太陽が眩しい。 攻撃的でさえある日差しは皆に平等に与えられ、濃い影が落ちている。まばらに雲が散らばった青空は高く広く、 清浄な色合いが世界を丸く包み込んでいる。家並みの屋根が煌めき、波間のように輝く。瀬戸内海と太平洋を繋ぐ 巨大な橋は、今日もまた無数の車に身を委ねている。掃き出し窓から手を差し伸べ、光条に触れさせても、体には もう何も変化は起きない。それどころか、力を授けてくれる。肌を差す日差しのくすぐったさに、翡翠は思わず笑みを 零した。掃き出し窓を閉めてから掃除機を片付けていると、洗濯機が終了を知らせるアラームを鳴らした。 「今しばらくお待ちなさいまし」 翡翠はそんな独り言を言いながら、リビングから脱衣所に向かった。家族三人分の洗濯物も、夏場となれば量が 多い。それを洗濯機から出してカゴに入れ、二階のベランダまで運ぶのは一苦労だ。ベランダに面している部屋は 次女であるいづみの自室だが、まだそのいづみは起きていない。翡翠はドアをノックし、声を掛ける。 「いづみさん、洗濯物が仕上がりましたの。干させて頂けませんこと?」 ドアの向こうからは、気の抜けた呻きが返ってきた。もう一度ノックすると、渋々と言った様子でドアが開いた。 「何? ママ、いねーの?」 髪がぼさぼさで肌も汗ばんでいるいづみは、素肌にTシャツを被ってショーツだけを履いた恰好だった。 「御母様はおられませんわ。町内会の集まりに参られましたの」 翡翠は窓を開けて空気を入れ換えつつ、ベランダに掛けてある物干し竿に洗濯物を掛け始めた。 「うあー……クッソ暑……。動きたくねー、でも体中べったべたでマジ気持ち悪ぃー……」 窓から入り込んできた外気に辟易したのか、いづみは脱色した長い髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。 「お友達と遊ぶのは結構ですけれど、あまり遅い時間までお遊びになるべきではありませんわ、いづみさん」 兄のワイシャツをハンガーに掛け、妹の派手な服も掛け、母親のパート先の仕事着も掛け、物干し竿に並べる。 「十一時なんてまだ昼間みてーなもんじゃん。てか、あんなの、遊んでいる範疇には入らねーって。酒だって飲んで ねーし、馬鹿な野郎の車にも乗ってねーし、男を喰い漁ってるわけでもねーんだしさぁー」 いづみはむくれながらクローゼットを開け、着替えを引っ張り出した。 「それと、夏休みにお入りになったからといって、こうも毎日のように寝坊されると困ってしまいますわ」 大判のタオルを広げて干した翡翠が眉を下げると、いづみは拗ねた。 「別に迷惑掛けてねーじゃん。部屋の掃除はしてるし、メシなんか適当でいいんだし、うちのこともやってるし」 「だって、寂しゅうございますもの」 翡翠は洗濯物を干し終えて空になったカゴを抱えると、頬に手を添えた。 「御兄様は大学が夏休みだというのにゼミばかりですし、昨日から就職活動に出向かれてしまいましたし……」 「あー、それはあるかも。てか、兄貴の方は就活もしてんだよな。だから、ここんところくに会えてねーっつーか」 「御兄様の人生が今度こそ好転するかどうかの分岐点ですもの、邪魔立てしては申し訳が立ちませんわ。けれど、 夏休みに入られてからはのんびり出来るどころか、御一緒に過ごせた日は数えるほどしかございませんの。ああ、 御兄様、今頃はどちらで何をなさっておられるのかしら」 翡翠が哀切に嘆くと、いづみは充電を終えたスマートフォンを取り、電源を入れた。 「メール来てるし。てか、返信してねーから溜まりまくってるし。横浜で資格取るために必要な講習受けるって。んで、 その後は事務所で研修だってさ。関東もクソ暑いって。てか、姉貴の方にメール送ったけど返信がねーっつって あるけど、姉貴、自分の携帯見てみた?」 いづみがスマートフォンを振ってみせると、翡翠はエプロンと服のポケットを探り、はっとした。 「そういえば、そうでしたわね。