鬼蜘蛛姫




第三話 妄念は撚り合う



 赤子の産声は聞こえなかった。
 そして、陣痛に唸っていた女の声も聞こえなくなった。簾越しに見える夜空は東から明るみ始め、鮮やかな光条が 肌を舐めてくる。襖の向こうでは乳母や腰元達が嘆き悲しむ声が上がり、にわかに騒がしくなった。これで、三人目 となるであろうか。荒井久勝は側室を孕ませたことを後悔したが、鬼蜘蛛の八重姫に奪われた嫡男の代わりとなる 跡継ぎを作るべきだと判断して実行したのは自分自身なのだ。養子をもらうという手段も考えてはみたが、八重姫 に感付かれたが最後、養子も殺されてしまうのが関の山だ。これ以上無用な命を散らしたくないが、子を作らねば 御家断絶となる。そうなれば、七代続いた荒井家もろとも、本条藩も亡びてしまうであろう。
 明け方を迎えて間もなく、倦み疲れた形相の産婆が報告に訪れた。久勝の血を引いた赤子は産まれたことには 産まれたのだが、人とは思えぬ奇怪な様相をしており、特に異様なのが目玉の数であった、と。額に当たる部分に 六つの目が並んでいて、人間が生まれ持つ目の数と合わせると八つになるのだ、と。子を産んだ側室であるお静に それを伝えたであろうか、と産婆に問うと、お産みになって間もなく亡くなられました、と産婆は大いに嘆いた。家臣 達に泣き伏せる産婆を連れ出してもらってから、久勝は憤怒を覚えた。

「おのれ八重……!」

 子を成せば成すほど、呪いは業が深くなっていく。嫡男である菊千代が鬼蜘蛛の八重姫に攫われてから、一年が 過ぎていたが、その間に側室達は立て続けに三人の子を産んでいた。だが、どの子も産まれてすぐに命を落とし、 産んだ母の命さえも奪っていった。その赤子達は、皆、人間離れした部分を持っていた。最初の赤子は手足が多く 生えていて、四本の腕と四本の足が生えた様はさながら蜘蛛のようだった。次の子は下半身が虫のように丸く膨張 していて、牙も生えていた。そして、三番目の子は八つの目を持って生まれた。いずれも、八重姫の呪いだ。
 あのおぞましい蜘蛛の妖怪と通じていた過去を、悔やまぬ時はない。正室であったお咲の方を目の前で真っ二つ にされたばかりか、愛妻の忘れ形見さえも奪い去られ、挙げ句の果てに子を成しても成しても育たない。家臣達には その呪いについて口外していないが、こうも立て続けに側室達が亡くなっては感付かれてしまうのは時間の問題で あるが、呪いを阻む手立てが思い付かなかった。祈祷師や呪い師といった類の輩にも頼ってみたが、成果を上げる どころか逆に呪い殺されてしまった。八方塞がりとは、正にこのことであろう。

「失礼つかまつる、殿」

 襖が開き、家臣の一人、早川政充が深々と頭を下げてきた。

「何用か」

 苛立ちをぐっと腹に抑え込みながら、久勝が返すと、政充は目を上げた。

「殿が蜂狩貞元の首をお刎ねになられてから、随分と時が過ぎたのではありませぬか」

「そうさな」

 八重姫の呪いに気を取られて、すっかり忘れていた。久勝が気のない返事をすると、政充は左右に注意を配って から、久勝に部屋に入る許しを請うてきた。久勝がそれを許すと、政充は厳かに入り、襖を閉めた。そして、周囲に 人の気配がないことを入念に確かめてから、政充は久勝に近付いてきた。

