南海インベーダーズ




ザ・ストラグル・ウィズイン



 まともに実戦配備されたのは、鮫島甚平の一件からだった。
 能力試験という名の人体実験を幾度となく受けさせられ、虎鉄も芙蓉も心身を痛め付けられていた。虎鉄の場合は 鋼鉄と化した肉体の耐久性を調べるためだと言われて、超高温のガスバーナーで全身を熱せられたばかりか、 通電性を調べるためだと言われて高圧電流を流された。芙蓉の場合は液体と化した状態でプールに放り込まれ、 その中に大量の不純物を混ぜられて制御能力を調べられたばかりか、至近距離から機銃掃射を浴びせられたり、 全身を電動カッターで切り刻まれたり、と拷問のような実験を強いられ続けた。実際、竜ヶ崎全司郎の拷問だった のかもしれないが、今となっては真偽の程は定かではない。それらを全て耐え抜き、能力の汎用性と戦闘能力を 示し続けた結果、ようやく虎鉄と芙蓉は乙型生体兵器として正式に配備されることになった。
 初めての任務が忌部島への攻撃ではないことに内心安堵してはいたが、紀乃と露乃の従兄弟である鮫島甚平を 追うことには躊躇いがあった。幼い頃の甚平に会った時は、彼にはそんな要素があるとは思いがたかった。普通の 子供よりも大人しめで勉強熱心としか思っていなかったし、彼の父親が竜ヶ崎全司郎であっても必ずしも特殊能力 が芽生えるわけではない、と知っていたからだ。
 変異体管理局に入ってから紀乃を車で轢いた人間の素性を探り、その男の正体もまた本家の御前様の血縁関係 にあったと知り、滝ノ沢かすがを含めた滝ノ沢家の三姉妹は、皆、父親が竜ヶ崎全司郎であるとも知るが、三姉妹 は一人も特殊能力が発現していなかった。紀乃を轢いた犯人であり、宮本都子の種違いの弟である阿左見京輔も 同様で、特殊能力が発現する方が例外だった。だから、甚平が能力に目覚めるわけがない、それは何かの間違い だ、と思っていたし、そうであってくれと願っていた。
 しかし、その浅はかな願望は覆された。現場監督官である山吹丈二の部隊とは別ルートで鮫島甚平を追っていた 芙蓉は、海水に体を溶かし、間もなく鮫島甚平の身柄を発見したが、その姿は人間からは懸け離れていた。人型 に近いが、サメと化していた。甚平はエラを開閉させて海水から酸素を吸収しつつ、何かに誘われるかのように、海流 に乗ってふらふらと海底を歩いていた。芙蓉はそれを見なかったことにして海中を脱すると、要点をぼかした報告を 行ってから、虎鉄と合流し、海水とその他諸々の不純物がたっぷりと混ざった体で変異体管理局に帰還した。
 高級マンションに匹敵する広さの自室に戻ってきた二人は、体を洗い流した。芙蓉は一旦真水に体を溶かして、 不純物や海水を排出してから、改めて体を元に戻してシャワーを浴びた。虎鉄は素顔に戻った妻の傍で、鋼鉄化を 解除した体を湯船に沈めていた。一緒に風呂に入るようになったのは、何年振りだろうか。本来の目的は室内では 盗聴されている可能性が拭えないので、水音で会話が遮られる場所で話をしよう、ということだったが、気付いたら 一緒に風呂に入るのが習慣になってしまった。良いことではあるが、気恥ずかしいのは歳のせいか。

「てっちゃん」

 濃い化粧を落とし、濡れた長い髪を両手で掻き上げた芙蓉は、バスタブの縁に腰を下ろした。

「甚平君は、ちゃんと忌部島に向かったはずよ。私の生体組織をほんの少し海流に混ぜて、甚平君が嗅ぎ付けた であろう匂いの粒子とくっつけておいたから、匂いの粒子が大きくなって濃くなっているはずなのよね。サメは嗅覚が 優れているって動物図鑑に載っていたのよ。だから、甚平君がその通りの能力を持っていることを願う他はないわ。 おかげで髪がちょっとだけ短くなっちゃったけど、大したことじゃないのよね」