ですけど、あら、どこに置いてしまったのかしら」 「まーた昨日使ったカバンの中で放置プレイ喰らってんじゃね? たぶん、またバッテリー切れで死んでんじゃね? でなかったら、また布団と一緒に巻き込んで押し入れん中じゃね? じゃなかったら、またリビングの隅にでも」 「またを多様しすぎですわよ、いづみさん」 過去の失敗の数々を挙げられ、翡翠がやや赤面すると、いづみは姉の携帯電話に電話を掛けた。 「ほんっと姉貴って携帯に関心ねーなー。んじゃ、手っ取り早く見つけっかー。ほい」 「ないわけではありませんのよ。ただ、あの方はあまりにも小そうございますので」 「あたしんのよりは旧式だから分厚いし重てぇじゃん。あ、鳴ってる鳴ってる」 翡翠の携帯電話の着信音を聞き付けたいづみは、着替え一式を抱えて自室を出た。翡翠も妹を追う形で部屋を 後にすると、音源を辿った。翡翠の自室でもなく、はるひの部屋でもなく、純次の部屋でもない。一階に下ると、音源 との距離が少しずつ狭まっていった。冷房の効いたリビングと窓を開けて風通しを良くしてあるキッチンには音源は なく、更にその奥へと進んでいくと、トイレの前に翡翠の携帯電話が落ちていた。ちなみに二つ折り型である。 「普通、こんなん落としたら気付くもんじゃね? すげー音するしさぁ」 いづみは姉の携帯電話を拾って渡すと、翡翠はそれを受け取り、着信を切った。 「そう言われましても、気付けなかったものはどうしようもありませんわよ」 「ま、見つかったんなら別にいいし。てか、さっさとシャワー浴びてー」 いづみはトイレの傍にある脱衣所に入ると、抱えていた着替えを置き、カーテンを閉めた。 「お風呂のお湯は落としておいて下さいまし。後で洗いますわ」 カーテン越しに翡翠が声を掛けると、いづみが返した。 「そんなん、あたしがやるし。てか、風呂から出た後でまた入って洗うのはマジめんどいし」 「あら、そうですの? でしたら、よろしくお願いいたしますわ。朝御飯を御用意しておきますわね」 「おー。てか、今日の朝のって何?」 「今朝は御飯は炊いておりませんから、御素麺でも茹でますわね」 わーい、との子供染みた妹の歓声に頬を緩めながら、翡翠は脱衣所にカゴを置いてキッチンに向かった。棚から 素麺の入った箱を取り出すと、水を張った鍋を火に掛けて沸かしながら、冷蔵庫を探った。さすがに素麺だけでは、 いづみの腹は膨れまい。並行して、卵焼きでも焼いてあげよう。中身の具は何が良いだろう、ひじきの煮物の余りを 入れてやろう。それ一種類では何なので、茹でて冷凍してあるホウレン草を解凍して入れたものも作ろう。後は昨夜 仕込んでおいたキュウリの一夜漬けを添えて出せば、それなりの量になるはずだ。 フライパンに流した卵に具を入れ、巻きながら、翡翠はにこにこしていた。以前、同じものを作って食卓に出したら いづみは喜んでくれたので、きっと今回も綺麗に平らげてくれるだろう。そう思うと、一層腕に寄りが掛かる。翡翠は ひじきを入れた卵焼きを焼き終えると、再びサラダ油を落とし、残った卵を流し込んだ。卵に火が通りきらないうちに ホウレン草を並べ、巻き込みながら、軽く鼻歌を零した。素麺は既に茹で上がり、流水で流した後に氷水で締めて ある。妹の場合、めんつゆにショウガを入れるかワサビを入れるかは気分次第なので、どちらも出しておこう。 バスルームのドアが開く音がしたので、いづみはもうすぐやってくるはずだ。卵焼きを均等に切り分け、皿に並べ、 素麺の器と共に盆に載せてダイニングテーブルに運んだ。翡翠はとっくに朝食を食べ終えているが、一緒にお茶を 飲むことにしよう。急須と湯飲みを用意していると、キッチンの網戸にセミが貼り付き、けたたましく鳴いた。 七日間の生を、力一杯叫んでいた。 この体になってからは、散歩に出るのが習慣になった。 滝ノ沢翠、もとい、末継翡翠の体は一定量の紫外線を浴びていなければ以前の竜人に戻ってしまうからだ。その 原理については、ゾゾから懇切丁寧に説明されたが、内容が難解だったのでほとんど覚えていない。だが、日差しを 浴びても紫外線アレルギーが出なくなった上、日差しを浴びなければ世間では生きていけない体になったことだけは 充分すぎるほどに理解出来た。