南海インベーダーズ




自発的家族孝行



 帰宅した姉にも何をしてほしいかと聞いてみると、一緒に風呂に入ってほしい、と言われた。
 翡翠の要求は全くの予想外だったので、面食らってしまったほどだった。だが、聞き出したからには引き受けざるを 得ないので、仕方なく姉と一緒に風呂に入った。体中にまとわりついた汗を流すのは心地良いが、完全に無防備に なるバスルームに他の誰かがいるのはどうにも落ち着かない。クールタイプの入浴剤を入れてあるため、色だけは 涼しげなマリンブルーの湯に身を沈めたいづみは、額から首筋に流れた湯とも汗とも付かないものを拭った。

「なー、姉貴」

 いづみは温めの湯に足を投げ出しながら、体を洗い流している姉に向いた。

「はい、なんでしょう?」

 ボディソープの泡を流してから、翡翠は振り向いた。長い髪を蒸しタオルでまとめているので、華奢な首筋が普段 以上に目立っていた。同性でも目を惹かれるほど大きな胸と、それに反比例した細さの腰が艶めかしい。なんとなく 目を合わせづらくなったいづみは、浴槽から出て縁に腰掛け、姉に背を向けた。

「てか、なんで風呂なん? 他のこととか、あるんじゃね?」

「あるかもしれませんわね。でも、差し当たって思い付いたのがお風呂でしたのよ」

 翡翠はいづみと交代する形で浴槽に入り、ほうっと息を緩めた。いづみは、姉の裸体から目を逸らす。

「つか、ぶっちゃけハズくね?」

「そうかもしれませんわね。けれど、悪くはございませんでしょう?」

 薄い湯気越しに見える姉の表情は、いつになく柔らかい。いづみは反論しようかとも思ったが、その顔を見ていると 反論する気が失せたので飲み下した。トリートメント剤を塗り込んだ髪をまとめていた蒸しタオルを外したいづみは、 シャワーを出して髪を洗い流しながら、ふと思い出した。
 そういえば、かつての自分は誰かに風呂に入れられてばかりで、誰かと一緒に入るということはなかった。首から 下が一切動かなかったのだから当然といえば当然だが、そのせいで竜ヶ崎全司郎にはいいようにされてしまった。 触られていない部分などどこにもなく、あの頃はむしろ触られることを名誉なことだと感じていた。日常生活の忙しさ でほとんど思い出すことはなくなったが、時折、生体兵器だった頃の記憶が過ぎる。やり過ごせるものばかりだが、 そうでないものもある。今回は、そうでないものだったようで、暖まったはずの体に悪寒が走った。伊号、と記号以外 の意味を持たない名を呼ぶ声が蘇る。

「……っくぁ」

 シャンプーでぬるつく手で二の腕を掻き抱き、背を丸める。いづみの異変に、翡翠は腰を上げる。

「どうかなさいまして?」

「別に大したことじゃねーし。すぐ収まる」

 いづみは虚勢を張るが、声に混じる震えは隠せなかった。浴槽を出た翡翠は、いづみの傍に膝を付く。

「何も怖いことなどありませんわ、いづみさん。私が傍におりましてよ」

「うん」

 自分でも情けなくなるほど弱った声で返事をしたいづみは、姉の肩に頭を預けた。暖まった肌と肌が接する感触 はくすぐったかったが、翡翠の手はいづみの手をしっかりと握ってくれていた。自分以外の人間の体温を感じるのは まだ不慣れではあるが、家族のものは嫌ではない。しばらくすると悪寒も震えも止まったいづみは、照れ笑いした。

「なんか、ごめん」

「お気になさらず。私もよくありますもの」

 翡翠はいづみを抱き寄せると、鏡を手で拭って曇りを払い、そこに映る姉妹を見つめた。

「良く似ておりますわね、私達」

「そうかな」

 いづみが怪訝に思うと、翡翠は腰を曲げて顔を寄せてきた。

「よくご覧なさいまし。こんなにも似ておりましてよ」

 同じ鏡を見て顔を並べてみると、確かにそうかもしれない、といづみは思った。翡翠は文句の付けようがない美人で 顔の部品の大きさもバランスも丁度良く、品の良い顔付きだが、いづみはそうではない。目だけは大きいが他は 姉ほど均整は取れていないせいか、いやに子供っぽい。首から下だけは一人前の女だから、尚更アンバランスだ。 だから、いつも姉に対して引け目を感じていた。半分は同じ血なのにどうしてこうも違うのか、と。だが、こうして見て みると、輪郭のラインや目鼻の形は全く同じで頬の辺りの表情筋の付き方も似通っている。配置が微妙に違うだけ であることに気付かされる。そして、どちらも母親にとても良く似ていることも気付かされる。きっと、若い頃のはるひ は翡翠といづみを混ぜたような顔をしていたのだろう。

