南海インベーダーズ




エクストリーム・ストーム



 屋根が、壁が、窓が、荒々しく叩かれている。
 騒音に耐えかねて目を覚ました紀乃は、カーテンを開いてぎょっとした。真っ暗だったからだ。壁掛け時計を見ると、 午前六時手前で確かに朝だ。夕方ではないはずだ。それなのに、外がまるで見えない。窓の隙間から吹き込む 風はやけに冷たく、水飛沫まで吹き込んでくる。島の景色は暗転していて、空も海も鉛色だ。

「んな」

 何事だろう、と紀乃は目を丸めていたが、とりあえず船舶用無線を改造したラジオを付けてみた。天気が最悪なので 電波の入りはいつも以上に悪かったが、朝のニュースが聞こえてきた。スピーカーに耳を近付けてアナウンサーの 声を懸命に聞き取った結果、小笠原諸島南洋に発生した台風が北上している、とのことだった。

「つまり、直撃してるわけね」

 忌部島の位置を正しく把握しているわけではないが、小笠原諸島の末端にある火山島だということぐらいは知って いる。だから、忌部島はその台風の進路に入ってしまったのだろう。紀乃は次第に状況が解ってきたので、まずは 着替えることにした。その間にもがたごとと窓が鳴り、今、外に出たら海辺どころか火山まで吹っ飛ばされてしまい そうだ。ろくに手元も見えないほど暗いので電灯を付けてから、プリーツスカートを履き、セーラー服を着て、襟の下 にスカーフを回して結び、髪を整えて顔を洗った。

「せっかく今日は、ガニガニと一緒に探検しようって思ってたのになぁ」

 タオルで顔を拭って上げた直後、突然電灯が消えて真っ暗になった。

「ん、あれ?」

「紀乃さん、起きてらっしゃいますか」

 引き戸が開き、御丁寧に懐中電灯を持ったゾゾが現れた。

「なあに、停電したの」

 紀乃が振り向くと、ゾゾは懐中電灯を顎の下から照らした。

「ええ、そのようです」

「怖くもなんともないよ、それ」

 紀乃が冷めた反応を返すと、ゾゾは残念そうに懐中電灯を下ろした。

「それはそれは。こういった場合に行う古典的な行為だと判断したのですが」

「この建物、吹っ飛んだりしないよね?」

 紀乃が窓の外を指すと、ゾゾは懐中電灯の光条を向けた。雨粒に殴られる窓が、ぼんやりと円く照らされた。平地 どころか校庭すらまともに見えず、ガニガニの巣は雨に叩かれすぎて輪郭がぼやけている。霧のように立ち込めて いるのは全て雨の飛沫で、強風に煽られているため、小石を投げ付けられているかのような音がする。廃校は造り が古いせいでそこかしこから風が吹き込むらしく、天井と壁の境目辺りから女の悲鳴のような風音が聞こえていた。 緩い坂を昇ってきた豪風が校舎全体を揺らした途端、窓という窓が鳴って床すらも波打ったような気がした。

「ひぃ」

 少々怖くなった紀乃が後退ると、ゾゾはにこやかに笑った。

「紀乃さん。そんなに恐ろしいのでしたら、是非とも私の傍でお過ごし下さい。なんでしたら、未来永劫一緒に」

「却下」

 ゾゾの馴れ馴れしさに顔をしかめたが、彼が差し出した懐中電灯を受け取り、衛生室を出た。

「とりあえず、朝御飯は食べておかなきゃ。通り過ぎるまでの辛抱だし」

「ええ、そうですね。台風が来ることは知っておりましたので収穫出来る野菜は昨日のうちに全て収穫してありますし、 材料には事欠きませんので、お作りいたしますよ」

 ゾゾは紀乃に続いて衛生室を後にした。廊下の窓の外では、校門の傍に生えた木が踊るように枝を振り回しては 厚い葉を散らし、模様を作るかのように窓に貼り付いていた。雨粒は吹き込んでこなくても、窓の隙間から侵入して きた雨が廊下を薄く濡らしていて、スニーカーの靴底が滑って紀乃はよろけかけた。すかさずゾゾが支えてくれたが、 それがなんだか恥ずかしくなって紀乃は歩調を速めた。
 居間兼食堂の教室に到着した紀乃は、懐中電灯で室内を舐めるように照らした。ミーコはいなかった。彼女のこと なので心配はいらないだろうが、こうも外が荒れている日では少し心配になる。ゾゾが台所に向かったので、紀乃は 彼を後ろから照らしてやった。人間とは違う目の持ち主なので、暗がりでも見えるかもしれないが。

