南海インベーダーズ




遺言



 祖母が亡くなった。
 なので、四十九日の法事を終えたのだが、そのままなぜか高速艇に乗せられていた。今になって、出発前に母親 がしっかり準備をしろと言っていた意味を痛感する。母親の実家は鎌倉にあり、今、錦戸家が住んでいる家は復興 した都心に程近い場所なので、普通であれば一泊もせずに帰ってこられる距離である。なのに、母親はクローゼット の奥から修学旅行に使ったトランクを引っ張り出してきて、二三日分の着替えを詰めておけ、と言ってきた。その時 は不可解だったが、一応、母親の忠告に従っておいた。その通りにしていてよかったとつくづく思う。
 高速艇のデッキから見えるのは、海、海、海、だった。三百六十度が海であり、それ以外は空と雲しかない。横浜 港を出発してから、既に半日以上が経過していた。それからずっと船に揺られているので、三半規管がぐらぐらして いる。足元は常に上下していて、絶え間なくエンジン音が聞こえているので、身も心も安まらない。与えられた寝室は 狭苦しく、ベッドに横になっても体に伝わる振動が増すばかりでろくに眠れなかった。おかげで、船酔いも相まって すこぶる気分が悪かった。おまけに、この船がどこに向かっているのかも解らないと来ている。

夕紀ゆうきちゃん!」

 船室のドアを開けてデッキに出てきたのは、祖母の叔父の息子である末継一成だった。

「なーにー」

 錦戸夕紀が不機嫌極まりない態度で返事をすると、一成は潮風の強さによろけつつ、近付いてきた。

「こんなところにいちゃ、危ないじゃないか。中に入って」

「だって、部屋の中って空気悪いんだもん。濁りまくり、っていうか」

 夕紀が顔をしかめると、一成は苦笑した。

「無理もないよ。この船は足が速いだけでそんなに大きくないし、人数も多いからね。僕の方の親戚と夕紀ちゃん の方の親戚と、船を動かしてくれる高嶺グループの人達と、なんでか知らないけど同行してきた政府の人達と、合計 で三十人近くになるわけだし。高嶺グループの船が借りられたのは、たぶんお父さんの方のコネだろうけど、政府の 人達が乗ってくる理由が未だに解らないんだよなぁ。サイボーグもいるみたいだし、会話を聞く限りでは公安の人達 っぽいし。後ろめたいことがないのに、重大な犯罪を犯したような気分になってくるなぁ」

「もしかして、一族の誰かが凶悪犯だったりするんじゃない? ほら、あるじゃん、ミステリとかで」

「あー、あるねぇ。絶海の孤島に遺産相続を巡る話し合いで集まった一族が一人また一人と闇に葬られ、ってやつ だね。でも、それはないんじゃないかな。うちのお父さんは仕事が仕事だったから、遺産をぎちぎちに管理して均等 に分けてくれたし、紀子叔母さんの資産だってそんな具合だし。揉め事が起きないなら何よりじゃないか」

「そりゃそうだけど、なーんか物足りないような」

「こらこら、滅多なことは言うもんじゃないよ」

「でもさ、なんで船に乗るわけ? 意味不明すぎなんだけど」

 夕紀が疑問をぶつけると、一成は眩しげに目を細め、水平線の遙か彼方を見つめた。

「僕だってよく知らないよ。お父さんならその辺の事情を知っていただろうけど、もうこの世にはいないしね」

「じゃ、他に知っていそうな人っている?」

「紀子伯母さんの妹の露子伯母さんなら知っているかもしれないけど、あの人はもう動けないし、意識が戻る様子も なさそうだしね。旦那さんの仁さんも、研究航海の最中に立ち寄った離島で行方不明になってそれきりだし」

「じゃ、いづみ叔母さんなら、ってそうか、あの人もこの前……」

 叔父の妹である末継いづみは、それはそれは盛大な宇宙葬をしたのだ。夕紀はそれを思い出し、空を仰ぐ。

「皆、電池の寿命が切れるみたいに、ばたばたと逝くもんだね」

 一成は不思議そうであり、寂しげでもあった。夕紀はデッキの後方に向き、プロペラに掻き回されて泡立っている 海水の筋を見やった。波打つ海面には高速艇が通った軌跡が薄く残っているが、時間と共に消えていった。

