鬼蜘蛛姫




第三話 妄念は撚り合う



 人間、死ぬ気になればどうとでもなるものだ。
 もっとも、既に死んでいるのだが。蜂狩貞元は久方ぶりに自由を得た両足で胡座を掻き、腕を挙げて肩をぐるりと 回していた。辺り一帯に張り巡らされている糸はぴんと張り詰めたままで、貞元という異物が抜け落ちたことを糸の 主に悟られた様子はない。枝葉の軋み方も変わらず、一つも糸が弛んだ部分はない。それもこれも愛すべき妖狐、 白玉のおかげである。彼女がいなければ、蜘蛛の巣から体を脱することは到底出来なかっただろう。
 貞元と白玉が吊り下げられていた空間には、二人とほぼ同じ重みを持った鎧や死体がぶら下がっていた。手の部分 には手っ甲や籠手を、足の部分には臑当てを、頭の部分には髑髏を、と形も揃えて置いていったが、苦労した分 の成果が現れてくれた。ぶら下がった状態でそれらを掻き集めるのは至難の業であったが、白玉が唯一動かせる 二尾の尻尾を使い、一つ一つ集めては貞元と自分に絡み付く糸に引っ掛けていった。慎重の上に慎重を極めたので、 丸一年も掛かってしまったが、どちらも常人ではないので飢えもしなければ渇きもしなかった。そうでなければ、 今頃、飢え死にするか飢えの苦しみで悶死していただろう。当の白玉は、丸一年も風雨に曝されてしまった着物の 傷み具合を気にしていて、乱れ放題の髪を押さえて耳を伏せた。

「あんまし見ねぇでおくんなまし、お前様」

 浮浪者のような見窄らしい格好の自分が情けないのか、白玉は泥水を吸って茶色く染まった袖で口元を押さえて 俯いてしまった。貞元はその仕草の弱々しさが微笑ましく、笑いかけたつもりだったが、頭部がないので表情は一切 出せなかった。貞元も貞元で、随分とひどい格好になっていた。戦に出向くために職人達を急かして造らせた立派な 当世具足は、艶やかな漆塗りが剥げ落ちて地肌が覗き、鎖帷子は赤く錆び付いていて嫌な軋みを立て、地面に 転げている刀も無惨な姿と変わり果てていた。鎧の下の肉体も同様で、亡霊をどれほど吸い取ろうとも肉体だけは 元の姿を保てず、肉は一つ残らず腐り落ちてしまった。故に、今の貞元は骸骨なのである。だが、戦に赴いて刀を 振り回すには屈強な肉が欠かせない。しかし、屍肉を身に纏ったところで紛い物に過ぎぬ。試行錯誤の末に貞元が 編み出した解決策は、並々ならぬ怨念で亡霊を練り上げ、骨に纏わせるというものだった。貞元は己の新たな肉体を 目にしたことはないが、白玉によれば、目眩がするほどおぞましい、のだそうだ。
 怨霊が渦を巻く。貞元の魂を軸にして嵐が吹き荒れる。朽ち果てかけた当世具足が武者震いでがたがたと震え、 錆び付いた刀に血を吸わせたくなる。酒よりも甘美で、女よりも心地良い、殺意の底なし沼に酔いしれる。

「……ぬぅ」

 貞元は腐乱死体のような紫と黒が渦巻く指で、刀を握り締めた。すると、カビの生えた柄が容易く折れてしまった。 これでは、荒井久勝の首を取るところではない。貞元は折れた刀を名残惜しく思いながら横たえ、腕を組む。

