黒のネクタイを締め、ワイシャツの襟を整える。 鏡に写る自分の顔は見慣れてきたが、自分の姿が目視出来ることはまだ慣れきっていない。ベルトを締め直し、 腕時計を巻いて携帯電話を内ポケットに突っ込み、限りある語彙を絞り出して書いた便箋を折り畳みつつ、窓の外 から正面玄関の駐車場を窺った。マイクロバスは既に到着していて、暖機しているのかエンジン音も聞こえている。 女性陣の声色は明るく、用事の内容はどうあれ、出掛けられることを喜んでいるらしい。 「御兄様、準備は出来まして?」 ドアをノックした後に入ってきたのは、家紋の入った黒い着物を着た上の妹だった。 「ああ」 忌部は黒いスーツを羽織ろうとしたが、一瞬躊躇した。ホルスターを付けていなかったからだ。だが、すぐに拳銃を 持たずに済む立場になったのだと思い直して喪服に袖を通した。人間の姿を得た翠は珍しく落ち着きがなく、着物 に似合うハンドバッグを開いて中身を確かめてみたり、辺りを見回したり、結い上げた髪をいじったりしている。忌部が 目を向けると、翠は気恥ずかしげに薄化粧をした頬を染めた。 「皆さんと御一緒に出かけることなんて初めてなものですから……」 「そうだな。全員揃って、なんてことは最初で最後だろうしな」 忌部は自室のキーを付けたキーホルダーをポケットに入れてから、翠を促した。 「ですわね。今日という日を大切に過ごしませんと」 翠は微笑み、忌部に従った。忌部は自室のドアを閉めてから、殺風景な廊下を歩いた。草履を履いた翠の足音は 柔らかく、長い髪を丸く纏め、黒真珠の髪留めを付けている。竜人の姿でも充分色っぽかった項が、薄い後れ毛の せいで一層色香が増している。喪服の黒さが肌の白さを際立たせているから尚更だ。忌部の視線に気付いたのか、 翠は口元に手を添えて目を細めた。 「いかがなさいましたの、御兄様」 「綺麗だよ、相変わらず」 「まあ、御上手」 翠はくすくすと笑みを零し、到着したエレベーターに乗り込んだ。すると、携帯電話が内ポケットで振動し、メールが 一通届いた。それは山吹丈二からのメールで、秋葉共々法事に参加出来ないことを惜しんでいた。波号こと紗波を 養子として迎えるための準備に奔走しているので時間が取れないのは仕方ないが、忌部も二人が来られないのは 残念だった。その代わりにお互い都合が合う時に会おう、と、山吹宛にメールを返信してからエレベーターを下り、 玄関ホールから正面のロータリーに出ると、制服姿の姪達が待ち構えていた。 「忌部さん、遅い!」 来年の春から通う高校の制服を着た紀乃は、腕時計の文字盤を指先で叩き、文句を付けてきた。 「喪主のくせに」 紀乃の隣に立っていた同じく制服姿の露乃は、度の強いメガネ越しに忌部を見据えてきた。 「すまん。ちょっとな」 忌部は平謝りしてから、マイクロバスに向かった。忌部と翠以外の一族は既にマイクロバスに揃っていて、運転手も 出発する時を待っている。紀乃と露乃が乗り込んだので、先に翠を乗せてから最後に忌部は乗り込んだ。運転席の すぐ傍の席に腰掛ける前に、マイクロバスの中を見渡した。 兄の鉄人、その妻の溶子、姪の紀乃と露乃、兄嫁の姉の息子の甚平、継母のかすが、その娘の翠、忌部と腹違い の妹のいづる、そしてガニガニ。ガニガニは持ち運びの出来る飼育ケースに入れられ、車に乗ることに戸惑って いるのか触角とヒゲを動かしている。衣服を着られない甲殻類である彼以外は、法事に相応しい恰好をしていた。 いづるは制服姿の姪達が羨ましいのか、飾り気のない黒のワンピースを不満げな目で見下ろしている。だが、紀乃 と露乃は、黒のストッキングとパンプスを履いて黒真珠のネックレスを付けたいづるの大人っぽさに見取れている。 