あたしが誰に、と聞く前に、律子は続ける。
困ったように眉を下げながら、茶化すように笑っていた。

「後夜祭の時に、同じクラスの子から」


「…てっきり私は、三男坊かと思ったわ」

と、どこか拍子抜けしたように鈴音は呟いた。あたしもそう思っていたけど、深読みし過ぎたのかもしれない。
ディフェンサーは、律子にコマンダーになれ、という逆指名をしただけなのだから。恋心の告白じゃない。
律子は俯き、軽く手すりに寄り掛かった。

「私はその人のこと好きでもなんでもなかったし、困っちゃったから、すぐに断ったの」

体の前で手を組んだ律子は、腕で広がるスカートを押さえた。
ほんの少しヒールの付いた黒いローファーを履いた足をクロスさせ、目を伏せる。

「だけどね。その後から、なんか、おかしいの」

「ディフェンサーが？」

あたしが言うと、律子は悲しげな口調になる。

「うん。まともに話してくれないし、その理由を聞こうと思っても、すぐにどこか行っちゃうし」

もう一度深くため息を吐いた律子は、消え入りそうな声を洩らす。

「やっぱり、いけなかったのかなぁ。コマンダーになれ、って言われて、考えさせてって返しちゃったの」

「そりゃ当然の答えよ。由佳と私の場合は、成り行きだったんだから」

鈴音が言うと、律子は更に困ったような顔になる。

「それでね、コマンダーって、なんだろうって一杯考えてみたの。だけど、結局解らなかった」

「あたしも解らないよ。この間、マリーさんはそこまで話してくれなかったから」

コマンダーが何なのか。結構長いことやってるくせに、あたしにもそれはさっぱりだ。
指揮を執らせるわけじゃないし、彼らは絶対的に服従する訳じゃない。上下関係にしては、かなり緩い関係だ。
マスターコマンダーの考えが理解出来ないから、なぜ彼がこんなシステムを付けたのかも解らない。
それよりも、そもそもパル達に意義を与える、というところからまず解らないのだ。
存在意義を与えることは確かに大事だけど、なぜそこから、上下関係に移行しなきゃならないんだろう。
だめだ、あたしの頭じゃさっぱり答えがまとまらない。大天才の考えることは、少しも理解出来ないや。
律子はぎゅっと両手でスカートを掴み、唇を噛んでいた。相当に考えたらしい。

「ホントに、私なんかのどこがいいんだろう」

「りっちゃんは、いいとこ一杯あるよ。可愛いし、あたしよりも頭良いし、決めるところは決めるし」

これは、あたしの本心だ。肝心なところで煮え切れない、あたしとは大違いだ。
だけど律子はそうは思っていないようで、まさか、と目を逸らす。

「私は、誰かの上に立つなんて無理だよ。コマンダーって、司令官て意味でしょ？　そんなの、出来ないよ」

「司令官、ねぇ」

細く形の良い顎に指を添え、鈴音はマスカラで黒々とした長い睫毛を伏せた。

「そんなに御大層なもんじゃないわ、コマンダーって。私達が持ってるのは、ちょっとした命令が出来る権限だけよ」

「パルも、そんなに絶対服従してるってわけじゃないし」

むしろ、近頃はあたしに逆らいまくりだ。戦ったし、キスまでされたし。ちょっと違うか。
あたし達の答えで更に考え込んでしまったのか、律子は両手を頬に当てて唸る。

「ますます解らなくなっちゃった…。でも、なんで私なの？」

「そりゃあ」

あたしは、これしか思い当たらなかった。

「ディフェンサーが、りっちゃんを好きだからでしょ？」


律子の目が大きく見開かれ、小さな唇が半開きになる。そのまま、ぱかんと広がった。
鈴音もあたしと同じように思っていたのか、うん、と頷く。
みるみる頬が赤くなってきた律子は、ぐいっと一度頬を横に引っ張ってから元に戻す。

「…そうなの？」

「どっからどう見たって、三男坊は律子が好きでしょ。傍目に見てても、よーく解るわ」

にやりとしながら、鈴音は律子の額を指先で小突く。

「見てるこっちが、じれったくなるぐらいにねぇ」


「そういえばさあ」

広場を見渡してみても、上を見てみても。目立つ黄色で、大きな両手両足を持った姿が見つからない。
自然公園に入ってからずっとディフェンサーが見当たらないことを、あたしは思い出した。

