南海インベーダーズ




能動的父性本能



 意識が戻る兆しが現れたので、紗波は療養所から千葉県内の病院に転院した。
 目が覚めた時、紗波の周囲に皆がいては元も子もない。一から新たな人生を送るためには、酷かもしれないが、 これまでの人間関係も一掃する必要があるからだ。秋葉と仲良くなっていた紀乃はひどく寂しがり、忌部も付き合い の長い山吹と別れるのを惜しんでいた。なんだかんだで山吹と秋葉も二ヶ月近くは暮らしていた療養所には愛着が あり、引っ越す時には切なさに駆られたが、そう感じられたのがなんとなく嬉しかった。敵対関係にあった御三家との 間に、人間らしく体温が通った関係を築けた証拠だからだ。
 紗波が転院した病院に程近い場所に、新居は建っていた。引っ越し業者のトラックに偽装した自衛隊の車両から 下りた山吹と秋葉は、こぢんまりとした一戸建てを仰ぎ見た。三角形の屋根の下に出窓が付いていて、屋根裏部屋 もあり、一階の掃き出し窓にはネコの額のように狭い庭が面している。周囲を警戒しつつ、盗聴器や隠しカメラなど が仕掛けられていないかチェックしながら、引っ越し業者を装った自衛官と公安の混合部隊は次々に二人の荷物を 運び込んでいく。手伝おうかとも申し出たが、逆に邪魔になると突っぱねられてしまった。なので、引っ越しが終わる までの間、山吹と秋葉は一通り街を見て回った後、紗波が転院した病院を見舞った。
 一般病棟の個室に移された紗波は、それまでと全く変わらずに眠り続けていた。紗波と共に療養所から病院へと 移ってきた女性看護士に丁寧な礼を述べてから、二人は病室に入った。酸素マスクを被り、様々な計器に囲まれた 姿は相変わらず痛々しかったが、小児病棟の病室ということもあって壁紙が可愛らしいピンク地にウサギ柄だった。 そのおかげなのか、紗波の顔色が少しだけ良くなったように見えた。秋葉はベッドの端に腰を下ろし、笑む。

「見て、丈二君」

 秋葉が示した先には名札が下がり、血液型と生年月日と共に、山吹紗奈美、との新しい名が書かれていた。

「どうせ変えるなら名前は全部変えた方がいい、って鈴本小隊長にも政府の人にも言われたっすけど、こればっかりは 譲れないっすよねぇ。ねー、むーちゃん」

 山吹は病室に隅にあった丸椅子を運び、その上に腰掛けた。

「同上」

 秋葉は頷き、紗奈美の少し乱れた髪を撫で、そっと指を通した。

「随分と髪が伸びている。はーちゃんだった頃は短い方が好きだったが、今はどちらが好きか測りかねる。よって、 散髪するか否かは紗奈美が目覚めてから判断する。それが賢明」

