鬼蜘蛛姫




第五話 真情に至る針先



 ぎ、と不意に糸が軋んだ。
 チヨにしてみれば退屈凌ぎに口にした話題なのだろうが、無性に癪に障ってしまった。手元の布地に集中せねば と思うが、そう意識しようとすればするほどに気が立ってくる。何年か前に旅の商人を殺した際に奪い取った反物を 愛息子の新しい着物に仕立ててやらなければ、今着させている着物では寸法が合わなくなり、手足どころか腹までも が出てしまう。どうせ着せるのであれば、しっかりした着物にしてやりたい。しかし、普段であれば聞き流せるチヨの どうでもいいお喋りが、今日に限ってはたまらなく耳障りだった。

「そんでな、水神様が下すった御蚕様、付けるに付けられんかったんね」

 チヨは甘えてきた糸丸を抱き上げると、膝の上に載せた。あねうえ、あねうえ、と舌っ足らずに言いながら、糸丸は 小さな手のひらをしきりにチヨに伸ばしている。チヨはその手に指先を握らせつつ、苦笑する。

「八重姫様みてぇな別嬪さんならええやろけど、おらみてぇなのに御蚕様はちぃとなぁ……」

 人柱にされた村娘の分際で、貢がれているとは何事か。八重姫は毒液の滲む牙でぶつりと糸を断ち切ると、糸の 尖端を撚り合わせて針にしたものを指先で弾き飛ばした。苛立ちに任せて放った割には的確な方向に飛び、チヨの 顔の脇を通り抜けた。手入れが悪くぱさついた髪が何本か切れて舞い落ち、針は剥き出しの岩壁に突き刺さった。 僅かな間の後、チヨは青ざめて糸丸を背中に庇った。

「何するんだいや!」

「喧しくて適わぬえ」

 チヨの狼狽ぶりで少しだけ気が晴れた八重姫は、口から細い糸を吐き出して尖端を撚り、針にした。

「だったら、そげなことせんで、口で言えばいいだがんに」

 チヨは壁際まで後退ると、糸丸を抱き締めた。八重姫は四つの目で手元を見、もう四つの目でチヨを睨む。

「下賤な小娘が。わらわがそのようなことを申すわけがなかろうぞ」

「なんで?」

「そなたのような泥まみれの農民に、このわらわが気を割くようにと申し出させよというのかえ」

「はぁ!? そったらこと、自分で言えばいいねっか! 自分のことだがんに!」

 あまりの言い分にチヨが面食らうと、八重姫は朱を差した唇を歪めて牙を剥く。

「そなたは糸丸の飯を炊き、湯冷ましを湧かしておれば良いだけのこと。思い上がるでないわ」

「それは八重姫様のためでねくって、糸丸のためなんだいや! おらがせんと、糸丸は育たんかったろうに!」

「わらわも火さえ扱えれば、そなたになど頼りはせぬわ」

「火ぃ使えても使えねくっても、なんも変わらんかったろうに!」

 ぎゃあぎゃあとうるさいチヨの相手もするのも嫌になってきたので、八重姫は何も言い返さなかった。

「思い上がってんのはどっちだでな!」

 それが癪に障ったのか、チヨは腰も浮かせた。だが、八重姫は相手をする気は毛頭ないので手を動かした。チヨは 口惜しいのか、八重姫に思い付く限りの文句をぶつけてきたが、目もくれずに着物を一枚仕立て上げた。毒牙で 糸を溶かして断ち切り、縫い目を確かめていると、チヨは余程頭に来たのか、糸丸を抱きかかえた状態で八重姫の 下半身に飛び降りた。八本足が柔らかく曲がって二人の重みを受け止め、外骨格が擦れ合う。もう一段飛び跳ねて 洞窟の地面に着地したチヨは、八重姫に舌を出してから走り去った。糸丸は何がなんだか解っていないらしく、彼女 の腕の中で声を上げて笑っている。それがまた一層苛立ちを呼び、八重姫は耳元まで裂けた口を曲げた。
 朽ち果てた辻堂をばらして木材を運び込み、洞窟の岩場を土台にして造った糸丸のための住み処は、地面から 浮いたような形になっている。八重姫の目線に合わせたのでかなりの高さがあるが、万が一糸丸が伝って転げ落ち てしまっては困るので梯子は掛けていない。なので、チヨと糸丸がその住み処から出入りするためには、八重姫の 手を借りるか、或いは九郎丸に抱えてもらうかの二つしかないのである。故に、チヨは八重姫に逆らえるはずもない と考えていたのだが、甘かったようだ。何せ、相手は野山を駆け回っていた村娘なのだから。