「殿は、蜂狩貞元の首が舞う、という怪談話をお聞きになったことがござりまするか」

「いや、知らぬな」

 死人の首如き、八重姫の呪いに比べれば。久勝がぞんざいに答えるが、政充は態度を変えなかった。

「御無礼を承知の上で申し上げまする。先刻もまた、殿の側室でござりまするお静様がお亡くなりになられたという 話を腰元達から窺いまして候。それはよもや、蜂狩貞元の怨念によるものではありませぬか。聞けば、蜂狩貞元は 敗走の末に藩を失ったところを殿がお討ちになり、落ち武者と化したと。奥州の大名の後ろ盾を切られた蜂狩とは 手を結ばずに無用な戦から逃れて下さった殿の御判断は御立派であり、決して間違いではござりませぬ。しかし、 蜂狩からすれば、殿が憎らしゅうてたまらぬのでござりましょう。それ故に、死してからもその怨念は消えるどころか 深まっているのでござりましょう。故に、このような凶事が続くのではないか、と」

「ならば、政充。おぬしはどういたす」

「拙者が、でござりまするか」

「うむ。答えてみよ」

 あんな男のことなど、考えたくもない。久勝が政充に判断を仰ぐと、政充はしばし考えた後、答えた。

「蜂狩の首を葬り、首塚を立てて奉るのが道理かと」

「ならば、早急に手を回せい。奴の首を奉るのは癪に障るが、それで凶事が収まるというのなら安いものよ」

「では、そのように致しまする」

 政充は床板に額を擦り付けかねないほど深々と頭を下げた後、部屋を後にした。彼の足音が遠ざかっていく気配を 感じ取りつつ、久勝は蜂狩貞元について考えを巡らせた。蜂狩貞元の身の上については同情しないでもないが、 黒須藩の敗走部隊が希薄な縁を頼って本条藩に逃げ込んできたのが事の始まりである。彼らは八重姫の統べる 八重山を行軍している最中に全員命を落としたようだ、と、山狩りを行った足軽達は黒須藩の紋が入った帯を手に して報告してきた。無様な敗走部隊が血の臭いさえ撒き散らさなければ、八重姫の領域にさえ入らなければ、あの 忌まわしい女は久勝の元に来なかったかもしれない。そう思うと、わざわざ八重山を通る道で本条藩に入ってきた 蜂狩貞元が急に憎らしくなってくる。奴さえ来なければ、何も起きなかったものを。
 途端に、蜂狩貞元の首を奉るのが嫌になってきた。だが、政充にはそのように指示を下した手前、今更覆すわけ にもいくまい。それに、側室と赤子が死んでいく呪いの原因を蜂狩貞元に擦り付けてしまえば、八重姫による呪いは 解けずとも周囲には言い訳が出来る。今のところ、久勝と八重姫の関係を知る者は城内には一人もいない。お咲の 方が殺された現場に居合わせた乳母や腰元達には、口封じの金子を持たせて城から追いやってあるのだから。 八重姫と通じていた過去さえ知られなければ、それでいい。そう思うと、蜂狩貞元に対する憎らしさが裏返り、奇妙 な感謝の気持ちが湧いてきた。どうせ相手は死んでいる。だから、どれほど利用しても文句は出まい。
 何せ、文句を言う口すら動かぬのだから。




 叢雲山の朝は早い。
 生身の人間として生きてきた頃となんら変わらぬ時間に目覚めたチヨは、硬い寝床から起き上がり、うん、と体を 伸ばした。固まっていた手足が伸びきり、背骨がしなり、胸が張る。山の清々しい空気を肺に入れて膨らませると、 まるで自分が生きているかのような錯覚が起きる。だが、どれほど働いても腹は減らないし、喉も全く乾かないし、 体が疲れることはあっても芯までくたくたにはならない。人柱にされたチヨを地中から掘り出して氷室で氷漬けにした 大山叢雲神オオヤマムラクモノカミによれば、チヨは生と死の狭間に立っているのだそうだ。学がないので難しいことは良く解らなかった が、噛み砕いて言うと、チヨは死んだ体に生きた魂を入れて動かしている状態、ということらしい。だから、幽霊とは 違って物に触れるし、妖怪とも神様とも違うので火を扱っても平気だし、人間からすればちゃんとした人間のように 見えるのだそうだ。もっとも、余程勘のいい人間には感付かれてしまうのだそうだが。
 古着の着物に袖を通し、帯を結んでから、チヨは住み処にしている洞窟から外に出た。初夏とはいえ早朝の山は 底冷えしかねないほど涼しく、夜露と朝露に濡れた雑草を踏むと冷たい。つま先立ちで歩いて川に近付いたチヨは、 目を凝らした。寝起きのぼんやりとした頭では、叢雲が見えづらいからだ。

