南海インベーダーズ




衝動的汚染行為



 この瞬間を、どれほど願っていたことか。
 息を切らせて病院の自動ドアをくぐり、ロビーを走り抜ける。エレベーターのボタンを乱暴に押したが到着するまで とても待ってられず、階段を駆け上っていった。革靴とスラックスでは走りづらく、階段につま先が引っ掛かったのも 一度や二度ではなかったが、辛うじて転倒は免れた。激しく息を荒げながら、病棟の部屋番号を見渡すが目当ての 番号を見つけるまでの間すらもどかしい。病室を見つけた途端、腫れぼったい疲労が蓄積していたはずの足が軽く なってその方向に駆け出した。スライド式のドアに手を掛けようとしたが、汗が滲んだ手をスラックスで何度も拭って から固唾を呑み、ぎこちない手付きでノックした。間を置かずして答えが返ってきたので、白崎はドアを開けた。

「……あっ」

 ベッドの上では、一ノ瀬真波が長い黒髪をまとめようとしていたところだった。枕元にはヘアブラシがあり、彼女は 両腕を高く上げていたので入院着の袖から腕が出ていて、それがいやに艶めかしかった。窓から差し込む極彩色の 西日が眩い輪郭を作り、絵画じみた構図を作り出していた。暴れ回る心臓の痛みも肺の苦しさも何もかも忘れた 白崎は、硬直した。真波は髪を地味なシュシュで一纏めにしてから、背中に払い、白崎に向き直った。

「まさか、こんなに早く来てくれるなんて思わなかったから。こんな恰好でごめんなさい」

 化粧をしていない素顔であることが恥ずかしいのか、真波は目を逸らし、ベッドサイドに広げてあったメイク道具を 一瞥した。そんなもの、元からする必要はない。白崎はそう言おうとしたが、言葉が出てこなかった。どこかの病室 から流れてくるテレビの音声は、都心で起きた未曾有の大災害の続報を伝えている。都心が復興するまでの首都 機能移転の問題、インベーダーの正体について、インベーダーである大怪獣と戦い抜いて全滅した一族について、 変異体管理局の功罪について。
 かすかに頬を染めた真波と向き合いながら、それらの音声を耳にしていると、強烈な感情が込み上がってきた。 同時に、この二ヶ月、胸中で渦巻いていた真波への見苦しい執着が昇華され、年甲斐もなく涙が出てきた。膝からも 力が抜けてしまい、白崎は病室に入る手前でへたり込んだ。

「白崎君?」

 真波はベッドから立ち上がろうとしたが、腰を浮かせただけで顔を歪めた。

「一ノ瀬……」

 ああ、生きている。本物だ。間違いない。白崎はドアの取っ手に手を掛けてよろよろと立ち上がると、真波のいる ベッドまで近付いたが、今の自分がどんな顔をしているのかは考えたくなかった。きっと、この世の誰よりも情けない 顔をしているに違いない。だらだらと流れる涙が頬と顎を伝い、ワイシャツのカーラーとネクタイを濡らした。真波は 不安げに白崎を窺ってくるが、上手く言葉が出ないようだった。白崎はベッドの傍で座り込み、毛布を握る。

「どうして泣いているの?」

 真波の戸惑った声が頭上に掛かり、白崎は嗚咽混じりに答えた。

「そんなの、決まってるじゃないか」

 都心での戦いに巻き込まれたのではないかと思っていた。ドライブインで再会し、連絡先を交換したのに、一向に 連絡が来なかったのはそういうことではないのかと。嫌われたのならそれはそれでいい、生きているからだ。だが、 真波が死んでいたとしたら。全長五十メートルの一つ目オオトカゲの化け物に踏み潰されでもしていたら。恐るべき インベーダーと戦うために能力を備わっていたという御三家の戦闘に巻き込まれていたら。それ以外にも嫌な想像が 頭を過ぎったことは何度もあった。悪夢を見て目覚めたことも一度や二度ではない。真波が本物であるかどうかを 確かめたくて震える手を伸ばすと、真波の少し冷たい手が白崎の汗ばんだ手を包んできた。