「その生体組織にお前の意識は伝わっているのか?」

「ほんのちょっぴり。それが精一杯なのよね。でも、甚平君ならきっと大丈夫よ。信じているから」

「辛くないか? 言うほど簡単な使い方じゃないだろうが」

「生体組織が私の制御下から離れるまでは、もうしばらくあるわ。だって、ほら、この水が繋がっているもの」

 芙蓉はバスタブに溜まった湯を掬い上げ、手のひらから落とした。

「水さえあれば、かなりの広範囲で私の意識は伝えられるってことが解ったのよね。海流を操るのはさすがに無理 だけど、ほんの一筋なら思うがままに出来るのよね。私にしか出来ないことがいくらでもあるし、私にしか成し得ない ことがこれからいくらでも起きるはずなのよね。だから、泣き言なんて言っている暇はないのよね。手始めに物凄い 戦果を上げて、あのスカした主任の一番のお気に入りにならなきゃね。本家の御前様に近付いたり、局内から紀乃 と露乃に関する情報を引っ張り出すのはその後ね。足場をきっちり固めておかなきゃ、動きようがないのよね」

「なるほど、道理だ。惚れ直しちまいそうだな」

「やぁねえ、ベタ惚れのくせに」

「どっちがだ」

「まあ、どちらかって言えば私の方がてっちゃんが好きなのよね」

 芙蓉はシャワーの熱気で火照った頬を更に紅潮させ、にんまりした。虎鉄は妻をバスタブに引き摺り込んで徹底 的にやらかしてしまいくなったが、任務を終えて疲れているのだから無理をさせてはいけない、と自制した。芙蓉は 不意に笑みを消すと、洗い立ての髪をタオルで纏めて後れ毛を押さえた。

「でも、まどろっこしいって思わないでもないわ」

「焦るなよ」

「焦ってなんかいない。充分落ち着いているつもりよ。でも、我慢出来ないのよ」

 芙蓉はバスタブの縁を握り締めたが、無意識に溶かしたのだろう、手のひらの下でタイルが柔らかくなった。

「手の届く場所に露乃がいるのよ? なのに、助けてやれないどころか、言葉も掛けてやれないのよ? あの子は、 体こそ大きくなったけど細すぎるのよ。顔色も悪いし、肉がほとんど付いていないから紀乃よりも年下に見えちゃう ほどなのよ。ベーチェット病だって良くなっていないみたいだし、目も見えないだなんて……」

「俺だって辛い。だが、露乃を助けるのはもう少し待つんだ。でないと、俺達ごと露乃も殺されかねない」

「てっちゃん、私を固めて。そうしてくれた方が、まだ気が楽になるわ」

 苦しげに懇願してきた芙蓉に、虎鉄は腕を回した。筋肉を付けた己の胸と妻の滑らかな背が接し、能力を最大限に 活用するために鍛え上げた腕を肩と胸に回し、高ぶらせると、芙蓉の肌は鉄色に変色した。肌の感触も変化し、 シャワーの湿り気は残っていたが弾力と温もりは遠のいた。鋼鉄製の人形となった芙蓉を抱き締めながら、虎鉄は 内心で戦った。これまでずっと耐えてきたのだから、遮二無二目的を遂げたいと思うのは当然だ。だが、それでは 何の意味もなくなってしまう。いずれ機会が訪れることを信じ、今ばかりは憎き男の手下になるしかない。

「てっちゃんも、あんまり頑張りすぎないでね」

「解っているさ」

 分厚い鋼鉄製の皮を被せたかのような妻の肢体を手を滑らせ、出会ったばかりの頃よりも丸みを得た腹部から 腰に掛けてのラインをなぞる。頑張るなと言われても、頑張らない方が無理だ。芙蓉という名の別人を演じている からだろう、妻はよく泣くようになってしまった。泣いて少しでも気が晴れるのなら、と泣かせるだけ泣かせるようにして いる。腕に滴ってくる熱い雫はシャワーよりも重たく、痛みすら覚えた。
 強くならなければ。