「そのディフェンサー、どこにいるんだろうね？」

「パープルシャドウ辺りに捜してもらう？　一秒もしないで居所掴めるでしょ、あいつなら」

と、鈴音が提案すると、律子は首を横に振る。

「いいよ、そんな。ディフェンサー君がいないのは、理由があるからだよ、きっと」

「ま、そのうち出てくるでしょ」

あたしは、どこまでも意地の固まりのようなディフェンサーにちょっと呆れてきてしまった。
まるで、小学生だ。自分が素直になれないから相手にそっけなくする、なんて。
コマンダー指名だって、律子が告られたから焦ってしまったんだろう。けど、だからってなんでそうなるんだろう。
解らない。あたしにも、さっぱり男心って掴めない。パルのもあんまり解らないし。
律子はまだまだ困り果てていて、とうとう鈴音に泣きついていた。鈴音は律子の頭を、よしよし、と撫でている。
あたしは展望台から広場を見下ろしていると、階段の上をするりと飛んでインパルサーが昇ってきた。横着な。
インパルサーは展望台のフェンスの向こう側で止まり、くいっと広場の方を指す。

「由佳さん。そろそろお昼ですし、シャドウイレイザー達も戻ってきましたので広場の方へ来て下さい」

「あの、インパルサー君」

鈴音の影から律子は顔を出し、インパルサーを見上げた。

「ディフェンサー君、まだ、戻ってきてない？」

「ええ。ですが彼のパルスは自然公園から出ていませんから、近くにはいますよ。呼びましょうか？」

と、側頭部に手を当てたインパルサーに、律子は凄い勢いで手を横に振る。

「いいよ、いいよぉ！　ちょっと、気になっただけだから！」

「何かあったんですか？」

首をかしげるインパルサーに、あたしは苦笑する。

「ちょっとね」

すっかりディフェンサーを意識してしまったのか、律子は困ったようにしながら頬を赤らめている。
その様子で察したのか、インパルサーは、ああ、と頷いた。物分かりが良い。
とん、と手すりに膝を付いた彼は、ぐるりと一度自然公園を見回す。そして、ある一点で視線を止める。
その先を辿ると、ガラス張りの大きな建物がある。あれは確か、熱帯植物が展示されている温室だ。
律子はじっとパルの視線の先を見ていたが、あたしに気付き、慌てて目を逸らしてしまう。

「私、先に戻ってるね」

あたし達に背を向けた律子は、急いで階段を下りていく。転ばないようにしながらも、急いでいる。
だんだん下に降りていくその姿を見つつ、鈴音はまたにやりとしていた。

「イエローフォトンが惚れるのも解るわぁ。可愛いもんねぇ、律子」

「だよねぇ」

あたしにも、それは解る。本当に、りっちゃんは可愛いから。
インパルサーは律子が降りていくのを見送ってから、手すりから降り、あたしの隣に立った。
相当マリーにディスクを当てられたのか、所々汚れている。塗装も、うっすらとだけど剥がれている部分がある。
あたしはパルのスカイブルーの胸板に付いた細い掠り傷を撫でながら、つい同情してしまった。

「…ご愁傷様」

「すっごく痛かったです。あの人、本当に僕達のお母さんなのでしょうか…」

泣き出しそうな声を洩らし、インパルサーは肩を落として翼もへたれさせた。かなりショックだったらしい。
あたしはどう慰めていいやら解らず、とりあえずパルの右肩の００２辺りを叩くしかなかった。
インパルサーは泣きたいのをなんとか堪えている。だけど、しゃくり上げてしまうのか、時折肩が上下している。
久々に、めちゃめちゃ情けない。




広場に隣接された建物に入ると、中はホールのようになっていた。
テーブルと椅子が並び、既に数組の家族連れがお弁当を広げている。その近くに、皆が集まっていた。
大人数、プラスロボットはやっぱり目立ってしまう。家族連れの子供達が、まじまじとロボット兄弟を眺めている。
一番人気はどういうわけだか、クラッシャーだった。一番小さいし、浮かんでいるからだろうか。
クラッシャーはにこやかに子供達へ笑顔を振りまいていたが、あたしに気付いて片手を挙げる。

