南海インベーダーズ




椰子蟹上陸作戦



 その日は、満月が眩しい夜だった。
 紀乃は、岩石を組み合わせて造ったドーム状の巣の中で餌を食べ漁るガニガニを見つめていた。小松が造った 巣はなかなかの出来映えで、ガニガニがどう動こうとも巨大な甲羅が引っ掛かりづらい作りになっていた。だから、 ガニガニは紀乃の手助けがなくとも餌を食べられるようになり、紀乃の仕事はガニガニの餌を運ぶだけだった。もち ろん、話し相手にはなってくれたし、ガニガニを連れて散歩に出ていたが、紀乃の手を必要としなくなったのが一番 寂しかった。自分がいなければダメなんだ、と思えていたからだ。だが、そうではないのだ。ガニガニは本を正せば 野生動物なのだし、紀乃の手を借りて生きるのは不自然だ。巨大化した時点で既に不自然ではあるのだが。
 夜気と相まって冷ややかな月光を帯びている岩石の巣は、いびつながら均整の取れた芸術作品に見えた。 ガニガニは外骨格を擦り合わせながら、地面に這いつくばり、パイナップルに似たアダンの実を囓っていた。

「ガニガニ」

 紀乃が声を掛けると、ガニガニはヒゲの片方を上げた。

「なんでもない」

 今日の夕食の食卓で、ゾゾはガニガニを更なる進化に導く寄生虫が完成したと言った。ミーコはといえば、完全に ガニガニから興味を失っているらしく、小松に夕食を食べさせているだけだった。小松も小松で、ガニガニには何の 感心も示さず、巣を作ってからは清々しいほど無視していた。ゾゾもまた、ガニガニを野生動物ではなく生体改造の 実験台としてしか見ていないようだった。それを見ていると、嫌に胸が痛んだ。

「あんたも、ちょっと前までは普通のヤシガニだったんだよね?」

 紀乃が鋏脚に触れると、ガニガニは触角を向けてきた。

「ミーコさんの寄生虫のせいで、ちょっと大きくなっちゃっただけなんだよね?」

 暗がりの中でほのかに青い光を撥ねている丸い複眼が、紀乃を見つめ返していた。

「それだけなのに、どうして他の皆はガニガニを大事にしようとしないんだろうね?」

 そう、たったそれだけだ。ガニガニに自分を重ねずにはいられなくなった紀乃は、島に来た日以来、押さえていた 涙が出そうになった。岩のように硬いが生物の滑らかさを持った外骨格に手を滑らせていると、ガニガニのヒゲが 内側に動かされて紀乃を囲むような形になった。その優しさが嬉しくて、紀乃は自然と気持ちが緩んだ。

「おやおや、紀乃さん」

 背後から聞こえた声に、紀乃は不意打ちを食らって後退り、ガニガニの顔にぶつかった。

「ぞ、ゾゾ」

「これはこれは、御邪魔してしまったようですね」

 青白い逆光の中に立つゾゾは、円筒の保存容器を持っていた。その中では、活きのいい寄生虫が白く細い肢体 をくねらせていた。ゾゾは砂利を踏みながら、紀乃とガニガニに近付いてきた。

「ですが、紀乃さん。ガニガニは有効活用しなければなりません。せっかくの即戦力なのですから」

「でも……」

 紀乃が渋ると、ガニガニはがちんと顎を打ち鳴らした。

「私達には怠惰な日常こそ許されておりますが、そこから先はないのですよ、紀乃さん」

 ゾゾは液体に浸った寄生虫を掲げ、厚い瞼を細めた。

「何かしらの打開策を見出さなければ、緩やかに滅びていくだけなのですよ。そんなことが許せますか、許せません でしょう。私もですが、紀乃さんや皆さんは進化の最中にいるのです。それなのに、人類は価値を見出すどころか、 些細な理由で我々を迫害しております。具体的な行動を取らなければ、我々の立場はいつまでもおかしな生き物の 域を出ません。そんなことが続いては、いくら温厚な私と言えども強攻策に打って出たくなるというものです」

「だけど、ガニガニじゃなきゃいけない理由なんて」

「いくらでもありますとも、紀乃さん」

 ゾゾは一歩紀乃に近付いてきたので、紀乃は一歩後退って両腕を広げ、ガニガニを庇った。

「ガニガニは生き物じゃない」

「生き物だからですよ、紀乃さん。本来は人畜無害なヤシガニであろうとも、私達に掛かればワンダバな巨大怪獣に 進化してしまうのです。空想の世界に過ぎない存在を目の当たりにした人類の動揺振りを見てみたくてたまらないの です。ですが、ガニガニさんを使った作戦は発端に過ぎません。動揺が収まらぬうちに、畳み掛けてしまうのです」

 ゾゾの語気は上擦り、力も籠もっていた。

「それなのに何ですか、紀乃さんは。人類に絶望したから、私達に付いたのではなかったのですか? それなのに、 なぜ人類への攻撃を躊躇うのですか? それとも、ガニガニさんが可愛くなってしまったのですか?」

