南海インベーダーズ




衝動的汚染行為



 ほっそりとした指に填った細い指輪が、煌めいている。
 左手を掲げてそれを見つめる真波の顔は神妙で、畏怖すら抱いている。運転席に座っている白崎は彼女の反応を 冷静に窺っているつもりではあったが、内心ではひどく動揺していた。あんな安物で良かったのか、サイズだけは 合わせてきたがデザインも先に見せた方が良かったのではないか、最初から指輪なんかを買ってしまっては白崎の 気持ちが重すぎると疎まれやしないか、などと嫌な想像ばかりが頭を駆け巡った。フロントガラスに貼り付いた雪を ワイパーが舐め取るたびに、街灯から注ぐオレンジ色の光が一瞬途切れた。
 一泊二日の旅行は素晴らしかった。クリスマスには病室までケーキを運び、真波の願いを叶えてやった。真波は 少女のように喜んで涙すら浮かべ、切り分けたケーキは二人で分け合って食べた。その三日後から冬休みになった ので、白崎は予定していた旅行に連れて行った。向かった先はウィンターリゾートとは程遠いが落ち着いた雰囲気 の良い温泉街で、束の間ではあったが白崎も真波も日頃の疲れを癒した。当初、部屋は別にするつもりだったが、 真波が同じ部屋の方がいいと言ってきたので同じ部屋に泊まった。けれど、白崎の良心が咎めたので、二間続きの 部屋の襖を閉めることにした。ドライブの疲れと温泉で体を解したおかげで真波はいつになく熟睡出来たそうだが、 すぐ傍に真波がいるのだと意識してしまうとどうにも落ち着かず、白崎は上手く寝付けなかった。病院に送り届ける 道中、真波は何度も夢のようだと言った。抑え気味ではあったが笑顔も見せてくれた。否定的な言葉を一度も口に せず、白崎に感謝を述べた。別れ際、真波は白崎の上着の袖を掴もうとしたが、躊躇い、助手席を下りていった。 白崎もまた真波の手を掴んで引き留めたかったが、理性で制し、未練は残しつつも別れた。
 それからも、白崎は真波の病室に通い詰めた。他愛もない会話の中で指輪のサイズを聞き出したので、遠からず プレゼントを買う時にでも、と思ったが居ても立ってもいられなくなってしまった。バレンタインデーはおろかホワイト デーすら二ヶ月以上先なのに、真波に似合いそうな指輪を衝動買いした。さすがにそれを病室で渡すのは顔見知り になった看護士や医師に知られかねないし、他の入院患者達にも衆知されては恥ずかしいので、真波を自分の車 まで連れてきて小箱を手渡した。だが、そこから先についてはまるで考えていなかった。外気の強張った冷たさとは 裏腹に情けないほど火照る頬を押さえ、白崎はハンドルに突っ伏した。

「あの……これ……」

 真波はうっすらと目を潤め、口籠もった。

「気に入らなかったら、ごめん」

 調子に乗りすぎた自分を悔いた白崎は、なんだか泣きたくなってきたが、同時に途方もない征服感を覚えていた。 真波の反応の初々しさからして、きっと竜ヶ崎全司郎からは指輪の一つももらったことはなかったのだろう。だから、 真波の指を飾ったのは白崎が最初だとみて間違いない。そう思うと、決して勝ち目のない相手に、ほんの少しだけ だが勝てたような気がした。真波は小刻みに震えていたが、指輪を填めた左手を大事そうに右手で包んだ。