「そうっすよそうっすよ。髪は女の命っすからねー」

 山吹は紗奈美の手を取り、握ると、紗奈美も条件反射で握り返してくれた。心なしか寝顔は柔らかくなり、呼吸も 少しずつではあるが力を得つつある。まるで、胎児が乳児に成長していくかのようだ。二人の娘が目を覚ます日を 心待ちにしながら、山吹と秋葉は足繁く通い続けた。
 その最中に、病院と駅前を繋ぐ大通りに山吹の友人である兎崎玲於奈が店を構えていると知った。生まれ持った 美貌を余すことなく引き立てる女装は相変わらずだがパティシエの腕前も相変わらずで、都内に店舗を構えていた 頃の常連客も多く来ていたが新規の客も増えていて、繁盛していた。なんでも、玲於奈の以前の店はインベーダー と御三家の戦闘で粉々に破壊されてしまったが、政府と関係機関が損害以上の賠償を行ってくれたので、短期間で 新店舗を構えられたそうだ。玲於奈の双子の弟であり、腕利きの美容師である兎崎留香もまた店を失ったが、隣町 で新店舗を開店し、こちらも繁盛しているそうである。
 玲於奈と無事を確かめ合った秋葉は、山吹と結婚したことを報告すると、玲於奈は山吹をなじってからではあった が祝ってくれた。そればかりか、結婚式を挙げていないと知ると、三段重ねの特大ケーキを作ってくれた。気持ちは 物凄く嬉しかったがさすがに夫婦だけでは食べきれないので、玲於奈と留香と共にケーキを囲み、ささやかながらも 結婚祝いのパーティをした。その際に紗奈美のことを話した。友人一家が交通事故に遭い、両親は亡くなって一人娘 だけが生き残ったものの、彼女の引き取り手がいないので山吹と秋葉が引き取ることになったと。すると、玲於奈 と留香は素直に祝ってくれた。家族が増えたお祝いだ、と言って玲於奈はまたもや巨大なケーキを作ろうとしたが、 それは昏睡状態にある紗奈美が目覚めてからにしてくれ、と押し止めた。玲於奈のケーキは絶品だが、そう毎日 のように食べられるものではないからだ。
 引っ越してから一ヶ月が過ぎようとした、肌寒い日のことだった。秋の安らぎが遠のき、冬の足音が聞こえ始め、 街路樹から歩道へと降り注ぐ枯れ葉の量が増えてきていた。その日はたまたま山吹は非番で、秋葉も勤め始めた 事務員の仕事が休みだったので、久し振りに二人揃って娘を見舞いに行った。通い慣れた道を辿り、暖房がきつめに 効いている病院に入り、小児病棟に向かうと、すぐさま女性看護士に呼び止められた。ナースステーションでも、 電話に手を掛けた看護士から、丁度良かったです、と言われて紗奈美の病室に急かされた。ぬいぐるみやオモチャ などのお見舞いの品に囲まれたベッドの中で、茫然自失といった面持ちの紗奈美が起き上がっていた。

「ほら、紗奈美ちゃん。御両親がいらっしゃいましたよ」

 女性看護士に促され、紗奈美は焦点が今一つ定まらない目を動かして山吹と秋葉を捉えた。乾き切っている 唇は上手く動かず、喉からは言葉は出てこなかったが、懸命に何かを言おうとした。すぐさまベッドに駆け寄った 秋葉は紗奈美を抱き締め、声を殺して泣いた。山吹は新妻とその腕の中の愛娘を支えてやりながら、マスクフェイス からは涙が流せない分、思い付く限りの言葉を並べた。紗奈美は意識がまだ希薄なのか、山吹と秋葉を見ても反応 らしい反応は返さなかったが、その体には確実に体温が戻っていた。
 その後の診察で、紗奈美は記憶の一切を失っていることが判明した。自分の名前を思い出せないばかりか、山吹 と秋葉のことすら忘れていた。習慣や知識は日常に差し支えがない程度に覚えていたものの、それ以外はひたすら に空虚で、自分が何者か解らない不安からか紗奈美は事ある事に泣いた。山吹と秋葉が見舞いに訪れれば警戒心 から泣き、二人が懸命に事情を話せば怯えて泣き、二人が帰ろうとすれば一人になるのを怖がって泣くほどで、 一度砕けた心中には恐怖しか残っていないようだった。
 恐怖と不安を少しでも紛らわせられれば、と秋葉は病院に泊まるようになった。最初の頃は紗奈美は秋葉にすら 怯えていたが、秋葉が四六時中傍にいて事細かに世話を焼いてやって、本を読んだり、絵を描いたり、オモチャで 遊んだり、一緒に庭に出てみたり、と紗奈美が波号だった頃とあまり変わらないことをしてやった。竜ヶ崎全司郎に 吸収し尽くされた末に生体洗浄と生体復元を終えた肉体であっても、体が覚えているものがあったのだろう。紗奈美 は次第に秋葉に心を開くようになり、山吹にも怯えなくなり、一歩ずつ元気を取り戻していった。玲於奈のケーキを 持っていくと喜んで食べ、留香が散髪とヘアメイクをしてやると、紗奈美は照れながらもはしゃいだ。体調も安定して きたので、すぐにでも退院出来るはずだった。
 けれど、紗奈美は急に退院を渋るようになった。理由を聞いても答えようとせず、山吹と秋葉とは目を合わせよう としなくなった。山吹と秋葉は困り果てて医師や紗奈美が特に懐いている看護士にも相談してみたが、最終的には やはり山吹と秋葉が紗奈美と向き合わなければいけないだろう、との結論が出た。
 雨と雪が混じった重たい粒が、病室の窓を叩いていた。紗奈美のベッドの傍にある机には小学四年生用のドリル が広げられ、紗奈美の不器用な字が書き込まれていた。一年生、二年生、三年生、と順調にこなし、学習能力には 何の問題もないどころか、普通の子供よりも余程物事の理解が早かった。このペースで進めばもっと上の学年まで 行けるだろうが、そこまでさせてしまっては紗奈美の頭が追い付かなくなるかもしれないし、近隣の小学校に通うよう になった時に支障を来してしまうので、年相応のレベルに止めておいた。ベッドに座っている紗奈美は、先日秋葉が プレゼントした可愛らしいカーディガンを着ていた。ふんわりとしたウール地で、裾がフリルになっている。紗奈美は むっつりとしたまま、病室に入ってきた二人を見ようともせずにあらぬ方向を睨んでいる。

