鬼蜘蛛姫




第十三話 裁かれぬ業苦



 次の逢瀬では、久勝はもう一つの鈴を千切った。
 それを八重姫に差し出し、そちらの鈴と糸を結んで繋げてくれと申し立てると、八重姫は恥じらいながらも了承して くれた。目に見えぬ糸で繋がり合った鈴を分かち合った時の幸福感は何者にも代え難い。こうして目に見えていても 触れ合えぬのが悔しくてどうしようもなく、行き場のない激情をぶつけてしまったこともある。八重姫もまた可愛らしい ことに久勝に寄り添いたいようだったが、決して近寄れなかった。どちらも異なる世界の住まう者同士であり、久勝 にすれば八重姫は幻影で、八重姫からすれば久勝は幻影であるが故の苦難だった。八重姫に預けた鈴はただの 鈴ではあったが、初めて出会った日に久勝の内に生じた恋情の凄まじさによって壁を乗り越えたらしく、その後も 鈴は八重姫の手の中にあった。けれど、久勝自身はそちら側に行くことは叶わず、八重姫もこちら側に至ることは なかった。どれほど恋い焦がれようとも、互いの手は擦り抜け、重ねた唇は空を切り、腕は風だけを抱いた。
 あの日、なぜ相見えることが叶ったのか。思うに、あれは久勝が図らずも鬼蜘蛛の八重姫に執心していたからで あろうと踏んだ。荒井家の在り方を根本から狂わせている悪しき蜘蛛であり、八重山の麓に住まう農民達の畏怖の 対象であり、みつが目にしているであろう薄膜の向こう側の住人が放った糸が、いつの頃からか久勝の心の奥底に 巣を張っていた。そうでもなければ、八重姫の姿を目にするのも叶うまい。

「なんと心地良い音かえ」

 八重姫は手のひらで鈴を転がすと、その儚げな音色にとろりと目を細める。出来るだけ八本の足を縮めて久勝に 近付こうとしているが、八重姫の下半身は久勝の跨る馬よりも大きいため、精々頭上に近付く程度だった。なので、 久勝は手近な木に昇って八重姫に近付くことにしていた。太い枝に腰掛けた久勝は、もう一つの鈴を手中で軽く握り 締める。よくよく目を凝らさないと見えないが、確かに二人の鈴は糸で繋がり合っていた。

「八重や。儂がそなたに相見えたい時は、鈴を鳴らそう。儂は近々荒井家を継ぐこととなっておる故、これまでほどは 山に登ってはこられぬかもしれぬからだ」

 久勝の提案に、八重姫は鈴と鈴を繋いでいる糸を指に絡めた。

「うむ。ならば、わらわがそなたに相見えたい時も鳴らしてもよろしいかえ?」

「無論だとも」

「まあ……」

 八重姫は花が開くように面差しを緩めたが、それを見られるのが恥ずかしいのか袖で隠してしまった。触れること さえ出来れば、その腕を押し退けて彼女の笑みを拝みたいものだ。久勝は歯痒さを噛み締めながら、僅かばかりに 手応えのある糸を指の間で撚り合わせた。強く引くと指も爪も骨も断ち切れてしまうかもしれないが、その危うさすら も恋しいと思うのだから不思議なものである。

「八重」

 久勝が笑みを押さえつつ声を掛けると、八重姫はおずおずと袖の下から顔を出す。

「なぜ、そなたはわらわを八重とだけ呼ぶのかえ」

「嫌なのか。ならば、どうお呼びいたせば」

「そうではない。そなたがその名でわらわを呼ぶようになってからというもの、わらわの心中は生まれてこの方感じた ことがないほどに凪いでおるぞえ。そなたと相見え、八重、と呼ばれるたびに肝が締め付けられてしまうえ。けれど、 なんだか嬉しゅうてならぬ苦しさなのぞえ」