「これって、えと、そういう意味……よね?」

「ああ、うん」

 婚約指輪、と白崎は雪の降る音よりも小さな声で付け加えると、真波は入院着の上に羽織っているコートの胸元 をきつく握り締めた。車内に暖房は効かせていても冷気が忍び込み、車内の上と下では温度にかなり差があった。 それはまるで自分と真波のようだ、と、白崎はウィンドウに手を這わせて結露を拭いながら思った。
 真波は白崎の思いを、純粋な好意だと思ってくれている。最初はそうだったかもしれないが、真波を食い潰そうと していた前の男のことを知れば知るほどに敵対心が膨れ上がる。男の性というよりも、ただ単に白崎の性分が汚い だけだ。相手が土俵に立っていないからこそ出来る戦いであり、竜ヶ崎全司郎その人と立ち向かえるような度胸は 元来持ち合わせていない。竜ヶ崎全司郎と真波の関係が続いていたら、余計に無理だ。略奪しようとしたところで、 白崎の人生が踏み躙られるだけだ。勝てる戦いだと判断したからこそ、真波に思いの丈をぶつけている。
 それまで、自分は事なかれ主義で生きていたと思っていたが、その実は立ち向かうべきことから逃げていただけ なのだ。当たり障りのない言動を取って受け身な人間関係を作り、厄介事からは身を引き、痛みや汚さからは目を 逸らした。けれど、真波にはそれが通用しない。大学時代の真波は全てを見透かしているかのような目をしていた。 あの夜に目にした真波はこの世の全てを憎んでいるかのようだった。そして、目の前にいる真波はあらゆるものを 幸福として捉えている。だから、外の世界との唯一の接点である白崎が与えるものに染まっていく。竜ヶ崎全司郎が 触れなかった部分や、埋めなかった部分や、慈しまなかった部分を見つけ、欲するものを差し出すたびに征服感は 高まり、真波という人間を白崎が浸食していくのがとてつもない快感となる。

「私でいいの?」

 真波は潤んだ目を瞬かせ、細い銀の指輪に填った小さな宝石を見つめた。

「マナじゃなきゃ、ダメだ」

 白崎は大帝国の支配者の如き征服感を味わいながら、頬を緩めた。

「ありがとう、白崎君。でも」

 真波は笑みを浮かべかけたが、収めた。がっこん、とワイパーが動き、真波に短く影が掛かる。

「でも?」

 長い沈黙に耐えかねた白崎が問うと、真波は自分の両手を見下ろした。

「私、普通のことが出来るのかどうか、解らないのよ」

 かつては侵略者を阻む作戦を次々に立案し、キーボードで打ち込んでいたであろう手は、肉も皮も薄かった。

「家事は一通り出来るわ。ずっと独り暮らしだったから。でも、料理なんて全然だから、良い奥さんにはなれないわ。 出来ることなら、あなたの子供を産んで育てたい。けれど、産まれてきた子供をどうやって可愛がったらいいのかが 解らないし、愛せる保証もないの。あの子がそうだったから。だけど、白崎君にはそういう人が似合うのよ。家庭的で 平和的で、何が起きてもにこにこ笑っているような人が。だから、考え直した方が」

「色々考えたよ。でも、俺にはマナしかいないんだ」 

 遠慮されることすらも嬉しくて白崎が弛緩すると、真波は肩を縮めた。

「どうしても?」

「どうしても」

「本当に?」

「本当に」

 真波の言葉を白崎がそっくり繰り返すと、真波は指輪を填めた左手をじっと見据えた。

「主治医の先生が二月には退院出来るだろうって言っていたわ。仮退院じゃなくて本退院よ。変異体管理局は機能 を失ってしまったから局自体が解体されたけど、退職金は支給されたし、保険金もきっちり下りたから、余程贅沢を しなければ当分は暮らしていけそうなの。だから、しばらくは一人で暮らしてみるわ。それからでも、いい?」

「どうして?」

「これ以上、白崎君に迷惑は掛けられないもの。それに、ちゃんと練習してからじゃないと恥ずかしいから」

 料理とか、と真波が目を伏せると、白崎は笑った。

「誰に対して?」

「言うまでもないことじゃない?」

 白崎の意地の悪い質問に真波はちょっと拗ねたが、今度は不安げに眉を下げた。

「……後悔しない?」

「しないよ、そんなもの」

「嘘じゃない?」

「嘘じゃない」

 白崎が一つ一つ否定してやると、真波は白崎を食い入るように見つめてきた。その眼差しの強さに内心では少々 臆したが、白崎が平静を保っていると、真波はメガネを上げて裸眼で注視してきた。しばらくその状態が続いたが、 真波はメガネを下げて身も下げた。助手席のシートに体重を預けた真波は、こめかみを押さえた。

「信じてもらえなくてもいいけど、少し前までの私は他人の頭の中をコピー出来たのよ。やりようによっては、相手の 体をそっくり模倣することも出来たわ。心身に掛かる負担はとても大きかったし、汎用性は低かったから、使い道は ほとんどなかったんだけどね。その力は綺麗さっぱり洗い流されたんだけど、まだ使えるような気がしたの。だけど、 無駄だったわ。それに、白崎君が考えていることを読み取れたとしても、能力を使って読み取った時点で白崎君の 気持ちを裏切ることになるのね。馬鹿なことを考えたものね」

