鬼蜘蛛姫




第六話 継ぎ接ぎの劣情



 また一つ、亡霊が喰われた。
 かつては厳かな面差しの仏像が据えられていたであろう本堂には、寺にはおよそ似付かわしくない姿形の怨霊が 居座っていた。端々に金箔が残っている金剛玉座で胡座を掻いている悪しき男は、満足げに吐息を零した。腐った 死体が発する臭気にも似た淀みが吐き出され、湿った空気に混じる。被りっぱなしの兜を少し上げ、肩の凝りでも 解すかのように首を大きく回した蜂狩貞元は、面頬を当てているために表情が解りづらい顔を歪めた。

「良きかな良きかな」

 その口調は明るかったが、声色は重苦しく粘ついていた。

「いかなる理由で化け蜘蛛の疎ましき糸が緩んだのかは量りかねるが、おかげで儂も居城を移せたわい。あの山に 蔓延っておった亡霊も粗方喰い尽くしてしまったが、ここにはまだまだおる。なんとも都合が良い」

「あの妖狐はいつ戻るのだ? 主君であるそなたに顔すら見せぬとは」

 丹厳が訝ると、貞元は面頬に隠れた目元を細めた。

「あれは嫁に出した」

「嫁、とな」

 丹厳が驚いて目を見開くと、貞元はくつくつと喉の奥で笑みを殺した。

「もっとも、まだ嫁に取られる段階ではないであろうが、あの器量と妖術を持ってすれば造作もないこと」

「それがそなたの策なのか、貞元よ」

「そうとも。白玉が他の男に組み敷かれ、貫かれる様は思い描くだけで背筋が逆立つぞ。だが、その男がどれほど 白玉を貫いて悦ばせようとも、あやつは儂しか想ってはおらぬのだ。どうだ、素晴らしかろう」

 嘆息しながら呟いた貞元に、丹厳はどう返したものやらと迷った。丹厳が住職という名目で住み着いている無縁寺 に蜂狩貞元が転がり込んできたのは、つい先日のことである。夜も更けた頃合い、いつものように独り酒を傾けて いると本堂の観音扉が叩かれた。時折旅の者が訪れることがあるので、丹厳は人間の姿を装ってから出迎えると、 そこには妖狐を付き従えた怨霊が仁王立ちしていた。八重山に張り巡らされた八重姫の糸に戒められており、外に 出るなど以ての外では、と丹厳が呆気に取られていると貞元は我が物顔で本堂に上がり、丹厳が傾けていた酒を 奪い取って飲み干してしまった。白玉は赤城家の紋所が入った手拭いを懐に収め、少しばかり身なりの良い村娘に 化けると貞元に哀切な別れを告げてから無縁寺を後にした。それからというもの、丹厳は不本意ながら貞元と一つ 屋根の下で暮らす羽目になった。手を組んだ間柄とはいえ、用件がある時以外は近付きたくない輩なので、出来る ことなら追い出してしまいたかったがそうもいかない。味方面を保たなければ、今後に差し障りが出る。

「して、丹厳」

 貞元は墓場に転がっていた人骨を煙管のように銜え、噛み砕いて破片を散らした。

「儂も白玉も、未だにそなたが欲するものを存じておらぬのだが。話してはくれまいか」

「そなたらと大して変わらぬ」

 丹厳は貞元の足元にある徳利を引き寄せると、荒っぽくぐい呑みに注いだ。

「惚れた娘が一人、おるというだけのこと」

 ただ、それだけのことだ。生と死の狭間に揺らぐが故にどちらにも付けず、そこから先に至る術を見据えられず、 虚ろな時を無益に過ごすだけだった丹厳の元に訪れた、一時の安らぎのようなものだ。本を正せば、一つ目入道とは 怠け癖のある修行僧に睨みを効かせる妖怪であり、世俗の穢れと修行僧を切り離すために出来上がった概念で あり、色恋沙汰にうつつを抜かすなど以ての外であった。だが、長きに渡って同じ役割を勤めていると、単なる概念 であっても飽きが来る。ある日、ふと思い立ち、それまで戒めていた寺院に背を向けて俗世間を見下ろしたところ、 一つ目には収まりきらないほどの享楽が満ち溢れていた。だが、それにすら飽きた時、一人の娘と出会った。
 それが、他ならぬチヨであった。