「それは儂もだ、八重。そなたと出会えねば、儂の人生は重苦しいばかりであったであろう」

「出会うべくして出会ったのやもしれぬのう。わらわと久勝は」

 八重姫は両手を体の前で重ね、鈴を守るように手のひらを丸くした。久勝はその仕草を見つめ、今日はどんな話 をしてやろうかと思案した。八重山から外にほとんど出ない上に出会った人間をすぐに喰らう八重姫は、人間と会話 した経験は皆無であり、当然ながら暮らしや勉学については何も知らなかった。だから、久勝は八重姫に色々なこと を教えてやろうと以前にも増して勉学に励み、頭に知識を詰め込むようになった。おかげで八重姫を喜ばせてやる ことは出来たが、机に向かう時間が増えたためにあまり日に焼けなくなってしまった。更には、家臣達の目を逃れて 八重山に通っているので、誰かが付けてきてはいないかと不安になるあまりに挙動不審になってしまい、八重姫に 体が丈夫ではない上に気が弱い男だと思われてしまった。少々心外ではあったが、弁解するのは逆に情けないと 判断した久勝は笑ってやり過ごした。八重姫も久勝が久勝であればいいとさえ思っているらしく、これといって文句は 言ってこなかった。久勝もまた、八重姫が八重姫であるからこそ愛おしいのだ。
 八重姫にはどんな依り代を与えようか。それさえあれば、八重姫はこちら側に来られるかもしれないのだ。久勝は 悩みに悩んだ末、柘植の櫛を贈ろうと決めた。もちろん、妻として娶るつもりでいるからだ。もしも久勝がそちら側に 引き摺り込まれたとしても、兄もいれば弟もいるのだから、世継ぎの代わりはいくらでもいる。この戦国乱世である、 武士が一人二人姿をくらましたとしてもなんら不思議ではないだろう。その際に、当主同士が連ねてきた無益な呪い も断ち切ってやろうと誓っていた。あのマンダラゲの畑を焼き払い、蜘蛛の呪いを胸の内に収めてしまえば、今後は どんな女も毒殺されずに済むのだから。そんなことを考えながら、久勝は父親の旅に付き合って都に赴き、柘植の 櫛を買い求めた。八重姫の笑顔を見られるかもしれない、と淡い期待も抱いてすらいた。
 都から本条藩へ帰る道中で、荒井一行は城に立ち寄った。その藩は本条藩と大差のない規模の藩であり、荒井家 に長らく仕えている早川家に連なる血筋の武家が収めていた。城に身を寄せていた早川家の長女である咲と、 久勝は有無を言わさずに見合いの席が設けられた。都への旅に久勝を連れていったのは咲と見合いをさせるため なのだと悟ったが、はねつけることも逃げ出すことも出来なかった。確かに咲は美しい女ではあったが、所詮は人間 でしかないので八重姫の美しさには到底敵わなかった。床を共にせよと言わんばかりに同じ部屋に入れられ、布団も 並べて敷いてあったが、久勝は旅の疲れが出たと言い張って早々に寝入った。咲はしきりに久勝を誘ってきたが、 決して起き上がりはしなかったし、八重姫にだけ気持ちが向いているので欲情もしなかった。足が二本しかない女 のどこに色気があるというのだろうか、甚だ疑問である。
 それから、咲は荒井家一行と共に本条藩に戻ってきた。咲は早々に祝言を挙げたいようだったが、久勝にその気 が全くなかったために遅々として進展しなかった。咲にまとわりつかれてしまうために今まで以上に八重山に赴くこと が出来なくなり、日々を悶々と過ごしていると、病で伏せがちだった兄嫁のみつが病死した。久勝が毒を盛ったから ではなく、元々脆弱だった体の限界が訪れただけだった。ならばこのまま畳み掛けてしまえ、と思った久勝は、兄弟 の元に嫁いできた女達に少しずつ毒を含ませていった。そして、久勝の自由を戒める父親にも含ませてやり、順番こそ ばらばらであったが息絶えてくれた。立て続けの慌ただしい葬儀を全て終えてから、久勝は夕闇に紛れて城を 抜け出し、マンダラゲの畑に向かった。すると、そこには先客がいた。

「……何用か」

 面倒に思いながら、久勝が笠を上げると、マンダラゲの畑に立ち尽くしていた若き侍は即座に平伏した。

「御許し下さりませ、久勝様!」

 それは、早川家の跡継ぎであり咲の実の弟である、早川政充であった。帯びていた刀を抜いて辺りに投げ捨てて から、政充は畑の土に綺麗に剃り上げた月代を擦り付けながら土下座する。

「どうか、どうか姉上にはお目こぼしを!」

「政充。そなた、なぜ儂の畑を知っておる」

 どこで蜘蛛の呪いの実情が漏れたのだろう。久勝は音もなく抜刀し、政充の首根っこに切っ先を浅く載せる。

「あ、姉上から申し付けられておりました故。姉上はなぜ久勝様が床を共になさらぬのであろうと嘆いておりました。 そこで、無礼を承知の上で久勝様の後を追ったのでござりまする。そこで目にしたのが、この畑で……」

