城下町までは、まだまだ遠い。 体温もなければ息もしない体ではあるが、疲れを知らないわけではない。チヨは足を止めるまいと気を張りつつ、 ひたすらに前だけを向いて歩き続けていた。八重山から下りてから、麓の集落に立ち寄って農民達に尋ねてみた ところ、早川政充が糸丸を抱きかかえて馬を貸してくれと頼んできたそうである。政充が持ち合わせていた小太刀を 担保として与えられたらしく、その小太刀も見せてもらった。鍔の装飾も刀身の銘も覚えがあり、政充が帯びていた 小太刀に間違いなかった。政充の跨った馬は一直線に城下町へ向かっていった、とも教えてもらったので、チヨは その通りに歩き続けていた。歩くこと自体は苦でもなんでもないのだが、気が急いてくる。政充が乗っていった馬は ただの農耕馬なので早駆けするために鍛え上げられていないが、馬であることに変わりなく、チヨが一時間歩いて いる間にその何倍もの距離を駆け抜けていってしまう。追い付くにはやはり馬に乗るしかないだろうが、生憎、チヨは 農作業こそ出来ても馬に乗ったことはないので土台無理な話だ。 果たして糸丸は無事でいるのだろうか。政充は理知的で気性が穏やかな侍だが、どさくさに紛れて糸丸を攫って いったとなれば腹積もりがあるはずだ。本来の親の元に連れ戻す、というだけならばまだ許せなくもないが、荒事に 巻き込むつもりでいるとなれば、怒りが湧いてくる。糸丸を愛玩人形のように扱っていた八重姫にも苛立ちを感じて いたが、八重姫は自分なりに糸丸を愛していたし、糸丸もまたそんな八重姫を愛していた。根底からねじくれている 家族ではあったが、ねじくれているなりに平和であった。それがいつまでも続くとは思っていなかったし、いつか必ず 破綻する日が来るとも解っていたが、あまりにも急すぎる。どうして、誰も彼も糸丸の幸せを考えないのであろうか。 利発で聞き分けの良い幼子を健やかに育てようとしないのか。そう思うと、悔しくて涙が出てきそうになる。 「ええいくそうっ! 御侍ってぇのは偉いばっかりでろくなことしねぇいや!」 腹立ち紛れに毒突いたチヨは、弱気を振り払うために目尻に滲んだ涙を拭い去った。すると、涙よりも冷たい粒 が額を軽く叩き、視界に銀色の縦糸が入ってきた。弱い雨が降り出したようだ。 「叢雲様……?」 夫の気配を雨粒の中に感じたチヨが鉛色の空を仰ぐと、節くれ立った龍の腹が波打ちながら叢雲山へと向かって いる。チヨが両手を振り回してみせると、叢雲もまたチヨの気配に気付いたのか見下ろしてきた。冷ややかな山風 を渦巻かせながら降下してきた龍は、チヨの前に鼻面を寄せてくる。 「どげんして、おらを追ってきなすったん?」 チヨが嬉しさ半分戸惑い半分で問うと、叢雲は一度瞬きし、顎を開いた。 「チヨや。この者の名を呼んではくれぬか」 「これって……」 叢雲の下顎に収まっているのは、弱り切った鴉であった。チヨはそっとその鴉を持ち上げてみると、体温は亡きに 等しく、全身の羽根が膨らんでぶるぶると震えている。どう見ても瀕死の鴉でしかなく、鴉としか呼びようのない相手 である。だが、叢雲が連れてきたとなれば何かがあるのだろう。瀕死の鴉の羽根を広げ、裏返し、クチバシに触り、 足を確かめていくと、ふと気付いた。下クチバシの裏にある小さな傷の位置も形も、九郎丸のそれと同じだ。ならば、 この鴉の正体は九郎丸だというのか。だが、なぜ彼がただの鴉に成り下がったのであろうか。 「叢雲様、鴉どんはどげんしてこんげな格好になってしもうたん?」 チヨが鴉を懐に入れてやると、叢雲は長いヒゲを緩く波打たせる。 「この鴉が鴉天狗たり得ていたのは、この鴉が鴉天狗であれと思った者がいたが故。しかし、その者が果てた今、 その鴉が鴉天狗であれと思うておる者はおらぬ。遙か昔の鴉である、生き物としての限界は当に過ぎ去っておる。 