南海インベーダーズ




元突然変異体的人生観



「結婚を前提に俺と付き合って下さい!」

 酒の席とはいえ、そんなことを言われると面食らう。末継紀子は飲みかけのビールが残るジョッキを置き、酔いと 照れのせいで赤らんだ顔をしている後輩を凝視した。一瞬の間の後、宴席が湧く。紀子は同僚に肩やら背中やら を押されて揺さぶられ、後輩に向けて荒っぽい拍手が送られる。野太い声で下世話な野次が飛び、後輩のジョッキに どぼどぼと新たなビールが注がれる。後輩は今一つ焦点が定まらない目で紀子を見ていたが、ふらつき、その場に 座り込んだ。同僚達からせっつかれてビールを呷り、野暮な質問をされている。
 紀子のジョッキにもビールが追加されたが、紀子はそれには口を付けずに席を立った。一度トイレに入ろうかとも 思ったが、鏡で自分の顔を見るのが嫌だったので非常階段に出た。火照った体に優しい夜風を浴び、嘆息した。

「……どうしよう」

 好きだと言われるのは悪い気はしない。けれど、そこから先はない。都心に負けないほど眩しい夜景を見下ろし、 再度ため息を吐く。ジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出し、操作し、画像を表示した。政府と公安を通じて 入手した、在りし日の忌部島の衛星写真だった。この衛星写真を撮った瞬間には、ゾゾは地球にいたのだ。それを 思い返すだけで、容易に異星人の彼への恋心は蘇り、ただの人間には惚れられないのだと痛感する。

「どうしよう」

 同じ言葉を繰り返した紀子は、氷の如く冷たい手すりに寄り掛かった。吐き出す息は白く、スーツのジャケットだけ では耐えきれない寒さが容赦なく吹き付けてくる。

「ゾゾ……」

 好きだ。好きだ。好きだ。彼と出会って、血筋に宿る理不尽な運命と戦い抜いた月日は遠ざかり、思春期も過ぎ、 それなりに人生経験を重ねたが、ゾゾを上回る相手に出会ったことは一度もない。視野も狭ければ価値観も狭く、 子供でしなかった十五歳の頃に経験した初めての恋であるため、記憶の中で美化されつつあるとも自覚している が、それを含めてもゾゾが好きだ。だから、誰に好きだと言われても応えられない。
 あの恋は呪いだ。ゾゾへの思いは紀子を戒めてすらいる。高校時代は女子校だったので異性との出会いは亡きに 等しかったが、短大に進学すると他校の学生との合コンやアルバイト先などで異性に出会うようになり、人並みに 経験を重ねてきた。だが、相手に気を許せたつもりでいても体まではどうしても許せなかった。最後の最後でゾゾの ことが脳裏を過ぎり、抵抗してしまう。おかげで、交際した人数はあれども経験した人数はゼロで、鉄の女だと揶揄 されたこともあった。いつまでもそんなことではいけないとは思う。まともな人生を送って死ぬと決めたのだし、それは ゾゾにとっても幸福なはずだと信じているからだ。けれど、何度挑戦しても踏ん切りが付けられない。紀子は無性に 泣きたくなってきたが、宴会のせいでただでさえ崩れかけた化粧が崩れてしまうので、ぐっと堪えた。
 普通というのは、思った以上に難しいものだ。




