南海インベーダーズ




エクストリーム・ストーム



 雨は叫び、海はがなる。
 不安で不安でたまらず、紀乃は思い切り駆けていた。足元が悪いことに気に掛ける余裕もなく、雨と海水を吸って 柔らかくなった砂浜を蹴り付けていた。ガニガニの足跡は集落の中ではいくらか残っていたが、砂浜に付いた分は あまりの雨の強さで掻き消されていた。セーラー服もスカートもたっぷりと水を吸って肌に貼り付き、髪も一塊になって 先端から雫が滴る。大波が立ち上がるたびにガニガニの巨体が隠れていそうな気がして、心臓が冷え込む。

「ガニガニ……。どこに行っちゃったの?」

 あんなに大きいのに、あんなに強そうなのに、泳げないカニだ。もしも、海にひっくり返っていたりしたら。

「ガニガニぃいいいいっ!」

 負の感情が一度に押し寄せ、紀乃は寒さで震える膝を曲げかけた。

「私を一人にしないでよ……」

 この島にやってきてから、初めて心を許してもいいと思えた相手だった。寄生虫で巨大化したヤシガニだったが、 とても大切な友達だ。もう二度と自分には友達なんて出来ないと思っていたから、余計に嬉しかった。世話をすれば するほどに喜んでくれて、紀乃を信頼してくれていた。だから、ガニガニだけは心を開ける相手だった。
 雨音とも風音とも波音とも違う、砂を踏み締める音がした。紀乃が全身の冷えで強張った頬を歪めて振り返ると、 探し求めていた巨体はいなかった。見慣れてきたが違和感は拭えない生物、巨体のトカゲが立っていた。

「ここにいましたか、紀乃さん」

「ゾゾ」

 紀乃が青ざめた唇を噛むと、ゾゾは濡れた手を差し伸べてきた。

「さあ、帰りましょう。ここにいては危険です、ガニガニさんなら私が探してきましょう」

「嫌」

 紀乃は首を横に振り、後退った。

「ガニガニは友達だもん、私が捜さなきゃダメなんだ! ガニガニしか友達になってくれないんだから!」

 不安と寒さで引きつった喉から出た言葉に、紀乃は縋るようにスカートを握り締めた。

「紀乃さん」

 ゾゾは一歩近付いてきたが、紀乃は背を向けて駆け出した。

「嫌ぁああああっ!」

 自分で自分の言葉に怯えた紀乃は、ほとんど前を見ずに砂浜を駆けた。それは、これまでずっと誤魔化そうとして きたことだった。社会から隔絶された、穏やかで豊かな日常生活。何もせずに黙っていれば、害を成す突然変異体 ではなく人間として死ぬことだけは許されている。変わった住人達。人ならざる者達。巨大なトカゲ。重機。寄生虫。 目に見えない誰か。けれど、誰も好きになれない。同じ状況下だから、馴れ合っているだけだ。
 スポーツバッグの底に突っ込んであった携帯電話は電池が切れ、二度と鳴らない。電話もメールも、クラスメイトにも 部活仲間にも家族にも届かない。だから、ガニガニが必要だ。何も喋れなくてもいいから、ただ、紀乃の傍にいて くれさえすればいい。そうすれば、紀乃は一人きりではなくなるからだ。

「もう……嫌だ……」

 流木に躓いて転び、砂に半身を埋めた紀乃はがくがくと震えた。

「こんなところにいたくない……」

 楽園のような南の島は、この世の地獄だ。ついこの前まで過ごしていた当たり前の日々が遠い過去となり、二度と 手は届かない。人類に背を向けてインベーダー側に付いたのも、一人になりたくないからだ。上辺だけでもゾゾ達と 同じことをすれば、まだ寂しくないと思ったからだ。

「紀乃さん」

 声を殺して泣く紀乃を、ゾゾが単眼で見下ろしてきた。

「近寄らないでよ!」

 頭を抱え、紀乃は拒絶の叫びを上げた。

「あんたに私の気持ちなんて解るもんか、解ってほしくもない! 帰れるものならうちに帰りたいよ、お父さんとお母さんと 一緒に暮らしたいよ、学校に行きたいよ、御飯だってあんたのじゃなくてお母さんのが食べたいよ、友達と学校 帰りに買い食いしたり、電車に乗って通学したり、塾に行ったり、友達と遊んだりしたいよ!」

 紀乃は抱えた頭に爪を立て、見開いた目からぼろぼろと涙を落とした。

「あんたなんか、大嫌い!」

 好きになろうと努力すれば良かったのかもしれない。けれど、ゾゾを好きになってしまっては、紀乃は本当に人間 ではなくなってしまうような気がした。だけど、慣れなければ辛いから、同じ場所で一緒に暮らすことだけは慣れた。 しかし、そんなことに慣れてしまった自分に嫌気も差していた。