「おねーさぁーん」

するっと近寄ってくると、満面の笑みで後方を指した。

「凄いんだよー、あっちの方！　綺麗なお花がわーってあって、全部ピンクでさぁ！」

「撮影は、しておいたでござる」

運動会で使っていたものと同じカメラを掲げたイレイザーに、涼平が嫌そうな顔を向けた。

「神田とクー子ばっかりだったじゃねぇか。偏りすぎだぜ、お前」

「おぬしは、撮ってもあまり面白みがなさそうだったのでござる」

にやりとしながら、イレイザーは涼平を見下ろした。まだ、いっちゃんは涼平を敵対視しているらしい。
涼平は怒るより先に呆れてしまったのか、深くため息を吐いて肩を落とす。

「…付き合ってらんねぇ」


「葵さん。お弁当箱、持って頂いてありがとうございました」

テーブルの一番奥に座る神田へ、インパルサーは敬礼する。神田は振り向く。

「他にやることもなかったし、やれることもなさそうだったからな」

「日陰者人生」

神田の隣で足をぶらぶらさせていた、さゆりが呟いた。神田は、がっくり項垂れる。

「お前なぁ…」

「そのうちいいことがありますわ、葵さん」

コーラの缶を両手で持ち、マリーが微笑む。それを飲んでから辺りを見回し、あら、と首をかしげた。

「フォトンディフェンサーが戻ってきませんわね」

「放っとけ」

皆の座っているテーブルの少し後ろで、リボルバーが胡座を掻いていた。
ボルの助もまた、インパルサーと同じように所々塗装が剥がれている。片目のゴーグルも、薄い傷がある。
それをごしごしと拭ってから、リボルバーは目線を皆から外す。向けた先は、温室のある方向だった。

「気が済んだら戻ってくるだろ。あいつぁ、変なところで気難しいんだよなぁ」

「全く持って、黄の兄者は素直でないでござるからな」

「そーそー。後方支援、まともに受けようとしないしー」

あたしの隣で、クラッシャーが頷く。

「なんでもかんでも、一人でやろうとするクセがあるんですよ。今は、そうでもありませんけど」

テーブルの上に置かれたお弁当箱の包みを開き、インパルサーは五段重ねの重箱を分離させた。
色とりどりのおかずが詰め込まれたそれを、とんとんとテーブルへ並べていく。

「一発逆転が出来るほどの戦闘能力は認めますし、不利な状況も打破出来る実力があるとは解っていますけど」

「そいつがまた、危なっかしいわけさ」

と、リボルバーがにやりとした。こういうときは兄貴らしいぞ、ボルの助。
紙皿と割り箸を並べながら、インパルサーは頷く。包んでいた布を畳みながら、呟く。

「少しは、僕らを頼ってほしいです。兄弟機なんですし」


インパルサーの作ったお弁当は、いつものようにおいしかった。
定番の卵焼きにミートボール、良い色に揚がっている唐揚げにふっくらした油揚げに包まれた五目稲荷。
他にも色々あったけど、とにかく全部おいしかった。さすがにパルだ。
律子は二つめの五目稲荷を食べていたが、その手を止め、マリーへ顔を向けた。

「あの、マリーさん？」

「なんですの？」

唐揚げを食べていた手を止め、マリーは箸を置いた。この人は本当によく食べる。
律子は思い出したようにメガネを掛けてから、一息吐く。

「コマンダーって、一体なんのためにいるのかなぁって思って」

「そういえば、この間話すのを忘れていましたわね。つい、レイヴンのことばかり話してしまいましたし」

二本目の缶コーラを開けて飲んでから、マリーは返す。これでよく太らないなぁ。

「そうですわね…。簡単に言えば、あれは呪縛なのですわ」

「呪縛？」

サラダの入った生春巻きを食べ終えてから、鈴音が言う。マリーは頷く。

「ええ。コマンダーシステムそのものが、彼らマシンソルジャーへの呪縛なのです」

一度ロボット兄弟を見回してから、マリーは続ける。

「彼ら五体は感情と記憶と共に、明確な自我を持っている。自我があるとなれば、いくら戦っても自分達を少しだって褒めてくれない、労ってもくれない上官に対して、嫌悪を感じるのは時間の問題ですわよね？」

