寄せては返す波のように、記憶は時を織っていく。 ドレスアップした妹達と義理の母親の前に立つのは、少しどころか物凄く恥ずかしかった。けれど、今日はそういう 日なのだから仕方ない。まるで似合わないタキシード姿を正視したくないので、鏡だけでなくガラスなどの反射物から も極力目を逸らしていた。淡いクリーム色のドレスといつもよりは品のある巻き髪と大人びた化粧のおかげで、普段の ギャルらしさが引っ込んでいるいづみは、純次に詰め寄ってきた。 「覚えておけよ、クソ兄貴」 格好に似合わないドスの効いた声を出したいづみは、威圧的に胸を小突いてくる。 「今日という今日は全力で祝ってやる! だから、あたしの時はその倍は祝いやがれ! 解ったか!」 「素敵ですわ、御兄様。もちろん、初美さんも。御兄様がお幸せになられて、本当に嬉しゅうございますわ」 エメラルドグリーンに桜の柄が入った振り袖を着ている翡翠は、晴れやかな笑顔を浮かべていた。 「全くよ。これで家が広くなるけど、寂しくもなるわね」 黒留袖を着ているはるひは笑みを見せていたが、切なげに眉を下げた。そら行ってきやがれ、といづみに背中を どつかれた純次はよろめき、晴れの日でも態度がまるで変わらない妹に文句を言ってから、花嫁の控え室のドアを ノックした。すぐさま介添えの女性が顔を出して、純次を中に案内してくれた。着付けが終わったばかりなのだろう、 美容師と入れ違いになった。彼女達に丁重に礼を述べてから、純次は振り返った。 「あら、似合うじゃない」 三面鏡の前から立ち上がった初美は、純次の姿をしげしげと眺め回してから、期待を込めた目を向けてきた。 「で、私に対する感想はないの?」 そう言われても、すぐには言葉は出てこない。長身だが細身の初美の体は、マーメイドラインドレスに強調されて 一層女性らしさが際立っていた。襟刳りと肩は露出し、鎖骨と首筋が艶めかしい。両腕は長い白手袋に覆われて、 器用にナイフやペグを扱う指先は隠されている。ほとんど伸ばさなかった髪は短いなりにドレスに似合うような髪型 に仕立て上げられ、柔らかなヴェールとティアラが眩しい。ん、と小首を傾げた初美に覗き込まれ、純次は観念して 率直な感想を述べた。もっとも、照れ臭すぎてろくな語彙が出てこなかったが。 「……凄く、綺麗だ」 「それだけ?」 初美は少し不満げだったが、褒めてもらえたのが嬉しいのか、口角を上向けた。 「でも、今日のところはそれで勘弁してあげる。あなたのそういうところ、嫌いじゃないもの」 屈託のない笑顔を見せる初美は、純次に心を許し切っている。純次もまた、初美に心を許し切っているからこそ、 出る表情を見せる。どちらも手袋を填めてはいたが、重ねた手からは確かな体温が滲んでくる。 披露宴が始まるまでの少しの時間、初美はしきりに未来を語った。披露宴後に出発する新婚旅行先、新居での 日々、純次が望んだ子供の人数、これから始まる人生。どんな言葉も明るく、輝いて、無限の可能性を感じさせる。 披露宴の間は独占出来ないのでこの僅かな間を存分に使うべく、純次は初美の一挙手一投足を脳裏に焼き付け、 初美を繋ぎ止めておく。少しでも力を緩めたら、幸せごと初美が滑り落ちてしまわないかと不安に駆られるからだ。 純次のそんな不安を感じ取ってか、初美は笑顔を絶やさない。大輪の花の如く、幸福を振りまく。 記憶は転ずる。 婚約者だった青年の墓参りを終え、帰路を辿る。 彼がいなければ巡り会うこともなく、また、こうやって初美と添うこともなかっただろうから、純次は彼に丁重に礼を 述べた。初美はほんの少しだけ罪悪感を抱いていたようだったが、吹っ切れているのか、彼の名が刻まれた墓石と 対峙しても取り乱すことはなかった。あの戦いから時間を経たことでわだかまりが解れ、婚約者の家族からもきちんと 謝罪を受けたので、和解したことも彼に伝えた。ついでに、初美の父親が思い切って独立して立ち上げた会社が 好転していることも。だから、何も心配することはないと、好きなように生まれ変わってくれ、と言った。 高台から見る景色は、今も昔も変わっていない。初美は少しだけ伸びた髪を押さえ、瀬戸内海と太平洋が接した 海を見下ろした。