けた。

「丁度良いところだったんすよ、マジでマジで。だから、ポーズするのも惜しかったんすよねー」

「伊号には罵倒される、呂号には蹴られる、散々だ」

「いつものことじゃないっすか。てか、あの子らが俺達に懐いた試しがあるっすか?」

「ないな」

 考えるまでもないことだったので忌部が即答すると、紺色の作業着姿の男は肩を揺すって笑った。

「俺はともかく、忌部さんはあの子らと似たようなモノなんすけどねぇ」

 あ、服はベッドに出しておくっすから、と男がマスクフェイスの顔を向けてきたので、バスルームに入りかけた忌部は 不本意ながらも返事をした。

「ああ。お前らの前はともかく、上司を相手に何も着ないんじゃまずいからな」

「その常識的な感覚が、どうしていっつも発動しないんすかねー。マジ不可解っす」

 そう言いつつ、フルサイボーグの男はゲームに戻った。大きな背中を丸めて小さな画面を睨んでボタンを押している 様だけを見れば、どこにでもいる青年である。実際、中身はそうなのだろうが外見が人間離れしている。顔という ものはなく、横長のグリーンのゴーグルに両側頭部のアンテナに角張ったマスクが付いた頭で、その中には人工 髄液に浸った脳が浮かんでいる。首から下は屈強な体格でいかにも戦闘向きだが、本人の戦闘センスが欠片も ないので、忌部のように現場に回されてはいない。
 彼の名は山吹丈二といい、二十九歳の現場監督官である。山吹は忌部と甲型生体兵器の少女達の戦闘部隊の 監督権と指揮権を持っているが、彼の性格がフランクすぎて上司だという意識が薄れてしまう。それ自体は悪いこと ではないのだが、へらへらしすぎているせいで少女達にすっかり舐められてしまい、今となっては山吹は少女達から 完全に見下されている。けれど、山吹はそんな事態ですらもへらへらしているので、始末に負えない男である。
 ユニットバスでシャワーを浴び、丹念に体を洗った忌部は、ぼやけた鏡に映る水滴の輪郭が出来た自分を横目に 見つつ水気を拭いてバスルームを出た。山吹はまだゲームに熱中していたが、先刻通りに忌部の制服一式に糊が 効いたワイシャツに下着に靴下に包帯に、と、まるで良く出来た人生の伴侶のように、忌部のベッドの上に揃えて いてくれた。山吹の心遣いは嬉しいと言えば嬉しいのだが、ここまで準備が良いと裏があるとしか思えない。

「山吹、俺に何か聞きたいことでもあるのか?」

 透明人間のお約束として頭や両腕に包帯を巻き付けながら忌部が問うと、山吹はゲームをセーブしてから電源を 落とした。胡座を掻いたままではあったが身を反転させて忌部を見上げ、山吹はやや声を落とした。

「話が早くて何よりっすよ。乙型一号のことっすよ」

「それについては、後で報告書を上げる」

「その前に、俺達の間でちょっと話を詰めておいた方がいいと思うんすけどね」

 胡座を解いて立ち上がった山吹は、内蔵無線機を操作して半径十メートル程度の簡易ジャミングを掛けた。

「あの子らはともかく、俺が知らないとでも思ってるんすかね? そりゃ、イッチーには足元にも及ばないっすけど、 俺だって衛星を経由して情報を掴めるんすよ、情報を。上に提出しなかった衛星写真を何枚か印刷しておいた んすけど、めっちゃややこしいことになってるじゃないっすか」

 山吹は自分の机の引き出しを開け、その奥に隠してあった強化合金製の箱の電子ロックを解除すると、四つ折りに された写真を三枚取り出して忌部に渡してきた。包帯を隈無く巻いた指で写真を受け取り、忌部は声を潰した。

