南海インベーダーズ




蝉時雨



「俺には、三つ年上の兄がいたんです」

 小松真一は遠い目をして、木々の葉の隙間から差し込む陽光を認める。

「一言で言えば、よく解らない人でした。子供の頃から表情がほとんどなくて、会話も淡々としていて、あの人が子供 らしく過ごしていたところなんて見たこともありません。いつも資材の端切れをいじり回して、自分で引いた図面通り のものを組み立てるけど、組み立てた傍から関心を失うのか、完成したばかりなのに廃材置き場に投げ込むことも 決して珍しくありませんでした。勉強は人並みに出来ていたようですが、友達は一人もいませんでしたね。ゲームで 一緒に遊んだこともありません。家族旅行に行ったこともありません。俺は両親から連れて行ってもらいましたが、 兄はただの一度もそんなことはありませんでした。学生時代も同級生と連んで遠出する、なんてことも一切。掴み所と いうか、なんというか、とにかく人間味がない人でした。食べる物にしてもそうで、食卓に出たものは綺麗に食べる けど、味に関しては全く興味がないみたいで、あれが好きだのこれが嫌いだの、という話をしたことはありません。 何を考えているのか解らない、とかではなくて、何を感じているのかすら解らない、といった人でした」

 真一の語り口は陰鬱で、溜め込んできたものの重たさが容易に感じ取れた。

「でも……俺は、そんな兄が嫌いじゃありませんでした。むしろ、好きだったのかもしれません。俺は物心付く前から 両親にべたべたに甘やかされていて、欲しいものは何でも買ってもらえたし、家族の中で最も優先されていたのが 俺でした。けれど、兄はそうではありませんでした。俺が甘やかされると、それに反比例して兄の扱いが悪くなって、 兄を放り出して長期旅行に出かけたことも一度や二度ではありませんでした。そんな時、両親は俺を色々な場所に 連れ回すんです。テーマパークや有名な観光地やリゾート地に連れて行っては、我を忘れたようにはしゃぐんです。 けれど、俺は一度も楽しいとは思ったことはありませんでした。両親の手前、楽しんでいるふうにはしていましたが、 兄が気になって仕方なかったからです。自宅に電話を掛けたこともありましたが、兄が出たことはありません。両親 は兄に常日頃から言い付けていたからです。お前は何もするな、家のことに関わるな、家族と馴れ合おうとするな、 って。それって凄く変ですよね、兄も家族なのに」

 真一は両手を組み、足元に目線を落とす。

「だから、俺は兄と仲良くしようと思ったんです。きっと物凄く話し下手で人付き合いが下手なだけで、兄だって普通の 人間なんだって思って。学校であったことを話したり、資材の端切れで飽きずに何かを作っている兄の傍に行って みたり、遊びに誘ってみたり。でも、どれも上手くいきませんでした。というより、兄は俺のことを人間として認識して いるんだろうか、とすら思ってしまいました。なんて言えばいいんでしょうかね……あの目は。ガラス玉を填め込んだ ような、って表現がありますけど、本当にそんな感じなんです。その目は俺も何も見ていないんです。俺が目の前で どんな話をしようが、何をしていようが、ただ映しているだけに過ぎないんです」

 膨らんだ汗の玉が、まだ火照っている顔を伝って滴り、雑草を叩く。

「そんな兄が初めて興味を持ったのが、従姉妹でした。俺より四歳年上で、兄よりも一つ年上の女の子でした。一体 どんな切っ掛けかは知りませんけど、従姉妹は兄を追い回すようになりました。兄は従姉妹を鬱陶しがっていたよう ではあったんですが、段々慣れてきたのか、従姉妹の家に泊まりに行くようにもなりました。正直俺も行きたかった んですが、両親からかなり強引に止められたんです。従姉妹なんかの家に行くぐらいなら、ってその日のうちに旅行 に連れていかれたんです。それから、兄は日を追うごとに変わっていったんです」

 真一は手ぬぐいで顔を拭い、深く息を吐いた。

「それまでは何が起きても変わらなかった表情が、従姉妹と接するほどに増えていったんです。笑うことはなかった とは思いますが、それに近い顔をしたことがありますし、ガラス玉だった目に力が入って随分と人間らしくなってきた んです。けれど、それは従姉妹の前でだけで、俺に対しては相変わらずだったんですけどね。恋をしていたんですよ、 兄は。中学生になって、すっかり大人っぽくなった従姉妹に」

