鬼蜘蛛姫




第五話 真情に至る針先



 肝が痛い。腹が痛い。頭が痛い。
 八本足が互い違いに動き、ぎくしゃくと大きな下半身が揺れ動く。糸丸の二着目の着物を縫い合わせるために、 口から出している針付きの糸を切り忘れたので、糸が唇に食い込んで浅い切れ目を生む。そこから滲んだ一筋の 血が顎を伝って落ちていくが、そんなことを気にしている余裕はなかった。糸丸の一部であるかのように縫いかけの 着物を抱き締めながら、八重姫は八つの目を全て開いてしきりに動かした。万一のことがあってはならないと思い、 八重山の至るところに張っていた仕掛け糸を断ち切ってしまったので、縄張りの中にいる者の居所を探る力が格段 に落ちてしまった。妖怪ならまだしも、糸丸は柔らかくて暖かくて弱々しい人間である。糸が見えるはずもなく、もしも 見えたとしても好奇心に任せて触れてしまうかもしれない。そうなれば最後、あのふっくりとした小さな指先が芋虫を 踏むように潰れ、丸々とした短い腕が裂けて細い骨が現れ、首が、頭が、足が、胴体が。

「うぅ」

 もしも、そんなことになったとしたら。八重姫は目眩に襲われ、額を押さえた。

「糸丸や、糸丸やぁ」

 声を張り上げようとするが、いかんせん腹に力が入らない。そのせいで注意が散漫になってしまい、普段であれば 踏み外すことのない倒木を踏み損ねて情けなく滑り、苔と雑草に没した。八重姫は狼狽えながら辺りを見回す。

「糸丸や、糸丸や」

 草が少しでも揺れれば息子ではないかと目を凝らし、鳥が一声鳴けば赤子の泣き声ではないかと耳をそばだて、 獣の影が過ぎれば追い掛けそうになる。こんなことなら、荒井久勝に渡した揃いの鈴のように、糸丸の着物に糸を 結び付けておけばよかった。だが、いくら後悔しても後の祭りだ。糸丸の世話に不可欠な仕事をチヨに丸投げして、 糸丸を愛玩するばかりで気を配らなかった自分がいけないのだから。
 同じように、赤子の名を呼ぶ声がした。もしやと八重姫は顔を上げて足早にそちらに向かうと、なぜかは解らぬが 石を背負って額から血を流して泣きじゃくりながら声を嗄らして叫ぶチヨがいた。妖怪からしても異様な格好だった ので、足音を殺して背後に回った八重姫がそっと手を伸ばすと、チヨは八重姫を認めた途端に仰け反った。

「ぎゃあ八重姫様!」

「ぎゃあ、はなかろうぞ」

 八重姫が不愉快げに眉根を顰めると、チヨは涙やら何やらで汚れた顔に更に涙を流し、石を差し出してきた。

「あ、あんなぁ、八重姫様ぁ、糸丸がなぁ、こんなんなっちまったんだいや」

「はて」

 どこからどう見ても、ただの石である。八重姫は指先でその石を小突くが、やはり石以外の何物でもない。

「嘘じゃねぇいや! 糸丸をな、背負ってな、この近くまで来たんだども、そしたら糸丸がおらんようになっちまって、 そったらおらの背中に、この石がおってなぁ!」

 混乱しすぎて冷静さを失ったチヨは、赤子を抱えるように石を抱き締めた。八重姫は一度瞬きしてから、少し鼻を 効かせると、その石から獣じみた匂いが漂ってきた。チヨの血の臭いに紛れているので感じづらいが狐狸妖怪特有 の臭気と妖気が含まれている。ということは、チヨはどこぞの狐狸妖怪に化かされてしまったのだろう。だとしても、 一体どこの狐狸妖怪なのだろうか。八重山を中心とした一帯に巣くっていた狐狸妖怪の類は一切合切追い払い、 至るところに糸を張り巡らせて住み着かれないようにしている。ならば、考えられる筋はただ一つ。蜂狩貞元の妾で ある妖狐、白玉に違いない。八重姫は総毛立つほどの怒りに駆られたが、ふと、思い直した。白玉を見つけ出して 殺してしまうのは容易いが、もしかすると白玉は奪った糸丸を盾にしてくるかもしれない。それは拙い。そんなこと をされては、牙から毒液を滲ませるどころか糸を放つことすら出来なくなる。