「美鶴叔母さんは、結局帰ってこられなかったのかぁ」

 夕紀が上体を反らすと、一成はちょっと笑った。

「そりゃそうだ。今、美鶴は木星圏に向かっている最中なんだから。この前の通信だって、随分とタイムラグがあった じゃないか。だから、美鶴が帰ってきた頃には、三周忌を迎えているんじゃないのかな」

「美鶴叔母さん、いづみ叔母さんに御礼を言いたかっただろうねぇ」

「だろうなぁ。美鶴が宇宙に行けたのも、いづみ叔母さんがいたからこそなんだから。あの人がいなかったら、美鶴 が通っていた宇宙科専門の高校も出来なかっただろうし、木星圏に到達出来るほどの出力と耐久性を持った宇宙船も 開発出来なかっただろうし、何より、アレも実現しなかっただろうし」

 一成が指し示した先には、太平洋の真ん中に直立する糸のような線があった。だが、それは何千キロもの距離が 空いているからそう見えるだけであって間近から見れば恐ろしく巨大なタワーなのである。衛星軌道上と地上を直結 させている軌道エレベーターでは、今日もリフトが上下しているだろう。

「コスモクロア……だっけ、アレの名前」

 目を凝らして軌道エレベーターを見つめながら夕紀が言うと、一成は頷いた。

「うん。翡翠の別名だよ」

「翡翠って確か、あの着物の叔母さんの名前だよね」

「そう。お父さんの妹さんでかなり腕の立つ和裁職人だったんだけど、大きな仕事を任されている最中に突然倒れて、 それっきりだった。僕が会った時でも充分綺麗な人だったから若い頃はさぞ凄かったんだろうね。翡翠叔母さんは 子供を産めない体だったから、僕や美鶴をよく可愛がってくれたし、本当にいい人だったよ。いづみ叔母さんが、翡翠 叔母さんの名前を軌道エレベーターに付けた理由も、なんとなく解る気がするよ」

「私も会ってみたかったなぁ、翡翠叔母さん」

「会ってみたかっただろうさ、当人も。でも、夕紀ちゃんが産まれたのは翡翠叔母さんが亡くなった直後だから」

「だったら、翡翠叔母さんが作った着物を見せてくれる? うちにもお祖母ちゃんの着物があるんだけど、お母さん が絶対に触るなって言ってタンスにも鍵掛けちゃってさー。もう子供じゃないんだから、汚したりしないのに」

「僕のは浴衣と結婚式で着た紋付き袴だから、女の子が見ても面白味はないだろうしねぇ」

「お母さんのケチ」

 夕紀が幼い表情で拗ねたので、一成はそれを宥めた。

「瑞乃さんは夕紀ちゃんの成人式にちゃんと着られるように、ってことで保管してくれているんだよ」

「成人式なんて、あと六年も先じゃん! そんなに待てない!」

「明後日になれば、あと五年じゃないか」

「でも長いじゃん! 超ヤバいじゃん!」

「大人になれば、五年十年なんてあっという間だよ」

「それとこれとは話が違わない?」

 夕紀が一成に詰め寄ろうとすると、船室のドアが開いて母親の瑞乃が顔を出した。夕紀を呼び戻しに行ったはず の一成がいつまでたっても戻ってこなかったので、様子を見に来たのだ。一成はばつが悪そうな顔になると、夕紀を 促してきた。夕紀はまだ船室には戻りたくなかったが、渋々船室に入った。一成は瑞乃から叱責され、曖昧な笑みを 浮かべて取り繕っている。それなりに名の知れた料理人である叔父の一成は人が良く優しいのだが、それ故押しに 弱い面がある。だから、夕紀はそれを利用することもある。
 一成が叱られるのを横目に早足で階段に駆け込んで、船室の下層に滑り込んだ。素早く背中でドアを閉めると、 母親の苛立った声が聞こえてきたが、聞かなかったことにした。母親は元から神経質な性格だったが、会社の部下 の女性と浮気した父親と離婚してからは神経質さに拍車が掛かっている。夕紀を守ろうと必死なのは解るのだが、 もう少し落ち着いてほしい。錦戸家に割り当てられている船室に入った夕紀は、緩衝材代わりの荷物に挟まれている 飼育ケースを取り出した。
 