 およそ百年前のことである。
 数百年に渡って険しい山の奥深くに建つ寺院の傍に住まい、俗世と修行僧達を隔てていた丹厳は、代わり映えの しない寺院での日々に気が滅入るようになっていた。寺院からは日がな一日念仏が聞こえてくるばかりで、坊主頭 の若い男達が粗末な食事を摂って規則正しい生活を送っている様を一つ目で凝視している毎日に、朧気ながらも 疑問を抱くようになっていた。だが、一つ目入道はそのために生まれ出でたものであり、それ以外のことをするため に生まれたわけではない。若さや迷い故に俗世に対する執着を切り捨てられない修行僧達を戒めきれない高僧達 の願いと、俗世への未練を捨てて悟りへの道を見出したい修行僧達の願いがあるからこそ、丹厳という存在は妖怪 として成り立っているのである。それから離れてしまえば、丹厳は存在の根幹が危うくなりかねない。しかし、修行僧 が苦悩に苦悩を重ねなければ未練を断ち切れない俗世について、興味がないわけではなかった。
 寺院と麓の村を繋ぐ唯一の道に座り込んでいた丹厳は、それまで寺院しか目にしてこなかった。寺院から脱しよう とする修行僧を追い立てるのが役割なのだから、当然といえば当然である。だが、一度抱いた興味がどうやっても 拭い去れず、朝から晩まで流れてくる読経に耳を澄ませても振り払えなかった丹厳は、寺院に背を向けた。そして、 下界に目を凝らしてみた。途端に、怒濤のように穢れが雪崩れ込んできた。旨そうに獣肉を喰らう猟師、肌も露わに 水浴びをする若い女、物陰からその女を凝視する男、昼間から物陰で睦事に興じる男女、酒や金に溺れている人々。 数えるのも億劫に思えるほど、世俗は穢れに満ちていた。目を離すべきだと考えても、丹厳の目は吸い寄せられる ように下界を舐め回し、並々ならぬ衝動が腹の内から迫り上がってきていた。堪えるべきだ、堪えるべきだ、と強く 思えば思うほどに抗いたい気持ちが勝り、とうとう丹厳は寺院から離れて下界に向かった。
 それからというもの、丹厳は欲するままに俗世を彷徨い歩いた。浴びるほど酒を飲むこともあれば、悪いムジナが 憑いていると商人を騙して払い賃として大金を掠め取り、その金で買った娼婦に溺れたり、質素で清浄な精進料理 とは正反対の生臭い獣肉を好んで喰らったり、と思い付く限りのことをした。だが、そんな日々も毎日続けていると 次第にうんざりしてくるもので、汚い手段で掻き集めた金を下らない賭け事で使い切ってから、丹厳は当てもない旅に 出ることにした。けれど、一度味わい尽くした享楽の旨味はそう簡単には忘れられず、三日と経たないうちに旅人 を殺して路銀を奪っては酒を買った。女と見れば物陰に引き摺り込み、貫いた。それらの悪事が露見して人間から 殺されそうになることも何度かあったが、そこは妖怪なので斬り付けられても刺されても死にはしなかった。
 そんな調子でふらふらと歩いた末に辿り着いたのが、本条藩であった。どれほど俗世間の中で快楽を貪ろうとも、 妖怪の間に横たわっている線引きだけは侵さなかったおかげだろう、本条藩にすんなりと入り込めた。ここでもまた やりたいようにやらかしてやろう、と思いつつ城下町に入ると、何やら空気が変わった。妖怪の目にも見えづらい糸 が、至るところに張り巡らされているのである。糸から零れる妖力から察するに、丹厳を遙かに凌ぐ力の持ち主だと 察した丹厳は早々に城下町から逃げ出した。糸は高所から低所に向かって張っていたので、糸を伸ばしているであろう 山の麓に近付くと頭上の空間が広がった。命拾いしたと思った丹厳は、気疲れして大木の下で座り込んだ。
 それから数刻が過ぎた頃、丹厳は物音で目を覚ました。いつのまにか雲行きがおかしくなり、鉛色の分厚い雲 から大粒の雨が落ちてきていた。丹厳の頭上の枝葉が激しく打ち鳴らされ、地面が薄く煙っている。菅笠を少し上げて 外を窺うと、水溜まりを蹴散らしながら駆けてくる娘の姿があった。丹厳は慌てて菅笠を下ろし、人間らしい顔付きに 化けてから、寝入っているような格好を取った。背負子に柴の束を載せて背負っていた娘は、突然の雨でずぶ濡れに なった体を手で拭い、粗末な麻の着物の裾を絞っていた。背負子を下ろした娘は、丹厳に気付いて慌てた。

