南海インベーダーズ




サッド・バッド・トゥルー



 十一年振りに見た自分の顔は、受け止めにくかった。
 誰に似ている、というものでもなく、幼い頃の自分の顔にも似ていなかった。そもそも、幼い頃の自分の顔ですらも まともに見えていなかったのだから。視力は〇.一あるかないかだったというのに、里親はメガネを与えるどころか、 目がよく見えないせいで目を凝らしがちな露乃を睨み付けてきたといって殴ってきたほどなのだから。
 鏡を見る。手を見る。メガネを外して、それを見る。視力検査をしたのは意識が戻って間もなくだったが、それから 二日も経たないうちに作ってきてくれた。デザインは至ってシンプルで、細い銀縁に楕円形のレンズが填っている。 耳にツルを載せるのに慣れていないので、耳に痛みを感じつつも、改めて鏡を覗き込んだ。それまでは朧気な輪郭 でしか捉えられなかった自分の全容が見えると、段々恥ずかしくなってきた。思わず顔をしかめると、鏡に写った顔も 同じ表情をしたので、居たたまれなくなって鏡を伏せた。
 露乃は表情筋が引きつるかのような痛みを感じて、鏡をサイドボードに置いてから顔を覆った。中途半端に伸びた 髪が鬱陶しく、斜め前下がりに決めていたカットが台無しになっている。これでは、単なるショートカットではないか。 しかも、思い切り似合っていない。露乃は嘆息してから、前髪を掻き上げた。ベッドと隣り合っている窓から見えるのは、 見知らぬ街並みと瓦礫の海だった。

「露乃、起きた?」

 部屋のドアがノックされ、聞き慣れた声がした。露乃は反射的に振り向き、答える。

「ああ。今し方」

「体の具合、どう? 変なところとかない?」

 心配げに入ってきたのは、双子の姉、紀乃だった。生体洗浄と生体復元を早々に終えているので、体力の回復も 誰よりも早かった。シンプルなパーカーワンピースに七分丈のレギンスを着て、スニーカーを履いている。その顔は 先程露乃が鏡で見た自分のものによく似ていたが、表情筋の使い方が決定的に違っていた。紀乃は露乃のベッドに 近付いてくると、露乃の顔を覗き込み、見回してきた。なんだか照れ臭くなった露乃は、目を逸らす。

「……なんだ」

「目、大丈夫? ちゃんと見えている?」

 紀乃は露乃の目の前に手を翳してみせたので、露乃はその手を払おうかと思ったが思い止まった。

「見えている」

「そっか、良かった! じゃ、ちょっと待っててね!」

 紀乃は満面の笑みを浮かべると、軽い足音を立てて出ていった。頬の盛り上がり方と顎の筋の動きがあまりにも 自然だったので、表情筋が出来上がっているのだと一目見て解った。つまり、紀乃は常日頃からあのような笑顔を 浮かべているということだ。それに比べて、と露乃は自分の頬と顎をさすったが、筋肉どころか肌の下にある肉すら も薄っぺらかった。喉にまで手を下げてみるがやはり同じで、胸から腹にかけても筋肉らしいものはほとんどない。 よくもまあ、こんな体で歌えたものだと我ながら呆れてしまう。薄っぺらい入院着の胸元を開けて目視するが、年頃の 少女らしさは一切なく、悲壮感が強まった。襟元を直していると、再びノックされ、紀乃が戻ってきた。

「露乃! ほら、甚にいだよ!」

 紀乃が強引に引っ張ってきたのは、やたらと体格は良いが表情が弱々しい青年だった。身長は非常に高く、肩幅も 広ければ肉付きも良かったが、眉と口角は情けなく下がっていた。度の強いレンズが填っているフレームの太いメガネ の下では視線が左右に揺れ、定まろうとしない。腰も引けていて、紀乃の後ろに隠れようとさえしている。

「……甚平?」

 これのどこが甚平なのだ。露乃が戸惑うと、やはり入院着姿の青年は中途半端な長さの髪を乱した。

「ああ、うん、そう、僕。なんか、こう、生体洗浄のせいで見た目が変わりすぎたっていうかで」

「じゃ、ごゆっくり! 私はこれからお父さんとお母さんを起こしてくるから!」

 ひらひらと手を振りながら、紀乃は部屋から出ていった。露乃も青年も引き留めようとしたが、無駄だった。部屋の ドアは音を立てて閉まり、紀乃の足音は遠ざかっていった。露乃はメガネの位置を直して青年に焦点を定めると、 青年は反応に困ったらしく、笑顔ともなんともつかない曖昧な表情を浮かべた。