「また何をやらかしたんだ、え? 鬼蜘蛛の姫よ」

 洞窟に滑り込んできた九郎丸は、小屋の屋根に止まると、けたけたと哄笑した。

「あの小娘を泣かせてみやがれ、叢雲の爺に嫌味を言われっちまうぜ。もっとも、それだけで済めばいいがな」

「喧しい」

 八重姫は再度糸を撚って針を作ると、九郎丸へと弾き飛ばした。額に突き刺さって血潮が噴き出し、クケェッ、と 一声上げて仰け反った鴉天狗は屋根から転げ落ちて地面に叩き付けられた。頭蓋骨が割れるような音がしたかも しれないが、心底どうでもいいので、八重姫は二着目の着物を仕立てに掛かった。
 鋭く伸ばした爪先で反物を裁ち切り、三着目の着物を仕立てようと針と繋ぎ合わせた糸を差し込もうとしたが、ふと 気になって八重姫は顔を上げた。そういえば、糸丸はどこに連れて行かれてしまったのだろう。どうせ八重山の中で 彷徨いているか、叢雲山に入っているかのどちらかだろうが、どこに行ったかは把握しておかなければ。山中に 張り巡らせている糸を張り詰めればすぐに居所が掴めるはずだ、と八重姫は洞窟に張っている繰り糸に八本足を 掛けようとしたが、無惨にも脳天が割れている九郎丸を見下ろして考え直した。人間はおろか妖怪までもを容易に 切り裂ける糸を張り詰めれば、チヨだけでなく肝心要の糸丸までもが切り刻まれてしまうのではないか。
 途端に、背筋が逆立った。




 愛する男の頼みとはいえ、気が進まぬ事この上ない。
 何が悲しくて、好きでもない男の素性について探らねばならぬのか。どうしても嫌だと貞元に泣き付いてしまいたく なったが、それは貞元を困らせてしまうだけだ。自由の効かぬ身となった貞元に付き従い、支えることこそが自分の 役割だと信じているから、余計に今回の頼み事は釈然としなかった。肉体から引っこ抜いた魂と肝を使って、村娘に 化けた白玉は耳と尻尾を伏せながら歩いていた。そこらに鬼蜘蛛の八重姫が張り巡らせている糸があるので、それに 手足を引っ掛けてしまわないように気を付けながらであるため、足取りはもたつきがちで、それが尚のこと憂鬱な 気持ちを煽り立ててくる。大きな倒木を乗り越えて苔生した地面に飛び降りた白玉は、項垂れた。

「ああ、お前様……」

 貞元の期待には応えたい。だが、心と体が抗おうとする。

「あたしが好いとる男は貞元様だけだってぇのに……」

 倒木に寄り添うように座り込んだ白玉は、白粉も紅も差していない顔に触れた。

「それとも何か。あの忌々しい蜘蛛女に填められてからというもの、湯浴みどころか白粉も叩けないし紅も差すことも 出来ていねぇから、貞元様はあたしに愛想を尽かしたんじゃあ」