「嘆かわしや、嘆かわしや……」

 袖で顔を覆った八重姫が全ての目から涙を落とし始めたので、チヨは混乱が一巡りして冷静になった。

「なんで泣くんだいや、八重姫様。泣きたいのはおらの方だがんに」

「糸丸にもしものことがあってみよ、わらわは明日から何をしてゆけばいいのかえ」

 顔を逸らして背を丸めた八重姫に、チヨは泣き濡れた顔を袖で拭って体裁を整えた。

「そらまあ、妖怪っつうのは人間みてぇに毎日毎日仕事があるわけでねぇもんなぁ。こって暇になるいや」

「糸丸や、糸丸や」

 八重姫は居ても立ってもいられず、よろめきながら歩き出した。チヨは木の上に登った方が糸丸を探しやすい、と 提案してきたが、落ち着きを失った八重姫はそれを聞き届けるどころか耳にすら入らなかった。まとわりついてくる チヨを追い払う気力もなく、糸丸の気配を探れるほど妖力を高ぶらせる余力もなく、他の誰かに助けを求めるという 手段を思い付けるような頭もなく、八重姫は闇雲に歩き回った。そのうちに日が翳り、木々が鬱蒼と生い茂った森は 夜の帳にすっぽりと包まれて冷ややかな夜気が降りた。八重姫は声が嗄れるほど我が子の名を呼び、チヨもまた 幼い子の名を呼ぶが、返事はおろか気配すら感じ取れなかった。
 八方塞がりである。




 腐り落ちる寸前のような色合いの太い指が、喉を締め上げる。
 そう、これだ。これがあるからこそ、貞元が愛おしい。唇をだらしなく半開きにして獣らしく尖った牙を覗かせ、息も 絶え絶えになりながら、宙に浮いた手足をびくつかせる。目の焦点が定まらずに独りでに震え、狂おしく愛おしい男 の姿が涙でぼやけてしまう。兜と面頬の下に隠れている腐った色味の顔は、生前と同じく歓喜している。親指の先で 白玉の涎に汚れた顎をなぞってから、苦しさのあまりに突き出ている舌に触れてきた。凶暴な力を保ち続けている 手とは裏腹の優しさを宿している指先の感触に、白玉は無意識に尻尾が揺れた。

「儂はそのようなこと、命じてはおらぬ」

 途方もない苛立ちに内包された喜びに、貞元は打ち震えている。

「外堀を埋めよと申したであろう。それをもう忘れてしもうたか。人に化けられようと、やはり獣は獣か」

 喉を締め上げる手が握り締められ、首の骨までもが曲がる。ぎぃ、と白玉は胸を反らす。

「荒井久勝の嫡男に手を出すのは最後の最後であり、奴を屠るのは儂だ。二度と手を出してはならぬ」

 更に力が高ぶると、石を砕いたかのような音が鳴り響き、白玉の首から下がだらりと脱力する。

「解ってくれぬか、白玉や」

 気を失った白玉をぞんざいに放り投げた貞元は、かつての部下達や亡霊達の亡骸を掻き集めて成し上げた人骨 の山にもたれかかると、手近な髑髏を一つ取って半分に割り、干涸らびた脳髄が貼り付いている頭蓋骨の内側に 並々と酒を流し込んだ。それを旨そうに呷ってから、片膝を立て、妖狐を見下ろす。