「ああ、えと、久し振り、っていうのも変な気がするけど。その、僕も露乃も、これまでずっとワンの体内にいたわけで、 その中でも辛うじて意識らしいものはあったけど、自我と言うには程遠い状態だったわけで。だけど、確固たる 意識が確立されていたわけじゃなくて、その、なんていうか……」

 面と向かって離すのが照れ臭いのか、青年はしきりに口籠もった。声の響きは甚平と同じで口調も同じだったが、 青年と甚平が一致しなかった。露乃の知る甚平はサメ人間だから、ということもあるが、それ以上に何かが違った。 甚平らしさが、この青年にはなかった。青年はしきりに露乃に話し掛けてくるが、どんな言葉も上滑りするばかりで 一向に届かなかった。それどころか、やかましささえ感じた。甚平だと思いたいのに甚平だと思えない。申し訳なさ と違和感が鬩ぎ合った露乃は、青年を追いやって本当の甚平を探し出したい一方で、紀乃が甚平だと言って連れて きてくれた青年を無碍に出来ない気持ちがない交ぜになり、上手く言葉が出てこなかった。
 だから、一言も喋れなかった。




 笑顔の練習をする。
 鏡に向かい、頬を持ち上げて口角を吊り上げ、そのまま維持してみる。だが、表情筋が攣ってしまいそうで一分も 続かない。何度も同じことをしていると馬鹿らしくなってくるが、紀乃のように笑ってみたいと思っていた。ああやって 自然な笑顔が作れていたら、露乃の人生はもっと違った方向に進んでいたかもしれないし、これから社会に出るに 当たって必要不可欠な技能だと知っていたからだ。けれど、辛いだけだった。笑顔を浮かべる自分にも慣れないし、 笑顔を作るのに必要な筋肉は鍛えられないし、そもそも笑顔を見せるべき状況を見極められない。その上、未だに あの青年を甚平だと思えなかった。それどころか、露乃の知る甚平との差が広がる一方だった。
 鏡と向き合うのにうんざりした露乃は、気晴らしに演奏でもしようとエレキギターを担いで部屋を出た。療養所の皆は 露乃の音楽に対して寛容なので、屋上で思い切り掻き鳴らしても苦情は出ない。伊号、もとい、いづるは文句を 付けてくるが、以前に比べればかなりマイルドになったので、彼女も変わってきたのだろう。生体洗浄と生体復元を 終えたいづるの体は頸椎と神経の損傷が完全に回復し、全身不随も完治したので、最早彼女に怖いものはない。 機械遠隔操作能力を失っても、数学とプログラミングに関しては天才的なので、それらを存分に生かせるジャンル に付けば頭角を現すこと受け合いだからだ。今頃は筋力が弱り切った手足を鍛えるためのリハビリに励んでいる のだろうが、今日は何分続くことやら。頭の良さに反比例して、凄まじく運動嫌いだからだ。
 瓦礫に混じる生臭い匂いは、あの男の匂いだろう。竜ヶ崎全司郎、もとい、ゼン・ゼゼが撒き散らした生体組織が 付着した瓦礫は数十万トンは残っているからだ。屋上に出た露乃はベンチに腰掛け、父親から譲り受けたZO−3を 膝に載せて軽く弦を弾いた。じゃらり、と秋口の乾燥した空気に金属質の音色が広がる。

「……ん」

 何の曲を弾こうか、と思案していると、屋上のドアが軋みながら開いた。

「やあ、露乃」

 現れたのは青年だった。露乃は反応せずにコードを押さえ、つま弾き始める。

「えと、その、聞いていていいかな」

 露乃は答えずに、滑らかに指を動かす。青年は露乃の座るベンチの端に腰掛け、軽く背を丸める。横目に窺うと、 その姿勢は甚平のものと同じだと解る。背骨の曲がり具合に、頼りなく足の間で組んだ両手に、引き気味の腰。 けれど、やはり甚平とは重ならない。むしろ、別人だと思いたくなる。強迫観念のように、好きだと言い合った相手 を疑ってしまう。初めて知った暖かくも力強い気持ちは、今も変わりないはずなのに。