どちらも無い物ねだりだ。鉄人はネクタイを緩めようとするが、溶子に気付かれてすぐに元に戻された。翠はマイクロ バスが物珍しいのか、しきりに見回していて、補助椅子や天井付近に付いている冷房のファンなどを見つけては 目を輝かせていた。サメ人間だった頃ほどではないが体格の良い甚平には、マイクロバスの座席は窮屈なのか、 手足を持て余していた。 「全員乗りましたね? それでは、出発します」 マイクロバスの運転席に座っているのは、パンツスーツ姿の鈴本礼科だった。 「色々と御世話になります。というか、こんなことも出来るんですね、鈴本さんは」 忌部が一礼すると、礼科は慣れた手付きでギアを切り替え、大きなハンドルを回転させて車体を動かした。 「ええ、まあ。ヘリに比べれば大したことないですし」 「そんなん、あたしの方がマジすげーし」 いづるはトップコートだけを塗った爪を指先でなぞりながら、不満げに零した。 「能力さえあればの話だろうが。いつまでも拘るな」 忌部は斜め後ろの席に座るいづるを窘めたが、いづるは顔を背けた。次女の隣に座っているかすがは、膝の上に 載せている風呂敷包みに手を添えながら、忌部に目線を向けてきた。かすがと目が合った忌部は肩を竦めると、 妹の不機嫌そうな横顔を顎で示した。かすがはいづるに注意はしなかったが、小声で一言二言話し掛けた。だが、 いづるの機嫌は戻らず、マスカラとアイラインに縁取られた目はあらぬ方向を睨み付けた。マイクロバスが発車して も変わらず、親族達の雑談には混じるが忌部には話し掛けてこなかった。妹の扱いづらさに辟易しながら、忌部は 窓の外をぼんやりと眺めていると、横浜の臨海副都心を過ぎた瞬間に風景が一変した。瓦礫、瓦礫、瓦礫。 竜ヶ崎全司郎ことゼン・ゼゼによって破壊し尽くされた市街地は自衛隊によって徐々に片付けられてきたものの、 範囲が広すぎるので復興には程遠かった。箝口令が敷かれているであろう自衛隊と廃棄物処理業者は、廃墟には 不釣り合いなマイクロバスが通り過ぎると揃って目を向けてきた。誰もが作業の手を止め、重機を操縦する者ですら 一瞬手を止め、好奇心と畏怖と警戒心を混ぜた視線を投げてきた。こんな時にこんな場所を通れるのはあの戦い の関係者だけだが、その数も限られてくるので、おのずと見当が付いてしまうからだ。だが、インベーダーと死闘を 繰り広げた忌部を含めた御三家は一人残らず死亡扱いになっているので、彼らの想像が働く範囲はせいぜい御三家 の友人知人止まりだろう。 世界を救うヒーローになれなかったのはほんの少し残念だが、特殊能力を持った身の上で生きる辛さはこれまでの 生活で嫌と言うほど思い知っているので、悔いを感じたことはただの一度もなかった。 破損したアスファルトが剥がされている道路を通り、折れ曲がった標識を辿り、放置されて久しい車両が道路脇に 寄せられた幹線道路を抜け、誰一人住んでいない住宅街を過ぎ、目的地に到着した。 忌部一族の歴史が眠る、寺院だった。 忌部家之墓。 御三家の忌まわしい歴史の深さに比例した大きさの墓は、納骨式の準備が整えられていた。鮮やかな菊の花が 両脇に飾られ、果物、落雁、日本酒、重箱、餅、塩、米、淹れたばかりで湯気が昇る緑茶が供えられている。読経を するのはこの寺院の僧侶ではなく、空印寺の僧侶だった。僧侶が名乗った途端、紀乃は青ざめて謝り、甚平もまた 空印寺に迷惑を掛けたことをしどろもどろになりながら謝った。忌部も二人に続いて謝ると、僧侶は政府が保証して くれたから大丈夫だと言い、本当に悪いのはインベーダーだから、とも言ってくれた。