 鉄色の肌には、赤黒い血がよく似合う。
 歯が全て折れた口から滴る血の量は膨大で、胸元から股ぐらに伝い、ベルトが緩んだ隙間から股間に入って内股 を這っていく。生温く粘り気のある体液の感触は気色悪く、女って毎月こんな思いをしているのか、と、どうでもいい 思考が脳裏を過ぎった。海上基地全体が震えている。怯えている。竦んでいる。全ての職員が逃げ惑って、自衛隊 から派遣されている戦闘部隊も我先にと逃亡を図り、ハチの巣を突いたどころか、蹴り上げて踏み躙ったかのよう な大騒ぎだった。胸が空く思いがしたが、これは自分自身で勝ち得た勝利ではないのだと少し癪に障る。
 ヒビが走った窓から海上基地の滑走路を一瞥すると、全長百メートル以上もの体躯を誇る竜の首が、本体を呼ぶ ために咆哮を放っている。直径十数メートルはあろうかという眼球を頭部のように扱い、人型に似た体形に変形して いるが、実際には感覚器官だけしか備わっておらず、脳が入っていないのだそうだ。おまけにその中に実弟の忌部 次郎が融合合体しているので、竜の首の意識は忌部そのものだ。それが場違いなほど可笑しく、笑みが零れたが、 喉に詰まっている血が邪魔をして濁った泡しか立たなかった。

「てっちゃん……」

 壁に手を付きながら歩み寄ってきた芙蓉は、苦痛と疲労が抜けきっていないのか、表情が歪んでいた。

「もうすぐだ。俺達の娘が、そこにいるんだ」

 虎鉄はライダースジャケットの袖で顎から首筋を乱暴に拭い、手の甲で受け止めた血を投げ捨てた。メテオ跡地 での戦闘で派手に負けたどころか、電磁手錠で能力を封じられ、電磁手錠と鉄骨を繋いでいる太い鎖を噛み切ろう としたが文字通り歯が立たなかった。万事休すかと思われたが、何らかの理由で電磁手錠のバッテリーが切れた のか、能力が戻ってきた。おかげで一息で鎖が噛み切れ、芙蓉の鎖も素手で引き千切り、いきり立っていた竜の首 も格納庫から解放してやった。なんでも、忌部島が宇宙怪獣戦艦としての姿を取り戻したらしく、海上基地へ一直線に 向かってきているらしい。全ての元凶である竜ヶ崎全司郎の原型である、ゾゾ・ゼゼの指揮の下で。
 最上階の局長室のドアは、半開きになっていた。そのドアを蹴り破るが、竜ヶ崎全司郎と配下の甲型生体兵器の 少女達の姿は見当たらなかった。ワンフロアをぶち抜いただけのことはあるだだっ広い部屋は構造が妙で、大きな 窓に面してキングサイズのベッドが配置され、そのベッドから程近い位置に机があったが、生活感もなければ仕事を しているような雰囲気もない。コンクリートが打ちっ放しの壁は寒々しく、人間味を遠ざけているかのようだ。ベッドの シーツはよれていて、不気味に艶めかしい。生活感は一切ないのにバスルームはあり、その中で竜ヶ崎全司郎が 少女達に触れていたかと思うと吐き気がする。そして、最も奇妙なものが部屋の中心にあった。入れ子のように、 だだっ広い部屋の中心にもう一つの部屋があった。考えるまでもない。

「紀乃!」

 迷わずドアを破壊して虎鉄が突っ込むと、四方の壁を本に埋め尽くされた部屋の中で、フランス人形のような服を 着せられている長女が無表情に振り向いた。背景に不釣り合いな天蓋付きのベッドの支柱には、紀乃の細い手首を 戒めている手錠が掛けられていて、虎鉄と芙蓉と同じく自由を奪われていた。光の失せた目が少しずつ上がり、虎鉄と 芙蓉を捉え、両親だと認識すると、見開かれていた目が潤んで紀乃の表情が崩れた。

