南海インベーダーズ




サッド・バッド・トゥルー



 本当の自分。本物の自分。本来の自分。
 そんな言葉が、何度頭を巡っただろう。その度に違和感に苛まれ、葛藤し、混乱し、逡巡する。鏡を見てもまるで 馴染まず、別人が自分を見返してくる。自分と全く同じ動きをする赤の他人が、自分の脳を入れた別物の肉体が、 さも自分であるかのように動いている。生体洗浄と生体復元を終えて一週間近く経過したが、自分が自分であると 明確に思えた瞬間は一度もない。そんなことだから、愛する少女から見失われてしまうのだ。
 鮫島甚平はそこにはいない。ここにいるのは、自分が誰かも解らない男だ。ワン・ダ・バによって竜ヶ崎全司郎の 因子を綺麗に洗い流された染色体と遺伝情報が成したのは、当の昔に見限った両親にどこか似ている男だった。 思い返してみれば、弟は背が高く全体的にがっしりしていた。それに比べて、かつての甚平は背も低ければ体格も ずんぐりとしていて、挙動不審であることも相まって気味悪ささえ漂わせていた。けれど、今はどうだ。姿形の良さで 言えば、両親にも弟にも勝っている。顔付きも精悍で、気色悪いほど目鼻立ちが整っている。だが、それが喜ばしいと 感じたことはない。むしろ、元に戻してくれとワン・ダ・バとゾゾに懇願したい。サメ人間のままでも構わないから。

「う、ぅ……」

 喉の奥から漏れる呻きは以前と変わらず、それには少しばかり安堵する。甚平は頭を抱えてベッドに突っ伏すと、 深呼吸した。息苦しい。目眩がする。胃腸が痛い。頭が痛い。あの苛烈な戦いを生き延びられたというのに、素直に 生を喜べない自分がつくづく嫌になる。こんなはずでは、こんなことなら、と思ってばかりいる。

「ごめん、ごめん……」

 恋じゃない、依存だ、なんて言うつもりはなかった。心から好きなのに、大事でたまらないのに、なぜ今までの関係 を全否定するようなことを口にしてしまったのか。答えは単純、露乃から嫌われるのが怖いからだ。だから、甚平の 方から距離を開けてしまえばいいと思ったのだ。けれど、結局、辛いことに代わりはなかった。
 露乃の目が怖い。今までは光しか見えていなかった目が、真っ向から世界と甚平を見据えてくる。しかし、それは 甚平を慕う目ではなく、違和感と猜疑心だ。紀乃や他の者達を見る目はそうではないのに、甚平に対する目だけ が否定的だ。露乃だけは甚平を否定しないと信じていたし、だからこそ露乃を好きになり、人並みの恋愛が出来た。 あれは一時的なものだと信じたいし、いずれ元の関係に戻れるだろうと期待してはいるが、期待すればするほど、 現実は残酷なのだと思い知ることになるだけだと危惧してもいる。
 サメ人間と化す以前の人生で、いやと言うほどに味わってきた。親しげに声を掛けてきたから、嬉しくなって友達に なっても三日と経たずに陰口を叩かれる。遊びに誘われたから出掛けると、待ち合わせ場所には誰もいなかった。 貸してくれと頼まれたので本を持っていくと、目の前で破られる。教師から褒められたら、クラス全員から貶される。 誰とも会話出来ないから勉強していたら、教科書やノートを奪われて投げ捨てられる。図書室に行けば、図書委員達 が声を潜めて笑い合う。結局、露乃もあいつらと同じじゃないか、という考えが僅かに過ぎり、甚平は奥歯が砕け かねないほど噛み締めた。

「……ぐぇ」

 吐き気に似た嗚咽が喉を鳴らし、力んだ腕が痛い。全身から噴き出した冷や汗を吸い取ったのか、背中にシャツが 貼り付いた。否定されるのが怖い。嫌われるのが怖い。避けられるのが怖い。疎まれるのが怖い。怖い。怖い。 自信なんか持てるはずもない。持った傍からへし折られる。得た途端に踏み躙られる。だから、自己肯定しないのが 傷付かずに済む手段だと認識していたし、そうでもしなければ呼吸すらままならなかった。
 だが、露乃や皆はそうではない。甚平がサメ人間であろうと、あの竜ヶ崎全司郎の落胤であろうと、喋るのが下手 であろうと、自分の世界に没してしまおうと、ごく普通に扱ってくれた。だから、自己肯定をしても許されたかのような 気がしていた。けれど、それも仮初めのものだったのだ。竜ヶ崎全司郎を憎むがあまりに出来上がった連帯感が、 甚平と皆の距離を狭めていただけに過ぎず、それが終わってしまえば、やはりこうなるのだ。
 誰にも好かれない。誰からも思われない。だから、誰も思うべきではない。居場所のない家、生き地獄と言う他は ない学校生活、苦痛以外は何もなかった予備校、濁った目の自分、味を感じられない食事、暗い自室とは対照的に 明るく会話が弾んでいるリビング、唯一心が安らぐ夜中の散歩、自由を得られる本の中の世界。やはり、どんなことが 起きようと、どんな宿命を背負っていようと、甚平の根幹は揺らがない。他人に対する膨大な劣等感とその大きさに 反比例した過度な自尊心は、いつまでたっても解れない。それどころか、一層きつく絡み、心臓を締め上げる。
 浅い微睡みと悪夢の狭間で意識を上下させていたからだろう、その音に気付くのが遅れた。ドアをノックされる音が 何度も続いている。規則的に、単調に、平坦に、それでいて苛立ちを生まない音量で。それがビートを刻む音だと 気付いたのは、意識が浮上しきってからだった。つまり、これは。甚平は体が竦み、声が詰まった。

