既視感のある背景の中、初美は佇んでいた。 彼女の婚約者の実家が檀家になっている寺の、墓地の片隅だった。婚約者の名が刻まれた墓石を食い入るように 見つめながら、初美は唇を浅く噛んでいた。全体を通してみると、竜ヶ崎ハツに似ている部分は少ない。目元や顔の 骨格もさることながら、表情もハツには程遠い。ならば、なぜ似ていると思ってしまったのか。 ハツに関する記憶は、ワン・ダ・バやゾゾの記憶から拝借しているのだが、最も多くの記憶を宿しているのは他 でもない竜ヶ崎全司郎である。並列空間に飛んだ紀乃を観測する際に竜ヶ崎も観測していたので、図らずも竜ヶ崎の 記憶が流れ込み、それもまたハツと初美を比較する材料として使っていた。竜ヶ崎、もとい、ゼンが見ていたハツの 表情はどれも険しくも厳しい尼僧のもので、女性らしい柔らかさを備えた表情は少なかった。故に、恋人を亡くした 苦悩に耐える初美の表情が無意識のうちに重なっていたのだろう。それを美しいと思うのは、酷なことだろうか。 「私は、あなたが嫌いです」 初美は水の入った桶を握り締め、肩を怒らせる。純次は彼女の斜め後方に、ただ、立っている。 「末継さん。私はあなたには二度と会いたくありませんし、そう言いましたよね? なのに、なんでこんなところに まで付いてくるんですか? 放っておいて下さいよ。私のことなんです。あなたには、関係ないじゃないですか」 水を掛けられたばかりの墓石は艶やかに輝き、幾筋もの水の帯を纏っている。 「誰かに傍にいてほしいだなんて、思ったことはありません。全部全部、自分でなんとか出来ます。なんとかします。 まだ私は、あの人しか見えていないんです。あなたなんて、視界にすら入っていないんです。なのに、どうしていつも そうなんですか? 嫌いだとしか、言っていませんよね?」 「誰もあなたを咎めはしませんよ」 純次は初美の喪服に包まれた肩に手を伸ばしかけるが、下げた。 「そういうところが嫌いなんです! 綺麗事ばっかり言って! 私があなたに何をしたんですか! 何もしてないし、 何もするつもりもありません! なのに、どうして!」 引きつった声を上げた初美は柄杓ごと桶を落とし、純次を見上げる。 「放っておいて……くれないんですか……」 最後の意地が途切れたのだろう、初美は膝を折って崩れ落ちそうになった。純次はそれを受け止め、声を殺して 泣き出した初美を支えてやった。所々に残雪が残る墓地には、純次と初美以外の誰もいない。枝葉に絡んでいた 最後の雪が緩み、零れる。泣いている理由は知っている。ずっと観測していたからだ。 これまで初美は、婚約者の月命日に彼の実家に訪問していたが、もう来ないでくれと家人から言われた。辛いことを いつまでも蒸し返さないでくれ、死人に拘らないでくれ、死亡保険金でも目当てなのか、と。もちろん初美はその場で 否定したが追い返されてしまい、二度と婚約者の実家に上がらせてもらえなくなった。折しも初美の父親が勤める 会社の経営状態が傾きつつあったので、悪い方向に邪推された末に思い違いをされた結果だった。 ひとしきり泣いた初美は、純次の車に乗ってくれた。それまではどれほど誘っても近付いてもくれなかったが、少し ずつ気を許してくれているのだ。寺を後にした純次は、助手席に座った初美にどこに行きたいかと尋ねた。初美は 純次に甘えてしまった自分が情けないらしく、すぐには答えてくれなかったが、間を置いてから行きたい場所を口に した。それが妙に嬉しくて、純次はいつになく滑らかにハンドルを切った。 見晴らしの良い高台から、二人で海を見た。 過去と未来は常に隣り合っている。 地球時間に換算して二ヶ月間ではあったが、多次元宇宙を感じ取っていた忌部が出した結論はそれだった。過去は 過ぎ去るものではなく、未来は未だ来たらぬものでもなく、螺旋の如く、捻れながらも触れ合っている。どちらかが 途切れればどちらも消滅し、どちらかが混じりすぎればどちらも潰えてしまう。一定の距離を保っていてこその過去 であり未来であるが、時として宇宙はその均衡を掻き乱したくなるらしい。