南海インベーダーズ




遺言



 一輪の花が、天を目指していた。
 人類を遙かな高みへと導いた軌道エレベーターに無数のツタを絡ませ、海に深く根を張り、無尽蔵な大きさに成長 した葉を広げている。大きさこそ変わっていたが、姿形は生体改造を施して生み出した頃となんら変わらなかった。 何十枚もの柔らかな薄紅色の花弁の中心に雄しべと雌しべが共存し、分厚いがくが花弁の根元を縁取っている。 彼女の傍に来ると、途端に空気が和らいだ。体表面から分泌される粘液が泡となって波間に揺れており、時折潮風を 受けて舞い上がる様は、幻想的だった。
 果てしない空と海の狭間に浮遊しているゾゾは、滑空するために生み出した翼を折り畳んで高度を下げた。軌道 エレベーターの足元に接近していくに連れて、軌道エレベーターを中心に栄えていた人工島の全景が見えた。かつて ゾゾが生体改造を施して作り出した万能環境適応能力保有植物、パ・ナーは、ゾゾとワン・ダ・バが宇宙の彼方へ 旅立った後も植物として真っ当な生を送れるようにと生体改造を施しておいたのだが、まさかここまで成長している とは思いも寄らなかった。パ・ナーの原型は地球の現存種である植物をいくつか掛け合わせたものであり、能力を 最大限に引き出すためにゾゾとワン・ダ・バの生体情報を僅かに加えただったので、全く同一の個体で十万年もの 年月を生き延びていたとは驚きだ。
 人工島に着陸したゾゾは、辺りを見回した。至るところにパ・ナーのツタが張り巡らされており、人工島を形成して いる鉄筋コンクリートにもツタが入り込んでいるので、そこかしこにひび割れが出来ていた。折れたフェンスの間から 海面を見下ろすと、高濃度の放射能に汚染された海でも逞しく生きている貝類が人工島の支柱に無数に貼り付き、 小さな甲殻類がその上を歩いていた。海底にも目を凝らしてみると、昆布の亜種らしき丈の長い海藻がゆらゆらと 潮の流れに靡いていて、その間を小魚の群れが泳いでいる。

「なんだかおいしそうですね」

 考えてみれば、この十万年ほど地球産のアミノ酸を含む食事を摂っていないのだ。ゾゾはとんと使っていなかった 料理に関する知識を呼び起こし、昆布は結んで煮物にして、貝は焼いて醤油を垂らして、小魚は甘辛く煮付けて、と 考えてみるが、この海に泳いでいる生物を料理にしたところで放射能濃度が高すぎるので並みの生物では致死性の 毒と化してしまう。ゾゾは自身に生体改造を施して放射能に対する耐性は高めてあるのだが、現在の地球の海水 を大量に飲んだり、この海に生息している生物を摂取したりすれば、何らかの疾患を起こしてしまうだろう。だから、 見るからにおいしそうな新鮮な食材を程良く味付けしたところで、誰も食べられない。それがたまらなく残念だったが、 ゾゾの意志を酌み取ったのか、人工島の中心近くに乱立しているビルを包み込む葉がざわめいた。パ・ナーが 慰めてくれているのだろう。ゾゾはフェンスから身を引き、単眼を細めてみせた。