 宮本都子のことだろう。翡翠が彼女に思いを馳せていると、真一は話を続けた。

「ですが、兄は人付き合いが下手な人でしたから、好意に歯止めが効かなくなったんでしょうね。従姉妹と同じ高校に 進学してから、おかしくなったんです。家にはほとんど帰ってこなくなって、従姉妹を追い回すようになったんです。 ストーカーって言った方が手っ取り早いですね。確かに従姉妹は身内のひいき目に見ても美人で、目を惹くタイプでは ありましたし、高校で彼氏が出来て付き合っていたそうです。でも、兄は従姉妹を諦めるどころかエスカレートして しまい、それが行き過ぎてしまったのか、従姉妹は失踪してしまいました。きっと自殺したんだと思います」

 そうだ、ミーコは精神的な自殺をしたのだ。翡翠が押し黙っていると、真一は翡翠を窺ってきた。

「あの……すみません。初対面のあなたに、こんな、どぎつい話をしてしまって」

「いいえ、お気になさらず。お話しすれば楽になるのでしたら、お話しなさった方がよろしゅうございましてよ」

 翡翠が柔らかく笑むと、真一は残っていたミネラルウォーターを飲み、乾いた喉を潤した。

「では、続けますね。従姉妹が失踪して間もなく、父親も死にました。死因は事故死とされていますが、死体の損傷が あまりにもひどかったのと、死んでいた場所が少し普通ではなかったので未だに俺は納得していませんが。家業の 建設会社を一時的にも誰かに預けなければならなくなったんですが、父方の叔父、祖父、大叔父、と一族の男と いう男が死んでいたんです。従姉妹の方もそうで、従姉妹の父親、叔父と。母親はそれを聞いた途端、喜びました。 忘れもしません、喜んでいたんです。父親が死んだことは少し辛そうではありましたが、それ以外は全然。どこかから 掛かってきた電話を受け、男達が皆死んだことを聞いた途端、若い女みたいな歓声を上げたんですから」

 真一は目元をしかめ、唸りと共に吐息を漏らす。

「それから間もなく、兄は高校を中退して父親が経営していた建設会社に就職しました。社長に就任したのは長年 勤めた社員で、評判は、まあ悪くなかったんです。その頃は。ですが、兄は人型多脚重機の免許を取って間もなく、 深夜に一人で作業をしているところに鉄板が落ちてきて事故死しました。母親が手を回していたせいか、兄の給料は ほとんど出ていなかったばかりか、現場ではベテランの社員にこき使われていたようです。兄は誰にも言い返しも しなければ逆らおうともしなかったので、深夜の作業の理由もそれでしょうね。兄が死んだ時も、母親は喜びました。 従姉妹の母親、つまり、母親の妹で俺からすれば伯母ですが、その伯母と一緒に毎晩のように飲み歩くほど喜んで いました。あまりの喜びように、母親と伯母が兄を殺したんじゃないか、と疑いたくなるほどに」

 ぢぢぢぢっ、と一匹のセミが幹から跳ね上がる。

「父親の死亡保険金と兄の死亡保険金が下りたので、一時的にですが潤ったんですが、それが尚悪かったんです。 母親と伯母は家に寄り付かなくなるほど、遊び回るようになりました。手当たり次第に男と関係を持っては家から金を 持ち出して、会社の資金にまで手を付けるようになりました。金の単位は数万から数千万と、とんでもない金額が 毎日のように家から消えていきました。それでも、会社も家もなぜか保っていたんです。それまでも自分の家は何か 変だと思っていましたが、その時に痛感したんです。うちは異常だ、って」

 汗ばんだ手が白衣を握り、シワを寄せる。

「それから、高校と専門学校を卒業した俺は実家の建設会社を継ぎました。ですが、会社自体も異常でした。どの 仕事も、どんな発注も、どこの敷地も、全て身内のものだったんです。会社と言うよりも、身内の中で金を循環させて いるだけに過ぎなかったんです。そして、母親と伯母が使い込んだ分だけ、どこかから金が流し込まれて補填され、 何事もなかったかのように金額が元に戻っているんです。でも、俺はそれがどこから来ている金なのか、どうしても 調べられませんでした。税理士や弁護士に聞いても同じことで、関わらない方が良い、とそれだけ」