 紀子が二十七歳になると、生死を共にした皆の身辺も随分と変わってきた。
 双子の妹である露子は、二十歳を迎えて間もなく従兄弟の鰐淵仁と結婚した。結婚した当初は末継一家の地元で 暮らしていたが、海洋学の道に進んだ仁が沖縄に移住したので、当然露子も沖縄に行った。三年前には二人の間 に第一子が産まれ、来年の春頃には第二子も誕生する予定だ。仁は海水に浸かるとサメ人間と化す体質は消える ことも弱まることもなかったが、海洋学者として順調に成果を上げていて、時折学術誌に彼の名が載っている。
 伯父である純次は三十七歳の頃に竜蔵寺初美という女性とお見合い結婚し、その翌年に長男を授かると、更に その四年後には長女も誕生し、会計士として独立して立ち上げた会計事務所の経営も順調だ。
 その上の妹である翡翠は和裁学校を卒業した後に職人の道に進み、京都の工房で腕を磨きに磨き、昨年の春に 独立して工房を持つようになった。その腕前は、業界でも高く評価されているそうである。
 下の妹であるいづみは大学在学中に海外留学し、宇宙物理学者としての才能を認められ、卒業して間もなく研究 職に就いた。今は宇宙開発事業の重要なポストに就き、日々忙しく働き、海外を飛び回っている。
 彼らの母親であるはるひは誰とも再婚せずに、徳島で平穏な日常を過ごしている。紀子の両親もそんなもので、 父親の鉄郎と母親の融子は露子が産んだ孫を溺愛しつつ、凪いだ余生を過ごしている。
 山吹丈二とその妻の秋葉、かつての波号である紗奈美とは一切連絡は取っていないが、公安を通じて届く情報に よれば、高校二年生になった紗奈美はパティシエになる夢を追い掛け、フランスに留学したそうである。
 皆、落ち着くところに落ち着いた、といった具合である。紀子は高校を卒業後、横浜の短大に進学し、地元企業に 就職して事務員になった。公安の鈴本礼科からは政府側に来ないかと打診されたが、丁重に断った。
 振り切れたと思っていたし、振り切ったつもりでいたが、そうではなかったらしい。二つ年下の後輩、錦戸昇太郎に 突然告白された忘年会から一週間が経過した土曜日、紀子は鬱屈した気持ちを晴らすためにドライブに出かけた。 気の向くままにハンドルを切って向かった先は、本州を跨いだ反対側の日本海だった。毎日のように横浜から海を 見ているのに、とは思ったが、気が向いたのだから仕方ない。
 高速道路を降りて福井県内に入り、ふとあることを思い出した。あの忘れ得ぬ夏の日、目指した場所も福井県内 だった。紀子は道路標識とカーナビを頼りに進み、空印寺を探し当てた。住宅街の狭い道を通って空印寺に到着した 紀子は、不意に泣きそうになった。駐車場に車を止めて境内に入り、竜の肉片が収められている八百比丘尼の 洞窟に行こうとしたがロープが張ってあり、洞窟の前には立ち入り禁止との看板も下がっていた。洞窟の入り口は 土砂を詰めて塞いであり、竜の肉片だけでなく八百比丘尼の塚も見えなくなっていた。御三家の先祖である竜ヶ崎 ハツに思いを馳せながら、紀子は手を合わせ、深々と礼をしてから、本殿に向かった。年末ではあるが少し時期が 早いので、人影はあまりない。賽銭箱に小銭を投げ入れ、手を打って丁寧にお参りをした。人並みに恋愛も結婚も 出来るようになりますように、と。
 その後、紀子は海岸に出た。海沿いの駐車場に車を止めてから、寂しい砂浜に降りた。日本海の潮風は厳しく、 曇りがちな空を映した海の色は重たかった。砂浜にも人影はなく、一層物悲しさを掻き立ててきた。特に何をするでも なく、波打ち際に立ってぼんやりとしていると、砂を踏む足音が近付いてきた。地元の人間だろうと振り返りもせずに いると、その足音が背後で止まった。そして、声を掛けられた。

「紀乃さん、よね?」

 過去の名を呼ばれて紀子がぎょっとすると、非常にばつが悪そうな顔をした女性がいた。年嵩は両親よりも少しは 若いようだが、四十代で間違いなさそうだ。見るからに暖かそうなダッフルコートを着て首には手編みのマフラーを 巻き、ジーンズにスニーカーを履いている。すっかり険が取れたからだろう、面差しを見ても彼女が誰かがすぐには 思い出せなかった。しばらく間を置いてから、紀子は彼女の名を口にした。

「……一ノ瀬真波さん、ですか?」

「ええ。今は白崎真奈美だけどね」

 真奈美は微笑むと、紀子に近寄ってきた。紀子は懐かしさに襲われ、歓喜する。

「うわあ懐かしい! あれからどうしたのかなーって思っていたんですけど、御元気そうで!」

「紀乃さんこそ。あ、違うわね、今は紀子さんだったわね。ずっと前に鈴本さんに教えて頂いたんだけど、直に接する ことがないもんだから実感が湧かなくて」

「名字が違うってことは、御結婚されたんですか?」

 同窓会でクラスメイトに会ったかのような心境で紀子が尋ねると、真奈美は結婚指輪を填めた手を頬に添える。

「そうよ。十年目と少しってところ」

「じゃ、お子さんは」

「三人。二人だけのつもりだったんだけど、下の子が双子でね。三人とも元気がいいもんだから、毎日大変なのよ。 でも、あの頃に比べたら、って思うとどんなことも苦じゃないわ。その点だけは、あの男に感謝しないとね」

