鬼蜘蛛姫




最終話 絆されし魂



 雲間から差し込むのは、清浄な朝日であった。
 夜通し降り続いていた大雨が途切れ途切れになり、雷鳴もいつしか聞こえなくなった。吹き付ける風も次第に力を 弱めていき、朝日が昇る頃には柔らかな息吹のような風が残るばかりであった。狂乱の一夜が明けると、皆、現実 を目の当たりにせざるを得なかった。天守閣には大穴が開き、そこから吹き込んだ風雨によって蜂狩貞元と白玉の 残骸である灰は一粒残らず洗い流されてしまった。貞元に左腕を斬り落とされたばかりか、八重姫に肉を喰われた 荒井久勝の死体は二目と見られないほど無惨であった。あの後、八重姫がこれまでの恨みを晴らすべく久勝の肉を 喰い荒らしたので、雨水が多量に混じった薄い血溜まりには頭皮が貼り付いた空っぽの頭蓋骨と着物の切れ端が こびり付いた骨片ばかりであった。その骨が久勝であると示すものを与えてやるべく荒井家の家宝である名刀を 抱かせたのは、早川政充だった。愛想も何も尽かした主ではあるが、死した以上は弔わねばならない。
 泣き疲れて眠り込んだ糸丸を抱いているのは、八重姫の糸で右耳を繋ぎ合わされた政充だった。城内の者達は 蜂狩貞元によって魂を抜かれて死しているか、生きていてもマンダラゲの酒で正気を失っている者ばかりであった。 夜が明ける前に一通り調べ回ったが、その都度に気が滅入ってくるので、夜が明けるまでに本条城の現状を把握 するのを断念してしまった。辛くも生き延びた上に心も折れずに済んだのだから、また久勝の狂気に触れては心根 が傷んでしまいかねない。政充は城内を回る最中に掻き集めてきた着物とここ一月の賃銀と同額の銅銭を背負い 袋にまとめ、馬を見繕うべく厩舎に向かおうとして一旦足を止めた。

「チヨどの……」

 井戸端に座り込む娘を見、政充は渋面を作った。チヨは口の端で糸を噛み、目を丸める。

「ん? なんだいや?」

「己の手で己の首を縫い合わせるのは、如何なものか」

 世にも珍妙な光景に、政充は笑うべきか驚くべきか迷った末に困り果てた。血を吸って固まった着物を上だけを 脱いでいるチヨは娘らしい薄べったい背中を曝しており、その左手には糸巻きを携え、右手には糸の尖端を撚って 作った太めの針を持っていた。チヨはその針を行き来させて己の首を縫い付けており、既に三分の二は仕上がって いた。針を刺した部分にはもちろん血が滲んでいるのだが、痛みをほとんど感じないらしく、涼しい顔をして首の皮 に針を刺しては糸を通していく。
 数刻前には政充もチヨの手で右耳を縫い付けてもらったばかりか、チヨが呼び寄せて くれた叢雲から与えられた膏薬も入念に塗り付けてもらった。その際の、肉と皮に針を突き立てて糸を通す気色 悪い感触は当分は忘れられそうにない。血が出すぎているからとのことで痛み止めを口にするのは許されず、政充 はただひたすら布を食い縛って堪えたのだが、チヨは鼻歌すら零しながら己の首を縫っている。姿形は年頃の娘で あろうと、やはり彼女は妖怪に近しいのだと痛感する。

「自分で出来るこった、自分でせんとならんすけん」

 チヨは事も無げに言うと、桶に張った水鏡に己の首を映して縫い目の位置を確かめる。

「こんだけ大事になっちまったんだいや、叢雲様もこれから豪儀な目に遭うかもしれん。そったら、おらはちゃあんと 女房の仕事をせんとならん。だすけんに、首の一つや二つでガタガタ言っとったら神様の女房なんて務まらんて」

「そなたは強いな」

 色々な意味で、と付け加えずに飲み込んだ政充に、チヨは東の空から白む雨雲を見やった。

「そっけんことねって。おらもだども、叢雲様も、九郎丸も、八重姫様もだ。生きとる場所がほんのちびっとずれとる だけで、皆、こっちの人達となんも変わらんて。好きだって思われたら好きになって、嫌いだって思われたら嫌いに なって、恨んだり憎まれたら、恨み返したり憎み返したりするようになっちまうんだ。ガイネンが何なんかは今でもろく に解らんども、根っこは皆同じなんだいや」