「近う寄れ、白玉や」

「はい、お前様」

 明るく弾んだ声を上げ、白玉はすぐさま貞元の傍に寄り添った。

「そなた、この糸を焼き切れるほどの妖力が戻っておるか?」

 貞元が節くれ立った指で外界と二人を隔絶する糸を指すと、白玉は顔を曇らせた。

「そのお願いに答えてやりとう存じやすが、生憎、白玉はこの姿を保っているのが精一杯なんでさぁ。あの糸は白玉の 妖力もずうっと吸い上げておりやしたから……」

「では、まだ外には出られぬか」

 肉体を造れるほど亡霊を掻き集めたおかげで、貞元の理性は荒縄で縛り上げたかのように固まっていた。頭は 失われているはずなのだが、生きていた頃よりも頭が冴え渡っており、考えを巡らせることが出来た。大方、貞元が 喰らった亡霊の中には勉学に明るい者がいたのだろう。貞元は腕っ節だけでのし上がってきた類の武将に過ぎず、 権謀術数は部下に任せきりだったが、この分だと誰にも頼らずに済みそうだ。
 今、解っている事実を再確認する。蜂狩貞元率いる黒須藩の敗走部隊は本条藩に逃げ込んだものの、荒井久勝 は何らかの理由でそれをはねつけたばかりか、貞元らを殺しに掛かってきた。しかも、それは間者によるものでは なく、白玉のような妖怪の力を借りたものだった。二人を戒めていた糸からして、恐らくは蜘蛛の妖怪だろう。白玉の 狐火を使えば断ち切ることが出来なくはないが、この山は蜘蛛の妖怪の縄張りであると思われるので、狐火で糸を 焼き切って外に出たところで、感付かれて始末されるに違いない。荒井久勝を確実に討ち取るには、まずは久勝と 何らかの関係があるであろう蜘蛛の妖怪を打ち倒さねば、始まるものも始まらない。だが、相手の手の内が読めぬ うちでは動きようがない。そのためには、敵を知らねばなるまい。

「白玉や。そなたは、外の様子を探るような術は使えぬのか」

 貞元は白玉の帯が緩んだ腰に手を回し、ぐいと引き寄せた。白玉は、きゃう、と腰を浮かせる。

「お、お生憎ですが……」

 今にも泣きそうな顔をして耳を伏せて尻尾を垂らした白玉に、貞元は彼女のはだけかけた着物の襟元から木の肌の ようにざらついた手を差し入れると、二つの柔らかな乳房の間を握り、肌の上から肝を鷲掴みにした。

「ぎゃあんっ!?」

 妖怪といえども、痛いものは痛い。脂汗を垂らして苦痛に仰け反った白玉に、貞元は囁く。

「ならば、その肉体を捨てよ。魂だけであれば、外へも出られよう。さすれば、儂の望みも叶おうぞ」

「お前様ぁ……ぁっ!」

 白玉はとろりと陶酔し、貞元にしなだれかかった。それを了承と判断した貞元は、一息に彼女の肌を破って肋骨を 掻き分けると、肺袋の間に収まっていた小さな肝を引き摺り出した。血の管がぶつぶつと千切れ、生温かい飛沫が 噴き上がる。貞元の赤黒く濡れた手のひらの中で、肉体から引き千切った白玉の肝はとくんと鼓動し、魂がその内に 収まっていることを示していた。目の焦点を失った白玉は顎を半開きにし、小刻みに痙攣しながら倒れ込んできた ので、貞元は彼女の体を支えてやりながら肝を投げた。血の雫を散らしながら糸の間を擦り抜けた肝は、草むらに 転げ落ちると水で満たした革袋を落としたかのような音がした。その衝撃に反応して、虚ろな白玉の肉体がびくんと 跳ねたが、貞元は彼女を抱き締めてやった。しばしの間の後、糸の向こうにもう一人の白玉が立った。

「ご覧下せぇ、お前様のお願いが叶えられやした」

 肝と魂のみで成した白玉は、足元の影が薄く姿形もどことなく朧だったが、貞元の要求に応えられたのが嬉しいのか 誇らしげに笑んでいた。貞元は顎がないので、首だけで頷いた。

「うむ。しかと見届けた」

「白玉は何をしたらええんですか、お教え下せぇな。なんでもしてきやす」

 白玉は目を輝かせながら、貞元に尋ねてくる。貞元は顎をさするような気持ちで、首の根本をなぞる。

「まずは儂の首の在処を探し出してはくれぬか。取り戻さずとも良い、まずは場所を突き止めよ」

「荒井久勝については、手を出さんでええんですかい?」

「事を急いてはし損じる。腰を落ち着けて、外堀から責めるのが道理というものよ」

「お前様、御立派でさぁ!」

 もう一人の白玉は大層喜び、着物の裾から出ている二つの尻尾を振り回した。

「ははははははは、愛い奴だ。ならば行けい、白玉や」

 貞元が笑みを零すと、白玉は限りある妖力を使って村娘に化け、深々と礼をしてから山を下りていった。山中にも 張り巡らされているであろう蜘蛛の糸にも気を付けていったらしく、白玉が山を下りる頃合いになっても貞元の近辺 では変化は起きなかった。貞元は胸を撫で下ろしつつ、ようやく触れられた白玉の肉体を愛でることにした。何せ、 二尺程度しか離れていないにも関わらず、怨念やら何やらに駆られて荒ぶろうとも、白玉には触れるどころか手を 伸ばすことさえ許されなかった。それが今や、自由自在だ。肝を引き抜いたので胸元からはたっぷりと血が流れ、 肋骨と肺袋がはみ出しているし、魂が抜けているので死体も同然だが、白玉には変わりない。
 乱れた襟と裾を整えてやってから、貞元は愛する妖狐の肉体を膝に乗せてやった。貞元が吸収した亡霊から得た 妖力を分け与えてやっていたが、白玉の体にはあまり合わなかったのだろう、随分と窶れていた。ふっくらとした頬は 痩けて骨張り、弾力が残っているのは乳房と尻ぐらいなもので手足は棒きれのようになっていた。魂と肝を痩せた体 から引き抜かれては、さすがに辛かろうに。だが、白玉はそんな顔を見せるどころか、笑顔すら浮かべて貞元の 頼みを快諾してくれた。つくづく甲斐甲斐しい女だ。貞元は血の気の失せた白玉の頬を撫で、首元を寄せた。
 出来ることなら、唇を吸ってやりたかった。