 久勝の切っ先が僅かに切った薄皮から、一筋の血と大粒の汗が滲み出してくる。

「して、どうするつもりだ。政充、そなたはこの畑で育っておるものが何なのか存じておるのか?」

「……唐渡りの書物に印されていた、マンダラゲかと」

 政充の首筋が、ひくりと引き攣る。久勝は刀をそのままに、政充の丸まった背を見下ろす。

「ならば、儂を強請るのか? さもなくば、早川家を家老にせよと申し立てるのか?」

「そのようなことは、決して、決して」

「ならば、何用だ」

 久勝は心の底から政充がどうでもよく、さっさと本題に入ってほしかった。顔形はいいかもしれないが好きでもない 女にまとわりつかれるのは厄介でしかなく、蜘蛛の呪いの延長で咲を毒殺しようと思っていたほどであった。だが、 咲は契りを結ぶどころか久勝と通じ合ったこともないため、呪いを受けるべき立場ですらないために、咲を殺すのは 不自然なことであった。故に、今の今まで堪えていたが、その弟にまでまとわりつかれては腹立たしい。どうせこの 畑は燃やしてしまうのだから、そのついでに政充を斬ってしまっても問題はないかもしれぬ。
 久勝は刀を振り上げかけたが、ふと思い直した。刀の動きを察知したのか、政充の肩がぎこちなく揺れる。久勝は 刀こそ収めなかったものの、政充に突き付けはせずに畝に向けた。

「面を上げよ」

 久勝が命じると、政充は脂汗を何滴も土に落としながら怖々と顔を上げる。

「政充、そなたに罰は与えぬ。この畑で見たものも、儂の所業も、そなたの愚行も、何一つ咎めずにおいてやろう。 だが、それは儂の命ずることを全て果たすと誓ってからだ」

 平べったく述べながら、久勝は美丈夫の侍を斬り捨ててやりたくなった。この場で斬ってしまった方が、余程政充の ためになるであろうに。政充は面差しにかすかな安堵を浮かべたが、久勝の二の句の意味を察して青ざめる。

「久勝様の御命令にござりまするか?」

「そうだ。では命じよう、そなたの胤で咲を孕ませよ」

「ですが、それはあまりにも!」

 腰を浮かせかけた政充に、久勝は切っ先を翻す。

「何、無理に押し通したいわけではない。嫌だと申すならば、ここでそなたの首を刎ねて楽にしてやろうぞ」

「う……」

 政充は荒く速い息を繰り返していたが、再び膝を付く。

「それで良い。ならば、続けて命じよう。儂が申し付ける相手を必ず死に至らしめよ」

「御承知、いたして候」

 政充は絞り出すような声で答え、土を握り締める。久勝は、それを少し意外に思った。

「政充。そなたは見上げた心意気の侍であるが、それ故に死を選びはせぬのか?」

「早川家には後はござりませぬ。故に、拙者は死を選ぶわけには参りませぬ」

「なるほど」

 久勝は刀を収めると、袖に手を入れて腕を組んだ。政充がどこまで忠義を尽くしてくれるのかは解らぬが、これで 久勝に成り代わって手を汚してくれる人間が出来た。咲には触りたいとも思わないので、孕ませられるのであれば 政充でなくとも誰でも良かった。こうしておけば、咲が産み落とすのは嫡男ではあるが荒井家の血筋ではなくなり、 政充に一言命じれば蜘蛛の呪いも少々形を変えて連ねていける。
 政充をマンダラゲの畑から追いやった久勝は、馬に跨ろうとして視線に気付いた。政充は既に遠のいているので、 政充のものではない。相手は久勝が気付いたことを察して即座に気配を消し、息も殺している。手練の侍とみて 間違いないが、誰の手の者なのかははっきりしなかった。父親は殺してしまったし、相次いだ葬式で兄弟も憔悴して いる。だから、久勝をやり込める余裕のある者などいないだろう。暗殺目的だとしても、一体何のために。こんな輩を 相手にしている暇があれば八重山に向かうべきだ。久勝は馬を操り、久方ぶりにあの山を目指した。
 ずっと、この柘植の櫛を渡したかった。柘植の櫛を通じて、八重姫の手応えを感じたかった。あわよくば、八重姫の 住まう世界に飛び込んでしまいたかった。胸が弾み、心が躍り、血が沸き立つ。久勝は顔すらも火照らせながら、 馬をひたすらに走らせた。普段であれば八重山に登っていくのだが、そんな余裕すらなかった。出来ることならば、 過去の自分に山に登れと怒鳴ってやりたい。手間さえ惜しまなければ、あんなことは起きなかったのだから。
 八重山の裾野に分け入った久勝は目を凝らして八重姫の糸を辿り、声を上げて彼女の名を呼んだ。懐に入れた 鈴を揺すぶって何度も鳴らしていると、木々のざわめきに紛れて同じ音が返ってきた。張り巡らされた糸がぴんと 伸び、縮み、確かな重みを持った者が糸を伝ってやってくる。久勝が満面の笑みを浮かべていたのと同じように、 上下逆さになって姿を現した八重姫も輝くばかりの笑顔を見せていた。