「そうやもしれぬな。故に、鬼蜘蛛の姫は殿を」

 政充は、朝日を帯びて輝く天守閣を仰ぐ。久勝は八重姫に恨まれたがっていたのだから、恨まれて当然だ。

「こんな格好で失礼だども、早川様、どうか御達者で。糸丸んこと、よろしゅうお頼み申しやす」

 チヨは片肌だけ着物を着ると、首を押さえながら政充に一礼する。政充もまた、頭を下げる。

「拙者の方こそ、そなたとそなたの夫には世話になり申した。これからも、この地を守って下され」

 政充が顔を上げると、薄い影が掛かった。朝日を遮る雲の切れ端かと思いきや、川と等しい長さの体を持つ龍で あった。城下町を巡っていた叢雲は城内に戻ってくると、城全体に淀んでいる障気を逃がさないために取り囲むと 朝靄で柔らかく包み込んだ。叢雲は政充に鼻面を寄せてくると、口を開き、大振りの貝殻を数個転げ落とした。

「侍や、我の餞別である」

「先の膏薬でござるな。ありがたきことでござる、水神様」

 政充は袴が泥を吸うのも構わずに膝を付き、その貝殻を受け取った。叢雲は瞼を一度下げ、開く。

「解っておるではあろうが、今一度申そう。そなたが糸丸を連れてこの地から去ることにより、荒井家の因縁や怨恨と いった穢れもまた外へ運び出すこととなる。その氏の通りに早き川となり、ヒトカタともなろう。いかに故郷が恋しかろうと、 決して戻ってきてはならぬ」

「承知の上でござる」

 どうせ、早川家の墓には骨を収められない身だ。政充が地面に額を擦り付けると、叢雲はヒゲを波打たせる。

「その言葉を信じようぞ、早川や。振り返るなかれ」

「では、これにて失礼いたす。世話になり申した」

 政充は立ち上がると、叢雲とチヨに背を向けた。チヨが別れの言葉を言いながら手を振っていたが、中途半端に 縫い合わせていた首が外れかけたらしく、わひゃあ、との裏返った悲鳴が聞こえてきた。振り返りたい気持ちが少し 起きたが、振り返ってはならないと言われたばかりだ。あれは散々たる過去に縛られるなということでもあり、常世の 住人達に執心しすぎるな、という意味でもあるのだろう。鴉天狗が物見遊山に来たらしく、一の丸の屋根に高下駄 が噛んだ。じゃりぃっ、と錫杖が前触れもなく泥溜まりに突き刺さり、政充の行く手を阻んだ。

「おい、そこの田舎侍」

「……何用にござるか」

 さすがに驚いた政充が九郎丸を見上げると、瓦屋根に寝そべった鴉天狗は政充を見下ろしてきた。

「まともに死にたかったら、二度と俺らみてぇなのに近付くんじゃねぇや」

「言われずとも承知しているでござる」

「だったらいい。ああ、ついでに言っておくがな、さっき飛び回っている時にこんな旗指物を担いだ連中が八重山に 昇ってきてんのを見たぜ。だから、この土地を出ていくんだったら、八重山とは逆を行きやがれってんだ」

 そう言って、九郎丸は再び棒をぞんざいに投げ落としてきた。錫杖の隣に突き刺さった旗指物には、忘れもせぬ 蜂狩貞元の家紋が入った旗が結び付けられている。政充は心臓が縮み上がったが、それもまた当然の結果なのだ と思い直した。荒井久勝による蜂狩貞元への仕打ちは相当なものであり、怒りを買わない方がおかしい。これまで は政充が内密に動いていたがために火種が起きる前に消せていたのだが、今となっては手遅れだ。恐らく、貞元の 元部下達が黒須藩ごと有力な戦国大名の配下となった末、本条藩の藩領を奪い取ることを条件に弔い合戦を許可 されたのだろう。だが、政充は皆が逃げる手助けをする時間はない。精々、通り掛かった村々に兵隊が攻め入って くると触れ回ることだけだ。複雑な思いに駆られながらも、政充はその旗指物に背を向けた。
 厩舎の中でも活きのいい馬に付けた手綱を引き、背負い袋を背負った政充は、天守閣の裏手にある城の裏口へと 向かった。久勝が手入れしていた庭には屋根の破片が突き刺さり、瓦の破片が散らばっていたが、マンダラゲの 畑は酒に毒を混ぜるために一本残らず抜かれてあったので綺麗なものだった。城内に充ち満ちている妖怪の気配 に臆しがちな馬を急かしながら裏口に至ると、そこには我が子を抱いた母がいた。

