鬼蜘蛛姫




第五話 真情に至る針先



 ようやく見つけ出した赤子は、可愛らしい寝息を立てていた。
 何度となく肌に触れて温もりと弾力を確かめ、口元に耳を当てて呼吸を確かめ、抱き上げてその重みを確かめ、 匂いも確かめ、思い付くままに確かめ抜いた。寝惚け眼の糸丸が胸に縋り付いてきたことで、八重姫はやっと安堵 してへたり込んだ。精魂共に尽き果ててしまい、八本足を全て広げて地面に腹這いになった。こんなにはしたない姿 は誰にも見せないのだが、さすがに今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
 夜も更けたので、これから八重山の住み処に戻るのは大変だろうということで、チヨの提案で叢雲山にあるチヨの 住み処に向かうことにした。チヨの帰りが遅いことを案じた叢雲とも鉢合わせ、チヨが一通り説明してやると、叢雲は 懸念を交えつつも納得してくれた。叢雲に先導され、チヨが住み処にしている洞窟に辿り着くと、チヨは火打ち石を 持ってきた。薪を重ねた上に焚き付けの枯れ葉を被せ、その上で手際良く火打ち石を打つと火が付いた。

「ああ、これで明るうなったいや」

 チヨは火打ち石を片付けてから、焚き火の傍に戻ってきた。そして、八重姫に手を差し出す。

「糸丸、こっちゃ寄越してくれねっか。体が冷えとると拙いすけん、ぬくめ返さねっと」

「体が冷えると、どうなるのかえ」

 火には近付けないので八重姫が身を引いていると、チヨはずかずかと近付いてきた。

「病気になるに決まっとるろ。そったらことも知らんのけ」

「そうなると、どうなるのかえ」

「そこから説明せんとならんのけ。七面倒くさいったらねぇや」

 八重姫が糸丸を差し伸べると、チヨは糸丸を受け取り、焚き火の傍で胡座を掻いた。

「赤子ってぇのは、人間の中でも特に弱いんだいや。だからな、ちょっとしたことですぐ死んでしまうんよ。おらの兄弟 だってそうだ、おっ父とおっ母がおらの上と下に何人もこさえたんだども、ちゃんと生き延びられたのはおらを含めて たったの四人しかおらんかったんだいや。おら達以外の兄弟が死んでしもうたんはな、生まれてすぐ高い熱を出した とか、ちょっくら目を離しとった隙に用水路に落っこちちまったとか、おっ母のお乳があんまり出んかったせいで育ちが 悪かったとか、色々あるんだ。だすけんに、赤子ってのはおっかねぇもんだ」

 焚き火の熱で糸丸を暖めてやりながら、チヨは八重姫に頭を下げた。

「八重姫様。おらが悪かったいや。おらがあんなことせんだら、狐どんに化かされんでも済んだがんに」

「面を上げよ。そなたばかりが悪うわけではあらぬ」

 沈み込むあまりにチヨを慰めた八重姫に、叢雲が意外そうに目を見張った。

「おぬしの口からそのような言葉が出るとは」

「そんだら、八重姫の気が変わらんうちに色々と教えたるいや」

 顔を上げた途端にいつもの調子を取り戻したチヨは、糸丸の様子見を叢雲に任せてから八重姫を手招いた。訳も 解らずに近寄った八重姫の前に、チヨは粟が入った木鉢を突き出した。

「これが糸丸の御飯になるんだども、このまんまじゃいかんすけん、脱穀するんだいや」

「脱穀?」

「あのな、まずはこうしてだな」

 チヨはまた胡座を掻き、足元に木鉢を置いた。少量の粟を掬って手のひらの間で擦り合わせ、薄皮を剥く。

「な? やってみれ」

「はて」

 八重姫は戸惑いつつも、チヨに従って木鉢の前に腰を下ろした。見よう見まねで手のひらに粟を掬い、擦り合わせて みるが、力が強すぎたのか全ての粒が砕けて粉と化した。八重姫が目を丸めると、チヨは呆れた。