「水神様ぁ、おはよう!」

 チヨが声を上げると、水の流れが一瞬震えた後、霧が凝固するように大山叢雲神が姿を現した。川の上に腹這い になっている巨体の龍は、ぎちぎちとウロコを鳴らしながら体を滑らせたが、顔は見えなかった。それもそのはず、 遙か彼方の上流にあるからだ。チヨは軽く飛び跳ねて叢雲の背中に乗ると、ウロコが一枚一枚跳ねてうねり、川の 流れとは逆の流れを作ってチヨを上流に運んでくれた。あっという間に深い山を越え、氷室に辿り着くと、氷室に程 近い川の水源に顔を突っ込んでいる叢雲がのったりとした動作で頭を出した。

「良き朝だな、チヨや」

「そんだなぁ。ええ季節になってきたいや。この分だと、今年はええ米が取れるんでねっか?」

 チヨは叢雲の頭によじ登ってきたので、叢雲はちょっと困りながらも頭を持ち上げると、チヨは身を乗り出して麓の 集落を見下ろした。山の傾斜に合わせて開墾された数十枚の田んぼは、いずれも清らかな水を湛えて朝焼けの空 を映していた。植えられて間もない苗が整然と並んでいて、風が吹くたびに小さく揺れている。

「これ、みぃーんな水神様のおかげだいや」

 チヨは叢雲のごつごつした眉間に腹這いになると、にっと笑ってみせた。

「我は水を司っておるだけのこと。土地を拓き、栄えたのは、おぬしら人の力によるものぞ」

 叢雲は長いヒゲを蠢かせながら、ゆっくりと瞬きした。

「川なんぞ、おらの婆ちゃんの代からずぅーっと荒れとらんて。だから、橋なんぞ流されるわけがねかったんて」

 叢雲のひんやりとした巨体に寝そべりながら、チヨはむくれた。

「そうだがんに、なんでおらが人柱にならんといかんかったんて。そもそも、誰が言い出したんだか」

「我を奉る神社の主にも、そのようなお告げを下した覚えはない」

「ああ、気ぃ悪くせんでな。おらは水神様のこと、恨んだりなんかしてねぇすけん」

「そのようなつもりではないが」

 叢雲が目を上向けると、チヨは眉を下げた。

「もしかすっと、おらのせいかも。おら、奉公にもお嫁にも行きたくなかったんだいや。集落から外に出たことなんて ほっとんどなかったし、城下に出かけるのなんて盆と正月の買い出しだけだけど、おらはああいうごちゃごちゃした 場所は水が合わねぇなあって思ってたんだいや。奉公に出たら何年も帰ってこられんし、下手したら、そこから余所 に身売りされちまうかもしれんし、潰されるかもしれんし、って思ったらおっかねくってなぁ。そったら、左目が潰れて しまってなぁ。この顔じゃ、お嫁に行ったとしても綺麗なべべ来て祝言なんか挙げられねって。その前に、おらなんか 嫁っこにしてくれる男なんておらんすけん。そう思ったら、なんもかんも嫌になったんだいや」