「嫌なことでもあったの、紗奈美」

 秋葉が声を掛けるが、反応しない。

「ま、そりゃ、病院は居心地良いっすもんね。気持ちは解らないでもないっすけど」

 山吹が軽口を叩くが、やはり反応しない。雨音と病院内のアナウンスと、どこかの病室ではしゃいでいる子供の声 が壁越しに伝わってくる。紗奈美は目線を壁からシーツに動かしたが、二人を見ようとはしなかった。それから長い 長い間の後、紗奈美は留香にカットしてもらったボブカットの髪を撫で付け、俯いた。

「……本当のお父さんとお母さんじゃないもん」

 ああ、ついに来たか、と山吹は内心で苦笑した。遠からずそう言われるだろうと覚悟していたし、腹を決めている つもりではいたが、こうやって本当に言われるとかなり辛い。秋葉もやや目を伏せ、唇を結んでいる。紗奈美は膝を 抱えると、かつては金属の羽根を生やした背を丸め、かつては並列空間と通常空間を接させた視線を落とした。

「本当のお父さんとお母さんは、私にはこういうことはしなかったんでしょ?」

 パジャマの薄い布地に爪を立て、紗奈美は背中を引きつらせる。

「だから、機械の小父さんとお姉ちゃんは私なんかに優しくしてくれるんでしょ? そうなんでしょ?」

 そうだ。それは紛れもない事実だ。だが、全ては終わったことなのだ。

「私は良い子だったの? 悪い子だったの? それとも、どうでもいい子だったの?」

 かつては、その全てを含んでいた。

「ねえ、答えてよ。私は、一体何なの?」

 小さな体を震わせながら、紗奈美は不安を必死に吐き出す。山吹は紗奈美の傍に座り、膝の間で手を組む。

「紗奈美は俺とむーちゃんの大事な娘っすよ。それだけで、充分じゃないっすか」

「だけど、本当のお父さんとお母さんはどう思っているの? 私が小父さんとお姉ちゃんの子供になっちゃったこと、 嫌じゃないの? 余所の家に行っちゃうこと、怒ったりはしないの?」

 紗奈美が矢継ぎ早に尋ねてきたので、山吹は少し笑った。

「怒ったりはしないっすよ。むしろ、紗奈美が可愛がられていてほっとしているんじゃないっすかね」

「そう?」

「そうっすよ」

 山吹は紗奈美に頷き返してやるが、紗奈美はまだ不安げで、華奢な肩を縮めた。

「私は、小父さんとお姉ちゃんの子供の代わりなの? だとしたら、一体誰の代わりなの?」

「あなたは誰の代わりでもない。私と丈二君は、最初からあなたを必要としている」

 秋葉は山吹とは反対側に腰掛け、紗奈美に寄り添う。その言葉に、紗奈美は唇を曲げる。

「お姉ちゃん達は私のお父さんとお母さんと友達だったってだけなんでしょ? なのに、なんで?」

「こーんな可愛くて優しくて頭の良い子を、放っておけないからに決まってんじゃないっすか」

 山吹は紗奈美を荒っぽく撫で、抱き寄せる。紗奈美は身を固くしたが、山吹を見上げる。

「それだけ?」

「それ以外に、何か必要?」

 秋葉が微笑むと、紗奈美は少し考え込んだ後、言った。

「それだけで、いいの?」

 山吹と秋葉が肯定すると、紗奈美は山吹のジャケットに手を掛けてきた。指先には躊躇いがちではあったが力が 込められ、布地が引きつった。恐る恐る寄り掛かってきた紗奈美に、山吹は腕を回した。秋葉も華奢で小柄だが、 紗奈美はそれ以上だった。カーディガンとパジャマだけなので尚更だった。波号だった頃に比べれば、ほんの少し だが成長してきた骨格には筋肉や脂肪が追い付いておらず、背骨が浮いていた。半端に丸められた背中を丁寧に 撫でてやると、背骨が指の腹に軽く引っ掛かってきた。少しでも力を入れれば、砂糖菓子のように砕けそうだ。山吹は 紗奈美の頭を胸に抱え、柔らかな髪にマスクを寄せた。