それで何もかも許されたわけ ではないが、長らく心中で凝っていた懸念は解れてくれた。 僧侶が経文を読み上げ終えると、納骨になった。かすがはずっと膝に載せていたゆづるの遺骨を下ろし、風呂敷を 解いて骨壺を出した。納骨室の入り口を塞いでいる家紋入りの石を動かし、その中にゆづるの遺骨を入れたが、 病身であった前妻の遺骨は少なかった。空になった骨壺に蓋をして風呂敷で包み、かすがは肩を震わせた。 「ごめんなさい……お父さん……」 白いハンカチで目元を押さえたかすがは、大きく息を吸ってから、言葉を絞り出した。 「こんなにも、時間が掛かってしまって」 墓石に刻まれた家名に溜まっていた水が、一筋零れ、滴る。 「ゆづるさん。お父さん。何もかもが終わりましたよ。だから、どうかゆっくり休んで下さいね」 「あ、あれって」 不意に、甚平が声を上げた。その隣に立っていた露乃は、甚平の目線を辿って意味を察した。 「ああ。あれだ」 「あれって、アレのこと? つか、前に来た時はあんなもんなかったんだけど」 いづるが忌部家の墓地の敷地内に立つ五輪塔を示すと、甚平は剣の形を手で作りながら言った。 「あ、うん。あれって、その、継成さんの生体情報が入った珪素生物、っていうか、チナ・ジュンが収まっていた墓石 っていうかで。てことは、斎部家の人が移転してくれたのかな」 「竜ヶ崎の野郎の財産やら何やらをあるべき場所に戻していったら、あの墓石も俺達の財産ってことになったんだ。 だから、法事の前に移転させたんだ。もちろん、斎部家の人には断ったし、それ相応の礼もした。本当は忌部島に あるべきものなんだが当の忌部島がああなっちまったんだ、ここに置くしかないだろうって思ってな。妥当だろ?」 忌部が五輪塔を移転した経緯を説明すると、ガニガニにも墓を見せてやりながら紀乃が言った。 「御前って言えば、真波さんもそうだよね。最初で最後なんだもん、どうせなら呼べばよかったのに」 「あ、うん。僕もそう思う」 甚平が控えめに同意すると、露乃はやや身を引いた。 「僕は嫌だ。あの女だけはどうしても好きになれない」 「俺も主任だけはどうにも苦手だが、一応、呼ぶには呼んだんだ。だが、断られたよ。体の調子がまだ万全じゃない こともそうだが、俺達に合わせる顔がないのが最大の理由だそうだ。解る気はするが」 忌部はそう言ってから、読経を終えた僧侶に丁寧に礼を述べた後、皆の列に戻って墓を一望した。 「親父の入った墓には絶対入りたくないって常々思っていて、自分の墓を建てるために必要な金もある程度は用意 していたんだが、なんだかその気が失せてきたな」 「まだ先のことだ、ちゃんと考えるのはこれからでいい。だが、収まるべきところはここだろうって気はする」 鉄人は弟に倣い、両親とその先祖が眠る墓を見渡した。 「その方が楽っちゃ楽だしな、色々と。まあ、俺は都心からは離れて暮らすから、後の管理は兄貴に頼む」 忌部が鉄人の肩を叩くと、鉄人は弟を一瞥した。 「大した御前様だよ」 「でも、これでようやく一段落なのよね」 溶子は声を殺して泣いているかすがを宥め、立たせてから、笑みを浮かべた。 「……ええ」 かすがはハンカチで口元を押さえながら、弱く頷いた。一通りやるべきことを終えたので、皆、次の目的地に移動 するために駐車場に向かっていった。その前に一息吐きたかったので、忌部は黒いスラックスのポケットからタバコの ケースとライターを取り出した。すると、横から兄の手が伸びてきた。 「俺にもくれないか」 忌部はタバコを二本抜くと、一本を鉄人に渡し、一本を銜えた。まず自分のタバコに火を付けてから兄のタバコに 火を付けてやり、煙を浅く吸い込んだ。