 かすかに、糸が揺れた。
 洞窟の奥底に身を潜めていた鬼蜘蛛の八重姫は、八重山の至るところに張ってある用心糸に何者かが触れた であろう感覚を得たが、この者達が原因だろう、と目を上げた。叢雲山から慌ただしく飛んできた鴉天狗の九郎丸と、 それを自力で追い掛けてきたチヨが、洞窟の手前でぎゃあぎゃあと喚いていた。九郎丸はクチバシががちがち鳴る ほど激しく声を荒げているが、チヨは彼に勝る勢いで喰って掛かっている。八重姫は二人の口に糸でも吐き付けて 塞いでやろうかと思ったが、言い合っている内容が聞き取れると、すぐさま九郎丸の首根っこに糸を掛けた。

「クケェエエエエッ!」

 甲高い悲鳴を上げながら宙に吊り上げられた九郎丸は、太い枝の下にぶら下がった。

「鬼蜘蛛の姫よ! 言っておくが俺に非はない、悪いのはそこの愚かな田舎娘であってだなぁ!」

「言い訳など聞かぬえ」

 八重姫は人間の形をしている上半身に着物を羽織り、帯を締め、八本足を動かして洞窟の外に出た。八重姫が 味方に付いたと思ったからだろう、チヨは九郎丸を見上げて舌を出してからかっている。九郎丸は高下駄を履いた 足を振り上げ、チヨを蹴り倒そうとするが、高さが違いすぎるので届きもしなかった。

「粥は無事かえ」

 八重姫が気怠く問うと、チヨは気まずげに鉄鍋を差し出した。

「半分以上落っことしちまったんすけん、中身はいつもより少ねっかもしれんけど、ねぇよりはマシだいや」

「湯冷ましは」

「それは……そのう……」

 チヨが目を泳がせると、二人の頭上に黒い羽根が降ってきた。九郎丸は首の締め付けを緩めようとしているのか、 ばさばさと力一杯羽ばたいているが、八重姫が糸を引くと耳障りな羽音が止まった。チヨは首を縮めて八重姫と 九郎丸を窺っていたが、幼子のように着物の裾を握り締めた。

「こってすまんことしてもうたいや、八重姫様。確かに全部ひっくり返してしもうたんは、鴉どんだけんども、鴉どんに やいやい文句言って追い掛けたんはおらだすけん」

「湯冷ましはもう一度作ってたもれ。さすれば、何もせぬ」

 八重姫が返すと、チヨはほうっと安堵して肩の力を抜いた。

「ああ、えかったー! おらも鴉どんみてぇに首根っこ切られるんじゃねっかと思ったら、肝が冷えて冷えて!」

「そうだそうだ! 俺ばかり折檻しおって、たまにはそこの小娘にも罰を与えぬか!」

 九郎丸がじたばたしながら喚いたので、八重姫は鬱陶しくなった。

「チヨの手がなければ、糸丸に飲ませる湯冷ましは沸かせぬぞ。故に、何もせぬ」

「そんだ、その糸丸は?」

 チヨが洞窟の奥を覗き込むと、八重姫はチヨを促した。

「寝床におるぞえ。もう起きておる頃合いぞ」

「糸丸ぅ、お姉ちゃんだいやー!」

 チヨは飛び跳ねるように歩きながら、洞窟の奥に入っていった。その無防備な後ろ姿に、九郎丸は苛立ち紛れに 高下駄を投げ付けようとしたが、八重姫がすかさずその足と下駄を糸で縛り付けたので、九郎丸の足は空しく空を 切っただけだった。恨みがましい目線を背に受けてはいたが相手にするだけ時間の無駄なので、八重姫は冷めた 粥の入った鉄鍋を抱えて奥に向かった。洞窟には裸足のチヨの水っぽい足音が反響し、八重姫の足音はほとんど しなかった。八重姫が身を潜めている洞窟は、入り口は狭いが奥に向かうに連れて広くなっている。半円状の広い 空間には、洞窟の上部に空いている小さな穴から一筋の光が差していた。その空間の片隅に、朽ちかけた辻堂を 分解して運び込み、組み建て直して造った小屋が建っていた。八重姫は下半身がとにかく大きいので、屈んだり、 目線の高さを変えることが難しいので、小屋の土台には分厚く頑丈な平たい岩を積み重ね、小屋の高さを八重姫の 座高に近い高さにしてある。チヨは積み重なっている岩をよじ登っていくと、小屋の引き戸を開けた。