「でも、兄貴には似てねーな」

 いづみが笑うと、翡翠も笑みを零した。

「ですわね。少し残念ですけれど」

「あたしは別に残念でもねーし」

 自分に父親の面影があまりないのは物足りないが、兄に似なかったことにほっとする。男になった自分を見ている かのような、珍妙な気分を味わわずに済むからだ。きっと兄自身もそう思っているだろうが。湯冷めしかねないの で、翡翠は再び浴槽に戻り、いづみも途中だったシャンプーとリンスを終えて体も洗い流し、湯に身を沈めた。それ なりに広い浴槽とはいえ、大人が二人も入ると窮屈である。七分目ほどだった湯は溢れ出し、零れ落ちた。

「姉貴はさ」

 羞恥心が失せたいづみは、向かい合わせに入っている姉と目を合わせた。

「あたしが家族になって、どうだった?」

 翡翠は水面下で膝を揃えると、後れ毛を整えてから答えた。

「それはもちろん嬉しゅうございましたわ。だって、それまでの私は本当に一人だったんですもの。光の一切差さない 海底に作られた箱の中で二十年も生きておりましたから、外の世界の素晴らしさが誰よりも良く解りますの。御兄様 が忌部の御前様だと知らされた時も嬉しゅうございましたけど、家族が出来た嬉しさとは少し違いますわね。あの時 は、何の役にも立てない私にようやく御役目が与えられたのだと、ただそれだけでしたわ。御役目を終えた後のこと なんて考えもしませんでしたし、御兄様も本家の御前様と同じように私を使い切って下さるだけだと思っておりました から。けれど、御兄様は私を使い切るどころか、あんな姿をしておりましたのに一人の人間として扱って、外の世界 へと連れ出して下さいましたし、いづみさんとも御母様とも暮らせるようになりましたわ」

 翡翠は両手に水を掬うと、それを少しずつ零して湯船に戻した。

「御母様といづみさんがいらっしゃらなかったら、私はきっと、前と同じ過ちを犯しておりましたわ」

「……それについては否定はしねーけど、別に肯定もしねーし」

 兄と姉の間にあった肉体関係については、あまり考えたくはない。いづみが言葉を濁すと、翡翠は目を伏せた。

「それでよろしゅうございましてよ、いづみさん。もう過ぎたことですもの。けれど、御兄様が素敵な女性と恋に落ちて 家庭をお築きになることを心から祝えるようになるまでは、もうしばらく時間が掛かるかもしれませんわね」

「うん。解る」

 思いがけず、素直な言葉が出た。いづみは複雑な胸中を持て余している翡翠を慰めながら、兄について考えた。 兄は忌部次郎だった頃はあまり特別ではなかったが、末次純次になってからは特別になった。面と向かって好意を 抱いているとは伝えづらいし、伝えたくもないが。十五歳も歳が離れているせいもあるのだろう、兄に父親の面影を 追い求めてしまう。生体洗浄を受けたために顔形は変わってしまったが、それでもやはり忌部我利に似ている部分 がないわけではない。兄の声の調子や、横顔や、手の温かさは、幼い頃に感じた父親の記憶と重なる。
 兄への執着を忘れ、父親の幻影を乗り越えなければ、翡翠もいづみも本当の意味での幸せは掴めない。いづみが そんな具合のことを言うと翡翠は元気を取り戻し、でしたら御兄様よりももっともっと素敵な殿方を見つけましょう、 と言った。翡翠が並べ立てる理想の男性の条件の高さにいづみが噴き出すと、いづみの理想はなんだと問われた ので、思い付くままに並べてみた。だが、こちらもやはり条件が高すぎて、翡翠に呆れられてしまった。けれど、相手を 心から好きになってしまえば些細なことなどどうでもよくなってしまうだろう、との同じ結論が出た。性格こそまるで 似ていないが、根底の部分は似通っているのは実に姉妹らしい。
 血だけではないものが、繋がっている証だ。




 最後に、兄にもしてほしいことはないかと聞いてみた。
 こちらも要求は簡潔で、晩酌に付き合ってくれ、と言われた。どれもこれも拍子抜けするものばかりだが、下手に 高望みされるよりは余程いい。風呂上がりで火照った体を手で仰ぎながら、冷蔵庫を開けて麦茶の入ったボトルを 取り出し、グラスを持ってリビングに向かった。酒が飲める歳ではないのが惜しくてならない。
 リビングのドアを開けた途端、いづみは顔が引きつった。それもそのはず、兄はほぼ全裸だったからだ。見慣れて きたつもりではいたが、不意打ちを食らうとリアクションに困る。泡盛をロックで飲んでいる純次は、ドアを開けたまま 固まっているいづみに気付くと、さっさとドアを閉めるように促した。いづみはドアを閉めてから、兄を罵倒した。