携帯灰皿を手の中で弄びながら、忌部は兄を見やった。 「また随分と薄いのを吸っているんだな」 鉄人が煙を口の端から零しながら笑うと、忌部は肩を竦めた。 「恰好だけだからな。本気で吸っているわけじゃない。だから、翠達と一緒に住むようになったら止める」 「俺もだ。政府が寄越してくれた金を湯水の如く使って建てた家とはいえ、我が家だからな。ヤニで汚したくない」 鉄人は墓の囲いに腰を下ろすと、タバコを口元から外し、忌部の手の中の携帯灰皿に灰を落とした。 「母さんが死んでから、十九年も過ぎちまったのか。早いもんだな、俺も歳を食うわけだ」 「あの頃、兄貴は高校生で、かすがさんも高校生だったのか。んで、溶子さんはまだ中学生で」 「誰も彼もガキだったんだ。でも、なんとかしてあのクソ野郎から逃れようとしていたんだ。俺も溶子もかすがさんも、 父さんだって例外じゃない。皆が皆、戦っていたんだ」 「そんなこと、兄貴に言われるまでもねぇよ」 兄の隣に腰を下ろした忌部は煙を全て吐き出してから、少し湿ったフィルターを銜え直した。 「だが、俺は途中までは全然そんなことは知らなかったんだ。いきなり体が透明になったが、自分の生まれについて までは調べようともしなかった。親父のことは心底誤解していたし、兄貴のことですら恨んでいたから、自分のルーツ を知ることすら嫌だったんだ。そうでなかったら、もっと早くから竜ヶ崎の野郎に立ち向かえていただろうに」 「言うな。もう、終わったことなんだ」 鉄人は忌部の肩を叩き、口の端を上向けた。 「兄貴は、俺を恨んだりはしないのか?」 「なんで俺がお前を恨む必要がある?」 「色々とあると思うぞ」 忌部は両足を玉砂利に投げ出し、晴れ渡った空を仰ぎ見た。 「まるっきりないわけじゃないが、もう、いいんだ。あんまり思い出させないでくれよ、あのやり場のない気持ちを」 鉄人はフィルターの手前まで吸ったタバコを外し、携帯灰皿にねじ込んで火を消した。 「一生分、人を恨んだ。自分の体のどこからこんなに嫌な感情が出てくるのか、不思議なぐらいにクソ野郎が憎くて 憎くて気が狂いそうだった。ヘドロを煮詰めたみたいな憎悪を戦意に変換出来たから、俺も溶子も最後まで正気を 保っていられたが、そうすることが出来なければ心が折れていた。お前に対しても何かしらの感情はあるが、正直 思い出したくないし、今更思い出す必要もない。乙型生体兵器の虎鉄は死んだ。芙蓉も死んだ。だから、ここにいる のはただの斎子鉄人なんだ。明日からは末継鉄郎になっちまうけどな。そういうお前はどうなんだ、次郎」 「俺も、兄貴や親父に対する感情は一言じゃ言い切れん。恨みもしたし、憎みもしたし、嫌いもしたが、全部終わって みると、なんであんなに嫌えたのか解らなくなっちまった。だから、お互い忘れようぜ、兄貴」 「それがいい」 「けどな、どうしても許せないことが一つだけある。作戦の都合とはいえ、翠を暴走させたことだ」 忌部はタバコの吸い殻を携帯灰皿にねじ込み、言い捨てると、鉄人は声色を落とした。 「すまん」 「あの約束、まだ有効だよな?」 何の約束だ、と鉄人が聞き返す前に、忌部は立ち上がって拳を固め、鉄人の腹部に思い切り叩き込んだ。だが、 手応えはなく、拳には予想外のダメージが返ってきた。恐ろしく腹筋が硬かったからだ。忌部が右手を振って痛みを 誤魔化していると、鉄人は若干の間を置いてから咳き込んだ。まるで効かなかったわけではないらしい。 「……ああ、あれか」 「後で一発殴らせろ、って言ったきりだったからな」 忌部が加虐的に頬を歪めると、鉄人は背を丸めながら立ち上がり、弟に殴られた腹をさすった。 