「八重姫様。大事な御子息をお預かりいたしまする」

 政充は馬を繋ぎ止めてから、深く礼をする。肌を隠すために雨と血に汚れた白無垢を羽織った八重姫は、腕の中 で寝息を立てている糸丸を切なげに見つめた。完全に虫のそれとなった八つの目は、瞬きもしなければ潤むことも なかったが、薄い唇は引き締められて別れを惜しむまいという母の意地が見て取れた。八本足の生えた下半身を ずらして裏口の門へ至る道を示した八重姫は、首筋に浅い傷が付いた糸丸を差し出した。

「糸丸が目を覚ませば、わらわや他の者共のことは忘れておろう。そのような毒を与えておいたえ」

「御子息を名高き武士にしてみせまする」

 糸丸を受け取った政充は、八重姫と向き直る。八重姫は白無垢の襟元を合わせ、袖で口元を隠す。

「どうか、どうか生かしておくれ。久勝を喰った今、わらわは少し前までのわらわではなくなりつつあるぞえ。故に今の わらわは、糸丸の思うわらわぞえ。しかし、糸丸がわらわを忘れてしまえば、わらわを成しておる概念のほとんどが 霧散してしまう。それでも、わらわは糸丸を苦しめとうないが故に毒を注いだのえ。不思議だのう、今のわらわが死ぬ と解っておっても怖くもなんともない。それどころか、何か誇らしゅうてならぬえ」

「八重姫様は御子息の母上でござる。その思いに報いらんがため、我が命に代えても生かしてみせまする」

 政充は帯で糸丸を体の前に結び付けると、踏ん張って馬上に跨った。

「ならばその言葉、信じたぞえ」

 八重姫の真摯な眼差しが政充を捉えると、政充は頷いた。糸丸が寝苦しげにむずがったが、目を覚ます前に城 から脱するべきだと政充は馬を走らせた。裏門は既に破壊されており、外界への口を開けている。十中八九八重姫 の仕業であろう。馬の蹄が柔らかな土を噛み、濡れた砂を蹴散らす。裏門を通り抜けても尚、政充は振り返らずに ただひたすらに前進し続けた。城下町から脱し、八重山とは反対方向の道を辿りながら、道中の農村に入るたびに 兵隊が攻めてくると騒ぎ立てた。それに信憑性を持たせるために城からの早馬であるとも言い、戦に巻き込まれて はならぬと叫んだ。刀を帯びている馬上の侍からの言葉であるが故、農民達は素直に信じてくれた。土地に染みた 深き業は消えぬが、みだりに死者を増やさずに済めば、少しは業は緩くなるだろう。
 それから政充は走りに走り、いくつもの山を越え、早川家と近しい家系が収める城に助けを求めた。それは姉の 咲が嫁入り前に預けられていた城でもあったため、城主や家臣も政充の顔を覚えていてくれた。政充は糸丸を姉と 久勝の間の子だと伝え、それと同時に本条藩が落ちたことも伝えた。城内の者もほとんど死に、命からがら逃げて きたと右腕と右耳の傷を見せながら語ると、皆は政充の話を信じてくれた。三日三晩眠り込んだ末に目を覚ました 糸丸は窶れてはいたが、鬼蜘蛛の八重姫に育てられていたことを綺麗に忘れていたばかりか、政充を叔父上だと 呼んできた。それから、政充は城主の計らいによって家臣となり、糸丸は人懐っこい性格と頭の良さから乳母達に 好かれ、城主の妻達は荒事を起こさぬために敢えて糸丸には近付かずにいてくれた。
 あの凄絶極まる出来事はまるで悪い夢であったかのように、穏やかな時間は過ぎ去っていった。荒井家は滅びた がその名だけは残してやろう、との城主の計らいで、元服を迎えた糸丸は荒井久頼と名乗るようになった。政充は 城主や家臣達から嫁を取れと勧められるも、頑なに断り続けた。誰も罰してはくれないからこそ、己で己を罰する他 はないからである。それから数年後、戦乱とは縁遠かったその城にも戦火が及び、政充と久頼も出陣した。しかし、 相手は大きな戦を勝ち抜いてきた戦国大名であったため、針で槍に立ち向かうようなものであった。結果が芳しい はずもなく、城は焼き討ちされ、皆、散り散りになった。
 そして、久頼も政充と死に別れた。 