 チヨは左目のない瞼を押さえ、卑屈に頬を引きつらせる。

「そったら、人柱になんねぇかって坊様が仰ってな。渡りに船っちゅうかでな」

「……はて」

「どうなすったん、水神様?」

 チヨが訝ると、叢雲は一度瞬きした。

「我の知る限り、おぬしが生きておった時代に、おぬしの生まれ育った集落には仏閣などなかったはずだが」

「でも、おらはちゃんとお会いしたんだいや。こう、豪儀に背が高くてな、菅笠を深く被った、徳の高そうな坊様が」

 チヨは両手を伸ばし、僧侶の大きさを現した。叢雲はその言葉を神妙な面持ちで聞いていたが、瞼を伏せた。

「ふむ。気に掛からぬでもないな。だが、今はその僧侶については忘れよ。糸丸が腹を空かしておるぞ」

「ああ、そんだそんだ!」

 チヨははっとして、叢雲の頭上から身軽に飛び降りた。そのまま氷室に駆け込むと、穀物の袋を開けて升で掬い 取り、ざらざらと鉄鍋に流し込んだ。それと桶を抱えたチヨは、水源からしばらく下っていき、川幅が広がった場所で 水を受け止めた。桶の半分程度が溜まると、その水を鉄鍋に入れて米を研ぎ始めた。米糠で白く濁った水を地面に 流して吸わせてから、また新しく水を入れて研ぎ、また研ぎ、研ぎ水が濁らなくなったところで水に浸した。鉄鍋に蓋 をしてから石で組んだかまどに載せ、薪を入れ、火打ち石を打って乾いた杉の葉に火を付けてから、それを火種と してかまどに入れた。白っぽい煙が立ち上り、火が鍋底を舐めるようになると、くつくつと水と米が煮え始めた。
 米が柔らかく炊き上がると、今度は別の鍋に水を張って火に掛けた。湯冷ましを作るためである。それもこれも、 赤子である糸丸を育てている八重姫が火を扱えないからだ。昔からしていたことばかりなので、これといって苦痛で はないのだが、ふと疑問に駆られる瞬間もある。だが、小さかった糸丸が育っていく様を目の当たりにしていると、 そんなことはどうでもよくなる。ぐらぐらに煮えた湯を火から下ろし、冷ましていると、頭上から羽音がした。確認する までもない。チヨの背後の枝がぐわんと揺れると、黒い翼を持った小柄な影が逆さまにぶら下がった。

「カカカカカカカカカ! 毎度毎度ご苦労なこったなぁ、おチヨ」

「鴉どん、おはようさん! もうちっと待ってな、湯冷ましが出来るすけん」

 チヨが笑いかけると、九郎丸は毒突いた。

「毎朝毎朝毎朝毎朝、俺を使いっ走りにするんじゃねぇや小娘が! 祟るぞ!」

「そんなんしたら、どうなるか解っとるくせに。なー、水神様?」

 チヨがにんまりしながら叢雲に目をやると、叢雲は少々面倒そうにヒゲの先を曲げた。

「うむ。我の眷属とまでは行かずとも、チヨと我には浅からぬ縁がある」

「神のくせに人を脅すのか、あぁん?」

「おぬしは天狗だろうに」

「言葉の綾だ! ええい面倒臭い、運んでいるうちに冷めてしまうわい!」

 九郎丸は煮えた米の入った鍋と湯冷ましの入った鍋を乱暴に掴むと、そのまま上昇した。待ていや、とチヨはすぐ さまその後を追い掛けていったが、九郎丸の姿は八重山に吸い込まれていった。だが、途中で九郎丸に石らしき ものが命中し、鴉天狗はひっくり返りそうになったが、煮えた米と湯冷ましは零さなかった。中身を零してしまったら、 八重姫から半殺しにされるからだ。九郎丸はチヨに悪態を吐きながら、八重姫の洞窟を目指した。二人のさえずりが 遠のいていくのを感じながら、叢雲はああやれやれと瞼を閉じて川の流れに身を委ねた。そして、ふと思った。
 チヨを死に至らしめた僧侶とは、誰だ。





 


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