「ごめん下せぇ坊様、ちぃとおらも雨宿りさせてくんねぇろっか?」

 数え年で十三四程度であろうか。水を吸って肌に貼り付いた着物に隠れた肢体は、平べったくはあったが僅かに 膨らみを帯びていた。汗とも雨とも付かぬ液体が筋を引く首筋と太股は日焼けして浅黒く、色気とは程遠かったが 引き締まった手足にはそそられるものがある。黒目がちな澄んだ瞳と小さめの唇には愛らしささえあった。

「構わぬ」

 丹厳は菅笠の下から娘の体を睨め回したが、娘はそれには気付いていないのか、背負子の隣に座った。

「急に雨が降るもんだから、参っちまういや。水神様がお怒りなんだろっか」

 娘が目を向けた先に、古めかしい社が建っていた。丹厳はそちらに目を向けた途端、雷のような威圧感を感じて 菅笠を伏せた。娘の言った通りだろう。蜘蛛の糸に追われる形でこの集落まで逃げ込んだはいいが、旧い時代から 土地に根付いている水神の縄張りに入り込んでしまったらしい。この場から逃げ出したくなったが、本条藩に入って からはまだ一度も女も酒も喰らっていない。それを思うと、敗走するかのようで何か悔しい。

「あんな、坊様」

 娘は腹辺りに結んでいた背負い袋を外すと、袋を開いて笹包みを取り出した。

「お腹が空いておられるんなら、お一つどうぞ」

 娘が差し出した笹包みの中には、雑穀と少々の米を混ぜた握り飯が三つ入っていた。様々な人間から騙し取った 金に物を言わせて豪奢な食事を食い漁ってきたので、そんなものを食べたいとは思わなかったが、蜘蛛妖怪の糸 から逃げ出したせいで思いの外疲れてしまったのか自然と手が伸びた。それを貪り食っていると、娘が笑んだ。

「おいしゅうごぜぇます?」

 丹厳が無言で頷くと、娘は喜び、自分も一つ食べた。

「そったらえかった」

「娘、名は何と申す」

 丹厳が問うと、娘は口の周りに付いた飯粒を舐め取ってから答えた。

「おらか? おらはチヨってんだ。この近くに住んどるんよ。坊様はどこのお国からいらしたんで?」

「拙僧は長き修行を終え、仏の教えを説くために諸国を漫遊している」

 丹厳がもっともらしい態度で返すと、チヨという名の娘は大袈裟に思えるほどに感心した。

「そんら御立派だなぁ」

 それから、丹厳がそれらしく語ってやると、チヨは逐一感嘆した。生まれてこの方本条藩から外に出たことがないで あろうチヨにとっては、外の世界を見聞きしてきた丹厳が物珍しくてたまらないのだろう。しきりに他の土地のこと を尋ねては一心に聞き入り、身を乗り出してさえいた。その反応が面白くなった丹厳が、いくらか誇張を含めながら 話し続けていると、いつのまにか雨が止んでいた。チヨは名残惜しげだったが、一礼して、背負子を背負って泥水を 蹴り上げながら集落へと帰っていった。チヨが身軽に跳ねるたびに脂っ気のない毛先も遊び、雨上がりの雲間から 差し込んだ日差しがしなやかな足を照らし出す。その姿を見つめながら、丹厳は柔らかな笑みを浮かべていた。
 あんなに喜ぶのなら、もっと話を聞かせてやりたいものだ。




 酒を飲み明かした翌朝に飲む、冷えた井戸水の如く。
 爛れた快楽に心身を浸し切っていた丹厳には、チヨはあらゆる意味で新鮮だった。体こそ痩せこけて日焼けして いたが、どこもかしこも真っ新で無垢という言葉がよく似合った。日々働き手として忙しく過ごしているため、年頃の 娘らしい娯楽からも縁遠いおかげで化粧臭さは一切なく、髪を結うことすらほとんどなかった。同じ集落の同年代の 娘達よりも貧相かつ幼い体付きだからだろう、夜這いされたこともないようだった。それがまた、丹厳の猥雑とした 心中に涼やかな風を運んでくれた。これまで触れてきた女はどれもこれも擦り切れていて、生娘に手を付けたことは ただの一度もなかったからだ。故に、チヨに手を付けるのは自分だと信じていた。だが、強引に貫くのでは何の意味 もない。あちらから体を開かせるように仕向けなければ、チヨの良さが失せてしまう。そのためにはチヨに好かれて いなければならないので、丹厳は彼女の住まう集落の人間に慕われるように尽力した。
 蜘蛛妖怪の糸からも水神の縄張りからも集落からも外れた廃寺に、丹厳は居を構えた。廃寺に住み着いていた ならず者達はその場で殺し、肉を削いで喰って腹の足しにしてから食い残しの骨を打ち捨てられた墓場に埋めた。 本尊など当の昔に奪い去られている本堂を出来る限り掃除し、それらしい形を整えてから、丹厳は集落に向かうと いかにも徳の高い僧であるかのような口振りで仏の教えを説いて回った。それはかつて睨みを効かせていた寺院で 高僧達が修行僧に説いていた内容であり、付け焼き刃もいいところだったが、物を知らない田舎の農民達には本物 の説法に思えたらしく翌日から廃寺に農民達がやってきた。その中に、目当ての娘も混じっていた。
 説法の礼だと言って、チヨは米を持ってきてくれた。丹厳は薄い茶を入れてやり、チヨに勧めた。湯だけは熱い茶が 入った欠けた茶碗を恐る恐る手にしたチヨは、そっと口を付けた。だが、あまりの熱さに驚いたのかすぐさま茶碗を 口から離して床に置いてしまった。多少赤らんだ手を振り回してから、チヨは赤面した。