「うっ」

 そこには、廃校でゾゾらと暮らす紀乃がくっきりと映っていた。表情まで見えるほど鮮明で、笑顔が眩しかった。

「乙型一号、てか、紀乃ちゃんが配置の名目で島流しされたのは、二週間前のことっすよね。それから忌部さんは ずっと廃校の近辺を張っていたっすけど、ゾゾに無線のバッテリーを奪われたせいで定期連絡がなくなった時期が あったっすよね? その時に俺達の方でも状況を把握しようってことで、伊号のネットワークをちょっとだけ借りて俺が 監視衛星に直接接続してみたんすけど……」

 山吹は気まずげに声を落とし、高解像度の写真に写る笑顔の紀乃を指した。

「これ、めっちゃまずくないっすか?」

「否定は出来ない」

「じゃ、なんで放置したんすか? 紀乃ちゃんがゾゾなんかに接触したら、懐柔されるってことぐらいは想像が付いた はずじゃないっすか。その前に阻止しなかったんすか、阻止。現場調査官なのに」

「いや、それが」

「ちゃーんと報告してくれないと、俺も判断出来ないっすよ、判断」

 こういう時だけ管理職らしくなる山吹に忌部は若干苛ついたが、正直に答えることにした。

「乙型一号の超能力は未完成だ。だから、無用な不安を煽って乙型一号の超能力を暴発させてしまうよりも、現状を 維持した後にまた我らの元に戻せばいいのではないかと踏んで」

「ウチらとしちゃ、その暴発狙いだったんすけどねぇ、暴発ー」

 山吹は自分のベッドに腰を下ろし、乗用車を持ち上げられるほどのパワーに応じた太さの腕を組んだ。

「てか、ぶっちゃけ、紀乃ちゃんの使い道って生きた手榴弾程度なんすよね。臨床試験結果からすると、紀乃ちゃんは 命の危機レベルのとんでもないピンチだったり、とにかく恐怖に曝されたり、心底ビビった時にどかんと一発出る だけであって、実戦用としちゃダメダメなんすよね。だから、上の狙いじゃ、紀乃ちゃんをゾゾ達の懐に入れた時に 三人のうちの誰かが紀乃ちゃんを殺そうとするから、その時に自爆してもらうってことだったんすけど……」

「だが、見当外れだ。連中は乙型一号を殺すどころか、生かしている。しかも可愛がっている」

「その気持ちは解らないでもないっすね。紀乃ちゃん、可愛いし。むーちゃんには負けるっすけど」

「それはどうでもいいとして、俺の判断は正しかったのか?」

 スラックスを履いてベルトを締めた忌部がやや俯くと、山吹はごりごりとマスクを擦った。

「人道的には正しいかもしれないっすけど、組織的にはマジヤバっすね。てか、十五歳の女の子を爆弾代わりにした ぐらいでどうこう出来るような相手だったら、俺達も苦労してないっすよ、苦労」

「で、お前は、俺の情報をどうするつもりだ」

「誤魔化せる範囲で誤魔化すっすよ。俺としても、紀乃ちゃんには元気でいてほしいっすからね」

 山吹から笑みを返され、忌部は頬を歪めたので顔に巻いた包帯が擦れた。

「お前は管理職としては最低だな」

「忌部さんこそ。現場の人間としちゃ最悪の判断をしたんすから、おあいこっすよ」

 さて俺も、と山吹が自分のタンスを開けて制服一式を取り出すと、ドアがノックされた。忌部が投げやりに挨拶を すると、声紋認証でドアの電子ロックが開き、紺色の制服姿の女性が入ってきた。

「山吹監督官、忌部調査官、局長がお呼びです」

「了解っすー。ありがとう、むーちゃん」

 階級章が付いたジャケットに袖を通しながら山吹が礼を言うと、彼女はつかつかと歩み寄り、山吹の首にネクタイを 巻き付けて手早く結び、満足げに目を細めた。

「完成。丈二君、格好良い」

「はいはい、どうも」

 山吹はにやけた声で言いつつ、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。忌部は二人のやり取りに、多少の嫉妬を感じた。 日本人離れした赤茶色のロングヘアに遠目では中高生と見紛う小柄さと整った容貌の彼女は、現場管理官補佐で ある田村秋葉である。山吹の幼馴染みであり、そして恋人でもある秋葉は、三人の少女達の世話係も務めているが、 振り回されてばかりだ。それでも、秋葉はめげずに奮闘している。山吹と接する時以外は呂号を上回る無表情なので、 傍からでは苦労や辛さが掴めないせいでもあるが。