「おい。起きているか」

 ドア越しに声を掛けてきたのは、他でもない露乃だった。甚平は上手く声が出せなかったので、よろけながらドアに 近付き、ノックを返した。鍵を開けるか否かを迷ったが、開けられなかった。露乃も、開けてくれとは言わなかった。 露乃はドアノブに手を掛けたようだったが、ドアが開かないことを知ると、開けようとはせずに手を離した。

「そうか。それならいい。僕は勝手にする」

 そう言った露乃はドアに寄り掛かったのか、ドア全体が軽く軋んだ。

「僕は目が見えるようになった。病気もほとんど良くなった。けれど僕は甚平を見失った。それは今までの僕は視力 以外の方法で甚平を認識していたからだ。だから視力に頼った途端に認識能力が混乱したに違いない」

 返事をする代わりに、ドアを小突く。露乃は続ける。

「僕は甚平を見ていたんじゃない。聞いていた。触れていた。感じていた。接していた。けれど僕は目覚めてからは 一度もお前に触れていないし触れられてもいない。触れたら触れたで弾き飛ばしていたかもしれない。思い切り手を 払いのけていたかもしれない。突き飛ばしていたかもしれない。蹴り飛ばしていたかもしれない。汚らしいスラングで 罵倒していたかもしれない。ともすればギターで薙ぎ払っていたかもしれない」

 こん、と少しだけ強く叩く。露乃は淀みない。

「お前が何者かを知らないからだ。お前が何をしたいのかが聞こえないからだ。お前がどうしたいのかが届かない からだ。けれどそれは僕にも責任はある。僕はお前に近付こうとしなかったからだ。お姉ちゃんの言葉を信じている つもりでいるのに信じ切れていないからだ。そんな自分が情けない。お前も情けないが僕はもっと情けない」

 ごき、と手の甲がドアの内側に接する。露乃の声色は、僅かながら上擦る。

「いいか良く聞け。ライブの最前列の如く聞け。これから僕はお前を甚平だと認識するために不可欠な行動を取る。 お前はそれについてとやかく言うな。言ったら蹴る。ともすれば殴る。でなければ腹に膝を入れる。解ったか」

 ごり、と思わず手の甲がずれた。甚平が戸惑っていると、露乃の足がドアに入ったらしく、ドアが揺れた。

「だから開けろ。でないと壊すぞ。好きな語彙ではないがロックンロールってやつだ」

 夜も遅いのだから、暴れられたら一大事だ。甚平はちょっと慌てながら鍵を開けると、途端に露乃がドアを開けて 中に入ってきた。部屋の明かりを付け忘れていたせいで真っ暗なので、甚平はドアの脇にある蛍光灯のスイッチに 手を伸ばしかけると露乃の手が阻んできた。小さくてひやりとした指先が手首を握り締め、押し返してくる。

「大人しくしろ。僕に逆らうな。壁に背を当てろ」

 強盗のような文句を並べながら迫ってきた露乃に、甚平はされるがままになった。夜の闇を閉じ込めた箱のような 自室にある光源といえば、療養所の周囲を警備のために照らすライトがカーテンの隙間から差し込んでいるだけで、 一筋の細い光が露乃の背に渡っていた。散髪していないので毛先が不揃いなショートカットが掛かっている 首筋は心なしか肌の色が赤く、甚平の胸元に届く吐息もどこか弱々しい。