全く支障がないわけではないが、長らく願っていたことが叶った喜びは何物にも 代え難く、日差しを浴びられることが嬉しくてたまらなかった。だから、最初の頃は丸一日外に出て日差しを浴びて いたせいで日射病になってしまったこともあったほどだ。何度か失敗を重ねた末に日光との付き合い方も体で解る ようになり、浴びるべき紫外線の量も感じ取れるようになった。 課題をこなすついでに留守番を引き受けてくれたいづみに礼を述べてから、翡翠は自宅を後にした。スカートの類は 下半身が心許ないので、紺地に白のヒマワリ柄の浴衣を着て髪を結い、花の付いたかんざしを差した。季節にも 合うし、和裁学校の課題で仕立てた浴衣や趣味で仕立てた浴衣が何枚もあるので袖を通してやりたかったからだ。 からころと下駄を鳴らしながら歩いていると、近所の住民に声を掛けられたので、にこやかに返事をして軽く世間話 を交わし、挨拶をしてから別れた。皆、浅黒く日焼けしているのがなんとなく羨ましい。翡翠は雨の日を除いてほぼ 毎日散歩しているが、一向に日に焼けないからだ。紫外線はいくら浴びても色素に変化せず、人間体を保つために 不可欠な染色体の栄養と化す、とゾゾがその理屈を説明してくれたが、物足りなさを感じる瞬間もある。 市営バスに乗り、山間の寺に向かう。菅笠を被って金剛杖を握り、白衣を着て巡拝袋を下げた御遍路さんが何人 も乗っていた。彼らの金剛杖に付いた鈴がバスの揺れに合わせてちりちりと鳴り、涼しげな音を立てている。翡翠も いずれ、遍路を回ろうかと思っている。御三家の業は、多少祈っただけでは払いきれないだろうし、竜ヶ崎全司郎に 関わったが故に人生をねじ曲げられた人々に何らかの償いをしたいからだ。何年先になるかは解らないが、その時 のために足腰は丈夫にしておかなければ。狭い上にカーブのきつい山道を登った先には、第十八番札所・恩山寺が 巡礼者達を待ち構えていた。白装束の人々がまばらに行き交い、鈴の音も行き来している。 お遍路さん達に混じってバスを降りた翡翠は、眩しさに目を細めた。寺を囲んでいる木々からはアブラゼミの声 が絶え間なく降り注ぎ、境内を吹き抜けた熱風を浴びた途端に車内の冷房で冷え切った体が暖まった。参道を登ると 石畳に下駄の歯が擦れ、軽やかに鳴り響いた。大師堂に参拝し、家族が平和に暮らせるようにと願った後、境内を 見て回ろうと歩き出した。玉依御前の剃髪所、びらん樹、境内を守るように囲んでいる杉の木々。不快感を感じない 程度の湿り気を帯びた風が吹き付け、汗の玉が浮いた首筋を拭い去っていく。 ひたすらに暑く、噎せ返るような自然に支配されていた忌部島とは根本的に違うものの、つい思い出してしまった。 そんな思い出に浸りながら歩いているうちに奥へと進んでしまったのか、いつのまにか大師堂から大分離れた場所 まで来てしまった。翡翠の気配を察した鳥が飛び去り、枝葉が上下し、ぎいぎいという鳴き声が遠ざかっていった。 薄暗い中で一際目を惹く白に気付いた翡翠は、小さな社に隣り合った石仏に寄り掛かっている人影を視認した。 それは御遍路装束の男で、菅笠を深く被って項垂れていた。翡翠は足早に駆け寄ると、男に声を掛けた。 「どうかなさいましたの? 御加減、悪うございまして?」 「ああ……いや……少し休めば……」 男は手を挙げたが、その仕草には何の力もなく、息も苦しげだった。ごめんあそばせ、と断ってから翡翠は男の 菅笠を外させると、顔色が異様に赤らんでいるのに汗はあまり掻いていなかった。熱中症に間違いない。 「今しばらくお待ち下さいまし」 翡翠は一礼してから、裾を持ち上げて駆け出した。参道に添った場所にある茶店に入ると、ミネラルウォーターと スポーツドリンクのボトルを買い、大量の氷もビニール袋に詰めて分けてもらってから男の元に戻った。だが、男は 微動だにしておらず、顔すらも上げていない。翡翠は男の首筋と脇の下に氷の入った袋を入れると、着物を解いた 生地で仕立てたトートバッグから扇子を取り出すと、仰いでやった。氷が半分以上溶けきった頃、ようやく男の顔色 は次第に戻り、水分も少しずつ補給したからか、徐々に汗も掻くようになった。