 真波は自虐的に頬を歪める。少なくとも嘘ではなさそうだが、まるきり信じたいとは思えなかった。都心部で起きた インベーダーとの戦いで戦死したのは、かつてはミュータントとして阻害されていた一族だった。特殊能力を持って 生まれた彼らのおかげで日本だけでなく世界は守られたが、相打ちになって全滅してしまった。真波が彼らと血の 繋がりがあるとしたら、有り得ない話ではない。そんな能力を持っていたからこそ、全世界を脅かすインベーダーで あった竜ヶ崎全司郎に寵愛されていたのではないだろうか。それを失っているのであれば、最早何の懸念もない。 白崎はギアとサイドブレーキのレバーを乗り越えて真波に腕を回すと、真波は僅かに硬直したが、緊張を緩めた。

「嫌じゃ、ないの?」

「むしろ、俺の頭の中をマナに見てもらいたいぐらいだ」

 白崎が冗談めかして笑うと、真波は赤面して白崎の肩に顔を埋めた。

「もう……」

「だから、いいよな? 俺と結婚してくれないか、マナ」

 白崎は真波の痩せぎすな体を抱き締めると、真波は頷いた。

「ありがとう、白崎君。私の方こそお願いするわ。あなたに、ずっと傍にいてほしい」

 分厚いコートとギアとサイドブレーキのレバーが邪魔だったが、こればかりは致し方ない。白崎は真波の肩と背中 に腕を回して力を込め、出来る限り距離を狭めた。腰や足には手を回さない。そこに触れると、真波は過剰に緊張 するばかりか、奉仕しなければならない、という思考に陥ってしまう。竜ヶ崎全司郎から、そう刷り込まれたからだ。 どちらもそれを知らずに触れ合った時は真波は条件反射で白崎を責め、白崎は半ば生理現象で反応したが、真波は 竜ヶ崎全司郎の時と全く同じことをしてしまう自分が嫌でたまらずに自分を責めて苦しんだ。だから、それ以降、 腰と足には絶対に触れないようにした。正直生殺しではあるが、愛し合うのなら、どちらも本意である方がいい。
 白崎が少し体温が高い手で真波の冷たい手を握っていると、次第に彼女の手は温もりを得ていき、青白かった頬 にも赤みが差してくる。真波が白崎に侵されている証拠だ。ワイパーがまた上下し、雪がごっそりと舐め取られる。 車内の暖房と二人の体温で緩んだ雪がフロントガラスの上部からずり落ち、ボンネットに転がる。病院の駐車場に 入ってきた車のヘッドライトが二人分の影を作り、消える。甘えるように額を擦り寄せてきた真波の顔を上げさせた 白崎は、真波の軽く火照った頬を両手で包むと、その乾いた唇に自分の唇を重ねた。真波は白崎を拒まず、静かに 受け止めてくれた。だが、そこから先はしなかった。今はそれだけで充分だったからだ。
 お楽しみはこれからだ。




 都心部で起きた戦いは、インベーダーと人類の存亡を懸けた戦いだと知った。
 政府とマスコミが大々的に報道している情報は、子供の頃に熱中した特撮ヒーロー番組と大差のない内容だった ので、なんだか空想と現実の区別が付かなくなりそうだった。これまでは迫害されていたミュータント達の勇ましさを しきりに讃えていて、政府公報で注意喚起していた少女、斎子紀乃に至ってはサイコキネシス能力の凄まじさと悲劇の ヒロインのような立場が相まり、これでもかと言わんばかりに褒め称えられていた。脳を改造されて甲型生体兵器 にされていた三人の少女達もまた同じような扱いをされ、斎子紀乃と血縁関係にある御三家と呼ばれる一族は誰も 彼もが正義の味方のようになっていた。手のひらを返しすぎだ、と白崎は呆れてしまったことを覚えている。
 全長五十メートルもの体躯を持ち、インベーダーと呼ばれる異星体、ゾゾ・ゼゼを滅ぼしたばかりか、南海の孤島 である忌部島の正体を露わにさせ、宇宙怪獣戦艦を宇宙に追い返し、地球に平和をもたらしてくれたが、御三家は 一人残らず全滅していた。だから、死人に口なしであるのをいいことに政府もマスコミも好き勝手な報道を繰り返して いる。戦いが起きて間もない頃はたまらなく刺激的だったが、日を追うごとに人々は過激な報道や異星体の映像 に慣れてしまい、飽きてすらいる。それでいいのかもしれないが、良くないとも思う。
 インベーダー絡みの報道が下火になった頃、変異体管理局とインベーダーの関係性が明らかにされた。変異体 管理局の局長であった竜ヶ崎全司郎の正体はゾゾ・ゼゼであり、異星体故に持ち合わせている特殊能力で忌部島と 海上基地を頻繁に行き来しては、斎子紀乃を始めとした御三家の人間に生体改造や実験を繰り返していたそうで、 いわゆるマッチポンプだったらしい。それまで真波が相手をさせられていたのが、世にもおぞましいトカゲに似た 単眼の異星体だと知ると、心の底から真波が哀れになった。増して、そんなモノと交わって子供を産んだのだから、 真波が味わった苦労は並大抵ではない。過剰なまでに真波が己を卑下する理由も、おのずと解ってくる。
 真波にどうしようもなく惹かれてしまうのは、その身辺に立ち込める闇が深いからだろう。白崎はそれを知ってか 知らずか、真波に魅入られた。あの夜、再び出会えなければ、真波の末路がどうなったかは想像もしたくない。真波 の過去を無闇に詮索するのは、御三家が切り開いた血路を閉ざすことになりかねない。だから、白崎はこれまでの ことを全て胸の内に収め、目の前にいる真波だけを見つめようと誓った。
 いずれ、新たな家族を迎えるためにも。