「気が晴れたか?」 「ほんの少しだけな。だが、俺ももうガキじゃない、分別ぐらいは弁えているさ」 「スーツでさえなかったら、遊んでやるところなんだがな。これでも生体兵器だったんだ、なかなかの腕前だぞ?」 鉄人はにやけながら挑発してきたが、忌部は気恥ずかしくなって顔を背けた。 「止せよ、格好悪い」 「昔はよく取っ組み合って遊んだじゃないか。その延長だとでも思えばいい」 「いつの話だよ。今の俺と兄貴は三十路を越えたおっさんであってだな」 「で、翠とはどうにもならないつもりなのか?」 「なんだよ急に!」 忌部がぎょっとすると、鉄人は駐車場の方向を見やった。女性陣はお喋りに花を咲かせている。 「戸籍の上では義理の妹で厳密に言えば遠い親戚だが、お前自身と翠にははっきりとした血の繋がりがないんだ。 だから、このどさくさに紛れちまえば、結婚でもなんでも出来るんじゃないか? 家族で住むにしても、かすがさんと いづるちゃんの二人きりにしてやってもいいじゃないか。お前まで一緒に住むことはない。女だらけの中に男が一人 だけいても、肩身が狭いだけだぞ?」 「最後のは恐ろしくリアリティがあるな」 「うちの家族は女系だからな。遠からず義理の息子が出来るとはいえ、それもまた女々しい奴ときたもんだ。で、どう するんだ。後で後悔しても手遅れだぞ。何もかも放り出して駆け落ちして、誰も知り合いのいない土地で次郎と翠が 夫婦になっても、文句を言う奴はいない。むしろ、それでもいいとすら思う。お前達が幸せになるのなら」 「翠は……妹だ」 忌部は兄と向き合い、語気を弱めながらも言い切った。 「お前がそう思うのなら、それでいい。俺にとっても、翠は妹だからな」 鉄人は安堵と少しの落胆を含め、呟いた。忌部は兄にもう一本タバコを勧めてから、自分も新たに銜えた。 「ああ、そうだ。俺達は兄妹なんだよ」 忌部は透き通らなくなった手を開き、妹の冷たく硬い肌を撫でた感触を思い起こした。自分や妹の存在を拒絶して 流れていく世界を疎み、思ったように生きる他人を羨み、空虚さしか得られない日々に多少の刺激と温もりを与える ために、この手で妹の肌を探った。安易に、短絡的に、即物的に、物理的に、互いを埋め合った。だが、その行為 が成したものは何一つない。あのまま関係を引き摺っていても、どちらも本当の幸せを知らずに深みに填ってしまう だけだ。日々、少しずつ視点を変えて妹と接しよう。今度は首筋ではなく、横顔を見よう。目を見よう。表情を見よう。 態度を見よう。明日からは新たな名と戸籍を得る妹の全てを見て、兄らしく真っ直ぐに愛してやろう。 「だとさ。良かったな、父さん、母さん。次郎は変態だが、人間的には真っ当だ」 鉄人は忌部の手からタバコのケースを引き抜くと、一本抜き、火を灯して線香の隣に供えた。 「俺のどこが変態だ。服を着るのが腹の底から嫌いなだけだ」 忌部が真顔で言い返すと、鉄人は噴き出した。 「全くどうしようもねぇな、うちの御前様は!」 鉄人は荒っぽく忌部の髪を掻きむしり、笑い転げた。その声は遠い昔に耳にした父親の声色にどこか似ていて、 忌部は無性に照れ臭くなったが顔には出さなかった。待ちくたびれていたのか、マイクロバスに乗り込むと紀乃から 遅いと文句を言われたが、諸事情を説明するのが面倒なので額を弾いてやった。鉄人は娘を窘めてから、弟の額を 同じように弾き返し、笑い転げた。忌部は額の痛みを堪えながら運転席傍の座席に座り込み、バックミラー越しに 翠と目が合うと、妹は笑いかけてきたので、忌部はごく自然に笑い返した。 そこに、一欠片も下心はなかった。 11 6/8 |