「せっかくお茶を淹れて下すったんに……」

「構わぬ。冷めるまで待てば良い」

 丹厳が薄く笑むと、チヨは熱さを誤魔化すように手のひらを着物に擦り付けた。

「だども、熱いのがなくなってまうんが勿体ねいや」

「ひっくり返したら元も子もあるまい?」

「坊様は平気なん?」

 チヨは同じ熱さの茶が入った茶碗を手にする丹厳を見、目を丸めた。丹厳は茶碗を揺らし、啜る。

「修行の賜物よ」

「やっぱし偉い坊様は違ういや」

 それで納得したのか、チヨは頷いた。だが、実のところはそうではない。妖怪である丹厳は、火を扱うことは元来 不可能であり、茶を淹れるために使った湯は火を起こして湧かしたものではない。夜な夜な墓場を飛び交っている 亡霊の人魂を掴まえて生水に放り込んで作った、世にも禍々しい湯なのである。だが、チヨはそんなことを知る由も なく、ありがたそうに飲んでいる。チヨが常世のものを感じる力を持ち合わせていれば、手も付けないだろうが。
 無念が充ち満ちた禍々しい茶を半分ほど啜ったところで、チヨは憂い気に目を伏せた。目元を縁取る睫毛は長く、 頬に薄く影を落としている。丹厳は空になった茶碗を置き、声を掛けた。

「どうかしたのかね」

「あんな、坊様。おらな、今度、お嫁に行くんだと」

 チヨは骨格の細い肩を縮め、俯く。丹厳は目を見張る。

「なんと」

「二度も三度も峠を越えた先にある村のな、二十も年上の男んしょんところだと」

 チヨは不安げに茶碗を両手で包み、唇を曲げる。

「会ったこともねぇし、名前も知らねぇ。だども、おらも十四になったし、早いとこ嫁がんと往き遅れるすけん」

「ならば、いずれ出て行くのだな」

「だども、坊様のことは忘れんすけん。ええお話、一杯聞かせて下すったんだもの」

 わざとらしく明るい笑顔を見せたチヨに、丹厳は薄暗い感情を覚えた。この時代、若い娘が顔も知らない男の元に 嫁ぐのは珍しくもなんともないことではあったが、チヨにだけはそんなことは訪れまいと内心で楽観していた。だが、 丹厳がチヨに思いを寄せていることは自分しか知らないことであり、無知な農民達にもチヨにも推し量れるものでも ない。ならば、自分の手でどうにかしなければ。この娘を自分以外の男に触れさせてたまるものか。
 そうと決めたら、丹厳の行動は早かった。夜中のうちに廃寺を抜け出し、チヨの嫁ぎ先となる遠方の村まで妖力を 用いて移動すると、無防備に眠っていた男を躊躇いもなく殺した。続いて男の身内も全て殺し、女子供であろうとも 情けは掛けずに首を刎ねては内臓を引き摺り出した。気分が高揚していた丹厳は勢いに任せて暴れ回り、その村 の農民達を一人残らず切り裂いて殺してしまった。血と臓物の飛び散る海に色褪せた法衣を浸しながら、酒蔵から 奪い取った酒を呷ると、この上なく気分良く酔えた。だが、酒臭いままで廃寺に戻れば生臭坊主だと思われてチヨ から嫌われかねないので、腐臭の漂う村で一昼夜を過ごして一滴残らず酒を抜き、法衣も綺麗に洗ってから、丹厳は 再び妖力を用いて移動した。それからしばらくして、相手方が野党に殺されたのでチヨが嫁に行く話が立ち消えた、 と農民から教えられた。丹厳はさも残念そうな反応を返したが、内心では踊り出したいほど嬉しかった。
 これで、チヨを嫁に迎えられる。





 


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