「うん。だから私、マスターコマンダーはきらーい」

少し後ろで浮かんでいたクラッシャーが、腕を組む。マリーはそちらへ目を向ける。

「なのになぜ、あなた方はレイヴンを倒そうとはなさらなかったの？」

「そりゃあ決まってる。マスターコマンダーの近くじゃ、オレらの武器はちぃとも作動しねぇからだ」

と、リボルバーが言うと、マリーは両手を組んでその上に顎を乗せる。

「性能的に考えれば、あなた方が素手でレイヴンを倒せなくはありませんわ。なのに、しなかったのはなぜ？」

「それは…拙者達は、マスターコマンダーに逆らえば己を消されると知っていたからでござる」

苦々しげに、イレイザーは表情を歪めた。

「例え逃げたところで、コマンダーを見つけられなければコアブロックは初期化されてしまう。記憶も感情も、全て失うと知っていたから、逃げることも出来なかったのでござる」

「そういうことだったんですか」

インパルサーが顔を上げると、マリーは頷く。

「ええ。その畏怖と恐怖こそが、あなた方に逆らう気も逃げる気も起こさせないための、強力な呪縛なのですわ」

「じゃあ、やっぱりコマンダーは良心の呵責なのかもねぇ」

そう、一人解ったように鈴音が言った。あたしには、さっぱり解らない。

「鈴ちゃん、それどういうこと？」

「だって、記憶も何も自動的に消せるんでしょ？　本当に冷酷だったら、逃げた時点で即座に消すと思うのよ」

お茶の入ったペットボトルを手にし、それを飲んでから鈴音は続ける。

「救いがあるもの。たった一日とはいえ、猶予もあるわけだし。それって優しさか、良心の呵責だとしか思えないの」

「いっちゃん達が、マリーさんとマスターコマンダーの子供みたいなものだから？」

と、さゆりがマリーへ顔を向ける。マリーは、笑う。

「だとしたら、この上なく嬉しいですわね。いえ、例えそうでなくとも、そう思うことにいたしますわ」


「でも」

俯きがちに、律子は呟いた。

「その、消えちゃう恐怖がなくなった今は、コマンダーって本当に必要なのかな？」


「フォトンディフェンサーと似たようなこと言いやがるなぁ、リツコさんよ」

ちらりと鈴音へ目線をやってから、リボルバーはにっと笑った。
きつい印象のあるライムイエローの目を細め、がん、と自分の胸を叩く。

「オレの場合は口実だったんだがな。コマンダーっつうのは、スズ姉さんの近くに行くための手段でしかなかった」

「目的のためには手段を選ばず、ですか。あなたらしいですね」

笑いながら、インパルサーはリボルバーへゴーグルを向けた。
だけどそれをすぐにあたしへ向け、レモンイエローの奥のサフランイエローを少し強める。

「僕は、偶然でしたけど。けれど、あの時は忘れられません。消去の恐怖から、解放された瞬間の安堵感は」

そう改めて言われると、嬉しいけど困ってしまう。
あの時はただ、インパルサーの名前を省略しただけだったのに。パルはそんな気持ちだったのか。

「私とイレイザー兄さんは成り行きだったよねー。涼とさっちゃんが、新しい名前付けてくれたのって」

クラッシャーが言うと、イレイザーは頷いた。

「うむ。だがきっと、こうなるべくしてなったのでござろう。今となっては、そうとしか思えぬでござる」

「オレのは事故だけどな」

そうは言いながらも、涼平はどこか嬉しそうだった。さゆりは、神田を見上げる。

「お兄ちゃんがシルバーレイヴンにナイトレイヴンて名前を付けたのも、そうなのかもね」

「ああ、かもな。偶然にしちゃ、ちょっと出来すぎてる気もしないでもないけど」

偶然じゃなくて必然だったのかもな、と、神田は笑った。
あたしは、食べるのもやめてぼんやりしている律子が気になった。まだ、考えているらしい。
しっかり味の染みた五目稲荷を食べながら、あたしはなんとなくディフェンサーの考えが解ったような気がした。
ディフェンサーは、どちらかというとインパルサーより、リボルバーに似ているフシがある。
ボルの助よりはまだ歯止めが効いているけど、直情型なのは変わりない。口も悪いし。
だから、考え方もボルの助に近いのだとしたら。きっと、コマンダー指名は律子に近付く口実なのだろう。
もっと、他に方法はあるはずなのに。やっぱり、ディフェンサーもかなり不器用だ。
おまけに、相当な意地っ張りときている。こんなんじゃ、律子が戸惑って当たり前じゃないか。
揃いも揃って、ホントに器用じゃない兄弟だ。