「いいか。動くなよ。絶対だ。動いたら叩きのめす」

 露乃は必死ささえ感じる強さの語気で言い切り、甚平の汗ばんだシャツの胸元を掴んできた。それはよくない、と 気まずくなった甚平は露乃の肩を押し戻そうと手を伸ばしたが、露乃が睨んできたので大人しく両手を下げた。露乃 は息を詰めてシャツを千切らんばかりに握っていたが、不意に指の力を緩め、寄り掛かってきた。鳩尾より少し上に 耳を当て、神妙な顔をして目を閉じた。布越しとはいえ直接染みてくる露乃の体温と柔らかな髪の感触に、甚平は 体の奥が疼いたが顔に出さないように努力した。しばしの間の後、露乃は目を上げた。

「同じ音階。同じビート。同じ重低音。テンポは高速で速弾き並みだな」

「そりゃあ、まあ……」

 これだけ近くにいれば、意識してしまう。甚平が急に照れ臭くなると、露乃は手を伸ばしてきた。

「触る」

「え、あ、どこを」

「全部だ。僕に逆らうな」

 露乃の語彙はきつい命令形だったが、その割には声が弱かった。甚平は腰を落として距離を狭めてやると、露乃の 手が顔に触れてきた。目が見えなかった頃と変わらぬ仕草で、顔の骨格と肉付きを丁寧に確かめてくる。顎から 首に下がった手は鎖骨から繋がった肩を確かめ、不相応な筋肉が付いた上腕から下腕へ下がっていった。エレキ ギターが不意に羨ましくなる。いつもこの手で抱かれ、掻き鳴らされ、歌わされているのだから。

「ん……」

 手首に至ろうとした指先が止まり、また胸に戻ってきた。筋肉の下にある肋骨をなぞっていき、脇腹と腹筋の堅さ に微妙な戸惑いを覚えたのか、露乃が息を漏らした。それに関しては甚平も同意する。鍛えてもいないのに体格が 良くなってしまったのは解せないからだ。腹筋から腰、腰から背中、背筋、背骨、肩胛骨、頸椎。それらの一つ一つを 指先で辿り、形を捉えた指は止まったが、首の後ろで両手を組まれた。

「あ、あのさ」

「次は牙だ」

 有無を言わさず、露乃は体重を掛けてきた。甚平が反射的に腰を曲げると、リップグロスであろう甘い匂いが鼻先を 掠めた後、唇を塞がれた。それだけではなく、甚平の顎を開かせようとしてくる。差し込まれた柔らかい舌が上唇の 内側をぞろりと這い、次に下唇の内側を撫で、歯へと迫る。思い掛けない感触で甚平が顎を緩めると、その隙間に すかさず舌が滑り込んでくる。上下の前歯から左右の八重歯に至り、奥歯の手前まで確かめてくる。無論、甚平の 舌と露乃の舌は接し、粘液とその分泌物が絡み合って音を立てる。どちらのものとも付かない銀色の糸が、露乃の 唇の端から溢れて落ちた。体を離すと、途端に露乃は息を荒げた。甚平もまた、呼吸が速まっていた。

「で、その、アレは」

 口元を拭ってから、甚平が牙の有無を聞いてみると、露乃は顔を両手で覆っていた。

「……恥ずかしい」

「え、あ、でも、君の方から」

 甚平がやや目を逸らすと、露乃は羞恥心を紛らわすためなのか喚いた。

「この僕が自発的にするわけがないだろうが! 馬鹿めが! お前が悪いんだからな! お前が!」

「え、ああ、ごめん」

 何か理不尽な気がしないでもなかったが、甚平が反射的に謝ると、露乃は背を向けた。

「お前は僕との関係を依存だ何だと言ったかもしれないがな! 僕はちゃんとお前に恋をしていたんだぞ! それを 手前勝手な持論で否定するな! 怖いと言えば僕だって怖い! 得体の知れない人間に姿が変わったお前が怖く ないわけがない! 正視しづらくないわけがない! けれどお姉ちゃんはお前を甚平だと言った! だから僕はそれ を確かめた! 胸ビレも背ビレも尾ビレも尻尾もエラも牙もなかったが心臓の音で認識した! だからあんなことを したんじゃないか! 甚平だと解ったから!」

 怒鳴りすぎて息が切れてきたのか、露乃は苦しげに喘いだ。

「なのに……お前って奴は……」

「なんか、色々とごめん」

 甚平が再度謝ると、露乃は不機嫌極まる顔で振り向いた。

「だから次はお前の番だ。僕を確かめろ。さっさとしないか」

「え、えぇ!?」

 先程の行為を露乃にするのは拙いのでは、と甚平がぎょっとすると、俯いた露乃の面差しに照明の線が重なり、 頬の赤さが明るみに出た。今にも泣きそうなほど目元は潤み、引き締めた口元からは決意の固さが見て取れる。

「僕が何者かをお前の手で確かめれば怖くないだろう。物事は認識した時点から成立するものなんだそうだ。量子 宇宙論かシュレディンガーの猫か好きな方を選べ。それが嫌なら他の語彙でもいい」