「死ね変態が」

「下を履いているんだから、まだいいじゃないか」

 純次は真顔で言い返し、氷が少し溶け出した泡盛を傾けた。その手付きは様になっているのだが、格好に締まりが ないので台無しだ。渋面を作ったいづみはリビングテーブルに麦茶のボトルとグラスを置き、ソファーに腰掛け、 純次が酒の肴にしている島ラッキョウを囓った。泡盛には合うだろうが、麦茶には合わない味である。

「てか、なんで晩酌なんだよ。オッサン臭ぇにも程があるし」

「中年に片足突っ込んだ歳なんだから、嗜好がそうなるのは当たり前だろうが」

 ボクサーパンツ一丁の純次は、一応ソファーに汚れが付かないように気を遣っているのか、体の下にバスタオルを 敷いていた。そこまでするなら服を着やがれ、と怒鳴ってやりたくなったが、怒らないのも孝行の一環だといづみは 自制した。忌部島で暮らすうちに飲み付けたせいだろう、純次は泡盛ばかりを飲んでいる。たまにビールや焼酎 になることもあるが、それははるひや翡翠に付き合って飲む時ぐらいなもので、独り酒の時は必ず泡盛だ。いづみも 成人したら飲んでみたいような気がするが、兄に酒の飲み方を教えてもらうのは多少気恥ずかしい。
 冷えた麦茶をグラスに注いで飲みながら、嫌になるほど見せつけられている純次の裸体を見やった。大学生活と 就職活動で日々忙しいだろうに、体は引き締まっていて筋肉もあり、三十四歳にしては弛んでいない方だろう。

「言いづらいことではあるんだがな、その、いづみ」

 純次は泡盛が三分の一ほど残ったグラスを回し、からころとロックアイスを鳴らした。

「ん」

 いづみがやる気なく反応すると、純次は簡潔に述べた。

「告られた」

「……誰に!?」

 若干間を置いてからぎょっとしたいづみに、純次は顔をしかめた。

「後輩だよ、後輩。お前と同じ歳の女子だ。どうかしてやがる」

「いや全くだよ! てか、これのどこに需要があるってんだよ!」

 いづみが本気で驚いていると、純次はげんなりした。

「俺もそう思っているから、その場で断ったんだがな。だが、二度三度と食い下がってきた挙げ句、愛人でもいい とか言いやがって。おかげであらぬ噂が駆け巡って、釈明が大変だったんだ。なんで俺が既婚者になるんだよ」

「あれじゃね、たまーに姉貴と待ち合わせて一緒に下校するからじゃね?」

「ああ……そういうことか」

 思い当たる節があるらしく、純次は納得した。手酌で泡盛をグラスに注ぐと、グラスを回して緩やかに混ぜる。

「正直言って、俺はその子と全く合わない。それ以前に、付き合いたくない相手だ」

「すっげー解る。てか、色々とアレすぎね? 自己中っつーか、自分以外見えてないっつーかさ。でなかったら、愛人 宣言なんか出ねーし。兄貴を好きなんじゃなくて、年上好みの自分が可愛いってだけじゃん」

「だろ? お前もそう思うだろ?」

 純次はグラスを持った手で、いづみを指してきた。いづみも指し返す。

「だよなー! だから、マジやめとけって! 超ヤベーし! 地雷臭しかしねーし!」

「だから、その女子生徒をどうやって諦めさせるか、考えてくれないか」

「晩酌に誘った理由ってそれ? てか、自分でなんとかしろよ」

 興醒めしたいづみが頬を歪めると、純次は肩を竦める。

「自分一人じゃどうにも出来そうにないから、お前なんかに相談するんじゃないか」

「なんかとはなんだよ。マジムカつくんだけど」

 いづみは毒突いてから、考えてみた。若い女が分不相応な相手、というか、本来は眼中にあるはずもない相手に 押しつけがましい好意を示すのは、八割方はその相手とは別の男性の気を惹きたいからである。その上、自分の 株を下げるかのように見せかけておいて相手を悪者にする行動を取るのは、目当ての男性に何らかの特別な感情 を抱いてほしいからである。恋愛経験があるわけではないが、学生同士の集まりで話題に上るのは恋愛絡みのこと ばかりなので、必然的に詳しくなってしまう。本人に会ってみないとはっきりとしたことは言えないが、兄に傍迷惑な 告白をした女子生徒の人間関係を洗い出せば、対処方法も思い付くだろう。