「そっげなことじゃ餅みてぇな粥にしかならんから、糸丸はせっかく生えた歯が使えんくってむずがるで」

「加減が解らぬえ」

 八重姫が粉の貼り付いた両手を広げてみせると、チヨはもう一度手本を見せた。

「八重姫様が掬った粟の量はええんだが、そこから先が悪かったんだいや。力が入りすぎなんだで」

「ふむ」

 八重姫は再び手のひらに粟を掬い、両手を重ねて縦にして擦り合わせた。手のひらに伝わる粟の粒は硬く、小石 のようにざらついているからか、無意識に力を込めていたようだ。なるべく力を入れないようにと意識すると今度は 手の力が抜けすぎたらしく、重ね合わせた手のひらの間から粟が零れ落ちた。仕方ないので、いくらか残った粟を 擦り合わせると、薄く軽い枯れ葉の屑のようなものが落ちてきた。それが粟の殻なのだろう。

「そんでな、皮が剥けたのも同じ鉢ん中に入れてな、また同じことをするんだいや」

 チヨは八重姫の手を広げさせ、脱穀した粟を殻ごと鉢に入れさせた。

「殻が混じっては、粥にはならぬえ。これからまた、殻と実を分けるのは手間ではないかえ」

 八重姫が不思議がると、チヨは洞窟の入り口に置いてある水瓶を指した。

「そったらこと、簡単だど。殻は実に比べて軽いから、水を入れたら浮いてくるんだいや。それを掬って捨ててから、 また水を入れて一晩浸すんだ。たんと水を吸わせてやらねっと、芯まで柔らかくなんねぇすけん」

「手が掛かるのう」

「あったり前だ。どげな食い物だって手ぇ掛けんと喰えねぇし、喰えるまで育てんとならんし。だからな、おら、水神様に 御許しを頂いたら畑でも耕そうって思っとるんよ。いつまでも水神様のお供え物に頼るわけにもいかんし、なんか 仕事がねぇとどうにも据わりが悪いっちゅうかで。つっても、どんだけ作物を育てたところでおらは喰えねんだども。 試しに何度か喰ってみたんだども、味も解らんし砂やら泥やら喰っているような感じでの、挙げ句に喰ったまんまが 出てくる始末で。そったらおらは喰わん方がええ、作った方がマシだ、って思うて」

 チヨは八重姫のぎこちない脱穀を手伝いながら、叢雲が見守る糸丸を見やった。

「あんな、八重姫様」

「何ぞ」

 少しずつ慣れてきた脱穀に集中しつつある八重姫が素っ気なく返すと、チヨは膝を抱えた。

「おらな、しばらく前に山ん中で御侍様にお会いしたんよ。その御侍様は、八重姫様を斬って糸丸を御殿様の元に 連れ戻すために山に来たんだども、狐どんに化かされちまっていたんだ。で、お困りになっていた御侍様を、おらが 助けたんだども、御侍様は義理堅い御方で紋所が入った手拭いを置いていかれたんだ。その時は御侍様に会った ことは水神様にはお話ししたんだども、八重姫様には内緒にしておいたんだいや。そったら、八重姫様があんなこと お言いになるから、かあっと頭に血が上ってもうて」

 チヨはやりづらそうに、乱れた髪をいじる。割れた額の傷には、叢雲が作った膏薬が塗り付けられている。

「糸丸に御侍様の手拭いを持たせて武家屋敷にお届けしてやろう、なんてこと、思ってしまったんだいや。そったら 糸丸は御殿様の御子に戻れるし、こって小せぇすけん、余計なことを覚える前に人の世界に帰った方がええ、って 思って。どうせ八重姫様は退屈凌ぎに糸丸を構っておられるだけだから、ええろって思うてしもってな。だすけんに、 おら、あっけんことしちまったんだいや」

「もう良い。聞き苦しいぞえ」

 八重姫は殻と剥いた実が混じる粟を掻き混ぜ、脱穀していない実を手のひらに入れた。

「言葉が過ぎるぞ」

 叢雲が八重姫を窘めると、八重姫は殻の剥けた実を木鉢に落とした。

「妖狐如きにわらわの縄張りを荒らされてしもうたのは、ひとえにわらわの力が足りぬからぞ。糸丸の姿を見失って しまったのも、わらわの細工が足らぬが故。己の非を認められぬほど、幼稚ではないわ」