「お父さん……お母さん……」

「何もされちゃいないな、大丈夫だな!?」

 虎鉄はすぐさま電磁手錠の鎖を引き千切り、娘を解放すると、紀乃は虎鉄の血を見て青ざめた。

「お父さん、それ」

「大したことじゃねぇ。お前が受けた屈辱に比べれば、こんなもの」

 虎鉄が顎から流れる血を拭うと、芙蓉が紀乃を抱き締めた。

「もう大丈夫よ、紀乃。私達と一緒に外に行きましょう」

「忌部さんは?」

「あいつなら大丈夫だ。見てみろ」

 虎鉄が窓の外を示すと、紀乃は大暴れしている竜の首を見、少し安堵した。

「よかった……」

「次郎の奴と本土に来たのは、クソ野郎と戦おうと思ってくれたんだよな」

 虎鉄は血まみれの手を拭ってから、娘の頬に触れると、紀乃は涙を堪えながら頷いた。

「うん。でも、こんなことになっちゃって、ごめんなさい」

「謝ることじゃねぇ。遅かれ早かれ、この基地はぶっ壊すつもりだったからな」

 虎鉄は笑いかけたつもりだったが、裂けた唇からまた新たな血が出た。泣き出しそうな娘を妻に任せてから、 虎鉄は拳を固め、手のひらに叩き込んだ。乗用車が激突したかのような、盛大な金属音が鳴り響く。

「憂さ晴らしに暴れてくる。このままじゃ収まりが付かねぇ」

「てっちゃん、あんまり無茶しないでね」

「出来る限りはな」

 ヘルメットの下で浮かべた笑みはさぞ邪悪だっただろう、と後にして思う。仇敵を目の前にして逃げられた悔しさと 長女を奪還した達成感と、鉄臭さが常人の数百倍であろう血が煮詰まったかのような高揚感。上下の前歯が全て 折れた痛みは凄まじいはずなのに、ちっとも感じないどころか体が恐ろしく軽かった。その勢いに任せて窓を破壊し、 まだ人員が残っている木更津側に飛び降りると、悲鳴を上げながら狙撃してきた戦闘部隊に突っ込んだ。何十発も の弾丸が命中したが余さず潰れ、肌がくすぐったかった。装甲車を投げ飛ばし、銃器を握り潰し、蹴りの一発で 何人もの戦闘員を薙ぎ払う自分はとてつもなく誇らしかったが、一抹の苦痛も伴っていた。
 能力に酔いすぎている自分を、もう一人の自分がひどく冷たい目で見ている。だが、鋼鉄化能力を使わなくなれば 最後、一瞬で虎鉄は銃殺されてしまうだろう。やっとのことで守り抜けた家族をむざむざと殺されてしまう。虎鉄として 戦えば戦うほど、本来の自分から懸け離れていくのはある種の恐怖を感じる。だが、僅かでも立ち止まれば、膝を 折ることになれば、もう二度と家族は取り戻せない。虎鉄は戦闘機の翼を引き抜いて放り投げ、獣じみた咆哮を 迸らせた。無様に逃げ惑う自衛官達に凱歌の如く哄笑を浴びせながら、虎鉄は決意を据えた。
 初志貫徹。それに尽きる。




 いつのまにか、一階が静かになっていた。
 手を繋いだまま寝入ってしまった融子からそっと離れた鉄郎は、少々寝乱れた服を整え、ベッドのヘッドボードに 置いてある目覚まし時計を見やった。午前二時を回り、カーテンを捲って外を窺うと近所の窓明かりも減っていた。 かすかに軋む階段を下っていくと、暖房が切られて久しい冷たさの空気が階下から這い上がってきた。リビングは ダウンライトしか灯っておらず、物音もほとんどしない。うつらうつらとしながら見た夢は最悪で、思い出したくもない ことばかりが次から次へと蘇ってきた。寝酒を喰らって忘れようか、とも思ったが、この時間から飲むと朝になっても 酒が残ってしまいかねないので諦めた。リビングの中を窺うと、ソファーは毛布を被って熟睡する双子に占領されて いて、来客である仁は大人しく本を読んでいた。鉄郎に気付いた仁は顔を上げ、照れ笑いした。