それを行うために宇宙の狭間に生まれた のが、ワン・ダ・バの種族であるヤトゥ・マ・ギーだ。 本来、多次元宇宙を行き来するのは実体を持たない精神生命体であり、ヤトゥ・マ・ギーのように肉体を持って宇宙を 行き来する種族は実に珍しい。それ以前に、存在していること自体が不可解なのである。物理法則から何から 違う多次元宇宙を旅するためには、次元と次元を跳躍した直後に生体組織をその宇宙に合った物質に再構成する 必要があり、それが出来なければ生存活動はまず不可能である。だが、ヤトゥ・マ・ギーは生まれながらにしてその 技術を習得しているばかりか、ありとあらゆる環境に適応出来る能力も有している。 地球上の生物に限らず、生物は生まれ育った環境を元にして進化するが、ヤトゥ・マ・ギーは違った。長い年月を 掛けなくとも、異なる環境に飛び込んだ時点で生体情報と生体組織を改良し、適応させることが出来てしまう。その 能力に目を付けたのが惑星ニルァ・イ・クァヌアイのイリ・チ人であるが、その適応能力の高さ故にヤトゥ・マ・ギーは 生体兵器にされた状態であっても自我を保ち続けたばかりか、反乱を起こし、惑星ニルァ・イ・クァヌアイから派生した 全てのものを滅ぼした。そして、同族を穢した異種族を滅した後、ヤトゥ・マ・ギーは新たな旅に出た。この宇宙を 掻き混ぜるという役目を存分に果たし、次元と時間と空間を揺さぶった後に。 生物は宇宙の原子であり、惑星は分子であり、時間はそれらを取り巻く陽子と陰子であり、空間はそれらを繋げて 宇宙を成り立たせている。適度な刺激を与えなければ、全ては淀み、沈み、朽ちてゆく。 だから、彼女に恋をする。 LEDランタンの青白い光は、白色矮星の光にどことなく似ていた。 もっとも、その既視感を口にすることはない。野暮だからだ。大人が二人も入るには少し狭いテントに並べてある 寝袋は、どちらもファスナーが開いたままだった。寝入るつもりでいたのに、眠気が来ないのはどちらも同じなのだ。 人里離れた山奥に相応しく、周囲からちりちりころころと虫の声が幾重にも聞こえる。フクロウと思しき太い鳴き声 が森から響き、弱々しい月明かりが浅く流れる渓流を浮かび上がらせる。 初美は、アウトドアが趣味なのだと言った。それは婚約者の影響で、彼に誘われなければ一生そんな趣味は持つ ことがなかっただろう、と言った。手取り足取り教え込まれたおかげで、今では自力でテントを張ることも、登山して 自然以外の何もない山中で一晩明かすことも、渓流釣りをすることも、カヌーに乗ることも、屋外で煮炊きすることも、 なんだって出来てしまうのだそうだ。婚約者が亡くなってからは、彼を思い出すからとアウトドアグッズを封印して いたが、婚約者の家族に追い払われた時のショックが抜けると急に猛烈なストレスを感じ、山に登りたくてたまらなく なったのだそうだ。キャンプ道具を満載した4WDに乗った初美は、ハンドルを握って山道を運転しながら、助手席に 座る純次にそんなことを話してくれた。 コッヘルで沸かした湯で淹れたコーヒーを傾けながら、初美は少しずつだが話をしてくれた。どんなにか彼のことが 好きだったかに始まり、亡くなって間もない頃は彼以外の誰も好きになれないのだと思い込んでいたことや、誰も 好きにならないことが贖罪であるかのように錯覚していたことなどを。コーヒーを飲み終えた頃には、初美の横顔は 僅かばかり綻んでいた。話すだけ話したから、心中が楽になったのだろう。 「何度だって言います」 その言葉を聞きながら、純次は忌部島の星空にも負けるとも劣らぬ星空を仰ぎ見た。 「私は、あなたみたいな人が大嫌いなんです」 初美はコーヒーの温もりが残るステンレス製のマグカップを両手で包み、純次と同じく夜空を見上げた。 「嫌いなんですからね?」 語尾を少しだけ上擦らせた初美は、コッヘルの底に残った冷めた湯をマグカップに流し入れ、回した。 「なんとでも」 純次は夜気に熱を吸われて冷え切ったコーヒーを呷ると、笑った。 「どうして、ちゃんと言ってくれないんですか」 初美は温い湯を啜り、拗ねるように唇を尖らせた。 「何を?」 純次がからかうと、初美はマグカップを握り締めて背を丸めた。 