「その女子を好きな奴とか、いたりすんの?」

 いづみが問い質すと、純次は少し考えてから答えた。

「ああ、いるな。これもやっぱり後輩の男子なんだが、その女子生徒に言い寄っては振られている。だが、あの様子 だとその女子生徒は、その男子を好きでもなんでもないはずなんだが。俺をダシにする理由が見えん」

「要するに、歪曲した独占欲だろ? その男子をキープしておいて兄貴を引っ掛けようとするのは、男心を弄んじゃう あたしって小悪魔、みたいな感じのさ」

「実際には、ただの下衆野郎だがな。だとしたら、迷惑なんてもんじゃないな。災難だ」

「だったら、やることは単純じゃね? その面倒臭ぇ小悪魔系を後輩男子に押し付けてそれで終わり。でも、当事者 だけじゃダメだからな。第三者とか挟まねーと、悪い方向にしか転がらねーだろうし。そういう奴とか、いる?」

「まあ、いないわけでもない。となると、話し合いしか穏便な解決策はなさそうだな」

「荒事起こすのは、もうごめんだし」

 いづみが呟くと、純次は苦笑した。

「全くだ」

 会話が途切れると、近所の飼いイヌの遠吠えが聞こえた。吠え声の終わり頃に、市街地を走る電車の走行音が少し ばかり重なる。純次は結露が浮いてきたグラスを手の中で回してから、泡盛を一口含んだ。

「こういう話ってさ、あたしじゃなきゃダメなわけ?」

 いづみが軽く期待を込めて問い掛けると、純次は頷いた。

「ダメだな。スイは良くも悪くも世間知らずだし、人間の悪意ってやつを思い知っていない。はるひさんも色んな意味で 純粋な人だから。だから、すれっからしのいづみでなきゃダメなんだ」

「うわひっでぇ」

「なんとでも言え」

 純次は妹を小突くと、島ラッキョウを囓り、泡盛を傾けた。いづみは兄に小突かれた部分を擦り、麦茶を飲んだ。 大したことではないはずなのだが、純次はやけに楽しそうだった。ここ最近、就職活動で家を空けがちだったから、 それなりに気疲れしていたのだろう。どことなく、声色も表情も和らいでいるような気がする。家族しているな、と訳も なく感じ入ったいづみは無意識に顔を緩ませていた。

「はるひさんとスイにも何をされたいのかって聞いていたようだが、何か裏でもあるのか? だが、俺の財布なんて 当てにするなよ。こちとら金欠なんだよ、交通費やら何やらで」

 純次が先に釘を刺してきたので、いづみはむっとした。

「違ぇーし。てか、あたしもそこまで根性腐ってねーし。なんつーか、さ、その、なんかしてぇなーって思っただけ。マジ でそれだけだし。深読みするまでのことでもねーし。人の好意はまともに受けやがれ、クソ兄貴」

「そりゃどうも」

 純次はやりづらそうではあったが、明らかに嬉しそうだった。その反応がむず痒く、いづみは毒突いた。

「だから兄貴はクソ兄貴なんだよ」

 それから、いづみは純次と本当にどうでもいい話をした。住んでいる街のことから始まり、互いの大学生活や日常で 見つけた些細な発見など、端から見ても当人から見ても無意味なことばかりだった。しかし、意味がないものほど 不必要に有益に感じるもので、酔いが回って饒舌になった純次と徹底的に話し込んだ。その中で、純次はいづみを 大事だと言ってくれた。勢いに任せていづみも似たようなことを言ってみたが、翌朝になって酔いが覚めると純次は それを覚えていなかった。ほっとするやら苛立つやらだったが、夜中のテンションなどそんなものだと思い直した。
 翌日、いづみは実の父親と前妻の位牌が並ぶ仏壇を念入りに掃除した。この二人に限っては、してほしいことを 聞くことが出来ないからである。兄にどことなく似ている父親と、かつての自分と一字違いの名を持つ前妻の写真が 入った写真立てを綺麗に磨いてやり、新しい花を供え、線香を立てて手を合わせた。
 愛することも愛されることも、なんら難しいことではない。しかし、その取っ掛かりを見つけるまでがまどろっこしく、 回りくどくなってしまうのだ。けれど、一度見つけてしまえば後は簡単だ。手放したりしなければいい。伊号だった頃 は手も足も動かなかったが、いづみは全身が思い通りに動く。だから、万が一見失ったり、手から擦り抜けたとしても、 力一杯追い掛けて掴み取ればいいだけのことだ。
 世の中では、それを絆と呼ぶのだろう。







11 7/16