「え、あ、どうも」

「ちったぁ文句を言ったらどうだ」

 鉄郎が双子を示すと、仁は本を閉じた。

「え、あ、いえ、別に。僕はまだ寝なくても平気っていうかで」

「遠慮しすぎると人生を損するぞ」

「あ、いえ、その……」

 仁は口籠もり、情けなさそうに眉を下げた。鉄郎はダイニングキッチンを指す。

「ここにいたんじゃ、紀子と露子が起きちまう。あっちにいかないか」

「え、あ、はい」

 仁は頷き、鉄郎に続いてリビングを後にした。ダイニングキッチンに明かりを付けて暖房を入れ、部屋全体を暖め ながら、二人分のコーヒーを淹れた。インスタントではあるが心地良い香りが広がると、寒さに強張ったダイニング が綻んだような気がした。向かい合って座ると、仁はちょっとやりづらそうではあったがコーヒーに口を付けた。

「で、どうなんだ。露子とは」

「あ、はい。その、問題はないっていうか、あったとしても大したことじゃないっていうかで」

「それはいいんだが、どこまで進んだんだ? まさか、何もしてないってわけじゃないだろう」 

 鉄郎の不躾な質問に、仁は赤面して大いに戸惑った。

「あ、いや、えと、その、でも、ええっと」

「何かしたって言ったら、俺が殴るとでも? そんなわけないじゃないか」

「え、えぇー……」

 仁は鉄郎の言葉が信じ切れないのか疑ってきたので、鉄郎はちょっと笑った。

「俺も融子も人のことは言えないんだ、何をどうしようが咎めやしねぇ。但し、子供を作るのは高校を卒業するまでは 待ってやれよ。でないと、露子の青春が半端で終わっちまうからな」

「あ、いや、それはもちろん」

「なら、いいんだ」

 鉄郎は苦いだけのコーヒーを啜った。仁は安堵しているようだったが、まだ不安げだった。こうやって次女の恋人と 当たり前の話が出来るなど、虎鉄は想像しただろうか。

「え、えっと、その、僕からもちょっといいですか」

 仁の及び腰な尋ね方に、鉄郎は一笑した。

「別に構わんが。で、何だ」

「えと、あ、僕と露子が一緒になったら、こっちに住んだ方がいいですか?」

「なんでそう思う」

「え、だって、そうでもしないと鉄郎さんと融子さんが露子と過ごす時間が少なすぎるって言うか、トータルで考えると 十年もないっていうか、僕ばっかりじゃ不公平かなっていうかで」

「そりゃ確かに。高校を卒業してすぐに露子をかっ攫われると、合計で五年とちょいぐらいにしかならないな」

「あ、はい。だから、その、なんか、気が引けちゃって」

「お前って奴は、本当に遠慮してばっかりだな」

「あ、なんか、すみません」

「責めちゃいない。褒めてもいないが」

 鉄郎の曖昧な言葉に、仁は戸惑いがちに俯いた。

「だが、家族の繋がりなんて住んだ年数で決まるもんじゃない。むしろ、成人してからも居着かれちゃ困るぐらいだ。 だから、仁と露子が結婚したら、二人で好きなように暮らせばいい。俺も融子も邪魔はしないし、紀子だってそうだ。 結婚した時点で、お前らは独立した家族になるんだからな。俺達はもう何の能力もないが、仁はまだ能力がある。 いざとなったら、それで露子を守れ」