 こんなところじゃ寒いでしょうから、と真奈美に促され、紀子は真奈美に連れられて砂浜の道路沿いにあるカフェに 入った。暖房の効いている店内にはコーヒーの香りが緩やかに漂い、地元局のFMが流れていた。紀子は真奈美と 向かい合い、窓際の席に座った。真奈美は買い物に行く途中だったそうだが、急ぎでもないから、と言ってくれた。
 注文したものが到着してから、紀子は現状を話した。露子が仁と結婚して子供も二人いる、と言うと真奈美は心底 喜んでくれた。いづみの活躍については報道で知っているからだろう、驚きはしなかったが感嘆してくれた。真奈美 の喜びの裏には罪悪感が潜んでいて、それが紀子の胸中を少しだけ痛めた。今となっては、御三家の誰も真奈美 を責めるわけがないのに。
 紀子の話題が途切れると、真奈美も現状を話してくれた。夫、白崎凪は温厚で子育てにも積極的に参加してくれ、 真奈美を愛してくれるが、たまに愛されすぎていると思うことがあるそうだ。束縛めいたことはしないまでも、常軌を 逸した独占欲が窺える瞬間があるらしい。けれど、それも抑えを効かせておけばいいだけのことだ、と真奈美は軽く 言った。夫婦の間のことなので解りかねるが、上手くいっているのなら何よりだ。真奈美の子供達についての話題も 一通り話した後、しばらく沈黙が流れた。コーヒーも飲み干してしまい、カップの底には茶色い輪が残るだけだった。 紀子が話しすぎて乾いた喉を氷水で潤していると、真奈美は言った。

「紀子さん。何かあったの?」

「いや、別に……」

 紀子ははぐらかそうとしたが、表情までは誤魔化しきれなかったのか、真奈美はじっと見据えてきた。

「男絡みのこと?」

「えっ、あ、うんと」

 紀子が戸惑うと、真奈美は澄まし顔になった。

「そう困るほどのことでもないわよ。あなたぐらいの歳で、浮いた話の一つもない方がおかしいわ」

「まあ、そうとも言えないわけではないんですけど」

 紀子はコーヒーのお代わりを頼んでから、忘年会で後輩に告白された一件を話した。真奈美は自分もコーヒーの お代わりを頼み、薫り高い湯気を昇らせるコーヒーをブラックで傾けた。

「紀子さんは、その子のこと、どう思っているの?」

「なんていうか……無難だなぁ、と」

「具体的には?」

 変異体管理局時代を思い起こさせる真奈美の鋭い口調に、紀子は若干口籠もりながら話した。

「ええと、ですね、良くも悪くも平凡なんです、後輩君。地味っていうか、地に足が着きすぎているっていうかで。それが 悪いとは言いませんし、人間的には素晴らしいことだって思うんですよ。実際。顔だって人並みだし、身長だって 平均よりもほんの少し高いぐらいだし、業務実績だってそんなもので。誰と衝突することもないし、カドも立てないし、 上からも下からも程良く慕われているけどハブられやしない、っていうある意味じゃ理想的な人生を送っています。 だから、なるべく普通にしている私に目を付けたのは、当然っていえば当然かもしれないですけど」

「平凡な人間なんて、この世にいやしないわよ」

 そう言いながら、真奈美はコーヒーにミルクを落として混ぜた。

「そりゃ、世の中にはアベレージラインがあるけど、あるってだけよ。いざ蓋を開けてみれば、平凡な人間ほど非凡な 内面を持っているものよ。むしろ、平凡さを装って非凡さを隠していることも少なくないわ。紀子さんだってそう」

「ええ、まあ」

 それだけは否定出来ない。紀子が曖昧に答えると、真奈美は頬杖を付いた。

「火のないところに煙は立たないわ。紀子さん、その後輩君が少し気になっているんじゃない?」

「は?」

「だって、人に好かれるにはそれだけの理由があるはずよ。意図しているにせよ、していないにせよ、後輩君に 興味を持っていなきゃ、そこまで後輩君のことを知っているはずがないもの」

「いえ、それはただ、同じ職場だからで」

 紀子は苦笑し、熱いコーヒーを啜った。後輩、錦戸昇太郎のことを知っているのは、目立たずに生きていくための 参考にするために彼を観察しているからだ。その結果、錦戸とよく目が合うようになって、その度に愛想笑いをして いたら勘違いされた、というところだろう。だから、錦戸が異性として気になっているわけではない。