「ああ……」

 八重姫は着地して上下を正すと、久勝に近付いてくる。

「八重、八重、八重」

 久勝は彼女の名を呼びながら、懐を探り、柘植の櫛を差し出す。

「どうか、これを納めてはくれまいか」

「まあ、これは」

 八重姫は全ての目を見開いて動揺したが、頬を朱に染めて櫛に手を伸ばしてくる。

「このようなものをわらわに授けるとは、そなたは怖いもの知らずぞえ」

「儂が八重を恐れるものか」

「ならば、いつわらわを」

 娶るのかえ、と可愛らしく小首を傾げて尋ねてきた八重姫に、久勝は答えようとした。だが、どこからか放たれた 数珠が八重姫の額に強かに命中し、触れた部分から焼け焦げて煙が上った。仰け反った八重姫は凄絶な叫びを 放って八本足をでたらめに動かし、苦痛と戦っている。久勝は八重姫を助けてやろうと手を伸ばすが、草むらから 飛び出してきた侍が久勝を押し退け、抜刀した後に八重姫を斬り捨てた。色鮮やかな着物が赤黒い血に染まり、 長い髪を広げながら首が宙を舞う。侍の肩越しに久勝が目にしたのは、脱力していく蜘蛛の下半身と首を求めて 不気味に手を蠢かせる上半身と愛する女の生首であった。

「やはり、久繁様の危惧していた通りであったか」

 その侍は振り返ったが、見覚えのない顔であった。荒井家に仕えている武士でもなければ、出入りしている武士 でもない。ならば、どこの誰だ。久勝が混乱していると、その侍は刀を振るって血を払う。

「拙者、佐々木長吉おさよしと申す。荒井家に嫁いだ、佐々木みつの弟にござりまする」

 言われてみれば、横顔にはみつの面影がある。長吉なる侍は八重姫を注視しながら、久勝を一瞥する。

「久勝様は姉上と仲がよろしかったと存じておりまする。姉上は浮世離れしたものを目にしておりましたが、拙者も 似たようなもので。それ故に、化け物退治の真似事などをしておりまする」

「化け物……?」

 八重姫のどこが化け物だ。怒鳴り返したかったが、久勝は体にまるで力が入らなかった。やっと八重姫と会えた というのに、柘植の櫛を渡せたのに、契りを結ぼうと申し出ようと思っていたのに。それなのに佐々木長吉は何もかも ぶち壊しにしてしまった。悲哀の後、絶望する段階を飛び越えて去来したのは憎悪だった。
 久勝が刀の柄に手を掛け、無防備な長吉の広い背に居合いを放った瞬間、八重姫の体が跳ね起きて獣の如き爪 を振り下ろした。前後から斬撃を浴びせられた長吉は間もなく絶命し、倒れ伏した。久勝はがくがくと震える手で 刀を鞘に収めてから、八重姫に笑みを向けようとした。自分の首を拾って首の根本に繋ぎ止めた八重姫は、久勝を 睨み付けてきた。どうやら八重姫は、久勝が仕組んだことだと思い込んだらしい。久勝はすぐに弁明しようとしたが、 八重姫ははらはらと泣きながら八重山の奥に去っていった。こんなはずではなかったのに、と崩れ落ちた久勝は 佐々木長吉の血溜まりに沈んでいる一束の髪を見つけた。それは長吉が切り裂いた八重姫の髪で、触れられぬ と解っていても手を伸ばさずにはいられなかった。すると、その毛束を抓むことが出来たばかりか持ち上げられ、 滑らかな指触りまで感じられた。その髪を握り締めた久勝は歓喜の中で思考し、ある結論に達した。
 それから、久勝は何人もの女を掻き集めて側室にした。基本的には手を出さず、気紛れに誘っては薬を飲ませて 蜘蛛に見立てて縛り上げ、その格好のまま貫いた。八重姫に出会って以来、久勝は八本足がなければ男がいきり 立たなくなったのである。それ故、見た目だけでも似せようと、女の胴を縄で巻いて梁から吊し、部屋の四方に縄を 張ってさながら八本足が生えているかのような形にした。八重姫とは程遠い醜悪な姿ではあったが、何もないよりは マシだったし、ある程度は反応した。おかげで、毒を含ませて寝入らせた女を貫けるようになったが、最後の最後で 萎えてしまうので誰一人として孕まなかった。政充は血を分けた姉を女として見ることが出来ないのか、あの出来事 から数年が過ぎても咲は孕む気配すらなかった。マンダラゲの畑は油を撒いて焼き払ったが、数株を城内にある 久勝の庭に植え付けた。城仕えの医者は蜘蛛の呪いの事情を知らなかったので、金を与えて追い払った。
 そして、四年前、久勝がマンダラゲの毒を含ませて寝入らせた咲の元に政充を連れ込むと、ようやく政充は男を 奮い立たせた。久勝は酒を傾けつつ、その様を眺めていた。政充は姉を穢している自分と、死にも匹敵する屈辱を 与えてきた久勝に恨み言を漏らしていたが、本能に負けて姉を貫いた。それから程なくして咲は子を孕み、産まれた のが菊千代、もとい糸丸であった。その間、一度も鈴を鳴らさなかった。政充に異母姉弟達を死に追いやらせて いる最中に本条藩に敗走してきた蜂狩貞元らの存在を知らされ、これは上手く利用出来ると鈴を鳴らした。そして、 本条城を訪れた八重姫に理不尽な事柄を頼み、敢えて怒りに駆り立てた。子を奪わせた。蜂狩貞元とその愛妾で ある妖狐もまた怒りに駆り立て、恨ませた。その恨みの渦に水神の叢雲や一つ目入道であろう丹厳が混じってきた のは予想外ではあったが、恨み辛みは重なり合った方がより業が深くなる。故に、事が進に任せておいた。
 さすれば、いずれ久勝と八重姫は。