 鉄郎の言葉に、仁はマグカップを膝の上に置き、黒い水面に目線を落とした。

「でも、僕はもうあの力に頼るつもりはないっていうか、僕自身の力で露子を守ろうっていうかで。僕に残っている のは能力というよりも体質だから、その、使いづらいし、姿形が変わりすぎるから色々と良くないっていうかで。 それに、僕はもうミュータントでもインベーダーでも御三家でもない、ただの人間ですから」

「そうか。だが、有効活用出来るようになっておけよ。その方が身のためだ」

 悔しいだとか、情けないだとか、空しいだとか、そういった女々しい言葉が喉元から出そうになるたびにコーヒーで 飲み下した。正直、能力が全て消えなかった仁が羨ましいと思う瞬間はある。どれほど体を鍛えようとも、今の自分 では虎鉄時代の戦闘能力はないからだ。愛する家族が危機に陥ろうとも、弾丸すらも跳ね返せず、車の一台すらも 持ち上げられないのでは、いざという時に役に立たない。若い頃はあれほど厄介に思っていたのに、なくなった途端に 惜しくなるのは我ながら現金だ。自分に対する嘲笑を誤魔化すため、鉄郎は顔を覆った。

「早く寝ろよ、仁。なんだったら、空いた分のベッドでも使ってやれ」

 鉄郎は飲みかけのコーヒーを飲み干してからシンクの洗い桶に浸し、ダイニングを後にした。背後の仁から笑み のようで笑みでないような反応が返ってきた。寝室に戻ると、先程まで熟睡していた融子が目を覚ましていた。鉄郎 が傍にいなかったことが余程不満なのか、鉄郎がベッドに戻った途端に手足を絡めてきた。
 二人の体温で暖まったベッドに身を沈め、妻の要求に応えてやりながら、鉄郎はかつての自分に思いを馳せた。 虎鉄という名の男。別人の乙型生体兵器。顔を隠しただけで、今までの自分ではなくなったような気がした。能力を 使い尽くして戦い抜く自分を誇っていた。それは男の性というよりも、鉄郎自身の問題だろう。

「てっちゃあんっ……」

 鉄郎の体の下で、融子は甘えた声を出して身を捩った。その汗ばんだ首筋に顔を埋め、鉄郎は囁く。

「お前がそんなに好きだというなら、虎鉄のままでいても良かったかもしれないな。次郎の奴に、能力だけは残して おくように注文しておくべきだったかもしれん」

「馬鹿。虎鉄だったてっちゃんも格好良いけど、今のてっちゃんの方が何倍も好き、ぃっ、んっ」

 切なく息を上げる融子に、鉄郎は答えなかった。その代わり、体で応えた。時間も時間なのであまり派手なことは 出来なかったが、それでも互いに満たされはした。事を終えたが妻との繋がりを失いたくなくて、すっかり衰えたもの をそのままにしていると、融子はいつしか微睡み始めた。満足げな寝顔を慈しんでいると、虎鉄で居続けたい理由も 戦いを欲して止まない理由も思い出してきた。
 未だに鉄郎を煽り立てているのは、融子の言葉だ。戦おうって思わないの。あの時、融子は夢中で言ったのだろうが、 それ以外に思い当たらない。愚かな男だ。目の前で怯える女の子に良い格好をしたい、という馬鹿げた感情 を二十年近く引き摺っている。二人の娘の父親ではあるが、それ以前に鉄郎はどこまでもひたすらに男なのだ。
 生体洗浄と生体復元を終えても、融子への熱は冷めるどころか高ぶる一方だ。つまり、鉄郎が融子に惹かれたのは 遺伝子のせいでも何でもなく、純粋かつ単純な恋心だったのだ。今更ながらその事実に気付いた鉄郎は、竜ヶ崎 全司郎に対して思い切り中指を立ててやりたくなった。俺が融子に惚れたのはお前のクソッタレな血のせいでも なんでもない、と自慢してやりたいぐらいだ。気怠い余韻に浸りながら、この感情を表す語彙を探った。
 愛なんて、生易しいものじゃない。







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