回り道に回り道を重ね、午後九時近くに療養所に到着した。 交通網さえ万全であれば訓練施設から療養所までは二時間も掛からない道なのだが、迂回路を辿ると更にその 迂回路が現れる始末で、道路どころかトンネルや橋も寸断されていることも多く、結果として三時間以上も掛かって しまう。療養所は夕食時を過ぎているので静まっており、御三家の皆が入っている部屋からは窓明かりと話し声が 漏れていた。駐車場からベランダを見上げると、ガニガニを夜気に当たらせている紀乃と目が合った。 「お帰り、山吹さん!」 紀乃が手を振ると、その胸に抱えられているガニガニもハサミを振ってみせた。 「ただいまっす!」 山吹は礼科に教えられた通りに敬礼を返すと、紀乃はちょっと身を乗り出してきた。 「晩御飯、ちゃんと残してあるからね! 今日のはね、私と露乃の力作だから!」 「そっすかー、紀乃ちゃんとロッキーのっすかー! んじゃ、楽しみにしてるっすよー!」 山吹が応えると、紀乃は逆光の中で自慢げな笑みを浮かべた後、自室に引っ込んだ。その部屋には彼女の双子の 妹である露乃も住んでいるので、露乃の気恥ずかしげな声が聞こえてきた。あんなのは大したものじゃないのに それをなんであんなふうに、と戸惑い気味だったが、紀乃ははしゃいで妹を可愛がっているようで、弾んだ笑い声が 重なった。二人が仲が良い様を感じ取ると、本当にほっとする。それと同時に、こんなにも通じ合える双子を敵同士に して戦い合わせていたという事実に苦しめられもする。この苦しみが消える日は来ないだろうし、消えてくれと願う こともない。何も知らずにいたとはいえ、図らずも彼らの運命を歪めてしまった山吹もまた、それ相応に罰を受ける べきなのだから。生身で言えば心臓の辺り、現在は人工臓器の収まった位置では、鈍い痛みが疼いていた。 正面玄関から療養所に入った山吹は、双子の力作の夕食を摂ろうと食堂に向かった。厨房の奥にある冷蔵庫に 貼り紙がしてあったので、その指示に従ってドアを開けると、三段目の手前にハヤシライスが盛られた皿があった。 それを取り出して電子レンジで温め直し、水を入れたコップと共に適当な席に運び、トマトとデミグラスソースが牛肉に 絡み合った味を味わいながら食べていると、秋葉がやってきた。風呂に入った後なのだろう、赤銅色の長い髪は タオルでまとめられていて、後れ毛には湿り気が帯びていた。 「お帰り、丈二君」 「ただいまっす」 ハヤシライスを食べ終えた山吹が返すと、秋葉は山吹の隣に腰掛け、分厚い封筒を差し出してきた。 「書面一式」 「ああ、これっすか。新居の」 山吹は空になった皿を押しやると、A4サイズの封筒を開き、ダブルクリップで留められた書類の束を取り出した。 新居周辺の地図から始まって、山吹と秋葉と紗波が引っ越す予定の建て売り住宅の見取り図、紗波が転入するで あろう小学校のパンフレット、波号として生まれ育った紗波を一ノ瀬紗波という名前の人間にするための戸籍謄本、 その他諸々の必要書類が一括りにされていた。それらをざっと見終えた山吹は、秋葉と向き直った。 「これで問題はないんじゃないっすか? 紗波が通う小学校にしたって問題も見当たらないみたいっすし、俺の通勤 時間がちょっと長くなるかもしれないっすけど、その分早く家を出ればいいんすから」 「そう?」 秋葉は少し不安げに首を傾げ、山吹の手元にある書類を見下ろした。 「はーちゃん……紗波にとって何が最善なのか測りかねている。私と丈二君では、彼女の人生を背負えないのでは ないか。一から子供を育てたこともないのに、十歳児の紗波を育てられるのだろうか」 「大丈夫っすよ。これまでも、俺とむーちゃんは紗波をちゃんと育ててきたじゃないっすか」 「違う。あれはただの保身であり、任務だった」 秋葉は膝の上で手を握り、俯く。 「あんな上っ面だけの行動は、育児とは到底言い難い。私はただ、丈二君の傍にいたいがために変異体管理局に 入り、甲型生体兵器の管理業務に就いた。同期は極めて不純かつ単純であり、使命感の欠片もない。私は彼女達を 利用していただけに過ぎない。そして、彼女達もそれに薄々感付いていた」 「でも、今は違うんすよね? じゃあ、いいじゃないっすか」 山吹が問うと、秋葉はやや目を逸らした。 