「糸丸、起きとったか?」

 チヨが笑顔を浮かべながら中を覗き込むと、辿々しく歩く赤子が近付いてきた。

「ねえたま!」

「良い子にしとったかー、んー?」

 チヨは八重姫が仕立てた隈取腹当を着ている糸丸を抱き上げ、よしよしと可愛がった。

「ははうえ」

 糸丸はチヨの肩越しに、ぷっくりとした短い手を伸ばして八重姫を求めた。

「母はここにおるぞえ」

 八重姫はチヨの背後に近付くと、華奢な指先を伸ばし、小さな手に握らせた。

「糸丸、ようお喋りするようになったいや。さっすがは御殿様の御落胤、御利口さんだで!」

 チヨがべた褒めすると、糸丸はそれを理解したのか笑い声を上げた。

「そうであろう、そうであろう。さて、粥を喰わせてやろうかえ」

 八重姫はチヨの腕から糸丸を受け取ると、上半身を前のめりにさせて小屋に入れると、冷めた粥が入った鉄鍋を 床に置いて大きな匙で椀に掬った。八重姫はその粥を啜って口に含み、丁寧に噛み砕いてから、糸丸に口移しして やった。糸丸は躊躇いもなくそれを受け取り、飲み下した。チヨは小屋の出入り口に腰掛け、異形の母が人の子を 育てる様を眺めていた。椀一杯分の粥を口移しで与えてやると、糸丸は満足したようだった。

「もうちっと大きくなったら、水気が少ねぇ粥でもええかもしれんね。ちっこい歯も生えてきとるすけん」

 チヨは糸丸の口元に付いた粥を指で刮げ取ると、舐めた。

「それについては、チヨに任せたもうたえ。粥の水加減など、わらわは知らぬ」

 八重姫は空になった椀を置き、満足げに腹を膨らませた赤子と戯れた。

「八重姫様、すっかりおっ母の顔になったなぁ」

 八重姫の面差しの柔らかさに、チヨはにんまりした。だが、自分では変化は解らないので、八重姫は少し困った。

「そうかえ」

「そうそう。最初に会った時とは、目が違うんだいや。あん時ぁこっておっかねかったけど、今は優しゅう目だ」

 チヨから屈託のない笑顔を向けられて八重姫は純粋に嬉しくなったが、なんだか気恥ずかしくなった。人食い妖怪 である自分に対して、優しい、などという言葉を使われるとは思ってもみなかったからだ。

「んだども、八重姫様は子を産んだことがねぇの?」

 チヨは八重姫の人間そのものの上半身と、巨大な蜘蛛の下半身を見比べた。

「おら、女郎蜘蛛っちゅう妖怪のお話を村の大婆様から聞かしてもらったんだけんどもな、女郎蜘蛛っちゅう妖怪は 子蜘蛛をぎょうさん使って人間を脅かすんだと。だから、八重姫様も子蜘蛛をぎょうさん産むんでねぇの?」

「わらわは子は孕めぬゆえ」

「八重姫様って、どっからどう見ても女の人じゃねっか。それなのに産めんの?」

「わらわが産めれば、糸丸を攫いはせぬ」

 八重姫がそっと目を逸らすと、チヨは慌てた。

「すまんかったいや! おら、そったらこととは知らんで!」

「構わぬ。それがわらわというものよ」

 チヨは八重姫を慰めるつもりなのか、しきりに言葉を掛けてきたが、糸丸の世話に気を向けたかったので答えず にいると、チヨは八重姫が心底怒っているものだと思い込んでしまったのか慌てて逃げ出した。洞窟の外に駆けて いったチヨは、枝からぶら下がって首吊り状態になっている九郎丸から助けろだの何だのと言われたようだったが、 九郎丸の反応からすると結局助けずに帰ってしまったらしい。来る時も慌ただしければ、帰っていく時も慌ただしい とは、四六時中彼女の側にいなければならない叢雲の心中は察するに余りある。だが、長らく凪いだ時を過ごして きた老翁にとっては、程良い刺激となるやもしれぬ。ぐずった糸丸が着物の合わせ目を掴んできたので、八重姫は 要求を察して襟元を広げると、何も出ない乳を含ませてやった。
 肝の辺りが、不思議と熱くなった。





 


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