「ありがとうございます。今、そちらに参りますよ」

 ゾゾは振り返り、かつては栄華を誇っていた市街地を歩き出した。海のど真ん中ではあるが住み心地が良さそう な居住区、数百もの店舗が入っている巨大ショッピングモール、複雑な形状のビルが並ぶビジネス街、安価で安全 な宇宙旅行を高らかに謳う旅行代理店の看板、遠い宇宙に旅立っていたアストロノーツを讃えている立派な彫像、 宇宙進出の歴史を伝える資料館、世界各国の政府要人が出入りしていたであろう高層ホテル、など当時の人々 の息吹がありありと感じられた。波力発電による電源が生きているからだろう、街頭に設置されている大型ビジョンでは 当時のCMやイベントの告知が流れ、若い女性が誰もいない都市に笑顔を振りまいていた。映像の上下にホット ラインのニュースが流れていたようだが、そのニュースを送信するプログラムもコンピューターも損傷しているから か、デタラメな文字が不規則に流れていた。何らかの意味があるのでは、と思ったゾゾはその文字をしばらく眺めて みたが、ゾゾの知る地球の言語からは懸け離れていたので、解読するのは不可能だった。十万年も経てば、言語 体系など様変わりしてしまうので当然といえば当然だ。
 更に歩き続ける。リニアモノレールの駅に差し掛かると、新聞の役割を果たしていたらしいホログラフィーペーパー が落ちていたので、それを拾ってみた。生体改造技術が発達しすぎた文明で生きてきたゾゾは、機械にはどうにも 疎いので、操作する方法が良く解らなかったが、適当にいじってみると作動した。新聞紙よりも薄く透き通った紙から は色鮮やかな映像が溢れ出し、その当時のニュースを再生し始めた。だが、やはり言語が聞き取れなかったので、 ゾゾは己の生体電流を使ってワン・ダ・バと連絡を取った。情報処理能力が高いワン・ダ・バは、程なくしてその当時の 言語パターンを解析し、ゾゾに伝えてくれた。それを理解したゾゾは、ニュースの映像を改めて見直した。

『世界は今、終わろうとしています』

 ひどく深刻な顔をしたベテランアナウンサーが、立体映像の中から異星人を見つめている。

『私達人類は地球で産まれ、進化した種族です。母なる地球を慈しむ一方で化石燃料を始めとした物資を消費し、 文明の進歩と共に生み出される数多の兵器で殺し合い、自然界には存在し得ない化学物質で環境を汚染し、その ために自らの首を絞めることが多々ありました。その度に、人類は過去を顧み得て反省しようとしますが、発達した 文明に溺れ切った精神と肉体を原初の時代へと戻すことは出来ませんでした。積もり積もった人類の罪は、現生の 人類である我々に罰を下しました。憎むべきは自然ではありません、我々なのです』

 アナウンサーが悲壮なコメントを続けようとしたところで、映像が途切れてしまった。電池が切れたのだ。

「ええと……」

 こういう場合は、日付を追い掛けて見ればいい。ゾゾはそのホログラフィーペーパーを折り畳んでダストボックスに 入れてから、別のホログラフィーペーパーを探し始めた。街路樹の下に吹き黙っているゴミやダストボックスの中を 探してみたが、なかなか見つからない。仕方ないので駅売店の店頭で探してみると、店頭に大量のバックナンバーが 積み重なっていた。しかも日付順に並んでいる。これはありがたいと思いつつ手に取っていると、バックナンバーの 真上に貼り付けられたPOP広告が目に付いた。地球最後の歴史を是非その手に! と、ある。

「これはひどいネタバレですねぇ」

 ゾゾはけらけらと笑いながら、駅売店の傍にあるベンチに腰掛けてホログラフィーペーパーを作動させていった。 先程見たものの翌日のホログラフィーペーパーを見ると、地球の環境が人類に適さなくなってきたことが事細かに 解説されていた。特に適さないのが海で、人間にとっては劇薬のような成分を持つようになってしまい、そんな海で 育った魚介類や海藻を食べて死亡する事例が多数発生していた。海が持ち上がって人間を飲み込もうとしてきた、 という目撃証言も多かった。
 更にその翌週のニュースでは、放射能で海を浄化出来れば、との突拍子もない考えを真に受けて世界中の海に 核爆弾を撃ち込んだと伝えられていた。だが、成果が上がるどころか、放射能によって汚染が拡大するばかりで、 事態は悪化の一途を辿っていた。
 更にそのまた翌週のニュースでは、イヅミ・スエツグの理論を基盤とした宇宙開拓事業のために建造された宇宙船 を使って地球から遠く離れた新天地を目指そう、との声明が国連から発表されたが、賛否両論だったらしく反応 は芳しくなかった。宇宙船に搭乗出来る人数は限られているし、宇宙に出たからといって上手くいく可能性は低く、 むしろ当てもなく宇宙を彷徨うだけになる可能性の方が高い。
 更にそのまたまた翌週のニュースでは、宇宙船に搭乗することが決定した世界各国の要人がことごとく殺害され、 宇宙に逃亡して生き延びるというアイディアは立ち消えかけていた。だが、その翌日のニュースで、過去に木星探査に 行ったアストロノーツ達が木星近隣の宙域で人間の住める状態の小惑星を発見したと報じられていた。