「そったら、糸丸を連れ出しちまったことは怒ってねぇの?」

 チヨが怖々と八重姫を見上げると、八重姫は粟を再度掻き混ぜ、殻を被った粒を拾い上げた。

「そなたのような下賤な小娘に、わらわが怒りなど覚えるものかえ。身の程を知らぬのかえ」

「そったら、なんであんなに怒ったん? それがイマイチ解らんすけん、教えてくれねっか?」

 チヨが首を傾げたので、八重姫は言い捨てた。

「そなたがそこの老翁から下らぬものを贈られたことを、飽きもせずに吹聴しておったからぞえ」

「てぇことはつまりあれか、八重姫様ったら、おらが水神様から御蚕様をもらったことが羨ましかったんけ?」

 あんれまあ可愛らしゅうこって、とチヨがにやけたので、八重姫は戸惑った。

「……何ぞ」

「だが、あの絹織物はおぬしには渡せぬ。我への供物であり、我がチヨに捧げたもの故」

 叢雲までもが茶化してきたので、八重姫は苛立った。

「そなたらの手が触れたものなど、欲しいわけがあるものかえ。揃いも揃って下らぬことを」

「そったらえかった! 綺麗なんだで、きらきらしてすべすべして、天女の羽衣みてぇで、大好きなんだいや!」

 絹織物の細布が八重姫に奪われないと知った途端、チヨが娘らしく喜んだ。そんなチヨを、叢雲は愛おしげに目を 細めて見つめている。二人の戯れように八重姫はまたもや苛立ちが高ぶってしまったが、糸丸を放っていくわけにも いかない。それに、住み処に帰ってしまっては気が変わりかねない。チヨの言うように、母親がすべき仕事の内容と 方法を事細かに教えてもらわなければ、糸丸の母親にはなれまい。愛玩するばかりではいけない、と今回のことで つくづく思い知ったからだ。我が子に愛情を注ぐのはもちろんだが、糸丸を取り巻く環境についてもきちんと目を 向けていかなければ。八重姫の顔には、目玉が八つも付いているのだから。襟元に畳んで入れてある縫い掛けの 着物を仕立て上げたら、糸丸を奪われてもすぐに見つけられるように仕掛けを施しておかなければ。
 あんな思いは、二度とごめんだ。




 鬼の居ぬ間に、とはよく言ったものである。
 八重姫も糸丸もいない洞窟は耳に痛むほど静まり返り、入り口と小屋の上に位置している穴から吹き込んでくる 風が切なげに鳴っていた。傷に響く夜気は遠のき、ほんのりと空気が暖まりつつあった。地面にぶちまけてしまった 脳味噌を掻き集め、頭蓋の割れ目にねじ込んでから、妖力で強引に塞いだ。だが、それだけでは苦痛をも消すこと は出来ず、脳天に斧を叩き込まれたような痛みがあった。起き上がるだけで一苦労だったが、九郎丸はクチバシが 軋むほど食い縛って呻きを堪えた。うかうかしていては、八重姫が帰ってきてしまう。

「カァアアアアッ!」

 一声、猛る。洞窟全体に響き渡った渾身の鳴き声に驚き、周囲の木々から野鳥が羽ばたいていく。節くれ立った 四本指の手で地面を掴み、上体を押し上げる。妖力を一気に消耗したせいで羽根が抜け落ち、激痛に震える両翼 から黒く柔らかな雫が零れる。右へ左へ振り子のように体を揺らしながら、洞窟の奥を目指す。

「お会いしとうございました、ああ、ああ、ああ……」

 小石を踏み散らし、小屋の下に散らばる糸屑に爪先を取られ、羽根を何枚も落としながらも、進む。

「姫」

 九郎丸の僅かに潤んだ目が捉えたのは、洞窟上部の穴から差し込むかすかな朝日を浴びる墓石だった。だが、 それを一見して墓石だと認識出来る者は、九郎丸を除いて誰もいない。なぜなら、その石には銘も名も刻まれては おらず、ただの丸みを帯びた石を土塊に据えてあるだけだからだ。九郎丸は質素極まりない墓石の前で膝を折り、 翼を伏せて這い蹲り、夜露を帯びて湿った土に額を擦り付けた。クチバシが土を噛み、舌が砂に触れる。

「姫。そこにおられますね」

 丸い目を瞬かせながら土を握った九郎丸は、丸めた背を引きつらせる。

「御報告申し上げまする。姫は御存知でござりますでしょうが、あの化け蜘蛛は女の真似事どころか、ついに母親の 真似事を始めるようになったで候。姫は慈悲深い御方でござりまする故、化け蜘蛛に命運をねじ曲げられた赤子に 同情なさりますでしょう。それどころか、化け蜘蛛に対してもお心を寄せなさるやもしれませぬ。差し出がましいとは 重々承知の上ではありまするが、こうはお思いになられませぬでしょうか」