「ガニちゃん、元気?」

 おがくずが敷き詰められている飼育ケースの中で、ヤシガニがごそごそと身動きした。夕紀が幼い頃も、ガニガニ の動きは随分とスローペースだったのだが、近頃ではそれが顕著になった。祖母の話によれば、ガニガニは祖母 が中学生だった頃からの付き合いだそうで、ヤシガニの平均寿命をも越えた年数を生きていることになる。だから、 ガニガニが衰えるのも無理からぬことだ。最近では食欲も落ちていて、餌もほとんど食べなくなってしまった。
 母親からは危ないから手を入れるな、と言い聞かせられているが、ガニガニが絶対に人間を攻撃しないことはよく 知っている。幼い頃には何度もちょっかいを出したが、鋏脚に挟まれたことは一度もなかったからだ。夕紀は母親 の気配がないことを確かめてから、飼育ケースの蓋を外し、ガニガニを抱えて外に出した。

「ガニちゃん、良い子良い子」

 夕紀はスカートを履いた太股の上にガニガニを載せてやり、甲羅に付着したおがくずを払ってやった。ガニガニは ぎこちない動作で夕紀の服にしがみつくと、こちこち、と小さく顎を鳴らした。ガニガニは言葉は使えないけどちゃんと お喋りしているんだよ、と祖母が教えてくれたが、母親は真に受けなかった。それどころか、甲殻類の知能なんて そんなに高いもんじゃない、と一蹴していた。母親の言うことも解らないでもないが、夕紀はどちらかというと祖母の 考えの方が好きだった。生き物なのだから、意志があるのは当然だ。

「ガニちゃん?」

 夕紀の膝の上でもぞもぞと身動きしたガニガニは、テーブルの上に乗っている紫色の風呂敷に包まれた箱に鋏脚 を伸ばした。それは、この船旅の主役である錦戸紀子の遺骨が入った骨箱だった。ガニガニは精一杯足を伸ばし、 風呂敷に鋏脚の尖端を引っ掛けようとしているが、風呂敷の滑りが良すぎて引っ掛かりもしない。見るに見かねた 夕紀はガニガニを抱えてベッドサイドからテーブルの傍に移動し、椅子に腰掛けた。ガニガニをテーブルに載せて やると、ガニガニはこちこちこちと悲しげに顎を鳴らしながら骨箱に縋り付いた。複眼を布地に擦らせ、背を丸める 姿は、祖母の遺体に縋り付いて泣いている祖父に良く似ていた。その祖父は病気が芳しくないので、本土に残って いる。母親が苛立つのとは反対に祖父は憔悴しきっているので、今後が心配である。

「ねえ、ガニちゃん。これから行く場所って、お祖母ちゃんとどんな関係があるの?」

 ダメ元で夕紀が尋ねると、ガニガニは骨箱から離れ、夕紀に向き直った。彼は鋏脚を伸ばしてきたので、夕紀も 手を伸ばしてそっと触れた。すると、触れ合った部分から鋭い衝撃が駆け抜け、一瞬痺れた。

「わっ!?」

 思い掛けないことに驚いた夕紀が仰け反ると、ガニガニは申し訳なさそうに触角を下げ、再び骨箱に寄り添った。 何が起きたのかさっぱり解らなかったが、痺れが残る手を振りつつ、夕紀は目を瞬かせた。しばらくすると、昨夜は あまり寝付けなかったからだろう、眠気が襲ってきた。ベッドに倒れ込みたかったが、ガニガニを外に出していると 母親に知れたら烈火の如く怒られてしまうので、眠気と戦いながらガニガニを飼育ケースに入れ、蓋を填めた。ああ やれやれと思いながらベッドに横たわった途端、夕紀の意識は落ちた。
 そして、長い長い夢を見た。




 ここが、あの忌部島だ。
 夕紀が目を覚ましてみると、高速艇は目的地の離島に着いていた。接岸は出来ないまでも錨を降ろしているから だろう、船体の揺れも落ち着いていてエンジン音が止まっている。派手な映画を立て続けに見せられたような感覚 に苛まれつつ、重たい目を擦りながら、夕紀は身を起こした。船室のドアがノックされて開くと、身支度を調えている 瑞乃が入ってきた。寝起きでぼんやりしている夕紀を横目に、祖母の骨箱の入った箱を抱えた。

「ほら、さっさと顔でも洗って着替えてきなさい。やることやったら、とんぼ返りなんだからね」

 瑞乃は夕紀に中学校の制服を押し付けると、足早に出ていった。夕紀は生返事をしてから、よろよろとベッドから 降りて洗面所に向かった。髪は乱れ放題で目も虚ろで実にひどい顔をしていたので、冷たい水を浴びせかけて目を 覚まし、髪も梳かしてから喪服代わりの制服を身に付けた。夏服の半袖のセーラー服に紺色のプリーツスカート を着て姿見の前で襟を整えていると、ガニガニが触角をぴんと立てて何か言いたげに顎を打ち鳴らした。