 思い出してみれば、白玉と貞元が出会ったのは私娼窟であった。大した血筋でもない狐妖怪の一族から生まれた 白玉は、血族達と共に山奥でひっそりと生き長らえてきたが、戦国乱世の幕開けと共に侍や兵隊が雪崩れ込んで きて一族もろとも住み処から追いやられてしまった。命からがら逃げて別の山に入ると、この山でもまた激しい戦が 起き、仕方ないので人里に下りて人間に化けて暮らそうとすると、僧侶や霊媒師やらに正体を見抜かれて払われて しまい、いつしか一族は散り散りになっていた。
 薄汚れた野良犬のようになった白玉は、妖力も底を突き掛けていて妖術も操れぬほど疲れ果ててしまい、その日 の食い扶持を漁るだけで精一杯だった。そんな時、夜中の山道で身を伏せて獲物を待ち構えていた白玉の前に、 妙に身なりのいい女が現れた。洒落た髷を結って沢山のかんざしを挿して白粉を叩いて紅を差し、着物の胸元と裾 が開いていた。何者からか逃げているらしくしきりに背後を窺っていたが、提灯も持たずに夜道を歩いていたせいで 足元を踏み外した。短い悲鳴を上げて山の斜面に転げ落ちた女は、斜面から突き出ている岩にぶつかったらしく、 硬いものが砕ける音と血臭が鋭敏な鼻と耳に突き刺さってきた。人間であろうと肉には代わらぬ、と白玉は四つ足 で夜道を駆けて雑草が一筋薙ぎ払われている斜面を滑り降りると、上下逆さで絶命した女の元に辿り着いた。脳天 が真っ二つに割れていて、洒落た髷はおろかかんざしも化粧も台無しになっていたが、着物は傷んでいなかった。 白玉は女の死体から着物と帯を奪い、女が襟元に隠していた僅かな路銀も奪い取ってから、一心不乱にその肉を 食った。そして、岩を生臭く塗り潰している脳髄を啜ると、女がどんな人生を送ってきたのかを理解した。女は武家 の娘として生まれたが、戦乱によって御家断絶の憂き目に遭い、嫁ぎ先となるはずだった武将も戦死して、そちらも 御家断絶してしまい、辛うじて生き延びることは出来たが食うにも困るようになり、仕方ないので生まれ持った器量 を生かして春を売ることにしたが、好きでもない男に好色な目を向けられるのが耐え難くて逃げ出した。だが、その 途中で死んでしまった、というわけである。ならば女に成り代わろうと思い立ち、白玉は女の着物を着た。
 なけなしの妖力を振り絞って女と同じ姿形に化けた白玉は、女を連れ戻しに来た私娼窟の用心棒共にさめざめと 泣いて謝ってみせた。路銀として掠め取ってきた売上金を賄賂として渡すと、荒くれの用心棒共は、俺達と同じ床に 就いてくれれば元締めには何も言わない、と言ってきた。白玉がその通りにするとか細く答えると、用心棒共は嬉々 として白玉の腕を取った。が、その瞬間に白玉は狐火で用心棒共の頭を煮えさせ、路銀の金子を奪い返してから、 女と同じ末路を辿らせた。その後、女と用心棒共の臭いを辿って私娼窟を見つけ出した白玉は、何食わぬ顔をして 女の住まう部屋に収まった。人間の真似事をして煙管を蒸かしていると、白玉の部屋に頭巾で顔を隠した屈強な男 が入ってきた。もしや人殺しが知れたか、と白玉が身構えかけると、男は頭巾を解いて素顔を見せた。

「忘れたりするわけがねぇ」

 その時の貞元の面持ちを思い返した白玉は、陶酔してため息を零した。艶めかしい思い出に浸ろうと白玉が瞼を 閉じると、どこからか非常に耳障りな声が聞こえてきた。年端もいかぬ赤子と、訛りのきつい若い娘の声だ。追憶に 茶々を入れられたので白玉は無性に腹が立ち、尖った耳を立てながら声の主を捜した。すると、山道とすらいえぬ 荒れた獣道を大股に歩いてくる人影があった。

「今度ばっかりは我慢がならねぇ! おらが何したってんだいや! ええい腹が立つ!」

 粗末な着物を着て髪を一纏めに縛っている若い娘は、背中に一歳程度であろう赤子を背負って歩いている。

「そら、ちぃーっと、ほんのちぃーっと自慢したかもしれんけど! 男んしょからええモノをもらうのは、あれが初めて だったんだいや! 自慢して何が悪いんけ! なあ糸丸、お前もそう思うろ!?」

 若い娘の背にしがみついている赤子は、言葉には至らない声を出した。それを同意と受け止めたのか、若い娘は 歩みを止めて赤子を軽く揺すってやってから、また歩き出した。

「誠の姫様でもねぇくせに何を偉そうなことをぬかしとるんだか、あの化け蜘蛛女は。考えてみれば、おらがするって 言うたんは飯炊きと湯沸かしだけだすけん、洗濯やら薪集めやら仕込みやらせんでもええはずだがんに。飯炊き女 でも召使いでもねぇっつうに、ああもう……」

 余程腹に溜まっていたのだろう、若い娘は恨みがましく文句を吐き出している。

「そら、おらは姫様姫様言っとるかもしれんけど、そう言っておかんといつ殺されるか解ったもんじゃねぇからだでな。 そうでなかったら、あんな女に姫様姫様言うたりはせんって。ああ、やっぱりあんな女に御殿様の御落胤なんぞ勿体 ねえいや。そんだ、赤城様の手拭い、拾っとこう。そうすれば、いざって時に糸丸にあの手拭いを持たせて、赤城様 の御屋敷にでも預ければええいや。そうすれば巡り巡って御殿様んところにも帰れるろ」

 えーと、と若い娘が辺りを見回し始めたので、白玉は首を引っ込めた。良く見ると、娘の左目はなく、瞼の下には 薄暗い眼窩が覗いていた。手拭いとやらの位置を思い出したのだろう、若い娘は急ぎ足になった。だったらそれを 邪魔してやろう、と腹立ち紛れに思い付いた白玉は狐に化けると、娘の足取りよりも俊敏な動作で草むらを駆け、 草木の匂いにかすかに混じった藍染めの匂いを辿った。先程の場所からしばらく離れた斜面に辿り着いた白玉は、 木の枝に引っ掛かっている手拭いに白抜きになっている紋所を見、げんなりした。