「俺とむーちゃんのことをお父さんとお母さんって無理に呼ばなくてもいいっすよ、無理には。でも、俺とむーちゃんが 紗奈美が大好きだってことは解ってほしいっす」

「……うん。それはよく解っているつもりだよ」

 紗奈美は山吹に甘えていたのが気恥ずかしくなったのか、山吹の腕から離れ、少し身を引いた。

「退院したくなったらいつでも言うっすよ。そうなったら、俺とむーちゃんがそりゃあもう盛大なパーティをぶちかまして やるっすよ、レッツパーリーっすよ。玲於奈のケーキから始まって、紗奈美の好きな料理を次から次へと」

 山吹が紗奈美の頭をぽんぽんと叩くと、紗奈美は期待を込めた眼差しを上げた。

「ケーキ? 甘くてふわふわしていてフルーツが一杯の、あの綺麗なケーキ?」

「そう、ケーキ。玲於奈君が色々と作ってきてくれたけど、その中で一番好きなものを選べばいい」

 秋葉が頷くと、紗奈美はいやに真剣に考え込んだ。

「ケーキ……」

 紗奈美はひどく真面目な顔をして、これまで玲於奈が持ってきてくれたケーキの名前を口にしながら悩み始めた。 この様子だと、紗奈美が退院する決心をする日はそう遠くはなさそうだ。その動機が山吹と秋葉ではなく、玲於奈の ケーキになりそうなのは若干悔しい気もするが、子供らしくて結構ではないか。山吹は紗奈美の横顔越しに秋葉と 目を合わせると、内心で笑いかけた。秋葉はそれを推し量り、笑い返してくれた。結局、紗奈美はどのケーキを注文 するかどうか決めかねたまま、面会時間は終了した。いつもは病室で別れるのだが、紗奈美は余程真剣に悩んで いたせいか、山吹と秋葉を玄関まで見送ってくれた。退院するかどうかを決めるのはまだ先だろうが、玲於奈には ケーキを作ってくれるように約束しておいてくれと何度も何度も言ってきた。もちろん、二人は娘の懇願を聞き届け、 病院から出たその足で玲於奈のパティスリーに向かい、紗奈美の退院祝いのケーキを作ってくれるように予約注文 すると、玲於奈も喜んで引き受けてくれた上、留香にも声を掛けておくと言ってくれた。
 その日の夕食は、紗奈美が好きそうな料理の習作だった。しかし、秋葉は御世辞にも料理が得意とは言えない 腕前なので、味については問題はなかったのだが見た目が不格好だった。研究の余地有り、と秋葉は紗奈美以上の 真剣さで呟いた。食後、山吹は忌部次郎、もとい、末継純次とメールを交わし、互いの近況報告を行った。徳島に 引っ越した上に大学に編入した純次も大変そうではあったが、彼らしい平坦な文面でも日常が充実していることは 伝わってきた。山吹も、そろそろ家族三人で暮らせそうだ、と返信し、浮かれついでに秋葉に襲い掛かった。しかし、 一連の出来事で母性が養われた秋葉からは突っぱねられてしまったので、山吹は色々なものを持て余した。
 翌日の戦闘訓練で、それを戦闘力に変換したのは言うまでもない。