「……知りません」 ランタンの青白い光の輪郭を帯びた初美の頬は、心なしか上気していた。純次は一メートルも離れていない初美 との距離を狭めるか否かを迷ったが、結局手を伸ばさなかった。考えなくとも、初美が何を求めているかは解った。 なんとも思っていない男を、山中で二人きりになるようなキャンプに誘うはずがない。純次もそのつもりではあるが、 いざ二人きりになると、上手い言葉が出てこなくなる。観測していた時もそうだった。自分自身に呆れてしまうほど、 絶好の状況を無駄にしていた。見ている時は軽く苛立ちもしたが、いざその状況が訪れると、驚くほど何も出来なく なってしまった。生物としての本能的な執着が強まるほど、怖じ気付いてしまう。 何せ、相手は矮小で脆弱な異種族なのだから。 朧気ではあるが、今でもよく覚えている。 遙か彼方の未来で、十万年もの月日が過ぎ去った、海だけしかない地球を見下ろした時に、不意に視界の中心に 捉えたものを。忌部次郎と合体したことによって忌部次郎の人格を模したワン・ダ・バが、忌部次郎が生きていた 土地を探し出そうと衛星軌道上から視線を彷徨わせ、水没した日本列島の片隅に見つけたものは、末継初美との 名が刻まれた墓石だった。末継姓が御三家の新たな名字であることはワン・ダ・バ自身も知っていたが、初美という 名を持つ女性は御三家の中にはいなかった。となれば、誰かの縁者か子孫だろう。そう判断したワン・ダ・バは退屈 凌ぎを兼ねて、地球に溶け込んでいた己の生体情報に宿る十万年分の記憶を吸収し、再生し、検索し、末継初美と いう名の女性の正体を知った。忌部次郎、もとい、末次純次の妻であった。 脳裏に溢れ返る記憶は、かつて一体となっていた男の目を通したものだった。中でも最も鮮烈な記憶は、初美が 赤子を抱いている姿だった。父親はもちろん、末継純次だ。初美は少し照れ臭そうだが得意げな笑顔を浮かべて、 生まれて間もない我が子をこちらへ差し出している。生きてきて良かった。生まれてきて良かった。生き延びてきた 意味はここにある。なんて愛おしいんだろうか。純次の言葉も次々に蘇り、脳内を満たす。純次とほぼ同等の感覚と 知性を持っているワン・ダ・バは、痛烈に過去に焦がれる。その瞬間、記憶の中の初美に恋をした。 同時に、過去と未来が捻れ、重なり、交わった。 宇宙怪獣戦艦であった自分。宇宙怪獣戦艦となった自分。人間としての自分。人間でない自分。 ありとあらゆる自分が、今の自分を見ているかと思うとやりづらくて仕方ない。こんなことなら、観測なんてせずに 時間が流れるままに放っておけばよかったと後悔したが手遅れだ。過去であろうと、未来であろうと。ワン・ダ・バで あった頃の精神状態を引き摺っているからだろう、この行為は誤りだったのでは、との迷いが生じる。けれど、これは 今の自分自身が求めて止まないのだ。だから、迷うこと自体が間違いなのだ。 「……嫌い」 初美は込み上がるものを堪えながら、純次の胸に顔を埋める。細い肩が震え、縋るように服を掴んでくる。 「本当に、あなたなんか、嫌い」 「そりゃまた、どうして」 純次が苦笑いすると、初美は声を弱めた。 「だって、自分から言ってくれないから。だから、私が、言わなきゃならないって思って……」 「ごめん」 純次は初美を受け止め、短い髪に触れる。初美は小さく、馬鹿、と言ったきり黙り込む。実際、自分が情けなくて たまらないが、言うに言えなかったのだ。ワン・ダ・バと少しばかり同調している精神構造や忌部次郎であった頃の 負い目といった言い訳が頭を過ぎるが、結局、本当に嫌いだと言われるのが怖かったからだ。初美は好意を示す のがあまり得意ではなく、面と向かって好きだと言えないらしい。だから、嫌い、のニュアンスや前後の文脈で彼女の 真意を推し量るようになっていた。だから、どちらも明確な言葉は使っていなかったが恋愛関係には至っていた。 純次もまた、言葉にはしなくとも好意を示しているつもりだったので、言わないなら言わないままでいいとすら思って いた。だが、その曖昧な関係が長く続けば続くほど初美は不安になったのか、好きだと言ってきた。 