「木星辺りって……何かありましたっけ?」

 ゾゾが頭上を仰ぐと、青空の彼方に浮かんでいるワン・ダ・バが思念を通じて答えた。

「ああ、少しだけあったような気がするな。ヤトゥ・マ・ギーの御老体が脱皮した抜け殻がその辺に漂っていたようだ。 俺はそれを目視したわけじゃないが、宙域に浮遊している微粒子で判別出来る。恐らく、人間共が言う居住可能 な小惑星ってのは、御老体の抜け殻のことだろうな。俺は純正品のヤトゥ・マ・ギーじゃないから、そこまでの体格に までは成長出来んが、ヤトゥ・マ・ギーの中でも特に大きな体格の部族ともなれば小振りな惑星ぐらいの規模にまで 成長するはずだ。それが御老体なら、尚更だ。だから、人間共はそれに乗ってどこぞに行ったんだろうな」

「居住区は内側ですかね、外側ですかね?」

「それが問題だな。その辺、書いてないのか?」

「ええと……ちょっと待って下さい、今、確かめますので」

 ゾゾはがさごそとホログラフィーペーパーの束をひっくり返し、木星圏移住に関する情報が仔細に載っている記事を 見つけ出すと、立体映像を呼び出した。それによると、人類は大掛かりなピストン輸送でヤトゥ・マ・ギーの抜け殻に 移住したようだが、紛争を起こさないためなのか人種や宗教ごとに居住区を整理しており、それは抜け殻の内側に 多重構造で形成されていた。どんな技術でヤトゥ・マ・ギーの抜け殻の内側に頑丈な陸地を造ったのかは想像も 付かないが、それなりに上手くやったのだろう。だが、地球上の全ての人間が木星圏に移住したというわけではない らしく、地球に住み続ける意思を表明した人々に関する記事もいくつか載っていた。

「それで、その後は?」

 ゾゾが友人に尋ねると、ワン・ダ・バは少しの間を置いてから答えた。

「木星近隣の宙域に空間超越を行った痕跡がある。ざっと八万年前だな。ということは、人類は二万年程度の年月を 抜け殻の中の多重構造空間で過ごしたってわけか。意外と根性あるじゃないか」

「その抜け殻の行き先は解りますか?」

「観測しようにも、ここからじゃ無理だな」

「それはまあ、仕方ないですね」

 ゾゾは単眼を下げ、再びホログラフィーペーパーを広げた。

「でしたら、感知出来る電波の周波数を思い切り広げてみて下さい。通信の類は送られてきていませんか?」

「紀乃の手紙を守っていた珪素生物の生体電流に比べれば強いだろうから、すぐに拾えるはずだが、なんでだ?」

 ワン・ダ・バは薄い雲に覆われた上空から、巨大すぎる単眼をゾゾに向けてきた。ゾゾは顔を上げる。

「なんでって、なんでですか?」

「いや、だってな、お前はやっとこさ地球に帰ってきたんじゃないか。で、珪素生物が保存してくれていた紀乃の手紙 を見つけて、ようやく再会出来たんじゃないか。もうちょっとこう、味わっていたくないのか? 俺が人類の電波を拾って 応答したとなれば、連中は飛んで帰ってきちまうぞ。二人きりってやつを堪能したくないのかよ?」

「何をですか」

「何ってそりゃ、みなまで言わせるなよ。恥ずかしいな」

 ワン・ダ・バがやや目を逸らしたので、ゾゾは口元を押さえて笑った。

「ああ、そういう意味ですか。確かに私は紀乃さんを愛しておりますし、紀乃さんが生きていた痕跡を見つけたことは とても嬉しいですし、紀乃さんの生体組織が溶け込んでいる海も地球も愛おしくてなりません」