 雲の切れ端が掛かって陽光が陰り、影が濃さを増す。

「怪獣と超能力者の戦いは、俺の家や会社には何の影響もありませんでした。物理的には、ですけど。都心が壊滅 してから程なくして、今度は母親が自殺して、同じ日に伯母も自殺しました。従姉妹には弟がいたんですが、それも 行方知れずで。会社も、今は辛うじて会社らしい体裁を保ってはいますが、社員はぼろぼろと辞めていっているので 倒産するのは時間の問題でしょう。母親と伯母が自殺した理由は、きっとあの怪獣騒ぎに巻き込まれて金の送り主が 死んだからでしょう。本家がどうの、と飲み仲間に言っていたそうですから、恐らく金の主は本家だったんです」

 そうだ、本家の御前様こそが諸悪の根源だ。翡翠は目を伏せ、その言葉を胸に納めた。

「母親の葬儀を終えて、伯母の葬儀も終えて、会社を出来るだけ穏やかに倒産させるために手を回しながら、ふと 思ったんです。俺の人生って一体何だったんだろう、って」

 真一は半笑いになったが、そこに明るさは欠片もなかった。

「両親に過干渉されたせいで青春らしい青春は過ごせなかったし、就職先も自分で選ぶ以前の問題だったし、本家の 誰かに飼い殺しにされていることにも気付かなかったし、母親が死んだ理由も未だに理解出来ずにいるし。周囲に 逆らわずになんとなく生きてきただけで、俺の意志はどこにあったんだろう、と思い始めたんです。途端に会社も 家も何もかもがどうでもよくなって、全部放り出して御遍路に来たんです。人が死にすぎましたから、少しでも、誰か 一人でも、成仏してくれたらと。一番報われないのは兄と従姉妹ですから、これまで回った札所では二人の冥福を 祈ってきました。俺に出来ることは、それぐらいでしょうから」

「御大師様は、きっとお二人に伝えて下さりますわ」

「ありがとうございます。そう言って頂けると、そんな気がしてきます」

 真一は、初めて柔らかな表情を見せた。

「御遍路を回り終えたら、どうなさいますの?」

 翡翠の問いに、真一は考え込んだ。

「そうですね……。会社を畳んでからは、色々なことをしてみるつもりでいますが、どれから手を付けようか考えても 考えても決めかねるんですよ。ですから、札所を回りながら考えることにします。どうせなら、一番やりたかったこと からするべきですからね。俺の人生なんですから」

「ええ、その通りですわ」

 翡翠がにっこり笑って頷くと、真一はやや情けなさそうに、それでいて満足げな顔をした。

「重ね重ね、ありがとうございます。行き倒れていたところを助けて頂いたばかりか、話まで聞いて頂いて」

「いいえ、お気になさらず。私の方こそ、お接待を受けて頂いてありがとうございます」

「え? あ、ああ……アレのことですね」

 真一は合掌し、南無大師遍照金剛、と三回唱え、納札を取り出して翡翠に差し出した。翡翠は両手を出してそれを 丁重に受け取ると、顔を上げた。真一は自分のやり方が正しかったかどうか解りかねるのか、不安げだった。