妖怪として成り立つには、誰かが鴉天狗であれと思わねばならぬ。だが、我は常世の者故」 「そったらこと言うたら、おらも死んどるよ?」 首を傾げたチヨに、叢雲は眉間を顰める。 「だが、チヨは我らと異なり、血肉を得て生き長らえた末に死した魂を骸に入れておる。故に概念にあらず」 「……こっげん大事ん時に聞くのもなんだども、その、ガイネンってぇのはなんだいや? それが全然解らんすけん、 叢雲様のお話も頭にするっと入ってこねぇいや」 気まずげに目を伏せたチヨに、叢雲は少々考えた後に説明した。 「事象に対し、そうあれ、と人間が捉えたがために成される意識の形である」 「だから、それがどういうことなのかが解らんすけん」 「ならば、こう述べれば如何か。チヨや、おぬしは柄杓をいかにして用いる」 「柄杓ったらそら、桶から水を掬ってぱしゃーんと」 「ふむ。ならば、それ以外の使い方はあるまいな」 「まぁ、ねぇなぁ。水を掬ってそっから飲むこともあるけんども」 「それが概念である」 「……ええーと」 チヨはまだ理解しきれなかったが、叢雲の困り顔と向き合っていると、まだ解らないとは言い出せなかった。夫なりに 噛み砕いて説明してくれているのだろうから、無下にしてしまうのは胸が痛い。だが、チヨは学問もへったくれもない 生まれの娘であって、字も読めるものよりも読めないものの方が多い始末なのだ。頭を抱え、凍り付いたままの血を 巡らせるような気持ちで考えに考えたが、理屈で考えるのは無理なので感覚的に考えることにした。 「んーと」 チヨは辺りを見回し、遠くの畑の間にある井戸小屋を指した。 「そったら叢雲様、あの井戸に釣瓶を落っことすと水が跳ねるのもガイネンなんけ?」 「うむ」 「そったら叢雲様、この畑に作物が成るんはガイネンなんけ?」 「いや。それは人の手によるものである」 「そったら叢雲様、ぼさっとして歩いとると道端に落ちとる馬糞を踏んじまうんもガイネンなんけ?」 「いや……それは異なる」 「そったら叢雲様、こんな感じのぼってりした雲ん空から雨が降るなぁって思うのはガイネンなんけ?」 「うむ」 「そったら叢雲様、そこから叢雲様がいらっしゃるなぁってぇのもガイネンなんけ?」 「うむ」 「そったら叢雲様、あれがああしたらこうなるなぁ、ってなんとなく思うのがガイネンなんけ?」 「うむ。そう認識しておれば良い」 「そったらこったら、もっと早く仰って下さればええがんに」 結論に至るまでに遠回りしたためにチヨがげんなりすると、叢雲がヒゲを曲げた。 「それはチヨが我がそういう者であると認識しているが故に、我はそうなるのであるが」 「そうなんけ? ……まあええ、切りがねぇすけん」 とりあえず、まるで解らない状態ではなくなった。チヨは叢雲が教えてくれたことを、自分なりに消化してみることに した。つまり、そういうものだろう、となんとなく考えてしまうこと自体が概念となるのだ。意識して出来るものはそれと はまた異なり、そうなるべきだ、と無意識に結論付けてしまうようなものが概念なのだ。大根と言えば白くて太いあの 作物だと誰もが思い浮かべるのと同じことか、と叢雲に問うてみるとそうだと答えたので、チヨは一応飲み込むことが 出来た。叢雲がそうである理由も似たようなものだと理解出来るようになると、今度は疑問が降って湧いた。 それならば、八重姫は何なのだろうか。凶悪な人喰い蜘蛛妖怪であるのは自明だが、姫君という面もありつつも、 ぎこちなくも愛情深い母という側面も持っている。鬼蜘蛛の八重姫、と聞いてチヨが最初に思い浮かべるのはやはり 人喰い蜘蛛妖怪なのだが、姫君だと思い浮かべていた者もいたから姫君でもあったわけであり、糸丸が母であると 信じていたからこそ八重姫は母としての面も持つようになった。