「だったら、どうして他の人類を帰ってこさせようとするんだよ。意味が解らん」

「そうですか。では、御説明いたしましょう」

 ゾゾは背を丸めて頬杖を付き、人類に牙を剥いた挙げ句に人類を宇宙に追いやってしまった海を見渡した。

「地球の環境が激変した原因は、どう考えても私達ですからね。ゼンを倒すことで手一杯だったせいで、地球全土に 蔓延したワンの生体組織を回収、或いは破壊することを失念していました。その結果、人類は生まれ育った地球を 離れて見知らぬ宇宙に旅立たなければいけなくなってしまいました。卓越した科学技術を持っているようですから、 生活環境は整えられているでしょうが、閉鎖した環境での繁殖や繁栄にはかなりの無理が伴います。長らく生物を 取り扱って生きてきましたからね、嫌というほど思い知っています。閉鎖した環境で繁殖を行い続ければ、どれほど 尽力して近親婚を避けたとしても、いずれ全員が何らかの血縁を持ってしまいます。クローンを造ったところで結果は 変わりませんし、むしろクローン同士で交配した末に種族そのものが劣化してしまう可能性が高いです。それに、 人類は土壌ありきの種族です。いかにしてヤトゥ・マ・ギーの御老体の中に理想郷を作り上げたとしても、その中で 造り出した土も水も地球のそれとは構成物質からして違いますし、似て非なるものです。肉体の七割以上が水分で 出来ている人類は、水を全て入れ替えてしまえば生きることすら出来なくなるでしょう。ですから、彼らを滅亡の危機 から救うには、地球の環境を最善に整えてお出迎えするしかないんですよ」

 ワン・ダ・バから流れ込む思念には懸念が入っていたので、ゾゾは少し笑った。

「そりゃ私も生物学上では男ですからね、十万年もの時を経て再会出来た紀乃さんとは、それはもう思う存分愛を 交わしたいと思いますよ。紀乃さんの生体組織を余さず採取して情報を読み取って、彼女の記憶を私の脳といわず 全身に刻み付けたいと思います。けれど、紀乃さんには紀乃さんの人生というものがありますから、何から何までも 調べてしまうのは酷というものです。ですから、御手紙だけで充分なんです。あの文面を見ただけでも良く解りました しね、紀乃さんがとても幸福な人生を送っていたということは。ですから、それ以上は無粋なんですよ」

「しかしだな」

 渋ったワン・ダ・バに、ゾゾは言い返した。

「そんなに仰るのなら、あなたがお調べになったらどうですか。御自身の生体情報なんですから、海水を酌み取れば 容易に情報を読み取れるでしょうに。ですが、私は一切関知しませんからね?」

「解らんのはどっちだ。この期に及んで紳士振りやがって」

 ぐちぐちと零しながら、ワン・ダ・バは衛星軌道上から太く長い首を伸ばし、陸地を完全に覆い尽くしている海面に 鼻先を近付けていった。彼の膨大な質量が侵入してきたからだろう、大気が豪快に荒れ狂った。ワン・ダ・バが少し 動くだけで恐ろしい暴風が吹き付けるので、せっかく集めたホログラフィーペーパーを飛ばされてしまいかねない。 それらを手早く掻き集めたゾゾは駅構内に駆け込んだ。数秒後、海面を渡ってきた暴風が人工島を乱した。
 駅構内のベンチに腰掛けたゾゾは、駅の中にも侵入しているパ・ナーのツタに手を添えた。彼女は嬉しそうに微細な 生体電流を走らせ、ゾゾに意志を伝えてきてくれた。やっと会えたね、私のお父さん。また会えるって信じていた。 皆がそう信じていたから、私もずっと信じていたの。彼女のいじらしさに、ゾゾは目頭が熱くなった。

「あなたは、なぜこの軌道エレベーターに根付いたのですか?」

 ゾゾが優しく問い掛けると、パ・ナーは答えた。お父さんが旅立っていった宇宙に少しでも近付きたかったけど、皆が 眠っている地球を感じていたかったの。それに、この軌道エレベーターはいづるちゃんのおかげで出来たものだ から、守ってあげたかったの。だから、ここに根を張ることにしたの。それに、ここにいると凄く目立つから、お父さん にもすぐに見つけてもらえると思って。そうしたら、全部その通りになったんだ。と、彼女は得意げに語った。