「……うん」

 ゾゾに気圧されながらも紀乃が頷くと、ゾゾは目を丸めた。

「おやおや、そうですか。でしたら、もっと早くに言って下さればよろしかったのに」

「え」

 ゾゾのリアクションの軽さに紀乃も目を丸めると、ガニガニもぎしりと顎を開いた。ぽかんと口を開けたのだろう。

「ですが、そこまで言うのなら、きっちり最後まで御世話をするんですよ。それが飼い主の義務なんですからね」

 保存容器を脇に抱えたゾゾは、紀乃とガニガニを見据えた。

「そうと決まれば、今度はガニガニさんの成長因子をセーブするための寄生虫を造らなければなりませんね。ガニガニさんの 体内にはミーコさんの寄生虫がまだ数匹残っているのですし、ガニガニさんは成体とはいえ、どんな作用が 出るかどうかも解りません。もしかしたら、今以上に巨大化してしまうかもしれません。そうなってしまえば、いくら 私達でも手に負えなくなってしまいますからね」

「ありがとう、ゾゾ!」

 紀乃が喜ぶと、ゾゾは尻尾をゆったりと振った。

「いえいえ。紀乃さんに喜んで頂けて何よりです」

「良かったね、ガニガニ!」

 紀乃がガニガニに振り向くと、ガニガニはヒゲとハサミを高く上げた。

「せっかくだから、お散歩に行こうか。いいよね、ゾゾ?」

「ええ、どうぞどうぞ」

「じゃ、ガニガニ、よろしくね」

 紀乃はガニガニに笑みを向けると、ガニガニは鋏脚を下げた。紀乃は鋏脚の上によじ登ると、ガニガニは鋏脚を 甲羅に近付けた。紀乃はガニガニの甲羅に飛び移り、縦長の頭よりも少し後ろに腰を下ろした。紀乃の重みと位置を 確かめたガニガニは、腹部を持ち上げてから六本足を伸ばして巣から這い出した。ゾゾに手を振ってから、紀乃 は波が静かに打ち寄せる海岸線を示した。ガニガニは紀乃の意図を察してくれ、小松よりもいくらか小さい足跡を 付けながら下り坂を下りて集落に入っていった。
 高い視点で見ると、世界はとても晴れやかだ。紀乃はぐっと冷え込んだ潮風を浴びながら、ガニガニの硬い甲羅を 撫でてやった。ガニガニは複眼なので、自分の頭の後ろにいる紀乃の動作も見えているのか、撫でるたびにヒゲを 誇らしげに振り回していた。畑の間を通り抜けて海岸に降りると、真っ白な砂浜が待ち受けていた。新月の夜よりは 多少見えづらいが、今夜も星々は光り輝いている。砂浜を歩くガニガニに揺られながら、紀乃は呟いた。

「綺麗だねぇ」

 かちかちかち、とガニガニは大顎と小顎を交互に鳴らした。顎の力が弱い時は同意を示している。

「でも、どうしてゾゾはあんなに簡単に許してくれたのかな。ちょっと不思議だよね」

 かちかち。

「だけど、そんなことはどうでもいいか」

 かちかち。

「うん、どうでもいいよね」

 紀乃が頷き返すと、ガニガニの歩調は一層緩やかになった。巨体が上下するたびに足の外骨格が擦れて鳴り、 砂が吸収しきれなかった震動が紀乃の小柄な体を揺さぶった。あまり長時間乗っていると、車酔いならぬガニガニ 酔いになってしまうので気を付けなければならない。北側の水平線に視線を投げた紀乃は、潮風による眼球の乾燥 とは異なる意味で涙が滲みかけたが、ガニガニの甲羅の上に横たわって誤魔化した。
 ガニガニを行かせたくなかったのは、ガニガニのことが好きになったから、だけではない。ガニガニに羽が生えた ら、ガニガニは紀乃が帰りたくてたまらない東京に行けてしまう。途中で変異体管理局に邪魔されてしまうだろうが、 頑丈な体を持つガニガニなら辿り着ける。それが羨ましくも妬ましいから、ひどい我が侭を言った。
 自分の超能力が上手く扱えたら、空でも何でも飛んでやるのに。紀乃は決して手の届かない星々に手を伸ばし、 月を隠すように手のひらを傾けた。指の間から降り注ぐ月光は、日光よりも優しい肌触りだった。
 日陰者だから、だろう。




 空っぽの巣を横目に、ゾゾはドクダミ茶を啜っていた。
 向かい側には、変異体管理局現場監察官である透明人間、忌部次郎が黙々と夕食を消化していた。皮膚も 筋肉も内臓も骨も透き通っているので、忌部が食べている様を見るのはあまり気持ちの良いものではないが、人間 という生命体の研究には打って付けなので見ずにいられなかった。居間兼食堂の教室には、二人きりの気まずさを 紛らわすためのテレビが付けっぱなしになっていたが、二人とも画面をろくに見ていなかった。