「と、思うわけよ」

温室の中だからか、あたしの座っているベンチは多少しっとりしている。
背の高い植物の隣に立つインパルサーは、あたしの考えを聞き終わってから、はあ、とだけ返してきた。
背後を流れる人工滝の水音に掻き消されないように、少し声を大きくする。

「なんでこう、ホントにあんたらって兄弟はもう」

お昼時だからか、高山植物をメインにしたこの温室にはあまり人がいなかった。
この隣が、ディフェンサーのいる例の熱帯植物の温室だ。ちょっと距離があるので、渡り廊下で繋がっている。
それをいいことに、あたしはインパルサーに話していた。ディフェンサーと律子のことについて。
インパルサーは突っ立ったまま、がしがしと頬を掻く。湿気で、彼のゴーグルがぼんやりと曇っている。

「確かに口実だということはありそうですけど、なぜ由佳さんがそんなことを僕に言うんですか？」

「…なんとなく」

あたしはつい、いつものクセでインパルサーを引っ張ってきてしまったことを、少し後悔していた。
これじゃ、デートの誘いだ。いや、実際デート状態になっているけど。
時間が経つにつれて湿気が溜まってきてしまったのか、インパルサーのゴーグルはどんどん白くなる。

「こういうところじゃ、あまり気分は良くありませんね」

ゴーグルをヘルメットの中に収納し、マスクを挙げて中の顔を露わにする。口元が、嫌そうに曲がっていた。
マスクの中に溜まった湿気が気になるようで、パルはごしごしと手の甲で頬を擦った。

「錆びちゃいそうで好きじゃないんですよね、湿気って。良くこんな所に、フォトンディフェンサーは…」

「使う？」

「あ、すいません」

あたしが差し出したハンカチを受け取り、彼は白銀色の顔を拭い始めた。
マスクの裏側や、ヘルメットから目元へ出したゴーグルの裏側まで丁寧に拭っていく。
またあたしに戻ってきたハンカチは、すっかり湿気っていた。

「そんなにすぐ、溜まるもんなの？」

「溜まりますよ。本当なら口の中も水気を出しておきたいところなんですけど」

嫌そうにしながら、パルは口元を広げた。中には、ちゃんと舌がある。
よく見ると、ちゃっかり歯も上下にあったりする。使う用途なんてなさそうなのに。
あまり色の良くない舌を、指先で軽く擦ってから取り出した。

「戦闘でもあれば、ボディが過熱するのですぐに蒸発してしまうんでしょうけど…そうも行きませんしね」

「ていうかさぁ」

「はい？」

きょとんとしながら、パルはあたしを見下ろした。手招きすると、素直に屈んでくれた。
細みの頬を掴んで口の端に親指を突っ込み、ぐいっと横に開かせる。柔らかい金属は、何度触っても不思議だ。
あたしの両手によって半端に口を開かされた状態で、パルは訝しげに呟く。

「由佳さん、僕で何をしたいんですか…？」

「あー、まただ」

「何がですか？」

「パル、口のとこいじっても声が籠もらないよねぇ。口の中で響かせてないから？」

この間から、これがちょっと不思議だったのだ。
人間だと、こうされてしまうと言葉が不明瞭になるけど、パルはそうならないから。
インパルサーは口元を広げられたまま、言う。

「ええ、そうです。発声用のスピーカーなどは全て胸部に入っていますから、口はあまり関係ありません」

「そか、納得した」

あたしが手を放すと、横に伸びていたパルの口元が元に戻る。本当に不思議だ。
薄く形の良い唇が締められて、中身の歯や舌も隠れる。やっぱりそれ、いらないんじゃないのか。
身を引いて立ち上がったインパルサーはしばらく口元を押さえて、目線を逸らす。

「それを知りたいがためにですか？」

「うん。不思議なんだもん、パルって。どこがどうなって動いてるのか、あたしにはさっぱりだし」

さっきのあれは、純粋な好奇心だ。パルは口元を押さえていた手を外し、困ったような目をする。
太いマリンブルーの指先で軽く頬を掻きながら、目を逸らしてしまった。

「ですけど、だからって…」

「嫌なら嫌と言えばいいでしょ」

「いえ、その」

そう呟いたインパルサーは、曖昧な表情になる。笑っているのか、困っているのかどっちなんだ。
背を曲げて、あたしを真上から見下ろした。影が出来て、パルの目の光が強く見える。
湿気と元々の温度でひんやりしている、彼の指が軽く顎と頬に添えられ、上向けられた。
あたしは真っ直ぐにパルを見上げながら、ちょっと思ってしまった。