 買ったばかりの大型バイクをガレージに入れ、イグニッションキーを抜く。
 鉛色の雲が垂れ込めていた空からは、ちらほらと白いものが降り始めていた。外気も切るように冷たくなってきた ので、機械の体を持つ人間としては廃熱処理が楽な季節になったのが嬉しくもあるが、逆に寝起きの暖気の時間が 伸びてきたのが面倒でもある。バイクに乗って冬の風を全身に浴びても、戦闘訓練の余韻である機械熱はまだまだ 抜けきっていない。人工体液が煮詰まるほどでも、補助AIが熱暴走するほどでもないが、少々煩わしい。
 シャッターを下ろしてから玄関のドアを開けると、軽快な足音が聞こえてきた。サイボーグ専用のヘルメットを脇に 抱え、ライダースブーツを脱いでいると、二階から紗奈美が駆け下りてきた。が、勢いが余ってしまったのか、娘は ワックスを塗り直したばかりで摩擦係数の少ない廊下に足下を掬われ、反っくり返った。

「うお危ねっ!?」

 山吹は脱ぎかけていたライダースブーツのまま廊下を踏み、反射的に腕を伸ばし、紗奈美の腰の辺りを掴んだ。 紗奈美はシフォンのスカートの裾を踏んでしまったらしく、つま先が引っ掛かっていた。転びそうになった原因はそれ だろう。山吹は紗奈美の上半身を支え、立たせてやってから、面食らった顔の娘と向き直った。

「あービビった……。どこも痛いところはないっすね? 大丈夫っすね?」

「う、うん。大丈夫。これ、やっぱり長かったかなぁ」

 紗奈美は膝下よりも長い純白のシフォンのフレアスカートを抓み、眉を下げた。

「可愛いじゃないっすか、お姫様っぽくて」

 山吹がにやけきって褒めると、白いシフォンのスカートに赤いニットを着た紗奈美は頬を薄く染めた。以前は顎が 尖っていて頬骨が浮いていたが、まろやかな子供らしい輪郭になった。毎日元気良く小学校に通い、思い切り遊んで 思い切り食べているので、細いだけだった手足にも筋肉と脂肪が付き、体のラインも随分と柔らかくなった。二次 性徴の兆しも少しずつ現れ始めていて、表情も女らしくなりつつあった。目元の凛々しさと顔付きの端正さは、産み の母親である一ノ瀬真波譲りで、大人になればさぞや美しくなることだろう。

「へへ、でっしょー? そう思ったからこれにしたんだよ。お母さんもね、似合うって言ってくれた。いつもはさ、ほら、 ジーンズとかばっかりでしょ? 動きやすいからなんだけど。でも、明日は特別なんだし!」

「そうそう、特別。ガチでマジに特別っすからねー!」

 山吹は込み上がる愛おしさに任せて紗奈美を抱き上げ、高く掲げた。思わぬことに、紗奈美は慌てる。

「わあお父さぁんっ! ちょっ、高っ!」

「お帰りなさい、丈二君」

 ダイニングキッチンから出てきたエプロン姿の秋葉は、夫と娘を見、目を細めた。

「可愛いでしょ?」

「そりゃあもう。まー、紗奈美は何を着たって可愛いんすけどねー」

 山吹は紗奈美を胸の高さまで下ろすと、緩み切った声を出しながら抱き締めた。

「お父さん、熱い! 外側は冷たいけど中が熱いからすっごく変!」

 紗奈美は腕を突っ張り、山吹を遠ざけようとしたので、山吹は仕方なく娘を解放した。

「そりゃーまー、廃熱が完了していないのは事実っすけど……。お父さん、ちょっと悲しいっす」

「お母さん、スカート、大丈夫?」

 紗奈美は心配げにスカートを広げ、体を捻る。秋葉は娘のスカートを見回し、確かめる。

「大丈夫、問題はない。シワにもなっていない。焦げてもいない。これから御夕飯だから、着替えてくるべき」

「うん! 汚しちゃいたくないもん!」

 紗奈美は頷いてから階段を駆け上がり、自室に戻っていった。山吹はライダースジャケットを脱いで秋葉に渡すと、 アンダースーツも上半身を脱ぎ、積層装甲も少し開き、出来る限り放熱し、先程脱げなかったライダースブーツを 引っこ抜いた。それを三和土に並べてから、山吹は二階を仰ぎ見た。

「あれからもう、一年になるっすか」

「そう、一年」

「退院記念の次はクリスマス、で、その次は冬休みと御正月があるっつーことは、まだまだ出費が絶えないっすね。 スズメの涙みたいなボーナスは軽ーく吹っ飛んじゃうんじゃないっすかね? まあ、紗奈美の笑顔には変えられない っすし、危険手当やら何やらで俺の給料にもちょっと色が付いたっすけど大した額じゃないっすから、あのヒーロー アニメのブルーレイボックスと去年のライダーの初回予約特典完全数量限定生産フィギュア付きブルーレイディスク を見送って、売り切れ必至のあの魔法少女アニメのコミカライズの最新刊と、一万体限定生産のデラックス超合金 の店頭予約を解除してー……」