「全く」

 忌部は豚肉とパパイヤの炒め物を食べ終え、少し冷めたドクダミ茶を啜った。

「何がでしょうか」

 ゾゾが忌部に視線も向けずに返すと、忌部はハリセンボンの味噌汁に手を付けた。

「お前は乙型一号にいい顔をしすぎなんだ。あんなのをミーコに次々に作られてみろ、大事になる」

「それがどうかいたしましたか」

 ゾゾは湯飲みを置き、主のいない巣を見やった。

「紀乃さんが喜んで下さるのなら、何がどうなろうと関係ありません」

「正気か?」

「ええ、もちろんですとも。私は正気以外の何者でもありませんよ、忌部さん」

 ゾゾは急須を傾けてドクダミ茶のお代わりを湯飲みに注ぎ、口を付けた。

「全く」

 同じ言葉を繰り返してから、忌部は魚の味が染み出した味噌汁を味わいながら嚥下した。ゾゾの真意が解らない のは今に始まったことではないが、単純に斎子紀乃に好意を抱いているとは思えない。ミーコの寄生虫のせいで 巨大化したヤシガニにしても、生かしておくだけの利用価値があるからだろう。ガニガニの本土上陸作戦は、紀乃の 我が侭で頓挫したのは喜ばしいがそれだけでは終わらない気がしてならない。

「ところで、忌部さん」

 ゾゾは忌部に振り向き、にんまりした。

「明日は伊号さんが操る回収機が島に参りますが、変異体管理局への報告は是非とも甘ぁくなさって下さいね。 私達を泳がせておけば、その分、あなた自身の立場も安定すること請け合いですので。可もなく不可もありませんが、 現状維持が可能な能力の持ち主だという評価が下ることでしょう。ですが、紀乃さんがあなた方を裏切って私達の 側に付いたことを報告するのはよろしくないでしょう」

「人の立場なんて心配出来る立場か? 俺がお前らの行動を逐一報告すれば、すぐにでも総攻撃が」

「この島に配属されたその日に服務規定違反を犯して私に接触し、元の姿に戻してくれと懇願したことを忘れたとは 言わせませんよ、忌部さん?」

 ゾゾは糸のように瞼を細めたが、忌部を捉える視線は硬かった。

「都合の良いことを。お前が俺を元に戻してくれるのなら、俺もそっち側に行かざるを得なくなるが、お前は俺に何も しようとしない。だから、俺はお前らの味方にはならないし、なれないんだよ」

 忌部は椅子を引き、ゾゾと距離を置いた。

「いい歳こいたオッサンの露出狂なんかに味方されても、嬉しくもなんともありませんけどねぇ」

 ああ嫌ですねぇ、とゾゾが頬を押さえたので、忌部は言い返す気も失せた。ゾゾの言う通りではあるのだが、忌部 はゾゾよりはまともだと常々思っている。忌部は誰にも迷惑を掛けていない自信もあるし、何より見られていない。 出来ることなら他人に見てもらった方が気持ちいいのは確かだが、そこまで贅沢は言えないので、そこは妥協して いる。だが、ゾゾは違う。異種族である紀乃に並々ならぬ執着を抱いたばかりか、スカートまで捲っている。立場を 逆にして考えれば、人間がトカゲをひっくり返して欲情しているようなものだ。

「さあて、紀乃さんが戻ってきたらお風呂に入れるようにしておきませんとね」

 食器は御自分で片付けて下さいね、と冷たく言い放ってから、ゾゾは自分の湯飲みを運んでいった。

「覗くなよ」

 忌部が釘を刺すと、ゾゾは忌部をきつく睨んだ。

「あなたこそ」

 言い終えるが早く、ゾゾは自分の湯飲みを洗い終えて勝手口から外に出ていった。その足取りは軽く、見るからに うきうきしている。その様が尚のこと気色悪さを掻き立ててきて、忌部は残っていた料理を手早く食べ終えて食器を 重ねた。一人きりになると物寂しいのでテレビのボリュームを上げてから洗い場に向かい、自分の食器をヘチマの スポンジでいい加減に洗いながら報告書の内容を練った。明日は回収機が海岸に降りる日ではあるが、なんとなく 日々を過ごしていると本分を忘れがちになる。
 ゾゾ以外の面々に存在を知られないため、徹底的に私物を排除して暮らしているせいで報告書の用紙もなければ 練習出来そうな紙もないので、頭の中だけで文面を構成しなければならない。そして、任務の都合上、忌部が変異体 管理局海上基地に止まれるのは三十六時間が限界だ。その間に書かなければならないが、文面が煮詰まって いないのも逃れようのない事実だ。毎度ながら、もっと国語を勉強しときゃ良かった、と後悔にどっぷり浸りながら、 忌部は洗い終えた食器を洗いカゴに重ねて嘆息した。
 なんとも気が滅入る夜だ。





 


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