「そうですか」

 ゾゾは紀乃から目線を外し、だらりと尻尾を垂らした。

「そんなに、私のことがお嫌いですか」

「デカいトカゲだし、気色悪いし、変なことしてくるし、そんな奴のことなんて好きになれるわけないじゃん!」

「私は紀乃さんのことが好きですよ」

「それも嫌、凄く嫌! 上っ面だけじゃん! どうせ、ゾゾは私のことを改造しようとしてる! 政府みたいに生体兵器に しようとしてる! 本当は私のことなんかどうでもいいくせに! 優しい振りなんかしないでよ!」

 髪が千切れるほど強く頭を掴んだ紀乃は、身を守るように体を丸めた。

「私は皆の敵じゃない、だけど皆が勝手に私を敵にしたんだ、だから私は敵になるしかないんだ!」

「あなたは一人ではありませんよ」

 ゾゾは一度瞬きし、瞼の端から雨水を滴らせた。

「紀乃さんが私を信じてさえくれば、私はいかなることも成し得ましょう」

「そんなの、嘘だ」

 紀乃は吐き捨てたが、嗚咽で言葉らしい言葉にはならなかった。

「そうですか」

 ゾゾは落胆したらしく、紀乃に背を向けた。その尻尾を引き摺る独特の足音が遠ざかると、紀乃は震えが増した。 あんなに嫌だ嫌だと言っていたのに、離れられると辛かった。けれど、嫌なのは事実だ。心身に鬱積していた寂しさや 悲しさを振り絞るかのように、紀乃は泣いた。泣きすぎて頭も喉も痛んだが、起き上がる気力もなかった。
 不意に、打ち付ける雨粒の勢いが弱まった。紀乃が腫れた瞼を上げて見上げると、青黒い外骨格の巨体が紀乃の 上に覆い被さっていた。長いヒゲ、飛び出した複眼、鋏脚、八本の足、引き摺られている丸い腹部。

「ガニガニ……」

 無性に切なくなり、紀乃はガニガニの鋏脚にしがみついた。

「どうしていなくなっちゃったの? 捜したんだよ? ねえ、ガニガニ」

 かち、とガニガニは大顎を小さく鳴らし、ヒゲを動かして荒れ狂う海面に向けた。紀乃が涙を拭いてからそれに倣うと、 暴風を散らすほどの強風が巻き起こった。分厚い雨雲に向かって突き進む巨大なガが、島の上空に差し掛かり つつある台風の目に向かって浮上していた。鳥の目に似た模様が付いたガは懸命に羽ばたき、羽化したばかりの 柔らかな羽を広げていた。さなぎの体積に等しい全長五十メートルは優に超えるガは、異様を通り越して美しさすら 備えていた。巨大ガは節の付いた腹部を波打たせ、渾身の力で嵐を打ちのめし、台風の目を目指していく。

「ああ、そっか」

 紀乃は全てを理解し、ガニガニの外骨格を撫でた。

「ガニガニは、あの子を見送りに来たんだね」

 かちん。同意を示す、顎の音。

「あの子、無事に帰ってくると良いね」

 紀乃はガニガニのヒゲに寄り添い、優しく撫でた。ガニガニは折れ曲がった触角を伸ばし、紀乃の頬を撫で返して きてくれた。触角のごつごつした肌触りと力加減が今一つな慰め方に、紀乃は笑みを零した。

「もう大丈夫。心配してくれてありがとう、ガニガニ」

 ガニガニはこんなに良い子なのだから、あの巨大ガもきっと良い子に違いない。ミーコが寄生虫を利用して造った 巨大生物は、前回のシャコ貝から考えればかなり有効な戦力だ。台風の中、本土に向かっていった巨大ガも戦果を 上げることだろう。人類を脅かすのは良くないことかもしれないが、皆、生きるために必死なのだ。ミーコは寄生虫の 固まりだが、生存本能ぐらいはあるだろう。小松も少し妙な部分はあるが理性を持った人間で、ゾゾは紀乃には 計り知れない知識と技術を持っている。そんな彼らなのだから、人類から淘汰される前に抗うのは当然だ。けれど、 紀乃には中途半端な超能力しかない。だから、インベーダーになるしかない。

「所詮、子供は子供か」

 突然聞こえた男の声に、紀乃はガニガニの傍で身構えた。以前、夜中にゾゾと会話していた男の声だ。

「あなた、誰? ゾゾと話していた人だよね?」

「なんだ、俺のことを知っているのか」

 台風の目に入ったために少し弱まった風雨に紛れぬように、男は声を張っていた。紀乃は辺りを見回して音源を 探したが、それらしい姿はない。目を凝らそうとするが、突然差してきた鋭い日差しに紀乃は目が眩んだ。