「純次」 車体を叩く雨音よりも弱く呟いた初美は、顔を上げずに問い掛けてきた。 「いつから、私を好きになってくれたの? 私はあなたに好かれるようなことなんて、していないのに」 「それを話すと長くなりそうなんだが」 純次が事実を述べると、初美は赤面した。 「じゃあ、話さなくていい。余計なことまで話さなきゃならなくなりそうだから」 余計なことを是非とも話してほしいのだが。純次はその言葉を胸に納めると、初美を抱き寄せた。ドライブの途中に 立ち寄った人気のない展望台で、雨に降られたので純次の車に避難した。運転席に入るつもりだったが、初美に 懇願されて後部座席に入った。余程の決心を固めてきたのだろう、思い返してみればドライブに出発する段階から 初美は挙動不審だった。一言を口にするだけではあるが、その一言が恐ろしく重いのだから仕方ない。 不意に、十万年後の自分に対して奇妙な優越感が湧く。純次の記憶を見ることしか出来ないワン・ダ・バは、初美 本人には触れることは不可能なのだから。純次とワン・ダ・バは同一の存在ではなく、ただ、互いの意識が多次元 宇宙を通じて重なり合っているというだけだからだ。その重なり合った部分のせいで、初美を見つけることが出来た のは非常に喜ばしいが、純次が先かワン・ダ・バが先か、と考え出すと厄介なパラドックスに入り込んでしまう。 「顔、上げて」 純次は初美の肩に手を添えるが、初美は表情を見せたくないのか渋った。再度声を掛けると、初美は躊躇いつつ 恐る恐る顔を上げた。目が合うと、ただでさえ照れていた彼女は唇を噛んで顔を強張らせた。 「俺は、君と出会う前に色んなものを失った」 雨音が一段と強くなり、フロントガラスが白むほど飛沫が散る。 「大事なものは、掴もうとすればするほど滑り抜けていった」 周囲から隔絶され、狭い車内に小宇宙が出来上がる。 「何度も間違って、何度も迷って、やっと正しいことが見つけられた時には何もかもが手遅れになる寸前だった」 彼女の温もりが、かつて透き通っていた体に染み入ってくる。 「なんとか踏ん張って、やるべきことをやり遂げたが、全部は元通りに戻らなかった」 初美の眼差しが純次に据えられ、背中に回された手に力が籠もる。 「だけど、俺は今の俺が嫌いじゃない。辛いことも大変なこともあるが、前よりはかなり自由が効くからだ。それに、 何より君に出会えたんだ。だから、こうも思うんだ。君で埋めるために、俺は色々と失ったんじゃないかって」 「気障ったらしい」 初美が可笑しげに笑ったので、純次も釣られて笑った。 「かもな」 「じゃあ、改めて聞くけど、純次は私に何を埋めてほしいの? 事と次第によっては、考えないでもないけど」 「俺の子供を産んでほしい」 「……それって、つまり、そういうことだよね」 初美が口籠もると、純次は頷いた。初美が我が子を腕に抱いた瞬間から、純次とワン・ダ・バは再び繋がり合い、 宇宙と時間と空間が絡み合うのだ。だが、純次とワン・ダ・バが同時に抱いた感情は複雑に捻れたこの宇宙を順当 に動かすための因果を保つものではない。目の前の女性と共に人生を歩んでいきたいからこそ、抱いたのだ。 雨音の合間に、潮騒が聞こえる。互いの鼓動と上気した呼気がそれに混じり合って、奇妙な緊張感が生まれた。 笑みを収めた初美は視線を逸らしていたが、恐る恐る純次を見上げてきた。純次は外気とは反比例した火照りを 帯びた彼女の頬に触れ、薄化粧した唇を指先でなぞる。宇宙怪獣戦艦としての感覚が騒ぎ立てる、不用意に初美に 触れたら壊してしまうのではないか、と。ヤトゥ・マ・ギーからすれば星々の瞬きよりも短い時間しか生きられない 命を燃やし尽くしている、初美の肉体はとても儚い。次元と時間を超えた視線を少し逸らすだけで存在が危うくなる かもしれないほど、宇宙にとっては重きを置かれていない命だ。だが、それがなんだというのだろう。純次は初美に 顔を寄せると、万感の思いを込めて唇を重ねた。初美は一瞬戸惑ったが、純次に応えてくれた。 人間であることは、なんと喜ばしいことか。 11 7/19 |