「ええ、そうですね。あなたはとても賢いですよ」

 ゾゾが褒めると、パ・ナーは空に向けた花弁をゆっくりと開閉させた。照れているのだ。

「他に何か、ありますか?」

 ゾゾが問うと、パ・ナーはしばらく間を置いてから新たな情報を生体電流に載せて伝えてきた。それは、ガニガニ の生体組織によって厳重に保護されている紀乃の生体組織から取得した、生々しいほど鮮烈な彼女の感情の数々 だった。それによって、彼が錦戸紀子という名になった紀乃の生体組織と生体情報を保護するために、彼女の遺骨が 散骨されてすぐに海に身を投じ、過電流で肉体を分解処理していたことも解った。ガニガニもまたゾゾが思う以上に 紀乃を愛していたのだ。そうでもなければ、そんなことは出来まい。紀乃が最期を迎えるまで傍に寄り添っていたで あろうガニガニに対して嫉妬が湧いたが、それを上回る羨望にも苛まれた。
 パ・ナーの生体組織で吸収して分解した後に解析された紀乃の生体情報を、生体電流に載せて受け取りながら、 ゾゾは声を殺して泣いた。末継紀子となり、錦戸紀子となり、ゾゾのいない人生を過ごした彼女はとても幸せだった ことが解ったからだ。年相応の華やかな青春を過ごし、大人となって親元を巣立ち、錦戸昇太郎と結婚し、子育てに 奮闘し、時に家族と衝突することはありながらも、満ち足りた日々を過ごしていた。ゾゾを愛していることに悩んだ時も あったようだが、それを振り切って人間的な幸福を選んだことは正解だ。それでこそ人間であり、繁殖と繁栄こそ が生物としての本懐なのだ。ゾゾもそれを望んでいた。だが、ゾゾがいなくなったことで紀乃は幸せに過ごしていたと いう事実を目の当たりにすると、とてつもない寂寥感に襲われる。そうあるべきなのだと理解しても、尚。

「おい、ゾゾ。見つけたぞ。地球人……というには語弊があるかもしれないが、地球人類を祖とする人型種族が発信 している無線の電波を掴んだ。メッセージの内容の解析と発信源を突き止めるまでには時間が掛かるが、連中とは なんとか連絡が取れそうだ。返信したら、奴らは文字通り飛んで帰って来るだろうよ」

 水平線の彼方で、ワン・ダ・バは不本意そうに瞼を下げた。ゾゾは笑う。

「ええ、それでいいのです。この星には、元より私達の居場所はありませんからね」

「なあ、ゾゾ。思うんだが、今更人類には連絡なんてせずに俺達が地球に住んでもいいんじゃないのか? 俺達が 生きるべき世界も失われて久しいんだ、誰もいない惑星を間借りしたっていいはずだ」

「それはいけませんよ、ワン」

「そこまで遠慮するようなことでもないだろう」

 ゾゾの態度にワン・ダ・バが渋ると、ゾゾは静かに言った。

「私達が住むべき世界はニライカナイの彼方にあります。この世界は、言わばニライカナイの入り口です。逃げ回る のも待つのも耐えるのも、もう疲れてしまいました。ですから、ワン。その時は付き合ってくれますね?」

「……お前って奴は」

 ワン・ダ・バは重たく瞼を上下させた後、緩やかに見開いた。

「生まれ変わっても、また出会えるといいな。俺とお前も、お前とあの娘も」

「ありがとうございます、ワン。恩に着ますよ。地球全体の生体洗浄と生体復元と生体改造を行うためには、並みの 量の生体組織ではまかなえませんからね。私とあなたの全てを使い切れば、全て元通りに出来ます。そうすれば、 地球に戻ってきた人類はまた新たな歴史を一から積み重ねることでしょう。そうすれば、どこかで新たな紀乃さんが 生まれ、皆さんが生まれ、私の一部を受け継いだ人間が生まれ、ワンの一部を受け継いだ動植物が繁栄し、それは それは素晴らしい惑星へと生まれ変わることでしょう」

 ゾゾがパ・ナーに笑みを向けると、彼女は花弁を少し窄め、膨らませた。同意を示している。

「そうと決まれば、仕事を始めなければいけませんね。まずは地球全体の質量計算と構成物質の分析、続いて地球 に適応した生体改造技術の研究に並行して放射能除去作業を行いつつ、海洋汚染物質を分子レベルで破壊して、 その合間に地球人類の歴史を紐解いて遺跡として後世に残しておきましょう。歴史は大事ですからね」