 計り知れない喪失感が、心身を鉛と化す。
 どこをどう歩いてきたのかは解らない。馬も途中で乗り捨て、兵糧も食い尽くし、仲間ともはぐれたままだ。山道に 慣れているが、行く当てもなく彷徨い続けるのは辛い。振り返ってはならぬ、前に進め、と斬り付けられて死に間際 の政充が叫んだ言葉を忠実に守り、歩き続けていたが最早限界だ。だが、膝を折った途端に背後に敵が迫ってくる かのような気持ちに駆られ、疲労が溜まりすぎた足が震えようとも、鎧の重みで背骨が折れそうであろうとも、片時も 足を止められなかった。
 物心付いた頃から傍にいた父のような叔父、政充が死んだ悲しみが癒える暇もなく、城の 皆の行方を案じる余裕すらなく、涙と汗を干涸らびさせながら、久頼は山を越え続けた。疲労のあまりに夢と現実の 狭間で意識を揺らがせながら久頼が思っていたのは、物心付く前に生き別れた母のことだった。政充に寄れば、 母は立派な女性ではあるが変わり者であり、それ故に世に馴染めなかった、とのことであった。それ以上のことは 聞いていないし、政充も決して話してくれなかった。顔も知らず名も知らぬ母ではあるが、ひたすら恋しいと思った。 そう思う度に目に入るのが、木々の間に巣を張っている毒々しい色味の女郎蜘蛛であった。
 木の根に躓いて転んだことまでは覚えている。それから気を失ってしまったらしく、目を覚ますと見知らぬ小屋の中 であった。当世具足は身に付けていたが、刀は外されていた。久頼は即座に起き上がって枕元の刀を掴もうとするが、 手に力が一切入らなかったが故に取り落とした。その激しい音で、小屋の隅にいた娘が振り返った。

「御侍様、お目覚めになられましたか?」

「おぬし、何者ぞ!」

 久頼は最後の意地で喚き散らすと、古ぼけた小屋に似合わぬ品の良い着物を着た娘は板の間に膝を付く。

「私、この近くの村に住んでおりまする、八千代やちよと申します。御侍様の御名前は」

「……荒井久頼」

「では、荒井様。白湯を持ってまいりまする」

 一礼してから台所に向かった娘は、鍋の蓋を開けて煮立った湯を柄杓で掬い、椀に注いだ。辺りが薄暗いからで あろう、かまどの明かりが八千代の濃い影絵を作り出し、薄い壁に広がっている。久頼は気分が落ち着くにつれて 周囲の様子が解ってきた。この小屋には娘一人しか住んでいないらしく、ゴザは娘が眠るための一揃いしかない。 椀にしてもそうで、白湯を入れている椀と汁椀ぐらいなものであった。となれば、女の細腕で当世具足と刀を備えた 武士を担ぎ上げて運んできたというのか。それはないだろう、と思いかけた久頼は何の気成しに壁を見やり、肝を 冷やした。そこに映る八千代の影絵には、見事な八本足が生えていた。

「荒井様、いかがなさいました?」

「そなた、まさか物の怪か!」

 久頼は寝床に白湯を運んできた八千代を睨み付けるが、八千代は少し寂しげに眉を下げた。

「荒井様もそう仰るのですか。私はどこの生まれの者かも解りませぬ故、己が何者かも知りませぬ」

 八千代は板の間に腰掛けると、帯の下に戒めている蜘蛛の足を一層縮めた。

「私の生まれ故郷は、今は亡き本条藩であると聞いております。私の育ての親は黒須藩の出の武将であり、本条城 に攻め入った際に奇怪な蜘蛛の抜け殻を拾ったそうでござりまする」

 湯気の昇る白湯の入った椀を手にし、久頼は慎重にそれを啜った。恐ろしく空腹ではあったが、いきなり固形物を 入れては吐き戻してしまうと知っている。白湯にしても、少しずつ飲まなければ。熱い湯で粘つく口中を濯いでから、 そっと嚥下する。胃袋に広がる温もりと水気に安堵感が沸くが、同時に胸の奥が疼いた。