長年の懸念から解放された清々しさで、以前にも増して表情が柔らかくなっている。純次は彼女の 傍に立ち、躊躇いもなく腰に腕を回す。初美はちょっとくすぐったげだったが、邪険にはしなかった。 「あなたって海が好きなのね。いつも、海が見えるところに来るんだもの」 初美は純次の手と自分の手を重ね、指を絡めてくる。互いの結婚指輪が接し、小さく鳴る。 「ああ」 純次は初美の肩越しに、青味の濃い海を見つめる。初美は波の煌めきに目を細める。 「若い頃に南の島に行っていたから?」 「それもあるが、海には色々と思い入れがあるんだ」 「私は山の方が好きなんだけどなぁ」 初美は拗ねたような口振りになるが、表情は変わっていなかった。 「じゃ、今度の休みには山に行くか?」 純次は初美を抱き寄せると、初美は行き先を言いかけたが口を閉じた。それから少しの間を置き、初美はかかとを 上げて純次の耳元に口を寄せてきた。海を見下ろす高台には二人の他には誰もいないので、誰に憚ったのかは 未だに解りかねるが、初美なりの恥じらいだったのだろう。潮風に紛れるほどの小さな声で、初美は当分は山にも 海にも行けない理由を告げた。純次がすぐさま歓喜すると、初美は照れ臭そうだったが誇らしげだった。あの瞬間が 訪れるのは、この日から八ヶ月と十五日後の午前四時五十七分。 また記憶は転ずる。 いつになく力の抜けた手を、優しく握り締めてやる。 虚ろな顔をしている初美は顔色が青ざめていて、全細胞が疲労していた。無理もない、人間を一人産み落とした のだから。噎せ返るような生が、苦しみにも似た歓喜をもたらした。初美の血の気の失せた頬を撫でてやりながら、 純次は込み上がるものを堪えきれずに呻いた。夜も明けきらない空は藍色と茜色がまろやかに混じり合い、束の間 の色彩を生み出している。この病室からは離れているはずなのに、新生児室から上がる我が子の声ははっきりと 聞こえていた。他の赤子の声と混じっているはずなのに、それが我が子だと考えるまでもなく理解出来る。 「男の子だって」 掠れた声で呟いた初美は、首を傾けて純次の手に頬を寄せてくる。 「名前、どうしようか」 純次が初美に応えてやると、初美は潤んだ目を細めた。 「色々考えたけど、どれもしっくり来なかったね。だから、後でまた一緒に考えよう?」 「それがいい。だから、今はゆっくり休んでくれ」 「傍にいてね。ずっと、ずっと、ずっと」 初美は純次の手を握り、懇願してくる。純次は頷く。 「言われるまでもない」 我が子を抱いた初美の姿を見るのは、これから三日後のことだ。難産だったので初美の体力が消耗しきっていた からだ。体力が回復すると、初美は精力的に我が子の世話を始めた。退院して自宅マンションに戻ると、母親として の本能に煽り立てられたかのように働き詰めになった。だが、緊張の糸が切れると疲れ果てて寝入ってしまうので、 そんな時は純次が我が子の世話に明け暮れた。おかげで、会計士として独立したばかりの事務所の経営が怪しく なることもないわけではなかったが、背に腹は代えられないので、仕事を差し置いても妻と子の世話をした。 更に記憶は転ずる。 長男が独り立ちし、長女が全寮制の高校に入学した日の夜。 長女の入学式に出席した二人は、そのまま徳島の自宅には帰らずに都心で一泊することにした。あの戦いから既に 二十年以上が経過しており復興も終わっているため、以前の都心部とは似ても似つかない都市が出来上がって いた。ホテルの広い窓から見下ろすビル群は星空に負けじと光り、首都高にはテールランプの運河が流れている。 少し値の張るワインを傾けながら、純次は初美と取り留めのない話をした。子育てに明け暮れた月日を振り返って いるうちに初美は気が緩んできたのだろう、若い頃のように甘えてきた。年齢を重ねても魅力を失うどころか、円熟 した妻は愛おしくてならない。本人に面と向かってそれを言っても、あしらわれてしまうのだが。 「今、ちょっとだけ思っちゃった」 初美は家事で荒れた手を純次の手に重ねながら、肩に頭を預けてくる。 「あなたじゃなくてあの人と結婚していたら、私はどうなっていたんだろうって」 「それはそれで悪くないんじゃないのか」 「そうね、きっと悪くない。そこそこの人生を送れるはずよ。