 あの化け蜘蛛を滅しては、と口に出しかけて、九郎丸はクチバシを閉ざした。それは九郎丸の手前勝手な願望で あり、姫が欲するであろう願いとは異なるに決まっている。かつて、ただの鴉に過ぎなかった九郎丸を愛でてくれた 八雲姫は、あらゆる生き物に平等な慈愛を与える心の持ち主だった。だから、妖怪といえども八重姫を滅ぼそうと は思わないであろう。それでいい、それでこそ八雲姫なのだ、と思う反面、たとえ鬼と化そうとも己の肉体を奪取して 化け蜘蛛から脱してほしい、とも願って止まない。どちらも本心である。それ故に、苦悩ばかりが募る。

「八雲姫」

 九郎丸はぎこちなく顔を上げ、愛おしい少女を思い起こしながら慎ましやかな墓石を撫でる。ただの野鳥であった 頃は決して出来なかったことが、今ならば出来る。九郎丸が鴉から鴉天狗へ変異出来たのは、ひとえに八雲姫の 無念を晴らさんという一念によるものである。それがなければ、九郎丸は土蜘蛛と女郎蜘蛛に喰われた八雲姫の 肝を寸でのところで掠め取り、こうして墓を建ててやることも出来なかっただろうし、獣とも妖怪とも付かない生き物 の血肉を喰らって妖力を得てそれらしい姿に変異することも成し得なかったであろう。

「もう少し、俺の与太話に付き合って下さりますでしょうか」

 九郎丸は墓石と向かい合い、笑顔のようなものを作ってみせたが、鳥の顔なので上手く出来なかった。

「姫は大層お美しゅうございます故、いかなるお召し物でもお似合いになられるでしょう。ですが、俺はどこの氏とも 筋とも付かない生まれの黒装束、姫のお気に召すものが何であるか見当も付かないのでござりまする。度々失礼を 承知の上でお尋ね申し上げまするが、姫はいかなる飾り物がお好きでござりまするか」

 八重姫が荒井久勝から贈られた柘植の櫛か、チヨが叢雲から与えられた絹織物か、はたまた妖狐の白玉が髷に 差しているような派手なかんざしか。いずれにしても八雲姫には似合うだろうが、どれが好きなのかが解らなければ 決めかねる。それ以前に、八雲姫が九郎丸を好いてくれているかどうか。下界を飛び回っている最中、女達が愚痴 を零す様を何度も見てきた。好きでもない男に付き纏われるのも嫌なら、物を贈られるのなど以ての外だ、と。
 自分とて例外ではないだろう。人に似せた格好をしているとはいえ、鴉は鴉なのだから。妖力が落ち着いてきた おかげで痛みも随分と和らぎ、心身共に余裕が出てきた九郎丸はその場に座り込むと、ふうっと息を吹いた。途端に 洞窟の至るところに落ちていた黒い羽根が舞い上がり、渦を巻きながら朝焼けの空へと飛び去った。汚したままに しておいたら、また八重姫に頭をかち割られかねない。

「どうするべきでござりましょうか、姫」

 怨霊と化した蜂狩貞元と、貞元に付き従う妖狐の白玉と、思惑を孕んだ一つ目入道の丹厳らが膝を突き合わせて 練っている目論見を八重姫に伝えるべきか。或いは叢雲に伝えるべきか。だが、相手の目論見が見通せていない のでは、対処のしようがないのも事実である。遠からず、良くないことが起きる。しかし、その結果次第では九郎丸 とてあちら側に下ろうと思っている。蜂狩貞元が荒井久勝と八重姫を屠って、八雲姫の体を切り離してくれたならば、 その時は八雲姫の肝を元在る場所に収めてやれるからだ。だが、朧気な可能性だけを抱いて貞元の側に付くのは 早計ではないか、とも思う。貞元は自分自身の恨み辛みで動いているのであり、他者のことなど知ったことではない だろう。かといって、いつまでも八重姫に虐げられ続けるのも。
 不意に、朝露を含んだ微風に混じって粥の匂いが流れてきた。ということは、チヨが糸丸の飯を拵えてきたのだ。 それと合わせ、八重姫の音を立てない足音の気配も近付いてくる。糸丸の笑い声もする。どうやら、ちゃんと仲直り 出来たようだ。他人事ながらほっとした九郎丸は、八雲姫の墓に深々と頭を下げてから、入り口に向いた。
 何事もなかったかのような顔をして。





 


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