「蜘蛛の……抜け殻?」

「私はその中に産み付けられていた卵から、生まれ出でたのだそうで。知っているのはそれきりでござりまする」

 八千代はその卵を拾ってきた武将の妖怪使いになろうという思惑やそれによって起きた騒動を訥々と語っていたが、 久頼の耳にはほとんど入ってこなかった。それどころか、疼きが槍の如く肝を抉ってくる。恐らく、八千代は業を 捨てたことによって生まれ変わった鬼蜘蛛の八重姫なのだ。死んでも死にきれぬのが妖怪であり、黒須藩の誰か が八重姫が蜘蛛であるという概念を抱いていたのであろう。だが、なぜ生まれ落ちて間もない頃から、現世と常世の 狭間を越えているのだ。久頼はそんなことを一息に考えた己に驚くと共に、八重姫の名に戦慄した。

「あ……あぁあおうっ!」

 いかがなされましたか、と八千代に案じられるも、久頼は体を折り曲げて頭を抱える。なぜ今の今まで忘れていた のだろう。八重姫は、鬼蜘蛛の姫は、久頼の、糸丸の母ではないか。そして、その母親を恋しいと思ったからこそ、 恨み辛みで長らえていた母の上澄みの如き八千代と出会ってしまった。これでは、またあの宿業を繰り返してしまう だけだ。久頼は最後の余力で刀を抜き、血糊を拭かずにいたために錆が浮いた刃を八千代に向ける。

「拙者に近寄るでない! 拙者は、そなたが母、鬼蜘蛛の八重姫により育てられた子だ!」

「まあ……」

 八千代は目を丸め、久頼を凝視する。久頼は息を荒げながら、腹の底から叫ぶ。

「拙者は母を求めてはおるが、母と通じてはならぬと、母とだけは!」

 たとえ生まれも育ちも違えども、母は母だからだ。そして父がそうであったからだ。芋蔓式に蘇った記憶の中に、 叔父であるとばかり思っていた政充のおぞましき告白もあった。久頼は政充が実の姉と交わった末に生まれた子で あり、荒井家の血は一滴も混じっていなかった。だから、たとえ相手が八重姫の上澄みであろうとも。

「お斬りにならぬのでござりまするか」

 八千代は微笑むと、久頼の刀を握る手に白く細い手を添えてくる。

「斬れぬのでござりましょう?」

 そうだ。斬れない。母とまるで同じ面差しの娘に八つの目で見つめられ、久頼は噎び泣いた。八千代は久頼の 涙やら泥やらで汚れ切った頬を冷たい手で挟み、ふくよかな胸の間に導いてくる。

「……わらわもそれが望みぞえ」

 久勝と八重姫の間で撚り合っていた糸は断ち切れた。だが、その断ち切れた糸に新たな糸を撚り合わせたのは、 他でもない糸丸であり久頼であった。それをもまた忘れていた己が恨めしく、情けなくなった。八千代は久勝の体を 戒めている当世具足を一つ一つ外していきながら、蜜を塗りたくったような言葉を囁いてくる。育ての母であり、その 娘とでも言うべき存在である八千代は、久頼の思いによって現世に至れたことを心から喜んでいた。だから、それに 報いてやりたいと常に願っていた。そして昨晩、その願いが叶って久頼と出会えたのだ、としきりに語る。
 十五年前の嵐の夜に、鬼蜘蛛の八重姫は死した。だが、八重姫を成している中核は滅びることはない。それは男に 生まれたからには誰しも持ち得ているであろう、母への恋慕であり、女への畏怖であり、世の憂き目を投げ打って でも甘き毒に溺れたいという愚かな願いだ。久頼が八重姫を母親として慕わなければ、八千代に母を重ねることは なかったであろう。だが、どれほど恐れたところで、腹の底で滾る情欲混じりの本能には抗えなかった。八千代から 立ち上る甘く濃い女の匂いは、煮詰まりつつある業の苦味を紛らわしてくれた。
 立て付けの悪い戸の隙間から差し込む西日は、柱と柱、壁と壁の間に横たわる無数の糸を煌めかせる。隙間風が 糸を琴のように掻き鳴らすと、埃の積もった梁から下がった細い糸の先で小さな金の粒が揺れた。
 ちり、ちりん。




 母は子を抱き、子は娘を貫き、そして子と子は次なる糸を成す。
 現世と常世は相容れぬが故に寄り添い、綻びから業を紡ぎ出し、魔性の巣を織り成していく。
 死ですらも、糸を断ち切る刃とは成り得ぬが故に。


 そしてまた、鬼蜘蛛の姫は、人とあやかしの闇を縫う。









11 12/17



あとがき