「違うとは言い切れない。確かに私は命懸けで紗波を助けようとしたが、その根底にあるのは、やはり」 「そんなもん、俺も同じっすよ」 「……丈二君も?」 秋葉は戸惑いがちに目を上げ、山吹を注視してきた。山吹は頷き、マスクを閉じる。 「俺はむーちゃんと結婚したかったんすよ。んでもって、暖かい家庭を作るのが夢だったんす、夢。でも、俺はこんな 体になっちまったっすから、むーちゃんとの間には子供なんか作れないんす。だから、むーちゃんにお母さんになる 幸せを一生味わわせてやれないんだって思っていたから、紗波を娘として引き取れることになってマジ嬉しいんす。 俺だって、親父の器じゃないっすよ。いつまでたっても中身はガキ臭いし、サイボーグなのにめっちゃ弱いし。でも、 むーちゃんと紗波がいるって思うと、いくらだって踏ん張りが効くんすよ。男って単純っすね」 「丈二君も、子供が欲しかった?」 「そうっす。産んでくれたのは主任かもしれないっすけど」 「出来ることなら、私は丈二君の子供を産みたかった。けれど、それは絶対叶わない。ワン・ダ・バによる生体復元を 持ってしても丈二君の肉体は再生出来なかった。異星人の因子を持ち合わせていなかったから、ワン・ダ・バの 情報処理が不完全だったため。丈二君の肉体が復元したら、私はすぐにでも丈二君との間に子供を作りたかった。 だが、ワン・ダ・バは丈二君の脳と神経しか復元してくれなかった。もしも丈二君の体が万全だとしたら、生殖能力も 復活していたとしたら、私はきっと紗波を愛せなかった。私が望んだ子供ではないから」 秋葉は両手で顔を覆い、肩を震わせる。長い髪を包んでいたタオルが緩み、床に落ちる。 「私があの子を愛せるのは、あの子しかいないからだ。けれど、そうでなければ、私は紗波のことをただの生体兵器 としか思わなかったのだ。そう断言する。そう思うと……震えが止まらない……」 「むーちゃん」 山吹は秋葉を抱き寄せるが、秋葉は力一杯山吹に縋る。 「あの子がどれほど辛い目に遭ってきたのか、自分を殺して生きてきたのか、望まない能力に苦しんできたのか、 一番理解しているはずなのに! 産みの母親に見捨てられ、父親からも利用し尽くされ、生まれて間もなく生体兵器 として扱われ、人間らしさを知らずに死ぬはずだったと知っているのに! だから、私は母親にはなれない!」 紗波は山吹の上着を握り締め、ぼろぼろと涙を落とす。山吹は彼女の少し濡れた髪にマスクを寄せる。 「そうやって泣けるだけ、むーちゃんは立派っすよ」 「私は最低だ……」 掠れた呻きを漏らした秋葉は、山吹の肩に顔を埋めた。背中を引きつらせて泣きじゃくる秋葉を抱き締め、気持ちを 落ち着かせてやりながら、山吹は涙が流せないことを心の底から悔いた。秋葉は、既に充分すぎるほどに紗波を 我が子として愛している。そうでもなければ、有り得たかもしれない未来を想像しただけで、ここまで心を痛めるわけが ないからだ。万が一、山吹に生殖能力が戻ってきたとしても、山吹は紗波を娘として出迎える気でいた。複雑な身の 上の紗波の行く当てがないのは重々承知しているし、御三家の誰かに預けるわけにもいくまい。全面的な被害者 ではあるが、紗波の父親が竜ヶ崎全司郎であり、母親が一ノ瀬真波であるという事実は覆せないのだから。 泣き止んで落ち着いた秋葉が自室で寝入ったのを見届けてから、山吹はしんと静まり返った療養所を歩き、棟を 繋ぐ渡り廊下を歩いてB棟に向かった。食堂や居住スペースのある建物はA棟で、医療設備と人員が整っているの はB棟だ。普段はサイボーグボディの定期点検と体液の補充を行うために赴いているのだが、こうも時間が遅いと サイボーグに通じた医師達も休んでいるはずなので、未来の娘の顔を見るだけにした。 紗波が眠っている病室は、南側の日当たりの良い一室だ。ドアをノックして開けると、常駐している女性看護士が 応えてくれた。彼女に断ってから、警備に当たっている女性自衛官に挨拶した後、ベッドを囲むビニールカーテンを 開けた。様々な計器に繋がった細いケーブルが付いているのは、大きすぎるベッドで眠る紗波だった。