「えと、その、言いづらいんだけどさ」

 青年は長い間の後、躊躇いがちに口を開いた。

「あ、えっと、露乃って……僕のこと、さ」

 嫌いになったの、と、青年は力なく言った。語気は弱く震え、言うことでさえも苦しげだった。

「見くびるな。僕はそんなに単純な思考回路は持ち合わせていない」

 びぃん、と演奏を止めて弦を押さえた露乃は、あの日以来静寂に支配されている都市部を見渡した。

「僕は今まで目が見えなかった。それが普通だった。それでいいとすら思っていた。むしろ目が見えないことで僕の 能力は最大限に引き出されるのだと信じていた。実際にそうだった。けれど目が見えてほしいと思うようになった。 甚平の顔が見たかった。お姉ちゃんの顔が見たかった。お父さんとお母さんの顔が見たかった」

「うん、それは知っている」

 青年は大柄な体格に見合わない仕草で、肩を縮めた。

「けれど目が見えるようになったら甚平が見えなくなった。お前はお姉ちゃんが甚平だといって連れてきたが未だに 僕は甚平だと認識出来ていない。そう思うようにしているがそう思えない。その理由が……解らない」

 露乃はエレキギターを傍らに置き、膝を抱えた。瓦礫の海を渡ってきた秋風は冷たく、肌を粟立たせる。

「ああ、うん、そうだね。そうかもしれないね。でも、それは、たぶんきっと僕のせいだ」

 青年は苦々しげに頬を歪め、卑屈に口元を引きつらせた。

「僕が僕自身を確立出来ていないから、露乃がそう感じるのも無理はないと思うよ。これまで生きてきた中で、僕が 僕らしく生きられたのは、サメ人間だった頃の二ヶ月間だけだったというかでさ。見た目だけ良くなったって、中身は いつまでたっても変わらないどころか、悪くなる一方で。理由は……まあ、色々とあるけど」

「僕もだ。理由が解らない理由がありすぎてまとまらないだけだと思う」

 露乃は目を伏せ、姉とお揃いのスニーカーのつま先に目を落とす。

「あ、うん、あれは心の拠り所、っていうのかな。いや、もっと悪い。依存、って言った方がいいな、僕と露乃の場合」

 あれは恋じゃないよ、と付け加えた青年はとても辛そうで、声が若干詰まっていた。

「あの時の僕と露乃を繋げていたのは、竜ヶ崎全司郎に対する復讐心だけなんだ。現状に対しての反抗心だとも、 なんとでも言えると思う。でも、そんなもんだったんだよ。だから、うん、終わるのなら、それだけでいいんだよ」

「お前は僕が嫌いなのか」

「まさかそんな。嫌いになんてならないし、なれないし、むしろ好きで好きでどうしようもない」

「だったらなぜそんなことを言うんだ」

「単純に言えば、そう、怖いんだよ」

「怖い? 何がだ」

「僕がこんなんだから。だから、露乃も僕が僕だって解らなくなったんだ、きっと」

 青年は自虐しながら、ベンチから立ち上がったが足取りは重たかった。その足音が遠ざかり、階段を下りていくが、 微妙に左右の足のタイミングが合わない歩き方は甚平に他ならなかった。思わず追い掛けようとしたが、あんな ことを言ったばかりなのに、白々しすぎやしないか。露乃は縋るようにエレキギターを抱え、強張った顔を何度となく なぞった。意識とは無関係に表情筋がひくついていて、喉も絞られるように痛んでくる。