「これで良かったんですよね?」

「ええ。お気持ちが籠もっておりますもの」

 翡翠は納札を綺麗に折り畳むと、トートバッグに入れた。

「御加減は、もうよろしゅうございますの?」

「はい、もう平気です。自分の足で、最後まで歩いていけます」

 真一は金剛杖を手にし、背筋を伸ばして立ち上がると、鈴が涼やかに鳴った。

「道中、お気を付けて。旅の無事をお祈りいたしますわ」

 翡翠は境内の出口まで真一を見送ると、真一は何度も翡翠に礼をしてから、参道を下っていった。翡翠は彼の背に 手を振りながら、笑みを絶やさなかった。彼の白衣が他の巡礼者達に紛れ、見えなくなる。氷を分けてくれた茶店の 店員に改めて礼を述べ、家族のお土産にと和菓子を買い求めてから、翡翠は下駄を鳴らして参道を下った。
 あれほど高かった太陽が、いつのまにか翳り始めている。足元には影が長く伸び、擦れ違う巡礼者の数もぐっと 減っている。セミの声がアブラゼミからヒグラシに代わり、西側から広がりつつある夜の帳を彩っている。市営バス に乗って街まで下りながら、翡翠は遠い宇宙へと旅立った小松とミーコの行く末を思った。二人は従兄弟であり姉弟 でもありながら愛し合い、生き物らしい生を捨ててまでも思いを遂げ、ワン・ダ・バと共に無限の自由が広がる宇宙 へと泳ぎ出した。身も心も文字通り溶かし合った二人には真一の苦悩すらも野暮かもしれないが、血族達の罪と業 を背負い、償おうとする真一の行動は決して無駄ではないはずだ。
 膝の上では、和菓子の包みがかさこそと音を立てる。市営バスはきついカーブを何度も曲がり、曲がり、曲がり、 山道を下って市街地に出ると、視界一杯に海が広がった。茜色に煌めいた海面に目を細めながら、今晩の夕食は どうしようか、と翡翠は考えた。冷蔵庫にあるものだけでなんとかするのもいいが、帰り道で買い出しをしていくのも いい。母親が好きなものにしようか、妹が好きなものにしようか、それを考えるだけで胸が弾んだ。
 セミの声は、遠ざかっていく。




 リビングのテーブルに、真一から受け取った納札を広げた。
 関東での就職活動と研修を終えて帰ってきた兄、純次は神妙な顔をして翡翠の話を聞いていた。はるひといづみは 小松建造とは面識はないが、長らく忌部島で暮らしていた兄は小松建造との関わりが深いからだ。程良く冷房が 効いたリビングの外では、兄に手伝ってもらって干した家族全員の敷き布団が真昼の日差しを浴びている。純次は 納札を取り上げ、今一度眺め回してから、感慨深げに言った。

「なるほどなぁ。御三家の血縁の中にも、まともな奴がいたんだな」

「真一さんは、私達に比べると血も薄うございますものね。御本人が生まれ持った性分でもありますでしょうけど」

 着物の時と同じ仕草でワンピースの裾を畳み、翡翠は正座した。

「これで小松も浮かばれるな。あいつにとっちゃ不本意だろうが」

 純次は納札をテーブルに戻し、自分のことのように喜んだ。

「御兄様はどうですの?」

 翡翠が口元に手を添えてくすりと笑むと、純次はいづみとは別の機種のスマートフォンを出した。

「スイが携帯を手放さなくなったのはいいが、だからって逐一メールを送ってこなくても。しかも、文字数制限ギリギリ の長文で。物事には限度ってものがあってだな」

「あら……ごめんあそばせ」

 翡翠が恥じらうと、純次は液晶画面から顔を上げた。

「だが、嬉しいものは嬉しい。限度を弁えてさえくれればな」

「では、いづみさんからもっともっと携帯電話の使い方を教えて頂きますわね。まだまだ解らないんですの」

「その流れで、あいつから変なことまで教わるんじゃないぞ」

「あら、私も若うございますわ。度胸が付けば、いづみさんみたいに足の一つや二つ出してみせますわよ」

 今し方の自分の言葉に、翡翠は笑ってしまった。純次は、ああやれやれ、とは言いつつも楽しげだった。すると、 噂をすれば何とやらで二階からいづみが下りてきた。夏休み前に与えられた課題を早々に終わらせてしまったからか、 退屈極まりない顔をしていた。気怠げに翡翠と純次を見やったいづみは、どっか連れてけ、と不躾に言うが純次に 一蹴されたので翡翠に懇願してきた。翡翠から純次に頼んでみると、純次は二人の妹を見比べた後、行きたい 場所を尋ねてきた。そして、純次が珍しくいづみの意見を汲んでやると、いづみは飛び跳ねるほどはしゃいで二階に 駆け上がっていった。純次が帰ってきたのに、翡翠とはるひに遠慮して甘える機会を失っていたからだろう。しかし、 これからが長いのだ。いづみのギャルな服装が出来上がるまでには、時間が掛かるからだ。
 翡翠も出かける支度をするために二階に昇り、蒸し暑い自室に入ると、ドアを開けた途端にセミの鳴き声が襲い 掛かってきた。網戸に貼り付いているアブラゼミを、網戸越しにぴんと指で弾いて追いやってから、その行方を目で 辿った。彼が遺伝子を残すために短い夏を謳歌するように、翡翠もまた、限りある時を全力で生きていこう。
 再び与えられた命を使い切るために。







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