「むーちゃん……」

 半開きにしていたドアの隙間から、少女が覗いてきた。

「はい、なあに」

 秋葉が振り向くと、小柄で細身の少女は包帯まみれの忌部に怯えた視線を向けた。

「その人、誰?」

「思い出せる。だから、思い出してみて」

 秋葉が膝を曲げて少女と視線を合わせると、少女はシャツワンピースの裾を握り締めた。その目にはヘッドギアと 一体化したゴーグルが掛けられていて、特殊加工された薄いグレーの強化パネルが填っていた。服装はあの二人に 比べればかなりシンプルで、ピンクの花柄のシャツワンピースに黒のレギンスにスニーカーという、どこにでもいる 子供の服装だった。腰辺りまで伸びた黒髪は秋葉の手で手入れされていて、色艶が良い。
 彼女の名は、識別名称・甲型生体兵器波号であり、通称はーちゃんだ。ゴーグルを掛けさせられている理由は、 対象物を目視するとその記憶や経験までも模倣出来る変身能力を持ち合わせているため、任務でもないのに変身 されては厄介だし、変身を繰り返すとただでさえダメージが蓄積している波号の脳に過負荷が掛かり、記憶どころか 自我も知識も消滅してしまう可能性が高いからである。三人の少女は、皆、その能力に対する弊害が大きい。

「ん……」

 波号は秋葉の顔と忌部を見比べていたが、頭痛を堪えるように眉根を顰めた。手汗がシャツワンピースに滲むほど 強く握り締めて長い間黙り込んでいたが、ゴーグルの下で目を彷徨わせてから忌部に据えた。

「忌部、さん?」

「そう、忌部次郎現場調査官。良かったね、はーちゃん。きちんと思い出せて」

 秋葉が波号を褒めると、波号は小さく頷いた。

「うん、ありがとう、むーちゃん。良かった、私の頭、まだ空っぽじゃなかった」

 波号は警戒心を解き、包帯男と化した忌部に笑顔を向けてきた。忌部は包帯越しなので解りづらかろうと思ったが、 とりあえず笑顔を返した。波号は知っている人だと言うことを思い出したら、他の記憶も蘇ってきたのか、部屋に 入ってきて忌部に近付いてきた。忌部は秋葉に倣って腰を落とし、波号と目線を合わせると、波号はゴーグルの下 で目を瞬かせてから忌部を見つめてきた。伊号と呂号に比べれば好意的ではあるが、本心からではない。波号は 自分が気を許している理由を思い出し切れていないから、笑顔ではあるが不安が滲み出ている。

「さあて、とりあえず出るとこ出てくるっすかねぇ」

 制服に身を固めた山吹が歩き出すと、秋葉もそれを追った。

「じゃあ、私も」

「わっ、待ってよお」

 波号は転びそうになりながら、秋葉を追ってその裾を掴んだ。忌部は最後に部屋を出て電子ロックを掛けてから、 一ヶ月の間に起きた出来事を矢継ぎ早に話してくる山吹を適当にあしらいつつ、四人揃ってエレベーターに乗った。 局長室は最上階にあり、到着までには多少時間が掛かる。その間に整えきれなかったネクタイと襟を正し、裾を直し、 久々に着た服の重たさと煩わしさに気持ち悪さが込み上がってきたが、社会人の体面で我慢した。忌部島で肌を 思う存分に曝して暮らしているのは、やはり気持ち良すぎる。今すぐ服を全て脱ぎ捨ててしまいたい、といつもの ように込み上がってくる性的衝動を堪えながら、最上階に到着したエレベーターを降りた。
 そして、局長室のドアをノックした。





 


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