「う……」

 あれは恋じゃない。依存。なんとでも言える。

「違う……違う……」

 彼にそう言わせてしまった自分が嫌だ。否定すらしなかった自分も疎ましい。

「あれは恋なんだ」

 自分の能力で彼を守れることが誇らしかった。生体兵器であることが、初めて嬉しいと思った。敵対関係にあった 露乃を守ってくれたばかりか、忌部島に連れてきてくれたのは感謝してもしきれない。遠くに連れて行ってくれたりも した。必要な時、傍にいてくれた。持病と竜ヶ崎全司郎に穢されていた体をなんとも思わずに触れてくれた。だから、 露乃は甚平が好きだ。辿々しいが知性を感じる言葉も、サメ人間だった頃のざらついた肌も、凶暴な牙ですらも。
 こんなにも好きなのに、どうして目が曇るのだろう。目の前にいる彼は間違いなく甚平なのに、どうしてそう思おうと しないのだろう。吐き気に似た固まりが込み上がってきたが、出てきたのは胃の内容物ではなくひどく情けない嗚咽 だった。聞きたくないので声を殺そうとしても、逆に声が漏れてしまう。視力が戻らなければ良かった、とさえ思った。 それさえなかったら、甚平と露乃の関係は変わらなかったはずだ。目が見えていようが見えていまいが生きることは 出来るのに、欲を掻いてしまうからこんなことになってしまうのだ。

「露乃、どうしたの?」

 屋上にやってきた紀乃が、心配そうに声を掛けてきた。露乃はメガネを外して目元を拭い、俯いた。

「お姉ちゃん……」

「どこか痛いの? でなきゃ、甚にいとケンカでもした?」

 紀乃は露乃の隣に座り、身を寄せてくる。露乃は姉の華奢な肩に縋り、心中を吐き出す。

「ひどいことを言ってしまった。今の甚平がどうしても甚平だとは思えない。けれど甚平はやはり甚平なんだ。なのに 僕は……。どうしてそう思えないのか解らないんだ! 解らないからどうにも出来ないんだ!」

「よしよし、良い子良い子」

 紀乃は露乃を撫でてやりながら、優しく語り掛けてきた。

「色々あったんだもん、ちょっとぐらい混乱しちゃうのは仕方ないって。だから、泣くだけ泣いてすっきりしちゃいなよ。 そうしたら、良い考えが浮かぶかもしれないじゃん?」

「でも……」

「甚にいには、後でちゃんと謝ればいいよ。だから、ね?」

「うん」

 露乃は掠れた言葉を返し、姉の服を掴む手を少し緩めた。

「お姉ちゃんは怖くならないのか。ゾゾがお姉ちゃんを好きでいることを。お姉ちゃんがゾゾを好きでいることを」

「そりゃあ、何もないってことはないけど。でも、それでいいの」

 紀乃は露乃に寄り掛かるような恰好になり、泣き笑いのような表情を作った。

「私はゾゾが好き。だって、私ぐらいは好きでいてあげなきゃ可哀想じゃない。ゾゾも色んなことを間違っちゃったし、 失敗もしちゃったし、人類の敵にされちゃったまま宇宙に帰っちゃったけど、ずっとずっと私の味方でいてくれたんだ もん。それぐらいはしてあげなきゃ、不公平でしょ? それに、両思いだし」

「お姉ちゃんは強いな。僕とは違う」

「全然、そんなことないよ」

 紀乃は笑顔を保とうとしたが、目の端から涙の筋を落とし、今度は露乃の肩に顔を埋めてきた。

「ゾゾに会いたい。キスだって、もっともっとしたい。傍にいたい。また忌部島で暮らしたい。それが無理なら、私んちで 家族になってほしかった。でも、全部が全部、無理なんだもん。変なところで意地っ張りなんだもんなぁ、ゾゾは」

「そうだな」

 姉の真似をして、露乃は紀乃を慰めた。叶っているのに先がない恋ほど、辛いものはないだろう。

「だからさ、露乃は、ちょっと頑張ってみれば、いいと思うんだ。だって、露乃は甚にいに手が届くじゃん?」

 途切れ途切れに言いながら、紀乃は明るい口調を作ろうとしたが語尾は上擦っていた。露乃は頷くと、姉を支えて やった。紀乃はごめんねとしきりに言いながら、妹に甘えてきた。それがなんとなく嬉しかったが気恥ずかしく、露乃は 無意識に頬の筋肉を緩めていた。触れ合った部分から、かすかに伝わってくる振動がある。紀乃だけが持つ音、 心臓の鼓動だった。音楽というには原始的な規則的な音は、露乃に緩やかな決意を誘った。
 音でしか彼を知れないのであれば、音で彼を知ればいい。







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