「そうだね。それはちょっと、可愛くないね」

 露乃のリップグロスが付いた唇を舐め、甚平は少し笑った。露乃は露乃だと解っているはずなのに、過去と重ねて 無闇に怖がっていた。それがどれほど無意味なものか、ようやく理解出来た。最初から彼女を信じていれば、余計な 遠回りはせずに済んだのに。だが、そのおかげで身に染みたことが一つある。

「えと、その、うん。僕だったらこう言うな。生まれ変わった露乃に会えて、本当に嬉しいよ」

 羞恥心と照れで硬直している露乃を柔らかく抱き寄せた甚平は、椅子に腰掛け、膝の上に少女を乗せた。体重の 軽さは変わらなかったが、メガネ越しに注がれる視線には焦点があり、真摯だった。切り揃えられていない髪に指を 通し、年相応の丸みが付いた頬を包んでから、細身の顎に指を添わせて形を確かめる。手のひらの下では、頬の 温度がほんのりと上昇するのが解る。逸らされた視線を向けさせてから、甚平は露乃に顔を寄せた。
 再び唇を重ねると、不安は和らいだ。




 サイドボードを探り、メガネを手に取る。
 上体を起こしてからメガネを掛けると、ぼやけた視界が補正された。自分の肉体で唯一変わらないのは、視力の 悪さなのかもしれない。喜ばしいことではないが、それに気付けただけでも随分と気が楽になる。いつになく心地が 良い目覚めで、頭も冴え渡っている。だが、懸念も生まれてしまった。甚平はベッドの端に腰掛けると、同じベッドで 一晩を共に過ごした露乃を見やった。寝顔はまだまだあどけなく、緩み切った顔もまた可愛らしい。頬に掛かった髪を 払ってやると、露乃は小さく呻いて体を丸めてから、重たく瞼を開いた。

「う……」

「起きた?」

 甚平が露乃のメガネを差し出してやると、露乃はそれを掛け、枕元の目覚まし時計を視認した。

「朝か」

「うん、そう、朝。僕としては、そのつもりはなかったんだけど」

 甚平は居たたまれなくなり、あらぬ方向に顔を向けた。露乃に触れ、確かめるうちに、ぐずぐずとしたわだかまりは 溶けてくれた。絶え間ない不安の中でも揺らがなかった気持ちが定まり、露乃の視線を怖いとは思わなくなったので、 結果としては充分すぎるほどなのだが、その後が怖い。露乃が自室に帰らなかったことは、同室である紀乃が 知っているだろうし、その両親である鉄人と溶子も知っているはずである。行き先は甚平の部屋以外に有り得ない ので、真っ直ぐにこちらに向かってくるだろう。何もしてはいない、と言ったところで信じてもらえないだろうし、まるで 何もしていないわけではないので罪悪感がある。どうやって言い訳をするべきかと甚平が悶々としていると、露乃は 寝乱れた髪に指を通してその場凌ぎに整えてから、甚平に寄り掛かってきた。

「甚平」

「え、あ……うん。何?」

 やっと名前を呼んでくれた。甚平が嬉しくなると、露乃は窓の外を指した。

「海を見に行こう。出歩ける範囲で構わない」

「あ、うん、そうだね。気晴らしにもなるし」

「昨日の続きはするな。もっともっと後でいい。でないと死ぬ。羞恥心で死ぬ。むしろ蒸発しかねない」

「ああ、うん。だろうね」

 真顔で言い切った露乃に甚平は苦笑した。あの後、露乃には触るだけでも一苦労だった。神経が立っていたせい もあるのだろうが、どこもかしこも敏感で反応が凄かった。少しでも強めに触れば悲鳴を上げかけ、慎重に触れば 怯えたように震え、抱き締めたら抱き締めたで微動だにしなかった。意識されている証しではあるが、そこまで強烈 だったとは。もちろん服の上からであり、素肌にはほとんど触れなかったのだが。
 寝起きだからだろう、昨夜よりも少し体温の高い露乃の手が甚平の手を掴んできた。甚平は指を開き、露乃の指と 絡める形で握り合わせると、露乃は途端に赤面して硬直した。照れのハードルが低すぎやしないかと思わないでも なかったが、仕方ないので指を外して普通の握り方にすると、躊躇いがちに力を込めてくれた。ふと鏡を見ると、 見慣れない自分が慣れた表情で甚平を見返していた。水を飲み込んだかのように、それが自分だと認識し、理解 出来た。これからはこの顔と一生付き合っていくことになるのだと思った瞬間、これまで感じなかったのが不思議に 思えるほど鮮烈に親しみを感じた。甚平が控えめに笑むと、露乃ははにかんだ笑顔を見せた。
 もう二度と、己を見失うまい。







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