 差し込む朝日は眩しいが、外気は肌寒い。
 いつまでも余韻に浸っていたいが、そうもいかない。枕元の目覚まし時計を引き寄せて文字盤を見ると、午前七時 に近付きつつある。いくら今日が休日とはいえ、あまり自堕落に過ごすわけにはいかない。だが、布団から出るのは 恐ろしく億劫だ。白崎は寝返りを打つと、未だ起きる気配がない彼女の背中に身を寄せた。肉付きの薄い背中は 少しひんやりしていて、滑らかな手触りも相まって心地良い。寝乱れた長い黒髪からはトリートメントの甘い匂いが ほのかに零れ出し、場違いな扇情を誘った。それが収まることを願いながら、健康的な弾力になりつつある肢体を 味わっていると、彼女の唇から小さく呻きが漏れた。これ以上はまずい、と白崎が腕を緩めようとすると、真奈美は ごろりと寝転がって逆にしがみついてきた。白崎の胸に押し付けられた控えめな乳房が潰れ、太股が腰に絡む。

「ちょっと、おい、マナ」

 朝っぱらから何をさせる気だ、と白崎が慌てると、真奈美は言葉にならない言葉を漏らし、目を開けた。その後、 真奈美が状況を理解するまでに数秒間を要した。何がどうなっているか理解すると、真奈美は固まった。

「あっ、えっ、私」

「もう十年若かったら、頑張れたかもしれないけどさ」

 重なり合った肌の感触に若干反応した白崎が呟くと、真奈美は赤面してすぐさま白崎から離れた。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけど」

「子供、出来るといいな」

「ええ。きっと大丈夫よ」

 真奈美は長い髪を整えながら起き上がったが、下半身の違和感に気付いたらしく、下着の替えを抱えて寝室から 出ていった。程なくして浴室から水音が聞こえてきたので、昨夜の余韻を洗い流しているのだろう。その間に朝食の 支度でもしておいてやろう、と白崎は二人分の体温で暖まり切っている布団から出ると、タンスから着替えを出して 身に付けた。昨夜の余りでも充分量は足りるし、炊飯器のタイマー機能で白飯は炊き立てだ。
 居間の座卓に二人分の食器を並べ、ガスコンロに掛けた味噌汁の温まり具合を確かめていると、濡れた長い髪を タオルで拭いながら真奈美が戻ってきた。汗を洗い流してきた肌は潤い、朝日を撥ねて瑞々しく輝いている。