「これはこれは、ありがとうございます」

 ゾゾは紀乃に一礼してから、冷蔵庫を開けて昨日のうちに仕込んでおいた食材を取り出した。

「食材が傷んでしまわないうちに、電力を復帰させなければなりませんね」

「私にも何か手伝えることってある?」

 紀乃が尋ねると、ゾゾはかまどに薪を入れて焚き付けの藁を被せ、火打ち石を打ち合わせて火を付けた。

「いえいえ、そのお気持ちだけで充分です。紀乃さんの身に何かあっては取り返しが付きませんので」

 ゾゾの足元は火で明るくなり、彼の影が紀乃に掛かった。藁が燃える匂いが濃密な雨の匂いに混じり、火元から 伝わる温もりが安心感を生んだ。辺りが暗いから、光源があるだけでもほっとする。

「ガニガニ、どうしてるかな。ちょっと見てきてもいい?」

 紀乃が巣の方向を指すと、ゾゾは一度瞬きした。

「ええ、構いませんよ。ですが、くれぐれも気を付けて下さいね」

「解っているって」

 紀乃は懐中電灯をテーブルに置き、居間兼食堂の教室から出て昇降口に向かった。引き戸を苦労して開けると、 途端に猛烈な風と雨が襲い掛かってきた。せっかく洗った顔も整えた髪も一瞬で濡れてしまったが、顔を拭って目を 開けて外に出た。ゾゾに頼んで雨具を出してもらえば良かったかな、と思ったがここまで濡れては今更雨具を着ても 無意味だ。腹を括った紀乃は、時折吹っ飛んでくる枝葉に気を付けながら、ガニガニの巣に向かった。

「ガニガニー、大丈夫ー?」

 岩を組み合わせて造られた巣に入るが、あの巨体が見当たらない。

「ガニガニー? どこ行っちゃったのー?」

 紀乃は巣から顔を出して周囲を見渡すが、校庭にも見当たらない。まさか、この雨の中、一匹で外へ。

「どうした」

 すると、電線の束を抱えた小松が巣を覗き込んできた。

「あ、小松さん。ガニガニ、どこに行ったか知らない? 巣の中にいないの」

「知らん。台風に驚いて、どこかに逃げたんじゃないのか」

「どこって、どこへ」

「知るか」

 小松はぐるりと上体を回転させて周囲を見渡してから、発電施設と鉄塔の間を見定めて電線が千切れている箇所を 発見した。仕事を見つけたから紀乃に対する関心を失った小松は、足音を響かせながら行ってしまった。紀乃は 小松を引き留めかけたが、ガニガニを世話しているのは自分だ。だから、ガニガニを捜すのは自分の仕事なのだ。 ガニガニはヤシガニではあるが、泳げないカニだ。うっかり足を滑らせて海に落ちたりしたら、大事だ。そうなる前に なんとかしなきゃ、と焦った紀乃は、ガニガニの足跡が集落に向かっていることに気付いて駆け出した。
 後先なんて一切考えずに。




 死ななくて良かった。
 崩れ落ちてきた土砂で埋まった洞窟と対峙した忌部は、今更ながら込み上がってきた恐怖と戦っていた。台風が 来るということは天気予報で知っていたが、まさか斜面が崩れるとは。雨粒に塞がれそうな目を上げて斜面を仰ぐと、 滑り落ちてきた土と岩盤の色が違っている。恐らく、冷えて固まった溶岩の斜面に堆積した火山灰が、水を含んで 崩れてしまったのだろう。洞窟の底に雨水が溜まり、このままでは危ないと外に出た途端に土砂崩れが起きたので、 運が良かったのかもしれないが、肝心要の通信機材は全て洞窟の中だった。幸運と不運は紙一重だ。

「……とりあえず、集落に行くか」

 せめて、雨風だけでも凌がなければ命に関わる。肺炎でも起こしたら、それこそ死活問題だ。

「しかし、ひどい嵐だ」

 透明人間の輪郭がくっきり縁取られるほど、雨が強い。堆積した落ち葉が雨水を吸って膨張し、ぬかるんだ土を 踏み締めながら、忌部は集落を目指した。暴力の権化のような風が吹き付けるたびに足を止め、斜面を降りる時は 回り道をして、なるべく平坦な道を選んだ。縦から横から襲い掛かる雨の隙間から海を望むと、分厚い鉛色の雲の 下では、エメラルドグリーンの美しい海は濁りきって荒れ狂っていた。
 途中、何度か転び掛けたが忌部は無事に集落に辿り着いた。状態の良い民家でも借りようと思い、ゾゾの作った 畑の間を歩いていくと、田畑の真ん中を貫く太い道に当のゾゾが立ち尽くしていた。

「ゾゾか」

 体格に応じた長さの両腕をだらりと垂らしているゾゾは、太い尻尾を引き摺って地面に長い筋を付けていた。

「忌部さん」

 ゾゾは顔を上げた途端に牙を剥き、憎悪すら感じる凶相と化して忌部に迫った。

「あなた、紀乃さんをどこにやりましたかぁっ!?」

「は?」

 忌部が面食らうと、ゾゾは大股に詰め寄ってきた。

「紀乃さんですよ、紀乃さん! さっきから捜しているんですけど、どこにもいないんです! どっこにも!」

 ウロコの隙間を伝い落ちる雨を散らしながら、ゾゾは爪の太い両手で忌部の透けた肩を鷲掴みにした。

「ガニガニさんの様子を見に行くと行って出ていったきり、紀乃さんが戻らないんですよぉ! さあ白状なさい、その スッケスケでツルンツルンでニューロンもへったくれもない脳髄で考えた稚拙な隠蔽工作を!」