「心配してくれてありがとう。この通り、私は無事だから」

 真波は物憂げに目を伏せ、語り始めた。あの夏の夜、ドライブインで白崎と別れた後、無事に男の手から我が子 を取り戻したこと。その際に少しだけだが情を交わし合い、親子なのだと実感出来たこと。だが、その直後に真波に 変異体管理局から命令が下り、後方支援としてインベーダーとの戦いに参戦したが戦闘に巻き込まれ、右足を負傷 してしまったこと。都内の病院がほぼ壊滅しているので福井の病院に入院したが、身動き出来ない上に事後処理や 治療などで忙しく、白崎に連絡するタイミングが掴めなかったこと。そして、今日、やっと電話が出来たこと。

「良かった、本当に……」

 もっと言うべき言葉もあっただろう。言いたい言葉もあっただろう。だが、白崎はそれ以上は言えず、ただひたすら 泣いた。真波は白崎の手を握っていたが、その力は強かった。それが一層嬉しくて泣いた。泣けば泣くほど、真波を どれほど思っていたか実感する。嗚咽を繰り返しすぎて呼吸すらままならなくなり、シーツを千切りかねないほど 握り、言葉にならない言葉を吐き散らした。面会時間を過ぎてもなかなか泣き止むことが出来なかったが、真波は 白崎が落ち着くまで待ってくれた。
 長い時間を掛けて人間らしい言葉と冷静さを取り戻してから、白崎は真波から送り出され、病室を後にした。駐車場 に駐めておいた愛車に戻って運転席に深く座り込んだ白崎は、藍色に変わりつつある空をフロントガラス越しに 見上げながら、泣きすぎて嗄れた喉から引きつった笑みを漏らした。
 これで、白崎は竜ヶ崎全司郎に勝てる。