「そりゃまた、とんでもなく忙しくなりそうだな」

 ワン・ダ・バは可笑しげに思念を震わせ、パ・ナーもさらさらと葉を擦り合わせて笑った。

「ええ。ですが、それもこれも、全ては紀乃さんと同じ世界で生きるためなのです」

 ゾゾは駅構内から出ると、ワン・ダ・バとパ・ナーを視界に収め、潮風を掴むように両腕を広げた。

「紀乃さんの全ては分子となり、粒子となり、この星に溶けています。ですから、私も分子となり、粒子となり、ニライ カナイの彼方に行った紀乃さんと再会するのです。そうなれば、最早、私達を隔てるものは何もありません。生と死の 壁さえも、私達を阻めなくなるのです。こんなにも幸福なことが、他にありましょうか」

 ワン・ダ・バとパ・ナーは何も言わなかった。呆れているのか、浸っているのか。ゾゾは二人の態度の素っ気なさを 内心でありがたく思いながら、海を見つめた。イリ・チ人の長い歴史に置いて、惑星そのものを作り替えて住みよい 環境に変えた事例は多々あるが、一から環境を作り直すような大掛かりな生体改造を行った事例はない。しかし、 ゾゾが償えることがあるとすれば、それ以外にはない。地球を後にしてからもひどい迷惑を掛け続けていた人類に 謝ったところで許してもらえないだろうから、行動で示すしかないのだ。紀乃が生まれて死んだ惑星で命を散らすの も、十万年もの旅の中で何度となく切望した結末だった。だから、涙が出るほど嬉しかった。
 一つ一つ、地球の環境を元に戻す作業を行いながら、ゾゾは地球を飛び回った。十万年前は忌部島と日本列島しか 目にすることが出来なかったが、極冠を凍結させて水位を調節させ、陸地を露わにしてからは手当たり次第に 移動して、それらしい遺跡を立てて人類の過去を刻み付けた。その合間は、人間のように暮らしてみた。自分の 分子を受け継ぐ人間が息づくかもしれない場所で緩やかな時間を過ごし、ワン・ダ・バとパ・ナーと珪素生物の瓶達と 他愛もない会話を交わした。ワン・ダ・バが現生人類の通信電波を掴んでから約五千年後、宇宙の彼方から応答が あり、現生人類は地球に帰還したい、との意志を伝えてきた。ゾゾとワン・ダ・バの正体を問われたが、敢えて明言 せず、速やかに地球に帰還せよ、とだけ返信した。母なる星が見ず知らずの異星人にいじくり回されて環境が元に 戻ったと知ったら、現生人類は母なる星に無用な嫌悪感を抱くかもしれないからだ。
 全ての作業を終え、ワン・ダ・バの巨体の生体組織を分解して地球に馴染ませ、パ・ナーも命を使い果たして大地の 正常化を開始すると、地球上にはゾゾだけしかいなくなった。海中で生きていた魚介類や海草類も短期間で環境が 激変したことによって一通り絶滅し、全く新しい種が生まれて進化しつつあるが、皆、自我を持つには程遠い知能 しか持っていなかった。
 海面が下降したことによって再び姿を現した忌部島に戻ってきたゾゾは、紀乃からの手紙が入っていた珪素生物 の瓶を海にそっと浸し、彼の生体組織を分解させた。紀乃からの手紙を今一度読み直し、脳と意識に焼き付けた後、 ゾゾはその手紙を丸めて一息に飲み込んだ。尻尾の先を忌部島の地表に擦り付け、ゾゾとワン・ダ・バ以外は 誰も読めなくなったイリ・チ人の言語で短い文章を書き記した後、ゾゾは海に身を投じた。
 紫の硬い肌をくすぐる気泡を感じながら、地球に生体組織を余すことなく与えたゾゾは、薄れゆく意識の中でふと 思った。今し方忌部島に書き記した言葉を、遠い未来の地球人類が解析したとしても到底意味が解らないだろうし、 苦労して解析して意味が判明したところで戸惑うに違いない。だが、それは至極当然だ。
 ゾゾの遺言ともいうべき言葉の意味は、紀乃へのラブレターなのだから。







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