薄い掛布に 覆われた体はとても小さく、点滴の管が刺さっている腕は小枝のようだ。元々脆弱な肉体は、生体洗浄と生体復元 を経てもなんら変わらず、それどころか一層小さくなっているように見える。シーツの白さと大差のない色の肌からは 静脈が透き通り、平べったい胸がかすかに上下している。山吹はパイプ椅子を引き、ベッドの傍に座る。 「調子はどうっすか、紗波」 山吹は紗波の手を取り、自分の手と重ねてみると、少女の手は二回りどころか三回りも小さかった。 「俺は全然っすよ、全然。鈴本小隊長から一から鍛え直してもらうことになったっすけど、どうなることやら」 心電図の波形と共に、電子音が等間隔で刻まれる。 「紗波が行きたがっていた遊園地は無事っすよ。営業再開するまでは、まだまだ時間が掛かりそうっすけどね」 酸素マスクに供給される酸素が、かすかな風音を立てている。 「俺とむーちゃんと紗波が住む家、決まりそうっすよ。高台に建っていて、海が見えるんすよ。紗波が通うことになる 小学校だって近いし、駅も商店街も近いっすから、色々と便利っすよ。庭は狭いっすけどね」 弱すぎる呼吸が、紗波の喉から流れ出す。 「俺は、紗波のお父さんになれるっすかね?」 唯一の生身である脳で、懸命に思い描く。十年前に産まれた愛娘。今以上に若く幼い秋葉が、産まれたばかりの 娘を腕に抱く姿。サイボーグではない山吹が寄り添い、若すぎる妻と幼すぎる娘を守ろうとする姿。寝返りを打てる ようになり、はいはいが出来るようになり、掴まり立ちするようになり、歩くようになり、生意気な口を効くようになり、 確固たる自我を持つようになり、両親に甘えながら、存分に愛されながら、一歩一歩成長していく姿を。だが、それは 作り事でしかない。そんなものは、いくら考えたところで無駄だ。もちろん紗波を心から愛しているし、秋葉と家庭 を築くためには不可欠だ。だが、当たり前の家族には程遠い。山吹がサイボーグである時点で、紗波が生体兵器で あった時点で、普通は有り得ない。だから、普通を望めば望むほど、いびつさだけが浮き彫りになるのでは。 「邪魔するぜ」 ビニールカーテンを開けて入ってきたのは、虎鉄、もとい、鉄人だった。山吹は面食らう。 「え、あ、はいっす」 「何だよ、その湿気た返事は。鈴本礼科にしごかれたのが、そんなに応えたのか?」 「てか、虎鉄、じゃなくて、鉄人さんこそ、なんで?」 山吹が問い返すと、鉄人は紗波の細く柔らかな髪を撫でてやった。 「ちょっと寝付けなくてな」 「だったら、芙蓉、じゃなくて、溶子さんとイチャコラすりゃいいじゃないっすか。でもって、三人目でも仕込めば」 「うるせぇ。身内だらけの多い場所で、そんな気分になれるかってんだ」 鉄人は山吹の軽口に言い返してから、二つめのパイプ椅子を引き寄せて座り、紗波の寝顔を見下ろした。 「つくづく可愛いな。父親があのクソ野郎だとは到底思えん。刺激を与えてやれって言われているから、たまに顔を 見に来て色々と話してやっているんだが、その度に思うよ。親と子は別物なんだってな」 「そうっすね」 山吹が同意すると、鉄人はベッドに腕を載せて身を乗り出し、紗波を覗き込んだ。 「クソ野郎がどれだけクソでも、主任がどれだけ自己中女だったとしても、波号、じゃねぇ、紗波は心の綺麗な娘だ。 紗波がそうじゃなかったら、俺達はこうして生き延びちゃいないだろうな。クソ野郎に負けて、食い潰されて、今頃は 奴の生体部品にされていただろうさ。甚平だってそうだ、あいつがああいう性格じゃなかったら、保養所のある島で 露乃を助けてくれなかったら、ミーコの弟に……。いや、考えない方がいいな」 「そう、っすね」 山吹は重たく呟き、膝の間で指を組んだ。いくつもの偶然と必然が絡み合い、辛くも勝ち取れた結末なのだ。 「紗波の名前、どうする? 元の字のままじゃまずいだろ、色々と」 「でも、紗波はガチな私生児っすし、戸籍だってなかったぐらいで、名前を変える必要なんてどこにも」 「だが、名前は名前だ。今のままの字を使っている限り、紗波はクソ野郎と主任の娘のままなんだ。だから、お前と 秋葉で紗波に新しい名前を付けてやれ。