「あのさぁ、パル」

「なんでしょう」

悪気のなさそうな笑顔で、パルは目の前に寄る。
あたしはその顔をもう一度ぐいっと横に引っ張ってから、手を放した。

「一度踏ん切りが付いたからって、ちょっと調子良すぎない？」

「僕もそう思います」

そう笑ってから、彼はあたしを引き寄せようとした。が、その手が離れる。
直後、がばっと遠のいて、すぐさまマスクを閉じてしまう。今度は一体何なんだ。
ちょっと湿気が移ってぺったりした顎と頬を擦っていると、インパルサーの顔が出入り口の方へ向く。
ドアが開かれ、中の様子を探るようにしながら、律子が入ってきた。そうか、このせいか。
律子はあたしとインパルサーに気付くと、申し訳なさそうに軽く肩を竦めた。

「もう少し、後の方が良かったかな？」

「あ、いえ、その、別に僕は！」

思い切り上擦った声を出しながら、インパルサーは手を横に振り回す。否定しすぎだ。
律子はドアを閉めてから、通路を歩いてやってきた。順路と書かれた立て札を確かめてから、通っていく。
あたしの前を通り過ぎたが、律子は振り返る。

「私、決めたの」

気恥ずかしげにしながら、少し曇ったメガネの奥で笑う。



「ディフェンサー君の、コマンダーになる」



「いいんですか？」

そうインパルサーが言うと、律子はこくんと頷いた。

「うん。なんで私なんか選んだのかは解らないけど、せっかくディフェンサー君が選んでくれたんだし」

ぐっと両手を握り締め、律子は意気込む。うん、ともう一度頷いてから、小走りに通路を走っていった。
あたしは三つ編みの揺れる律子の後ろ姿を見送ってから、なんとなくインパルサーを見上げた。
ついさっき、あれだけきっちり拭いたのに、またゴーグルの中が曇ってきている。難儀なことだ。
湿気が籠もるのが耐えられないのか、インパルサーはまたマスクを開いた。

「どうします？」

「どうするって？」

「わざわざ近付くのは趣味が悪いですけど、ここにいても充分聞こえますよ」

にんまりとしながら、インパルサーは軽く側頭部に指先を当てた。そういえば、感覚とかが凄かったっけ。
だけど、ちょっと渋ってしまった。遠巻きだけど、他人の会話を聞くことには変わりない。
けど、気になると言えば気になる。ああもう、好奇心って。
どうしようか迷っていると、肩に手を回されて、パルの胸に押し当てられてしまった。
スカイブルーの胸板も、案の定しっとりしていた。服に水分が移ってしまう。
エンジンの入っている部分から弱い熱を感じていると、その奥から、パルの声が聞こえてきた。

「こうすれば、外部に音を漏らさなくて済みますし」


あたしは頷き、ぺたりとインパルサーの胸に耳を当てた。ちょっと冷たい。
上目に彼を見ると、どこか満足そうにしている。もしかして、いや、もしかしなくても。
これがやりたいがために、わざわざ盗み聞き出来ることを言ってきたんじゃないだろうか。
填められた。ていうか、填めるより前に行動されちゃったけど。
左肩から背に手を回されて、軽く引き寄せられた。もう一方の手も、空いた肩に添えられる。
強くはないけど、しっかり抱き締められてしまった。こうなるともう、ダメだ。
今日一日はしないだろう、とは思っていたのに。こういう日くらいは、しないで済むと思ったのに。


一度でも、意識してしまうと。


声にならない声を洩らしながら、あたしはパルに体重を掛けていた。
それをよろけもせずに受け止められて、背中に置いた手にほんの少し力を込めて抱え込まれた。
思い出したように、いや、ずっと胸の奥にあるけど、ちょっと影を潜めていた痺れが戻ってくる。
痺れに混じる僅かな痛みがやけに心地良くて、消えてほしくないとまで思ってしまった。
胸板に比べて細めのパルの腰に腕を回し、その後ろで手を組んで離れないようにする。


しばらく、離したくなかった。





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