「だったら、同僚として付き合う分にはいいんじゃない? 期待を持たせない程度に。いきなり二人きりで、ってのは 不用心だし、勘違いされたら困るもの。だから、他の同僚を誘って一緒に出掛けてみたらどうかしら。でも、その気 はないってことを充分説明しておかなきゃね。回りから煽られちゃうから」

「ええ、それがいいですね」

「……あら」

 ふと、真奈美が顔を上げて、海岸沿いの道路を走ってきた乗用車に目を留めた。紀子が真奈美の目線を辿ると、 その車は喫茶店から少し過ぎたところにある交差点を使ってUターンしたばかりか、カフェの駐車場に入ってきた。 真奈美はちょっと気恥ずかしそうに、夫よ、と声を潜めた。程なくしてカフェに入店してきたのは、見るからに営業の 途中だろうというスーツ姿の男だった。店員の声を無視して大股に歩いた男は、真っ直ぐに真奈美の元にやってくる と、紀子を見下ろしてきた。表情こそ平静を保っていたが、眼差しには明らかな敵意が宿っていた。

「どうしたのよ、凪。まだ仕事の最中でしょ?」

 真奈美が問うと、男、白崎凪は照れ笑いしつつ紀子を窺ってきた。

「いや、そこを通り掛かったらマナがいるのが見えたもんだから、つい。で、そちらは?」

「親戚の子よ。末継紀子さんといって、そこの砂浜で偶然会ったから、お茶していたの」

 真奈美に紹介されたので、紀子は一礼した。

「どうも、末継紀子です。初めまして」

「そうですか、家内の御親戚でしたか。白崎と申します」

 すると、白崎の目から敵意が消えた。我に返ったのか、白崎は腕時計を見て慌てた。

「ああ、まずい。じゃあまたな、マナ」

「はいはい。次の営業先をお待たせしないでね」

 真奈美が手を振ると、白崎は店員に侘びて足早にカフェを出ていった。本当に予定が差し迫っていたらしく、直後に エンジン音が聞こえ、白崎の社用車が発進していった。真奈美は夫の車を見送っていたが、ふう、と小さくため息 を吐いてコーヒーを飲んでから、困ったように肩を竦めた。

「あの人ったら、いつもこうなのよ。だから、遠出とかもあんまり出来なくてね。たまーに一人でふらっと適当な場所に 行きたくなる時があるんだけど、下手なことを起こしたくないから、まあいいかって我慢するの。どうしても行きたいな って思ったら、若い女の子みたいな声を出してあの人に甘えるの。そうすると、すぐに連れて行ってくれるの。要するに 凪の視界にさえ入っていればいい、ってことだからよ。不自由だと感じる時もないわけじゃないけど、十年も経つと そういうのが私の普通になっているから、もうなんとも思わないわ。浮気だってされないしね」

 真奈美はくすりと笑ったが、紀子はそんな気にはなれなかった。けれど、真奈美が幸福であることには変わりない ので、その場は調子を合わせておいた。その後、話したいことを思い切り話してから、紀子は真奈美と別れて車を 走らせた。せっかく冬の日本海まで来たので家族にカニでも買って帰ろうと思い立ち、漁協センターを探した。看板を 辿るとすぐに見つかり、それなりの値段で良さそうな品が売っていたので買い込み、氷が詰まったトロ箱に入った ズワイガニをトランクスペースに詰め込んだ。
 その足で実家に帰った紀子は、翌日も休日であることをいいことに久々に顔を合わせたガニガニと戯れた。彼は 雑食なのでズワイガニも喜んで食べてくれ、硬い殻までもを噛み砕いていた。夕食を終えた後、晩酌しながら両親にも 後輩のことを話してみたが、真奈美と意見はそれほど変わらなかった。鉄郎も融子も、紀子がゾゾに対する思いを保った ままでいることが不安らしかったが、それを口にすることはなかった。
 水槽の中でがさごそと動き回るガニガニを小突き、構ってやりながら、紀子は葛藤した。ゾゾを愛し続けていること が、まるで罪悪を犯しているかのような気分になってきたからだ。両親が寝静まった後、ガニガニにだけはその心中 を吐露すると、ガニガニはこつこつと水槽を叩いて紀子を励まそうとしてくれた。それが嬉しい一方、ガニガニにまで 気を遣わせている自分が情けなくて恥ずかしくて、何年か振りに泣きながら寝入った。
 幸せとは、何なのだろう。







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