「予約注文の段階とはいえ、量が多すぎる。出費と置き場所を充分に考慮すべき」

 秋葉が咎めると、山吹は苦笑した。

「解っちゃいるんすけどねー……。んじゃ、むーちゃんはどこからどこまでならOKっすか?」

「あの魔法少女アニメのコミカライズと、ヒーローアニメのブルーレイボックス。どちらも続きが知りたい」

「おお! そうっすよね、さあっすがむーちゃん! んじゃ、その流れでねんどろいどの一つや二つ!」

「ねんどろいどは一つにすべき。複数買いは不可」

 浮かれかけた山吹に、すかさず秋葉が釘を刺してきた。山吹は観念し、妥協した。

「了解っすー。秋葉原界隈も壊滅しちゃったから、限定品の入手はチャンスを逃すと大変なんすけどねー……」

「それはそれ、これはこれ。趣味は趣味の範疇で止めておくべき」

「むーちゃんマジお母さんっすね」

「嫌?」

「嫌ってことはないっすけどね。むしろ、ほっとするっす」

「私も。以前の自分よりも、今の自分の方が好ましいと判断する」

 秋葉は山吹に寄り添い、訓練で受けた傷が付いた太い腕に寄り掛かった。

「むーちゃんは熱くないっすか?」

 山吹が窺うと、秋葉は思い切りしがみついてきた。

「大丈夫、問題はない。丈二君の体温だから」

「んじゃ改めて。ただいま、むーちゃん」

 山吹が腰を曲げると、秋葉はかかとを上げ、熱気の籠もるマスクと化粧気のない唇が接した。が、程なくして二階 から紗奈美の足音が聞こえてきたので、二人は離れた。紗奈美は普段通りのラフな恰好に着替えていて、夕食に 期待しながらダイニングキッチンに入っていった。無我夢中だったから、この一年はあっという間だった。
 明日で、紗奈美が退院した日から丸一年が経つ。そして、明日は紗奈美のもう一つの誕生日である。山吹紗奈美 として生まれ変わった記念日だ。退院してからも、学校に通い始めてからも色々なことがあった。日々を積み重ねて いくことは簡単なようでいて難しく、優しいようでいて厳しかった。けれど、そのどれもが愛おしくてならない。妻と娘を 支えたいという単純かつ強固な気持ちのおかげで、山吹もかなり戦闘の腕前が上達した。経験豊富な鈴本礼科や 高嶺兄弟にはまだまだ程遠いが、サイボーグボディを無駄にせずに済みそうだ。
 紗奈美に呼ばれてダイニングキッチンに入ると、テーブルには三人分の夕食が並んでいた。紗奈美が特に好きな 料理であり、練習に練習を重ねたおかげで秋葉の得意料理でもある、オムライスだった。席に着いてオムライスを 食べながら、紗奈美は何度となく明日のパーティのことを話した。以前の店と同じくロココ調で統一された玲於奈の パティスリーで行うパーティは、年頃の少女には夢見心地だからだろう。山吹は輝くような笑顔で絶え間なくお喋りを 続ける娘を見守りながら、オムライスを口に運んだ。お父さん、お母さん、と会話の合間に紗奈美は呼ぶ。その度に、 訳もなく誇らしい気持ちが膨れ上がってくる。
 紗奈美が山吹と秋葉をお父さんとお母さんと呼ぶようになったのは、退院してから間もない日のことだった。病室 からこの家に越してきたばかりの頃は、紗奈美もまだまだ遠慮していた。それが振り切れたのは、紗奈美が秋葉を 手伝って夕食を作ってからだった。その時のメニューもオムライスで、最後に半熟の卵を載せたのが紗奈美だった のでチキンライスからは大いに外れていたが、味は申し分なかった。山吹と秋葉から徹底的に褒められた紗奈美は ひどく照れながら、言った。ケーキも大好きだけど、お父さんとお母さんはもっともっと大好き、と。
 その言葉さえあれば、山吹はどこまでも強くなれる。







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