でも、あなたは彼じゃないし、彼はあなたじゃないし、彼と あなたじゃ産まれてくる子供達も違うもの。だけど、彼しか知らないままだったら、私は色んなことを知らずに生きて 死んでいくだけだったに違いないわ。あなたと一緒だから、気付けたことが沢山あるもの」 「俺もだよ」 軽く酔いが回ってきた純次は初美に腕を回すと、初美も身を預けてくる。 「ねえ、あのお話、もう一度してくれない? 凄く面白かったから」 「……そうか?」 「ああいう考え方って素敵だって思うし、そんなことを考えているあなたも嫌いじゃないもの」 だからお願い、としなだれかかってきた初美に純次は勝てるわけもなかった。妻を抱いたままベッドに横たわると、 思い付くままに話をした。ワン・ダ・バを通じて感じ取った宇宙のことや、絡み合いながら互いを構成していく過去と 未来の概念や、宇宙を成す万物についての私見などを。そんな突拍子もない話をしても、気味悪がられるどころか 感心されるのは、妹のいづみが若き宇宙物理学の権威として世界で活躍しているおかげだろう。いづみが次々に 打ち立てる理論を元にして躍進している宇宙開拓事業は、今や留まるところを知らず、長女が入学した高校も宇宙 進出に欠かせない人員を育成するために創立されたものだ。 いつかあなたと宇宙を感じたい、と初美はまどろみながら言った。純次はその言葉に同意すると同時に、君がいる からこそ俺は宇宙と繋がれた、との言葉が出かけたが押し込めた。穏やかでありながら確かに情を交わしながら、 純次はこの時間が終わらないことを願った。だが、初美との時間が途切れる瞬間が近付いていることは、既に観測 してしまっている。全てを見てしまった過去の自分を大いに憎むが、それで記憶が消えるわけではない。腕の中で、 初美は何度となく愛を囁いてくる。若い頃は決して好きだと言ってくれなかったが、近頃は頻繁に口にしてくれるよう になった。それが喜ばしい反面、初美も本能的に何かを感じ取っているのだと思うとやるせなくなる。だから、純次は 初美に愛していると言った。この時間が終わるまでに、伝えられるだけの思いを伝えるために。 そして、記憶は転ずる。 愛した女性は、とても小さく、軽くなった。 桐箱に入った遺骨は量が少なく、一つ残らず箱に詰めてもいくらか空白が出来たほどだった。それが病の重さを 知らしめているようで、不意に腹立たしくなる。泣き腫らしている妹を慰めながら、出張先から直に実家に帰ってきた 長男はリビングを後にした。成長した子供達は若い頃の純次にも初美にも似ていて、ふとした面差しに血を感じる。 今もそうだった。父さんもあんまり思い詰めないでね、と言ってくれた長男の口角の曲げ方は初美と全く同じで感慨 さえ覚えた。お母さんに卒業式に出てほしかった、と泣き喚いた長女の声色は初美に似ていたが、悲しみを堪える 仕草は純次のそれと同じだった。親族に電話を掛けて話すべき事柄を話し終え、葬儀の準備も一通り終えた純次 は、妻の傍で泡盛を傾けた。もしもあのまま宇宙怪獣戦艦でいられたら、初美を救えたのか否か、を。 それは無理だ、と即座に結論が出るのが物悲しい。そもそも、ワン・ダ・バが生体洗浄を行えるのは同じ生体組織 を持った血族だけであり、ただの人間を取り込んだところで蛋白質塊として分解し、吸収してしまうだけだ。だから、 純次が忌部次郎のままでいて、その血か何かを初美に分け与えなければ、まず無理な話だ。そう思うと、なんだか 馬鹿馬鹿しくなってくる。宇宙怪獣戦艦などという仰々しい生き物であっても、人間の病気一つ治せないのだから。 ゾゾ・ゼゼであれば、とも考えたがあれに限って無意味な生体改造は行わない。だから、初美の運命は真っ向から 受け止めなければならない。現実逃避を行ったところで、初美が生き返るわけではないのだから。 「初美。君は幸せだったか?」 その言葉を出すだけでも、恐ろしく苦労した。喉が詰まり、声が濁り、視界が歪む。 「俺は……」 一言で言い表すのが勿体ない人生だった。忌部次郎として生まれたが故に得られなかった数々のものを、初美は 一つ一つ丁寧に与えてくれた。一人きりじゃない時間、大事にしたい相手がいる喜び、結婚前も結婚後も暇さえあれば 行っていたキャンプや登山、他愛もない理由でのケンカ、些細なことで弾む会話、恋をする幸福。 