「のう、白玉や」

 この愛おしげな、満足げな、楽しげな、弾んだ声色。放り投げられた際にはだけた襟元と割れた裾から零れ出した 素足に這い回ってくる、毒蛇の如く冷酷な眼差し。気分が乗っている時は、白玉が動けるようになるまでは徹底的に 責め抜いてくるのだが、今日はそうではないらしい。無様にはみ出した舌先に触れる土の味を感じながら、白玉は 汗ばんだ太股を摺り合わせ、二股の尻尾を上げた。酔狂な性癖を持ち合わせている貞元を慰められるのは、自分が 人間ではないからだ。壊れやすい人間であれば、貞元を満たす前に死んでしまうだろうから。

「この阿婆擦れが」

 くつくつと笑みを漏らしながら、貞元は髑髏の杯を傾け、朦朧としている白玉の頭に酒を注いだ。

「なんとでも申しておくんなせぇ、お前様」

 玉の汗が浮いた額から青黒い手形の痣が付いた首筋に垂れ落ちる酒の冷たさに、白玉は酔いしれる。

「身の程を知れ」

 白玉の襟元を乱暴に掴んで抱き起こした貞元は、面頬の隙間から伸ばした舌で白玉の頬を汚す酒を舐める。

「これに懲りたら、儂の命に背くでないぞ。解っておろうな、白玉や」

「はい、お前様ぁ」

 弛緩した笑みを浮かべた白玉に、貞元は甘ったるく囁く。

「愛い奴よ」

「お前様が喜んでくれるってんなら、白玉はどんなことでもやってみせまさぁ」

 妖力を回して首の傷を治し、手足の自由を取り戻した白玉は、貞元の首に腕を回す。苦痛と期待でうっすらと汗を 掻いた足を開き、腰を下ろすと、貞元は鎧の上からでも解るほど強張っていた。白玉が小さく笑むと、貞元は照れを 誤魔化すためなのか、これ見よがしに二杯目の酒を呷った。
 生まれ付いての性分なのか、蜂狩貞元は加虐に快楽を見出す輩なのである。幼い頃から、虫や獣を掴まえては 死ぬまでいたぶることが好きではあったが、穏やかな性格と人当たりの良い外面も合わせて生まれ持っていたことで その性分を咎められることはなかった。だが、成長するに連れて加虐を好む性分に性欲も合わさり、ごく普通に 交わるだけでは我慢が効かなくなってきた。有力な武家と蜂狩家を通じ合わせるために宛がわれた嫁とは、世継ぎ を成すという大義名分があったために最後まで致すことが出来たが、快楽とは程遠いものだった。体を鍛えて武術 を磨いても持て余した欲情は晴れず、悶々としていた時にふと思い出したのが私娼窟であった。身分も顔も隠して 私娼窟を訪れた貞元が目を付けたのが、見目麗しい遊女、環であった。と、白玉は貞元と互いの情欲を貪り合った 時に寝物語に聞かされたことがある。そこまで聞かされれば、私娼窟から環が逃げ出した理由もおのずと解る。
 貞元は環と同じ着物を着て化けている白玉のことを環であると思い込み、それまで通りに金に物を言わせて白玉 を扱ってきた。首をきつく締め上げられた白玉は、一度は気を失ったが息を吹き返したが、その最中も貞元は白玉 を責め続けていた。絶え間ない交わりによって与えられる快楽は止めどなく、白玉がそれまで味わってきた苦痛や 何やらが怒濤のように押し流された。事を終えた貞元が早々に身支度を調えていたので、白玉は貞元に縋り付いて 懇願した。お前様に付いていきとうごぜぇやす、と。その時から、二人の修羅の道が始まったのだ。