「あんなに一杯出してくれたのに、ほとんど出てきちゃったわ。なんだか勿体ないわね」

 ドライヤーで髪を乾かしながら、真奈美は残念がった。

「ああ、そりゃ確かにな」

 そう言われると嬉しいが、恥ずかしい。白崎が半笑いになると真奈美は自分が言った言葉の意味に照れたのか、 またも赤面していた。妻の横顔を見つつ、白崎は自戒していた。欲求不満の中高生でもあるまいに、こうも高い頻度 で事を致すと体力が持たなくなると解っているはずなのだが、どうにも抑えが効かない。結婚してから一年が過ぎた が、落ち着くどころか頻度は上がる一方だ。もっと若い頃に結婚していたら所構わずだったんだろうか、との想像が 過ぎってしまい、白崎は笑うに笑えなくなった。だから、こう考えるべきだ。どちらもそれなりに年齢を重ねているから こそ、この程度で済んでいるのだと。
 それもこれも、真奈美が気を許してくれるようになったからである。結婚して半年が過ぎた頃、真奈美はそれまでは 触れることさえ嫌がっていた腰や足に白崎の手を導いてくれるようになった。すぐに体を開けるようになったわけ ではなく、少しずつ少しずつ慣らしていった。同じ布団で一緒に眠ることから始まり、真奈美の体に触れる代わりに 真奈美も白崎の体に触れ、触れ合える面積を増やしていった末、ようやく繋がり合えるようになった。
 味噌汁の入った汁椀を包んでいる真奈美の左手の薬指には、純金製の結婚指輪が光っている。白崎の左手の 薬指にも、デザインは同じだがサイズの違う指輪が填っている。造りが古いが広さは充分な平屋建ての借家には、 まだ家財道具が揃いきっていない。地元に戻ってきて以来、ぐずぐずと住み続けていた実家を出て借家を借りたのは 他でもない真奈美と一緒に暮らすためだ。一度勢いが付いてしまうと後は楽なもので、真奈美が本退院する前に 引っ越しと諸々の手続きを終えたばかりか、勢い余って地元の写真館で結婚の記念写真を撮る予約まで入れた。 二月の始めに晴れて本退院した真奈美を出迎えに行ったその足で写真を撮りに行ったので、真奈美は白崎の気の 早さに呆れてはいたが嬉しそうだった。
 彼女の名前が変わっていることを知ったのは、写真を撮り終え、籍を入れるために市役所に出向いた時だった。 だが、それを問い詰めることはせず、真奈美も名前が変わった理由を言おうとはしなかったので、今後も触れない ことに決めた。変わったのは字だけで、読みは今までと全く同じなのだから。結婚したばかりの頃は真奈美の料理 の腕は不安定だったが、一年も経てば慣れるもので、今となってはかなり上達した。お互いにどうしても譲れない 部分もあるので諍いが起きてしまうこともあるが、派手な言い争いになることはない。夫婦としては歩み出した ばかりだから、支え合って進んでいけばいい。

「ねえ、凪」

 白崎を下の名前で呼んだ真奈美は、不意に遠い目をした。

「海を見に行きましょうよ」

「近場のか? それとも遠くの?」

「どこでもいいわ。とにかく海よ。海にさえ行けばいいの」

 真奈美は空になった茶碗と汁椀を重ね、箸を横たえた。

「解った。じゃ、そうしよう」

 白崎が同意すると、真奈美は明るく笑った。

「お弁当も作っていきましょうよ。御飯は沢山あるし、おかずも適当に作っちゃえばいいんだもの」

「まるでピクニックだな。時季外れだが」

「いいじゃない、春の海も素敵なものよ。潮風はまだまだ冷たいけどね」

 真奈美は食器をシンクまで運び、洗い桶に浸した。白崎も食べ終え、空になった食器を重ねる。

「マナ」

「なあに?」

 真奈美が振り向くと、白崎は彼女を背後から抱き寄せた。洗い立ての髪からは、シャンプーの匂いが漂う。

「愛してる」

 万感の思いを込めて囁くと、真奈美は先程以上に赤面して俯いた。竜ヶ崎全司郎が一度も真奈美に囁かなかった 言葉だ。だからこそ、何度だって言ってやる。真奈美の恥じらいようが可愛らしくてたまらないので、白崎が同じ言葉を 繰り返すと、真奈美は非常に弱い語気で言い返してきた。私だって、と。それがまた嬉しくてならず、白崎は新妻 を決して逃がさぬように腕に力を込めた。計り知れないほどの優越感、征服感、圧倒的な幸福感。竜ヶ崎全司郎を 思い切り嘲笑いたくなってくる。お前はマナの魅力を百分の一も知らずに死んだんだぞ、と。それは紛れもない悪意 だろうし、敵意の延長でもあるだろうし、胸の奥が濁る感覚もある。だから、これは醜悪な独占欲に他ならない。
 世間一般では、それを愛というのかもしれないが。







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