「ガニちゃんもちゃんと連れて行くよ。だって、それも遺言のうちだもん」

 着替え終えた夕紀はガニガニの入った飼育ケースを抱えると、船室から外に出た。デッキには政府の人間と船員が 揃っていて、高速艇から忌部島に移る手伝いをしていた。小笠原諸島の末端に位置する忌部島は度重なる火山 の噴火と地震によって崩壊しているので、まともな陸地がなく、岩場しか残っていない。だから、船では接岸出来る わけもなく、島に渡るにはゴムボートで近付いて飛び移るしか手段がない。その不便さに愚痴を零す親族もいない わけではなかったが、薄く噴煙を噴き上げる火山を見上げた夕紀は息が詰まりそうになった。先程まで見ていた夢 に出てきた光景と全く同じだったからだ。この島で全て始まり、全てが終わったのだ。そして、また。
 母親にヒステリックに呼び付けられて、夕紀は我に返った。デッキから下ろされているハシゴを伝って降り、船体に 寄り添っているゴムボートに乗ると、船員がエンジンを始動させ、緩やかに動き出した。程なくして忌部島に到着した ゴムボートは、比較的岩場の段差が低い場所に接岸され、波に流されないようにロープが掛けられた。ローファーでは 歩きづらいだろうと予想してスニーカーを履いてきたが、案の定だった。剥き出しの岩は濡れている上に堆積物で 滑りやすくなっていたので、スニーカーでもかなり厳しかった。何度か滑り落ちそうになったが、その度に屈強な肉体 を持つ公安のサイボーグに手助けしてもらった。おかげで、どうにかこうにか海には落ちずに済んだ。
 平たい岩場に辿り着いた親族一同は、祖母、錦戸紀子の遺言通りに粉末状にした遺骨を海に散骨した。二ヶ月 程に眠るように息を引き取った祖母に思いを馳せながら、夕紀は割り当てられた分の遺骨を波間に散らすと、海は 呆気なくそれを吸収してしまった。お母さんも全く面倒なことを頼んだものね、と瑞乃はしきりにぼやいていた。夕紀 はその鬱陶しげな言い方にどうしようもなく腹が立ったが、顔には出さなかった。すると、骨箱の傍に置いてあった 飼育ケースががたがたと揺れた。何事かと皆が振り向くと、ガニガニが暴れていた。

「ガニちゃん、外に出たいの?」

 夕紀が飼育ケースの蓋を外すと、ガニガニは即座に飼育ケースを倒し、外に這い出した。普段の老齢を感じさせる スローな動作からは懸け離れた俊敏さで駆け出すと、そのまま海に突っ込んでいった。止める間もなく、ガニガニ は紀子の遺骨が消えた海に没した。その青黒い外骨格が波間に消える直前、ガニガニの鋏脚が高く突き出され、 別れを惜しむかのように左右に大きく振られた。それから一秒の間もなく、彼は海に飲み込まれた。

「ガニちゃん……」

 あの夢が事実だとしたら、ガニガニは生きるために死んだのだ。死して尚も生き続ける生体情報を海に溶かして、 遠い未来に地球に帰ってくるであろう宇宙怪獣戦艦に伝えるための記憶を地球そのものに刻み付けるため、この 日のために命の灯火を燃やし続けていたのだ。切なさと感慨が一度に押し寄せた夕紀は、ガニガニが消えた波間を 見つめてぼろぼろと涙を落とした。一成に心配されたが、涙が出る理由が上手く説明出来なかった。ガニガニが 電流を通じて脳内に直接流し込んできた記憶についても、複雑すぎて口頭で説明するのは困難を極めた。
 けれど、これだけは痛烈に理解出来た。祖母は、錦戸紀子は、末継紀子は、斎子紀乃は、再び彼に出会えるの だと。それが誰かまでは解らなかったが、詮索しないべきだと思った。祖母の遺言にはそこまで書かれていなかった が、他人の初恋はいじくり回さないのがエチケットというものだ。あの夢は誰にも言わないでおこう、特に母親には、と 胸に刻み付けながら、夕紀は高速艇に戻るために歩き出した。
 全てはここから始まり、ここで終わるのだ。







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