程度が軽かったのだろう。 「御加減、よろしゅうございますかしら?」 翡翠が男に微笑みかけると、男は若干気まずげに笑ってみせた。 「ええ、おかげで。どうも、ありがとうございます」 「もう少しお休みになった方がよろしゅうございましてよ。まだ、顔色があまり……」 「そう、みたいですね」 男はやや腰を上げたが、目元をしかめて座り直した。 「順打ちですの、逆打ちですの?」 男から少し離れた位置に腰を下ろした翡翠が尋ねると、男は少し考えた後、言った。 「ええと、ああ、そうだ。順打ちですね。順路ですから」 「まあ、そうでしたの。その御様子ですと、歩きですのね?」 翡翠は男の足元に目をやった。男が履いているスニーカーは汚れていて、大分使い込まれていた。 「それでないと意味がないと思いましてね。ですけど、先を急ごうとしたのが悪かったんでしょうね。目眩がしてきて、 少し日陰で休んだら良くなると思ったんですが、立てなくなってしまいまして」 「先はまだまだ長うございましてよ。焦ることはございませんわ」 「ですね。札所はまだ八十カ所もあるんですから、十八カ所目で倒れていちゃ話になりません」 首から提げていた手ぬぐいで顔を拭い、苦笑した。 「旦那さんは、どちらからいらっしゃいましたの?」 翡翠が問うと、男は少し温くなったスポーツドリンクを呷った。 「東京からです」 「では、都心から避難された方ですの?」 「いえ、違います。俺の地元は都心からは結構離れているので、あの一つ目の怪獣と超能力者達の戦いの影響は ほとんどなかったんですけど、色々と思うところがありましてね」 男は深く息を吐きながら、空になったペットボトルを膝の間に降ろした。 「皆さん、大変な目に遭いましたものね。気持ちを切り替えたくもなりますわ」 翡翠が頷くと、男は何度か目線を彷徨わせていたが、翡翠を窺ってきた。 「ええ、まあ。あなたも東京から四国に引っ越してきたんですか?」 「左様でございます。住む場所がなくなってしまいましたので、家族共々、こちらへ」 嘘は吐いていない。翡翠が答えると、男は一度深く息を吸い、吐き出した。 「そうですか……。でしたら、その、少しお話を聞いて頂けませんか? もちろん、無理にとは言いません」 「私、時間ならありましてよ。御加減が戻るまでの間、お付き合いいたしますわ」 翡翠が快諾すると、男は顔の汗を拭ってから、躊躇いがちに口を開いた。 「通り掛かりのあなたに危ないところを助けて頂いたばかりか、俺の突拍子もない話を聞いてもらうのは気が引ける んですが、知り合いや身内にはどうしても言えないことでして。御遍路を回れば、それがどうにかなるんじゃないかと 思って、会社を人に任せてまで四国に来たんです」 「そのような話には、慣れておりましてよ」 何せ、自分自身も突拍子がないのだから。翡翠の言葉に、男は少々気が緩んだ顔をした。 「でしたら、話半分に聞いて下さい。笑い飛ばしてくれても構いませんから」 「そのようなはしたないこと、致しませんわ」 翡翠は口元に手を添え、そっと笑んだ。男は具合が良くなってきたからか、表情に力が戻ってきた。 「これも何かの縁です、よろしければお名前を聞かせて頂けませんか?」 「末継翡翠と申します。この街に住んでおりますの」 「俺は東京のあきる野市で建設会社を営んでいます、小松真一と申します」 男の名と声色を聞いた途端、翡翠の脳裏には人型多脚重機を操る珪素生物と化した男の姿が過ぎった。翡翠は 小松建造と接した時間は短かったが、彼の人生が波乱と愛憎に満ちていたことは知っている。インベーダーとして 忌部島に隔離される以前の人生についてはほとんど知らないが、兄の話に依れば、彼には弟が一人いたそうだ。 きっとこれは何かの巡り合わせなのだろう。翡翠は膝を揃えると、小松真一に向き合った。小松建造が人間として 生きていた頃の顔は目にしたことはないが、彼が発する声は人型多脚重機が発していた声にどこか似ていた。 忌部島の潮騒の如く、セミは絶えず鳴いている。 11 7/3 |