「解ったか、白玉や」

 貞元が白玉の裾に手を入れると、白玉はその冷たくざらついた手の感触に身震いする。

「そいつぁもうっ……」

「ならば、行けい。荒井久勝の嫡男を、化け蜘蛛の元に戻してやるのだ」

 白玉の裾から素っ気なく手を引き抜いた貞元は、白玉を放り出した。

「もう終わりですかい、お前様?」

 不満げに唇を尖らせた白玉に、貞元は一笑した。

「そうがっつくな。夜はこれからよ」

「まあ、お前様ったら」

 白玉は赤面すると、酒に濡れた顔や髪を拭って身支度を調えてから、二人の周囲に力なく垂れ下がっている蜘蛛 妖怪の糸を抓んでみた。それまでの切れ味は皆無で、少し引っ張っただけで容易く千切れた。

「女々しい蜘蛛め。たかが赤子一匹奪われた程度で、その様とは」

 鬼蜘蛛の姫の打たれ弱さが物足りないのか、貞元はちゃぷちゃぷと酒を波立たせた。

「女っちゅうもんはそういうもんでさぁ。白玉だって、お前様との間に子が産まれていりゃあ、その子を大事に大事に 育てるに違ぇありやせん。殿方から見れば、どうしようもねぇかもしれやせんけどね」

 首筋に生々しく残る手形の痣も妖力を用いて消してから、白玉は村娘に化けた。

「赤城鷹之進の手拭いを持ち去るのも忘れるでないぞ。あれがなければ、いかに白玉とて赤城には取り入れぬ」

 貞元に釘を刺され、白玉は首を竦める。

「そうでごぜぇやすかねぇ。白玉が見た限りじゃ、赤城って野郎は一度こうだと決めたら脇目も振らずに猪突猛進、 っちゅう性分のようですから、そんな小細工はしねぇでもよろしゅうごぜぇやすかと」

「赤城はな。だが、その赤城の傍には、暴れ馬である赤城の手綱を握り締めておる者がおることを忘れるな」

「早川のことですかい」

「うむ」

「だったら、いっそのこと、早川に手ぇ出しちまった方が手っ取り早いんじゃねぇですかい?」

「いや。奴の性分では、儂の策には乗ってこぬ。故に赤城だ」

「そんじゃお前様、行って参りまさぁ。後のこと、楽しみにしておりやすぜ!」

 白玉がにこにこしながら手を振ってみせると、貞元は杯を掲げた。が、やや顔を伏せて目を合わせてこなかった。 今更何を、とは思うのだが、そういったところもまた貞元の魅力なので白玉は上機嫌になった。鬼蜘蛛の姫と左目 が潰れた娘の匂いを辿り、明かり一つない闇に浸食された山道を駆けていくと、二人は未だに糸丸の名を呼びつつ 山中を彷徨い歩いていた。肝心要の糸丸の様子を見るため、白玉は手近な木の枝に飛び乗り、跳ね、糸丸の元に 辿り着いた。枝を揺らさぬように気を付けながら、枝の根元にしがみついている赤子に近寄ると、糸丸は涎まみれに なった顔を枝に擦り付けながら熟睡していた。一度でも寝返りを打てば枝から転げ落ちて地面に叩き付けられる高さ だと知ってか知らずか、ぞんざいに置かれた格好のままで寝入っていたようだ。剛胆である。
 その肝っ玉に敵ながら呆れるやら感心するやらだったが、白玉は貞元の言い付けの通り、眠りこけている糸丸を 抱きかかえて枝を飛び跳ねて地上に降りた。それでも尚目覚める気配すらない糸丸をそっと木の根本に横たえて から、これ見よがしに枝葉を揺すってやると、八重姫とチヨが気付いた。白玉はすぐさま遁走したが、なんとなく腑に 落ちなかった。だが、これで貞元に可愛がってもらえると思うと足も軽くなり、急ぎに急いで貞元の元まで戻ってみると 愛すべき落ち武者は酔い潰れていた。そういえば、生前から貞元は酒に弱かった。叩いても揺すっても蹴っても 起きないので、色々なものを持て余した白玉は自棄になって徳利に残っていた酒を呷った。
 その空しさたるや。





 


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