 彼女は、自分が知らない男を知っている。
 少し前までの自分なら、そんなことは全く気にしなかっただろう。むしろ、三十路を過ぎた人間にまるで恋愛経験が ない方がおかしい、とすら思うし、明かせない過去の一つや二つは白崎凪自身も抱えている。それまで付き合った 女性達にもそうしていたし、友人達にもそうしてきたが、真波だけは違っていた。
 基本的に白崎は事なかれ主義である。優しいというよりも、角を立てずに当たり障りのない生き方を努めてきた。 深入りはせずに傍観することも多く、人間関係は浅く広い。お前は八方美人だと言われたこともあったが、無遠慮に 他人のトラブルに深入りして厄介事に巻き込まれたり、敵意を向けられたりしたくないから、自己防衛の手段として 徹底していた。ずっとそうしてきたし、これからもそれは変わらないとばかり思っていた。だが、真波に関しては何も かもが例外だった。深入りする、などという言葉では済まされないほど、彼女に入れ込んでしまった。
 白崎と真波が初めて接触したのは、大学のゼミでだった。同じ学部に通ってはいたが特に接点のない女子学生で あり、人目を惹く要素もなかったので、真波の存在は朧気にしか認識していなかった。無地のTシャツにジーンズ、 引っ詰め髪に度の強いメガネという、色気の素っ気もない恰好をしていたから尚更だった。勉学にしか興味がない のが見て取れ、実際、真波の成績はずば抜けて高かった。学内は親しい友人がいる様子もなく、必要に駆られない 限りは他人と言葉を交わすことすらなかった。時折、携帯電話で誰かと会話していることがあったが、その時の真波 は言葉尻や表情が妙に艶っぽかったので、どこぞの男に囲われているんじゃないかという噂が立ったこともあった。 それが事実だと知ったのは、それから何年も過ぎた後ではあったが。
 第一印象は良くもなく、悪くもなかった。ただ、人の目を見て話さないことが引っ掛かった。ゼミに通ううちに次第に 真波は女らしくなっていき、化粧もするようになり、スカートも履くようになったが、表情を変えることはなかった。自分 以外の人間を人間として認識していないような、それ以前に生物として認識していないかのように誰に対しても冷淡な 態度を取っていた。教授や先輩にも例外ではなかったので、悪態を吐かれたり粗野に扱われたりもしたが、真波 の態度があまりにも希薄すぎて、からかい甲斐がないとすぐに収まった。
 真波は人間ではないのではないか、という素っ頓狂な噂が持ち上がったりもした。白崎は他のゼミ生に合わせて 馬鹿げた噂を笑い飛ばしたが、真波の様子を窺うようになっていた。真波が人外ではないかという噂を真に受けた わけではなく、蝋人形よりも表情が乏しい女子生徒の人間性が気になったからだった。だから、真波をゼミの飲み会 に誘ったり、白崎が所属するサークルに誘ってみたが、返事すら返ってこなかった。その時は恋愛感情を抱いて いたわけではなかったので、暇潰しを兼ねた好奇心に過ぎなかった。だが、二度三度と誘ってみると真波は折れ、 飲み会に顔を出してくれた。白崎のしつこさに辟易していたのかもしれない。
 宴席での真波は普段となんら変わらず、酒は人並みに飲みはしたが、表情は一切動かなかった。際どい下ネタを 振られても、男子生徒から卑猥な言葉を投げ付けられても、一気飲みを強要されようとも、男性遍歴が派手な女子 生徒からひどい嫌味を言われても、何をされても真波は無反応だった。次第に気が咎めてきた白崎は真波に謝り、 彼女を連れて宴席を抜け出したが、それでも真波は無反応だった。彼女の住まうアパートまで送り届け、何十回目 かも解らない謝罪をすると、真波は言った。白崎君が気にすることはないわ、彼らが下劣なだけだから、と。
 真波を意識するようになったのはそれからだ。それまで、上っ面だけの付き合いをしていたゼミ生達とは少しずつ 距離を開け、真波に近付くようになった。それでも真波の態度は軟化すらしなかったが、真波の人となりが日を追う ごとに解るようになった。好きな本のジャンル、着てくる服の趣味、慎ましやかな化粧の匂い、長い黒髪の艶やかさ、 分厚い学術書のページを捲る指の細さ、横顔の端正さ。何を取ってもそれまで白崎が出会ってきた女性達とは 一線を画していて、興味は尽きなかった。
 恋人にはなれなくとも親しい間柄にはなりたい、と密かに願った白崎は、真波を誘って遊びに連れ出そうと計画 を立て始めていた。だが、真波は前触れもなく大学も辞めてしまい、その計画は頓挫してしまった。真波のアパート にも行ってみたが、彼女が住んでいた部屋は引き払われて郵便受けの名札は剥がされたばかりだった。男が出来て 駆け落ちでもしたのだろう、との噂が飛び交って、白崎は人知れず傷付いたが誰にも明かさなかった。恋という以前 のものでしかなかったのだ、と自己完結した。
 それからは真波とは接点すらなかったが、大学を卒業して都内の企業に就職してしばらくした頃、彼女らしき人影を 見かけたことがあった。不慣れな仕事と人間関係に体の芯まで疲れ果ていて、重い足を引き摺って自宅アパート への帰路を辿っていると、産まれたばかりの赤子を腕に抱えた女性が対向車線の歩道に立っていた。
 夜遅い時間だったので、産着の白さがいやに目立っていた。メガネを掛けた面差しと立ち姿は白崎の記憶にある 真波のものと大差はなかったが、薄暗さも相まって疲れが際立っていた。立ち止まった白崎はその女性に声を掛け ようか否か、しばらく迷ってしまった。真波だとしたら、一体誰の子を産んだのだろうか。妊娠したから大学を辞めた という、あの噂は本当だったのか。相手の男と結婚したのだろうか。それとも、未婚の母なのか。
 白崎の脳裏には無数の想像と言葉が駆け巡ったが、心臓がひどく痛み、喉が渇き、目眩を覚え、動揺のあまり、 呻きすら絞り出せなかった。真波らしき女性は腕に抱いた我が子を見つめていたが、その顔には初めて感情らしい 感情が浮かんでいた。それは紛れもない憎悪で、今にも赤子を道路に投げ捨てかねないほど鬼気迫っていた。
 赤子が母を求めて小さな手を伸ばすも、真波らしき女性はその手が穢らわしいと言わんばかりに身を引いて顔を 遠ざける。白崎は先程とは違う痛みが心中に広がったが、足を縫い付けられたかのように動けなかった。すると、 対向車線に大型車が滑り込み、真波らしき女性の前に留まった。スモークが張られた車内の様子は窺えなかったが、 行き交う車の走行音に混じって小さな声が聞こえた。真波らしき女性が車内の人間に声を掛けたようだが、その声は 山盛りの御菓子を目の前にした少女のように弾んでいた。大型車、今にして思えばリムジンカーだが、威圧感さえ ある大きさの車体が走り去った後には真波らしき女性の姿は消えていた。
 それからしばらく、白崎は突っ立ったまま動けなかった。あれが一ノ瀬真波だという根拠はどこにもないが、彼女 が抱いていた赤子が本当に彼女の子宮から生まれ出たものなのかを知る術はないが、彼女が笑いかけた相手が どこの馬の骨かすら解らないが、ありとあらゆる神経が焼き切れそうなほどの嫉妬が湧いてきた。酔ったようにふら つきながら帰宅した白崎は、在り合わせの夕食も酒も喉を通らず、風呂にも入らずに布団に潜り込んだが、眠気が 起きるどころか神経が立ちすぎてしまい、眠気を起こすために無理矢理酒を飲んだ。だが、瞼を閉じれば真波らしき 女性の憎悪に満ちた表情がちらついて、ほとんど聞き取れなかったにも関わらず耳の奥にこびり付いた弾んだ声 が蘇って、眠気を遠ざけた。悶々とした一夜を過ごした白崎は、心身の火照りと高ぶりを持て余しながら、ぐらぐらと 煮え滾る心中から一つの結論を出した。
 白崎凪は、一ノ瀬真波を愛して止まない。