「知るかそんなこと! 大体、俺がここに来たのは今さっきなんだぞ!?」

 忌部はゾゾを押し返しながら叫ぶが、ゾゾは忌部を折り曲げんばかりにのし掛かってきた。

「大体、あなた以外に紀乃さんをどうこうする輩がいますか、いませんでしょう! 裸族な上にロリコンですかっ!」

「それはお前もだろうが! 裸エプロントカゲが!」

「も、ってなんですか、も、って! 心外どころか脳外です! 大気圏外で時空外で次元外ぐらい外ですよ、外!」

「じゃあ言い直してやる、そんなのはお前だけだ! 管理局の連中の状況説明と対応が下手すぎたばっかりに人生 どころか人類に絶望しちまった小娘に付け込んだ挙げ句、自分のいいように扱おうとしているじゃないか! そんな奴に 愛想を尽かしてったのかもしんないぞ! この変態トカゲがっ!」

 肩に食い込んだゾゾの爪を振り払った忌部は、ここぞとばかりに罵倒した。

「そ、そ、そんなことが有り得ますかっ、有り得てたまりますか! 紀乃さんに限って私に愛想を尽かすなどとっ!」

 ゾゾは頭を抱えて大袈裟に仰け反ったが、忌部は嘲笑混じりに言った。

「それ以前に、乙型一号にはお前に尽かす愛想もなかったんじゃないのか?」

「きぃーのさぁーん……」

 ばしゃり、と水溜まりに両膝を付いて崩れ落ちたゾゾに、忌部はなぜか勝った気分になった。だが、ゾゾの言うことが 本当であれば、事態は良くない。台風は未だに勢力を振るっているし、風雨が弱る気配はない。増して、南国の 嵐をやり過ごした経験すらなさそうな十五歳の少女だ。放っておいてはまずいことになる。下手に海に近付いて高波 に飲まれたり、足を滑らせて泥に填り込んだり、土砂崩れに巻き込まれたりしたら、最悪死んでしまう。

「この中を一人で出歩くのは危険だ、とっとと捜しに行こう」

 忌部が歩き出そうとすると、すかさずゾゾがその足に尻尾を絡めてきた。

「台風よりも危険なのはあなたです、忌部さん! その貧弱で矮小な唯一の武器が紀乃さんを穢してしまうかもしれ ないと思うと、私は夜も眠れずに悶え苦しむ日々なのです! さあ、その命を地球に返すのです!」

「誰が返すか、俺の人生はまだ五十年は残っている! 現実的な危険度は自然災害の方が余程上だ!」

 忌部はゾゾの尻尾を振り払おうとするが、ゾゾは腰を上げて尻尾を引き、忌部を引き摺り倒した。

「いえいえ、そんなことはありません! 世間一般では三十路の男は中学生だって守備範囲ではありませんか!」

「何をじゃれているんだ、お前らは」

 電線を丸めて脇に抱えた小松が、二人に歩み寄ってきた。この嵐の中、切れた電線を交換してきたらしい。

「実はですね、紀乃さんがどこにもいらっしゃらないのですよ 何か御存知ではないでしょうか、小松さん!」

 引き摺り倒した忌部を踏み付け、ゾゾは小松に懇願した。小松は半球の頭部に付いた枯れ葉を剥ぎ、答えた。

「知っている。あいつはガニガニを捜しに行くとか言って、そっちの方に」

 小松が海岸を指すと、ゾゾは弾かれたように駆け出した。

「ありがとうございましたぁあああっ!」

 両手を大きく振り、ついでに尻尾も高く上げながら、ゾゾは大股に走り去った。泥まみれの体を拭いながら起きた 忌部はゾゾの必死すぎる後ろ姿を見送っていたが、変な笑いが込み上がってきた。

「変な奴だ」

「お前には言われたくない」

 次の作業がある、と言い残し、小松は六本足を動かしながら去っていった。その場に一人取り残された忌部は、 廃校に行って風呂でも借りようか、と思ったが、ゾゾだけに紀乃を任せておくのは不安だ。ゾゾの特徴的な三つ指の 足跡を追い、忌部も歩き出した。泥だらけでびしょ濡れなので透明人間らしさは欠片もなくなっていたが、暴風雨が シャワー代わりに泥を落としてくれることだろう。これなら、ゾゾを追跡しても紀乃に感付かれる心配はない。
 紀乃もガニガニも無事だと良いのだが。





 


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