そうすれば、紗波はお前達の本当の娘になるんだ」 「そうなんすかね?」 「名前ってのは大事なものだからな。甚平にでも聞いてみろ、興味深い話をとつとつと語ってくれるぜ」 鉄人は己の娘を慈しむ時と変わらぬ手付きで、紗波の細い腕を撫でる。 「うちの娘の名前の意味、教えてやろうか」 「イマイチ興味はないっすけど、まあ、後学のために」 「失礼な奴だな。まあいい、良く聞け。まずは紀乃からだが、紀ってのは印すって意味があって、生きた証しを世に 印せるような人物になってほしいってのと、何よりも女の子らしくて可愛い名前だったからだ。次は露乃だが、読んで 字の如く、潤いのある人生を送ってほしいってのと素直な人間になってほしいって思って付けたんだ。無論、名前の 可愛さも忘れちゃいないがな。で、それが今度からは紀子と露子になるわけだが」 機嫌良く語り出した鉄人を、山吹は早々に遮った。長話になりそうだったからだ。 「あーはいっす、充分理解したっす。てか、鉄人さんも大概に親馬鹿っすね」 「当たり前だ。自分の子供が宇宙で一番可愛いんだよ」 真顔で言い切った鉄人に、山吹はなんだか笑ってしまったが、それを収めた。 「俺もそうなれるっすかね」 「なれる、じゃない。なるんだよ、自然に。そんなのは、いちいち意識するもんじゃない」 なあ紗波、と話し掛けてやりながら、鉄人はパイプ椅子の背もたれに体重を掛けた。 「じゃあ、鉄人さんはどうなんすか。紀乃ちゃんとロッキーが産まれた時、どうだったんすか?」 不安を拭いきれない山吹が尋ねると、鉄人は少しの間の後、答えた。 「紀乃と露乃が出来た時、俺は二十一で溶子は十六だった。若すぎたのは否めないし、俺も溶子もクソ野郎の影に 怯えていたから、最悪の選択肢も考えないでもなかった。だが、そうは出来なかった。溶子の子宮で刻々と成長する 子供をどうにかしたら、俺と溶子の間に出来始めていた絆みたいなものが壊れちまうだろうし、何よりもその子供が 哀れでならなかったからだ。俺達はどっちも自分の家から逃げ出して、親と縁を切って、世の中の右も左も解らない ガキ同士だったから、支え合って生きるしかなかった。だけど、その子供は違う。俺と溶子は全く望んでいなかった わけでもないし、精一杯生きようとしているのに産まれる前に存在を全否定しちまったら、一生悔やむと思ってな。 で、産まれてきたら、これがまた可愛いんだ。ああ俺達の子だ、って一目見た瞬間に痛感して、その途端に愛情 がどんなものかをうんざりするほど思い知った。溶子のことが好きだって気持ちに似ているが、根っこから違う。言葉 にするなら、そうだな、命なんていらねぇって感じだ」 「そうっすか」 感嘆と軽い畏怖と敬意を込めて山吹が返すと、鉄人は眩しげに目を細めた。 「お前はどうなんだ、山吹。田村は当然だが、紗波のためなら、命を捨てる覚悟はあるか?」 鉄人は山吹の頭をぐいっと押さえ付けてから、邪魔したな、と言ってビニールカーテンを捲り、出ていった。山吹は 後頭部に残る鉄人の体温から妙なくすぐったさを感じ、意味もなく頭部の装甲を擦った。 鉄人の言葉を噛み締めながら、山吹は紗波の顔に手を伸ばした。金属製の角張った指先で頬をなぞると、微妙な 反応が返ってきた。薄い肌に包まれた表情筋が小さく震えたのだ。ああ、生きている。それを感じ取った瞬間、山吹 は全身の出力が低下したような感覚に陥った。恐る恐る手を引いてパイプ椅子にへたり込むと、紗波の心電図を見、 胸元の動きも確かめる。何度も何度も確かめる。開きっぱなしの手を包み込むと、五本の指が軽く曲がって山吹の 手を握り返してきた。ただの条件反射かもしれないが、信頼による行為だと思わずにはいられなかった。 何を迷っていたのだろう。何を戸惑っていたのだろう。何を恐れていたのだろう。何もかもが馬鹿げてきた。山吹は 紗波の手からそっと手を抜くと、慟哭になりかねないほどの激情を堪えた。鉄人の言葉が突き刺さる。生半可な 覚悟しか抱いていなかった自分が、どうしようもなく情けなくなった。人の親になるということは、そういうことなのだ。 両手を差し出して紗波の手を今一度包み込み、額に当たる部分の外装に押し当てた。 強くならなければ。 11 6/22 |