 まともに仕事をこなせたのは、社会人としての根性としか言いようがない。
 終業時間になった直後、白崎はすぐさま仕事着を脱ぎ捨てて私服に着替えて自家用車に飛び乗った。向かう先は もちろん真波が入院している病院で、信号待ちの時間すらもどかしかった。ハンドルを小突いて苛立ちを誤魔化し、 出来る限り抑えた速度で交差点を抜け、病院が見えてきたところであることに気付いた。真波の病室を訪問する にしても、手ぶらではまずいのではないか。それに、昨日は動転しすぎて醜態を曝してしまった。今になって羞恥心が 起きた白崎は呻きを漏らしたが、開き直るしかないと腹を括った。病院の駐車場に車を駐め、シートベルトを外し、 イグニッションキーを抜くが、ドアを開くためには勇気が必要だった。白崎は大きく息を吐き、吸い、もう一度吐いて、 ようやくドアのレバーに手を掛けた。勢い良くドアを開けて外に出ると、腹が据わった。
 エレベーターに乗り、その中に備え付けられている鏡で身だしなみを整えてから、真波の病室がある階に下りた。 ナースステーションで看護士に面会する旨を伝えてから彼女の病室に向かうと、先程の緊張など足元にも及ばない ほどの緊張が襲い掛かってきた。震えそうになる手でノックすると、返事が返ってきた。

「いらっしゃい、白崎君」

 白崎がスライド式のドアを開けた途端、真波が笑みを向けてきた。昨日はシュシュで一括りにしただけだった髪は 太い三つ編みになっていて、背中に垂れている。少しばかり化粧もしたのだろう、唇は淡いピンクに彩られている。 白崎はなんとか笑顔を作り、病室に入った。真波はベッドの上で体をずらし、白崎と向き合った。

「昨日は、ごめん」

 白崎が赤面しながら謝ると、真波は首を横に振った。

「いいのよ、気にしないで。とても嬉しかったから」

「嬉しい? だって、俺、あんな」

 白崎が戸惑うと、真波は目元を拭った。

「私のことをあんなに心配してくれる人は、白崎君が初めてだったから」

 だったら、あの日、真波を迎えに来た男はどうなのだ。真波を孕ませた男はどうだったというのだ。

「ごめんなさい。大したお持て成しも出来なくて」

 あの日、真波が抱いていた赤子の父親にはどんなことをしてやっていたのだ。

「白崎君が来てくれるって解っていたら、せめて、何か用意していたんだけど」

 夜逃げ同然に大学を辞めた後、あの車に乗っていた男にも、そんな顔を向けていたのか。

「……白崎君?」

 真波が不安げに見上げてきたので、白崎は我に返った。

「あ、いや、そんなの全然気にしないで。俺はただ、一ノ瀬の顔を見に来ただけだから」

「ありがとう。それだけでも、凄く嬉しいわ」

「嫌だったら、そう言ってくれ。だって、俺とは元々そんなには親しくなかったわけだし」

 最低限の予防線を張る自分を情けなく思いながら、白崎はパイプ椅子に腰掛けた。真波は眉を下げる。

「そんなことないわよ。私のことを覚えていてくれただけでも、本当にありがたいんだから。こうしてお見舞いに来て くれる人なんて、白崎君だけよ」

「でも、職場の人とかは来てくれるんじゃないのか?」

「福井の病院に入院しているってことは誰にも教えていないし、他の局員も大変な目に遭っているだろうし、そもそも 私は局内の誰とも親しくなかったから、まず期待出来ないわね。でも、それでいいのよ。右足のことだってそう。私は 受けるべき罰を受けたのよ。そんな時に白崎君と出会えたのは、本当に幸運なことなの。けれど、これからも私には 罰が及ぶだろうし、償うべきことはいくらでもあるわ。あの男は死んだようだけど、だからといって完全に関わりが 切れたわけではないもの。あの子のことだって、そう」