「そんなことだろうとは思っちゃいたけど、おお嫌だ嫌だ」

 鼻面にシワを寄せた白玉は、後退りかけた。貞元が白玉に素性を探らせている相手であり、貞元の命令で白玉 が道に迷わせた侍である、赤城鷹之進の紋所である違い矢羽が染め抜かれていた。出来ればこんなものは触れる のも勘弁願いたいが、貞元の命令には背けない。だが、忌々しい鬼蜘蛛の姫に一泡吹かせてやりたい気もある。 その間にも、若い娘の足音は近付いてくる。白玉はしばし考えた後、間を取ることにした。
 乱暴に雑草を踏み分けながら手拭いに近付く若い娘の背後に回った白玉は、辺りを見回し、手頃な大きさと重さ の石を見つけた。それに前足を載せて妖力を与えてから、若い娘の傍に駆け寄って糸丸と呼ばれた赤子にも尻尾 を掠めさせて妖力を与え、娘が手拭いに手を伸ばしかけた瞬間に妖術を掛けた。

「うぎゃっ!?」

 一瞬の間の後、糸丸と石の位置が入れ替わった。赤子を遙かに勝る重量を背中に受けた若い娘は、鈍い悲鳴を 上げて俯せに倒れ込んだ。身を捩って背中に載っている大振りな石を転がしてから、起き上がり、目を丸めた。

「あれぇ? 糸丸、いつのまに石になったんだいや?」

 白玉は人に化け直して糸丸を抱くと、腰を屈めて足音を殺し、その場を立ち去った。手拭いを目の前にして赤子が 石に変わったことが不思議でならないのか、立ち上がって赤子の名を呼んでいる。

「糸丸やーい、どこに行ったんだいやー」

 せいぜい困っているがいい。腹の底に溜まった苛立ちが晴れ渡った白玉は、手に入れた瞬間から糸丸のことなど どうでもよくなってしまい、適当なところに置いていこう、と頭上の木の枝へと飛び移った。出来るだけ背の高い木を 選んで次から次へと飛び移り、下からは絶対に見つけられないであろう太さの枝に糸丸を載せた。

「待っていておくんなせぇ、お前様ぁん。今、お前様の白玉が帰りやすぅ」

 白玉は込み上がる貞元への思いに身悶えしながら、木の枝から飛び降りた。着地した瞬間に再び狐に化けると、 貞元が隠れ住んでいる八重山の一角へと向かった。鬼蜘蛛の姫が張った糸の位置を見定めるために目を凝らそうと するが、なぜか糸が一本も見えなくなっていた。はては鬼蜘蛛の姫が、糸が見えないように細工したのか。だが、 それにしては妖力が薄い。今し方までは、八重山のどこにいようとも四方八方から殺気が感じ取れたのだが。
 どうにも腑に落ちない白玉は、雑草を一本食い千切って吐き付けた。しかし、雑草は糸が張り詰めていた空間に 至っても細切れになることもなく、腐葉土が積み重なっている地面に落ちた。それでも今一つ信じ切れない白玉は、 おっかなびっくり前足を差し出してみた。最初は爪先、次に肉球、と慎重に動かしてみたが、毛の一本も切れることは なかった。これはつまり、そういうことではないのか。
 歓喜した白玉は愛する男の元に向けて駆け出したのとほぼ同時刻、チヨは茫然として突っ立っていた。どこをどう 探してみても、糸丸の影も形もない。大事に背負っていた糸丸が突如石にすり替わってしまった理由は解らないが、 もしかしたら、この石が糸丸に戻るのではないかと思うと手放せず、チヨは腰に堪える重みの石を持っていた。声を 張り上げて糸丸の名を呼ぶが、あの幼い声はどこからも返ってこない。これが八重姫に知れたら、九郎丸の如く、 折檻されるに違いない。いや、それだけで済めばいい。糸丸が崖から転げ落ちでもしていたら。

「うぁああああっ!?」

 チヨは頭を抱えようとしたが、石を持っていたので思い切り振り上げてしまい、額を割った。

「うおおおおおっ!?」

 最初は動揺で、次は激痛で。チヨはあまりの痛みと衝撃によろけたが、踏み止まり、石を背負った。柴刈りで使う ために腰紐の上に巻いていた荒縄を解いて石を赤子のように担いだチヨは、正真正銘、死に物狂いで糸丸を探し 始めた。肉体は死んでいるかもしれないが、額には猛烈な痛みが広がり、鼻筋から顎に掛けては冷水のような血が 垂れている。おまけに、頭を打った余韻でくらくらする。そのせいで枯れ葉に足を取られ、強かに転んだ。
 兎にも角にも、糸丸が無事でいるうちに見つけ出さねば。





 


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