「じゃあ、あなたは変異体管理局の人なの?」

「現場調査官だ。だが、名乗りはしない。服務規定違反になるからな」

「一体どこにいるの?」

 紀乃はしきりに目を動かすが、男の声だけがどこからか聞こえるだけだった。

「お前の判断はどう考えても誤りだが、お前がインベーダー側に付いたことは上には報告していない。知られるのは 時間の問題だがな。今ならまだ、なんとか間に合う。そんなに人恋しいなら、ゾゾの首でも取って手柄を上げれば いい。そうすれば、変異体管理局の所有する生体兵器から人間に格上げしてもらえるかもしれない。俺には戦う 力はないが、お前にはないわけじゃない。自棄になるのは、もう少し考えてからでもいいんじゃないのか?」

 もっともらしい言葉を並べる男に、紀乃は心が動きかけたが不信感も募った。変異体管理局は紀乃を利用しようと したのだから、手柄を上げてしまえば尚更利用されるに決まっている。ゾゾを倒したら次は小松とミーコを倒せと 迫られ、最終的にはガニガニも倒せと命じられるはずだ。そんなこと、死んでもごめんだ。

「馬鹿にしないでよ」

 もっと強く否定の言葉をぶつけたかったが、紀乃は鈍い頭痛と倦怠感で頭が働かなくなっていた。南国の日差しに 濡れた体が温められているはずなのに手足が震えるほど寒く、呼吸が思うように出来ない。目に見えない男から声を 掛けられたが、聞き取れなかった。ガニガニが無事だったことと、まだ自分がこの世で一人きりではない安心感と、 溜め込んだ感情を一気に吐き出したためか、緊張の糸が途切れた。脱力し、ガニガニの鋏脚に寄り掛かった。
 嵐は過ぎ去った。




 頭が、瞼が、喉が腫れぼったい。
 体を動かそうにも、節々が痛んでいた。喉は乾いて仕方ないのに空腹は覚えず、ただひたすらに疲れていた。 風邪だなぁ、と紀乃は思ったが、起き上がるのも苦痛だった。ガニガニに乗って廃校に戻り、湯は沸いていなかったが 風呂場で体を洗い流し、着替えた後にベッドに横になり、寝て起きてみたらこの有様だった。
 衛生室の天井がぼやけ、喉がひどく腫れていて呼吸もままならない。一眠りする前に窓を全開にしておいたので 暴風雨に洗い流された潮風が通り抜けていくが、爽やかどころか肌寒かった。体を休めているはずなのに、段々と 手足の力が抜けていくのが解る。栄養のあるものを食べなければ、二度と起き上がれなくなりそうだ。だが、ゾゾに あんなにひどいことを言ったのに甘えるのは虫が良すぎる。いっそ、このまま大人しく死んでしまおうかな、と紀乃が 熱で膨れた脳で思考していると、がらりと引き戸が開いた。

「紀乃さん、お目覚めですか」

「う……」

 紀乃は答えようとしたが、喉の腫れと疲れでろくに声が出なかった。起き上がろうとしてもひどい目眩がしたので、 頭を少し上げただけで枕に俯せになった。ゾゾは衛生室に入り、ベッドに近付いてきた。

「無理をなさらないで下さいね、紀乃さん」

「な、んで」

 あんなにひどいこと言ったのに、と紀乃が言いかけると、ゾゾはそれを制した。

「それは先に言いましたでしょう、私は紀乃さんが好きなのです。もちろん、学術的価値も踏まえてのことではありますが、 それ以上に紀乃さん自身が好きなのです。それだけでは、いけませんか?」

 ゾゾの冷たい手が紀乃の額に触れ、過剰な熱を奪っていった。元気な時だったら振り払えていただろうが、心身が 弱り切った今では無理だった。それどころか、誰かに触られたのが無性に嬉しくて、紀乃は首を緩く横に振った。 ゾゾは満足げに頷くと、紀乃の額や首筋に滲んだ寝汗を拭き取ってくれた。心を許す気はないが、今だけはゾゾに 素直に甘えよう。ガニガニの鋏脚では、紀乃を看病しようにも出来ないだろうから。そのガニガニは、巣から頭部を 出して紀乃を窺っていたが、目が合うとヒゲをぴんと立てた。紀乃は彼を安心させるために笑みを浮かべようとしたが、 青白い頬が情けなく引きつっただけだった。
 台風一過の空は、澄んでいた。





 


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