 真波は入院着に覆われた下腹部をさすり、目を伏せる。

「白崎君には教えてあるわよね。私が十年前に一度、子供を産んでいるってこと。頭のおかしいことに、その相手が 私の母親を囲っていた男だってことも。普通に考えたら、気持ち悪いなんてものじゃないわ。ついこの間までの私は まともな感覚が麻痺していたから、その気持ち悪さを理解するどころか、異常な状況下で這いずり回っている自分を 誇らしいとすら思っていたのよ。でも、そんなことはあるわけがないの。白崎君だって、本心から私のことを心配して くれているわけじゃないんでしょ? 私があまりにも変だから、興味本位で近付いてきただけなんでしょ? だけど、 それでもいいわ。嘲られるだけのことはしてきたし、愛されるようなことはしてこなかったもの」

「……違う、俺は」

 徐々に表情が淀んでいく真波に、白崎は本心を言おうとするが、寸でのところで喉で詰まった。

「私は、どうしようもなく馬鹿な女よ。散々他人を踏み躙って生きてきたくせに、幸せになりたいだなんて思ってるの。 退院したらどこで暮らそう、とか、どんな仕事に就こう、とか、行きたいところに行こう、とか、思い切りお洒落しよう、 とか、身の程知らずにも程があるわ。全部全部自分のことばかり。考えるべきことは他にいくらでもあるはずなのに、 立ち向かうべきこともあるはずなのに、体が竦んで動けない。彼らが死力を尽くして戦っていたのに、私は最初 から最後まで何も出来なかったし、何もしようとしなかった。あの子を抱き締めてもやらなかった」

 あの夜と同じ仕草で真波は腕を広げ、赤子を抱くような恰好をした。

「一度でもあの子を愛してやれたら、きっと全ては変わっていたわ。そうしたら、こんな人生だったはずなのよ。私は あの男の元からあの子と一緒に逃げ出して、知り合いなんて誰もいない遠くの街で二人きりで暮らすのよ。精一杯 働いて、一生懸命あの子を育てて、小学校に通わせて、色んな行事に出たり、春にはお花見に行って、夏には海に 遊びに行って、秋には紅葉した山に登って、誕生日やクリスマスや御正月を慎ましく祝ってやるの。絵に描いたような 幸せね。絵の中にしかない幸せとも言えるわ。……馬鹿みたい」

 真波は強張った両手で顔を覆い、突っ伏した。

「生きていられるだけで、満足しなきゃいけないのに」

 背中を引きつらせて、真波は泣き出した。白崎は真波の傍に座り、その気分が少しでも落ち着くようにと肩に手を 添えた。触れた瞬間、真波の背は動揺して波打ったが、白崎の手を振り払おうとはしなかった。涙が滲むほど安堵 した白崎は、真波の呼吸が苦しくならないようにとその背をさすった。悲痛な嗚咽が病室を満たし、西日が緩み、 徐々に陰影が分厚くなっていく。蛍光灯を付けるか否かを迷ったが、結局スイッチには手を伸ばさなかった。暗がり を共有していると、真波の心中を埋める淀みに触れられるような気がしたからだ。昨日とは逆の状況だ。
 真波が泣き止んだ頃、白崎は病室を後にした。面会時間はとっくに過ぎていたし、幼子のように泣きじゃくったことを 恥じる真波は白崎を正視しようとせず、明日からはもう来なくてもいい、というようなことを口にした。だが、白崎は それを聞かなかったことにして駐車場に向かった。夜露が降り始めた愛車に乗り込んでイグニッションキーを回し、 エンジンを暖機しながら、真波の肩に触れていた手をもう一方の手で握り締めた。
 彼女を抱き締めるかのような気持ちで。







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