巣を成し、糸を広げるが如く、八重姫という概念は 様々な側面に繋がる糸を他者に結び付けながら、妖怪として成立しているようである。 「ん?」 チヨは八重姫の側面を指折り数えていたが、眉を曲げた。 「八重姫様って御殿様がお好きなんろ? それもまた、誰かが八重姫様にそうあってくれって思ったからなんろ?」 「うむ」 「だども、御殿様は八重姫様をお好きでないんろ? むしろ、憎んどるんろ?」 「うむ。だが、そうであるとは限らぬやもしれぬ」 「なんで?」 「我は男女の機微には疎くはあるが、憎悪は好意の裏返しであることもあり、その逆も然りであると存じている」 「てぇことはなんだいや、もしかすっと御殿様は、八重姫様がお好きだがんに憎んどる振りをしとるんけ?」 「そうやもしれぬ。男女の間柄は外側からは与り知れぬ故、当て推量の域は脱せぬが」 「そったらもう、ただの痴話ゲンカでねっか。付き合ってらんねぇいや」 「何故に」 「叢雲様はそったらことは解らんのん? まあ、なんていうか、面倒臭ぇっつうかで。痴話ゲンカってのは当人同士は 豪儀に盛り上がるんだども、外から見たらまぁー馬鹿馬鹿しいんだいや。ちっとのことでああでもないこうでもない、 ってどうでもいいことをいつまでもこねくり回しとってなぁ。見合いでねくって好き合って結婚したばっかの若夫婦に そんなんが多くてな、痴話ゲンカするたんびに仕事が疎かになるんだいや」 「それは難儀である」 「そんげなことのために、おら達は振り回されとったんけ? うあぁー……」 そうだと知ると付き合うのが面倒臭くなってきたが、今更放り出すわけにはいかない。チヨは気を取り直し、城下町に 向かおうと進みかけたが懐から萎びた鴉が滑り落ちそうになった。それを慌てて拾い上げ、背中に突き刺さる叢雲 の視線で夫の用件を思い出した。忘れていたわけではないのだが、考えることが多すぎて頭の奥に追いやられて しまっていただけだ。チヨは雨脚が強まり始めた空に近寄せるように鴉を高く掲げ、言った。 「鴉どんは、鴉天狗の九郎丸だいや!」 名前は概念に形を与えるためには不可欠なものであり、また最も強固な力を持つものでもある。その名を受けた 萎びた鴉はチヨの両手の間で膨れ上がり、抜け落ちていた羽根が蘇り、小柄ながらも骨太な体格となり、天狗の名 に相応しき行者装束を纏い、高下駄を履いて錫杖を手にした鴉天狗が出来上がった。それは以前と変わらぬ姿の ようではあるが、チヨの知る九郎丸とはどこかが違っていた。明確な理由までは突き止められなかったが、感覚的に 薄く違和感を覚える。しかし、九郎丸は九郎丸なのであり、何が違おうとも九郎丸は九郎丸でしかないのだ。 「よっ、とぉ」 かこん、と高下駄の歯で地面を踏み締めた九郎丸は、黒く丸い目を瞬かせてからチヨと叢雲を見やる。 「なんだぁおい、俺はどうしてお前さん方と連んでやがるんだ?」 「鴉天狗。おぬしは鬼蜘蛛の姫の姫足るものを斬り捨て、奪い去った末、姫足るものと共に果てかけたのだ」 叢雲が簡潔に事情を説明すると、九郎丸は一度目を閉じてから、開いた。 「で、この小汚ぇ小娘の言霊でもって俺を元通りにしたっつわけかよ。大きな御世話だ」 「叢雲様の御心遣いに文句垂れるたぁ良い度胸でねっか」 むくれたチヨが九郎丸を睨むと、九郎丸はクチバシを歪めて両の翼を下げる。 「お前さん方には解るめぇよ。俺がどんな思いで……」 と、九郎丸はチヨに食って掛かろうとしたが、言葉を続けられなかった。八雲姫が名実共に果て、現世からも常世 からも消え去り、八雲姫の思念に変わってチヨの言霊で再び鴉天狗としての姿を取り戻した九郎丸の内には、最早 八雲姫に与えられた情念や怨念はほとんど残っていなかった。荒れ狂っていた感情の余波がこびり付いているが、 それが何であるか、誰であるか、どんなことであったか、は思い出せなかった。