この時間は終わらない。純次が、ワン・ダ・バが望む限り何度でも繰り返す。忌部次郎だった純次がワン・ダ・バを 通じてこの未来を観測し、純次の人格をコピーしたことで自我が確立したワン・ダ・バが記憶の中の初美に恋をして 過去を観測し、過去と未来が交互に観測し合っていることによって成り立っている複雑極まる時間軸が失われない 限りは。だから、純次が思い描きさえすれば、ワン・ダ・バが求めさえすれば、またいつでも初美に出会える。 そして、恋が出来る。 浅い眠りの断続的な夢から覚めた忌部は、思い切り毒突きたくなった。 俺の未来をネタバレしてんじゃねぇ、と、目の前の宇宙怪獣戦艦に。だが、ゾゾと紀乃の今生の別れを邪魔しては ならないと思い、自制した。気晴らしにタバコでも吸ってやりたくなったが、生憎兄から借りた服にはそれらしいものは 入っていなかった。苛立ちとやりきれなさを持て余した忌部は、エメラルドグリーンの海と向き合った。忌部島で夜を 明かすのは、これが最後だろう。そう思うと、なんとなく物寂しくなる。故郷というものがあるとしたら、それは忌部島 だと断言出来る。名実共に、忌部次郎という人間の根源なのだから。 「竜蔵寺初美か」 この先の未来で自分が惚れる女性の名を口にした忌部は、海に長い首を横たわらせている宇宙怪獣戦艦と目が 合った。数時間前まで同一の存在にも等しかったワン・ダ・バは岩盤のように分厚く頑丈な瞼を下げ、半目になって 忌部を見据えてきた。端から見れば眠たいだけにしか見えない表情だが、忌部にはそれが警戒心混じりの視線 だと解った。でたらめに伸びた前髪を掻き上げた忌部は、透き通らなくなった目で宇宙怪獣戦艦を睨み返す。 「なんだよ、その目は」 途端に脳内に短い痺れが走り、直情的な意志が流し込まれた。思わず仰け反った忌部は、言い返す。 「はあ!? お前の方が先に初美に惚れた!? 馬鹿言ってんじゃない!」 と、反射的に言い返してから、忌部は戸惑った。なぜ、直接知りもしない女性のことでこんなにムキになってしまう のだ。すると、忌部の感情の揺らぎを目聡く感知したワン・ダ・バは、また別の意志を生体電流に載せてきた。阻む ことも出来ない忌部はもろに感情を受け取り、再度仰け反ったが、負けじと言い返した。 「いいか、お前と俺が作っちまったややこしいタイムパラドックスは俺が原因なんだからな! 断じてお前じゃない! その容積だけは馬鹿でかい珪素の脳髄でよく考えてみろ! 俺が、地球で、初美に出会うんだ! でなきゃ、海水に 溶けたお前の生体組織が保存しやがった俺の記憶を見て初美を見つけることも出来ないだろうが!」 鳥が先か卵が先か、というやつだ。忌部は再度念を押してから、派手に舌打ちした。どうにも苛々する。落ち着きが なくなる。ワン・ダ・バが次元と時間と空間を越えて忌部に見せてきた初美の笑顔を思い出すと、宇宙怪獣戦艦が 疎ましくなってくる。彼がいなければ初美を観測出来やしなかったのだが、ワン・ダ・バも初美を欲しているかと思うと 胸中が波立ってくる。あなたが嫌いです、大嫌いなんです、嫌い、嫌いじゃないもの、と、嫌悪感剥き出しの顔から 徐々に好意を抱き始める初美の表情の推移を思い出すと、余計に。 「……俺が先だ」 いずれ訪れる未来で待つ、まだ見ぬ彼女。恋に落ちたとしたら、今、この瞬間だ。また新たなタイムパラドックスが 生まれたかもしれないが、それならそれでいい。捻れた時間も空間も、ねじ切ってやればいいだけだ。 岩場に腰を下ろした忌部は、足元に打ち寄せる波と宇宙怪獣戦艦が巨体を休める海面を視界に収めた。過去だの 未来だのと言うが、その時々に応じて全力に生きることが何よりも大事だ、との思いを腹に据える。いくら初美が 未来で自分に惚れてくれると解っていても、惚れられるような男になっていなければ意味がない。会計士になること も、初美との間に子供を作って育てることも、自分自身がしっかりしていなければ成し遂げられない。だから、本土に 帰ったら、やるべきことを一つずつやり抜いて人間的に成長し、必ずや彼女の心を奪ってみせる。 十万年後の自分に嫉妬されるくらいに。 11 7/20 |