 マンダラゲの毒が抜けた久勝が本丸に戻ると、家臣が近寄ってきた。
 久勝が側室に娶ると申し出た娘、玉が姿を消したのだという。家臣が用件を伝え、久勝と謁見するようにと言うと、 玉は身支度を調えてくると言って女中部屋に引っ込んだ。しかし、待てども暮らせども玉は出てこず、業を煮やした 家臣が女中部屋を覗くと玉は忽然と消えていた。荷物はそのままだったので、這々の体で逃げ出したらしい。家臣は 城中の者に尋ね回って玉の行方を捜したが、誰も荷物を背負った玉を目にしていないという。久勝に罰せられる かもしれぬと心なしか怯えた面持ちの家臣に、久勝は敢えて何も言わなかった。罰しもしなければ咎めもせず、ただ 一言、そうか、とだけ答えた。それがまた一層恐怖心を煽り立てたのか、まだ城内におるやもしれませぬ故、探して 参ります、と家臣は慌てて走り去っていった。
 本丸の自室に籠もった久勝は、小雨が降り始めた外界を見渡した。本気で女中の玉を娶るつもりでいるわけでは ない、玉に粉を掛ける素振りを見せておいて、玉の後ろに付いている蜂狩貞元を煽り立てたいのだ。八重姫と何度 となく接していたからか、久勝には常人とそうでないものを見分ける目が備わっていた。故に、一目見ただけで丹厳 も玉も常人ではないと見抜いていた。蜂狩貞元を目の当たりにしたことはないが、真夜中、城下町の騒がしさで目を 覚まして見下ろしてみたところ、鎧武者がガラクタばかりの百鬼夜行と競り合っている様を見たことがある。恐らく、 あれが蜂狩貞元その人なのであろう。あの男がどれほど久勝を恨んでくれたかは解らぬが、その恨みもまた久勝と 八重姫が近付くための糧となるのだ。

「もうすぐだ。この手で、八重を」

 久勝は両腕を広げ、込み上がる喜びに頬を緩めた。八重姫が佐々木長吉に斬られた際に落ちた髪の束は、今も 大事にしている。その髪を慈しみ、何度果てたことだろうか。あの日、八重姫の切れ端に触れることが出来たのは、 八重姫が久勝を恨んでいたからである。愛し合おうとも、思い合おうとも、見つめ合おうとも、狭まらなかった境界を 乗り越えられるのは憎悪という激情だけなのだ。そして、八重姫に糸丸という依り代を与えたのだから、こちら側に 至れるであろう。糸丸が久勝を父親だと認識させねばならないであろうが、その程度は造作もなかろう。
 やっと、愛する蜘蛛に手が届く。





 


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