一度粉々に砕けた茶碗をにかわで 貼り合わせると、形こそ元通りではあるが欠けた際に零れた粉微塵の破片までも繋ぎ合わせられないのと同じこと である。九郎丸は言い表しようのない感情の揺らぎを持て余していたが、深く深く息を吐いた。 「ちょいとばかし前の俺がしでかしたことは、思い出せねぇ方がいいのかもしれねぇな」 「おぬしがそう思うのであれば、そうなのであろう」 怨念から解き放たれた九郎丸に叢雲が呟くと、チヨははっとして九郎丸の袖を引いた。 「なあなあ鴉どん、城下町まで一っ飛び出来るろ!?」 「俺を何だと思ってやがる」 叢雲の目が気になってチヨの手を払うに払えない九郎丸が渋面を作ると、チヨは今更ながら慌てた。 「糸丸がな、連れ去られてしもうたんよ! 助けるの手伝ってくれいや!」 「糸丸……ああ、それは覚えとるがな、なんで俺がそんな腐れ仕事をしねぇとならねぇんだよ」 「こんの恩知らずぅ! 八重姫様にお仕置きされても知らんからな!」 「鬼蜘蛛の姫にちょっかい出すわけねぇだろうが。大体俺は」 再度、九郎丸は言葉を切った。口では否定しているものの、本心では過剰に執着していた相手だ。だが、八重姫 に執着していた理由が思い出せなかった。そうなると、鬼蜘蛛の八重姫に関わる理由がなくなったも同然だ。チヨを 蔑ろにするとその夫である叢雲が苛立つので無視するのは良くないが、進んで危ない目には遭いたくない。以前の 自分は己を犠牲にしてでも成し遂げたいことがあったようだが、今の自分はそうではないからだ。 「チヨや。あまり無理強いするのは悪かろう」 叢雲がチヨを諌めると、チヨは不満げだったが従った。 「叢雲様がそう仰るんだったら、仕方ねぇけんども」 「だったら俺は行くぜ、面倒臭ぇことには首を突っ込みたかぁねぇ」 と、言い捨てて翼を広げた拍子に、九郎丸の懐から糸巻きが転げ落ちた。九郎丸はそれを拾ってみたが、それが いつどこで手に入れたものであるかすら思い出せなかったので、厄介払いにチヨに押し付けた。 「そらよ」 二人に背を向けた九郎丸は翼を広げ、飛び去ってしまった。チヨは追い縋ろうと手を伸ばしかけたが、下げ、夫の ヒゲに手を添えた。雨脚はいつのまにか強くなっていて、叢雲の力が広がりつつあるのも感じ取れる。糸丸の行方を 案じるが故に夫を頼る気持ちが増したからだろう、叢雲の神通力が少しばかり底上げされたらしい。 「叢雲様。おらんことは、御心配せんで下せぇ。こっから先は、おらだけでなんとかしますけんに」 夫の愛情の如く優しく肌を濡らす雨粒を感じながら、糸巻きを抱えたチヨは右目を細める。 「しかし」 叢雲が不安げに瞼を下げたので、チヨはその鼻面に身を寄せる。 「八重姫様が色んな人の気持ちで出来とるみてぇに、今のおらは、叢雲様へのお気持ちと叢雲様からのお気持ちで 出来とるようなもんだすけん。神様でいらっしゃる叢雲様からしたら大したもんじゃねぇかもしれんけど、おらはその お気持ちがあれば怖くねぇんだ。御殿様も、八重姫様も、他の色んなことも。だから、信じておくんなせぇ」 「……うむ」 叢雲は口の先から先が割れた舌を出し、チヨの頬をつるりと舐めてから、巨体を下げる。 「そったら叢雲様、御留守番しとってくんねっか!」 チヨはそう言ってから、泥道を駆け出した。背後では叢雲が浮き上がり、分厚い雲間に馴染ませていく。その姿が 完全に消え失せる寸前に突風が起き、チヨの体が宙に舞い上がった。叢雲の仕業だ。いきなり高さが変わったので 戸惑いもしたがすぐに慣れ、追い風に乗ったチヨは叢雲へと大きく手を振った。夫は尻尾の尖端を振り返してくれ、 その姿が見えなくなるまで見つめ続けた。その気配が遠のいてから、チヨは唇を結んで城下町を見据えた。 どうせ、出来ることは限られている。だが、何もしないよりはいい。 11 12/10 |