機動駐在コジロウ




対岸のカーニバル



 それが誰なのか、気付いた時には手遅れだった。
 黒い影が視界を塞いだ直後、コジロウとつばめは田んぼに叩き付けられていた。ばちゃあっ、と幼い苗が混じる 泥が跳ね上がり、荒々しい波紋が広がる。白と黒の機体のほとんどを濡らしたコジロウは、肘を曲げてつばめの体を 持ち上げつつも上体を起こした。頭から泥を被ってしまったつばめは顔を拭ってから、黒い影を探した。
 来襲者は、電柱の上に直立していた。黒い外骨格を備えた頑強な虫の兵士、人型の軍隊アリ、藤原伊織だった。 先が曲がった触角を神経質に上下させ、艶やかな複眼に一帯を収めている。内側に棘が並んでいるブーメラン状 のあぎとを浅く開き、きちきちきち、と声とも唸りとも付かない外骨格の摩擦音を漏らしていた。その立ち姿には芯が 通っていて、若者らしい情緒不安定さもなければ、過激な戦闘を欲する飢餓感もなかった。これまでは前傾気味で あった姿勢も背筋が伸び、虫の騎士であるかのような雄々しささえ醸し出していた。
 両手を握れないほど長く伸びた爪を一本掲げた伊織は、泥でもなければ水でもない、とろりとした粘り気と光沢を 持った赤黒い液体を一筋伝わせた。そして、あぎとの間から細長い舌を伸ばし、それを舐め取った。

「……痛っ」

 我に返ったつばめは、二の腕の痛みに気付いて身を縮めた。泥水が傷口に沁みたことで、左の二の腕がシャツ ごと切られているとようやく悟った。右手で押さえると、じんわりと滲み出した己の血が手のひらに広がっていく。その 嫌な感触と痛みに顔を歪めながら、つばめは起き上がったコジロウの背後に隠れる。

「あいつ、あんなに強かったっけ?」

「藤原伊織の身体能力は、本官の所有する情報を上回っている」

 コジロウはつばめを庇いながら、外装が深く切り付けられた左腕を前に出して拳を固める。

「そんなこと、当たり前じゃない。クソお坊っちゃんは果てしなくクソなクソガキだけど、この僕ですらも認めるほどの 遺産との融合係数の持ち主なんだから、お腹一杯になれば強くなるに決まってんじゃないの。だって、今の今までは クソお坊っちゃんは低血糖で空腹だったんだから、ヘタレでヘボでへっぽこで当然なの」

 タンクローリーのタンクに寝そべって頬杖を付いている羽部は、得意げににやけている。

「せっかくだから有益な情報を開示してあげようじゃないのよ、この僕が機嫌が良いうちにね。この星の炭素生物は 全てL型アミノ酸で構成されている。けれど、この僕を始めとしたアソウギを体液に置き換えた怪人はL型アミノ酸 を持ちながらもD型アミノ酸しか受け付けない体になっているのさ。で、そのD型アミノ酸ってのはどうやって採取する かと言うとだね、人間を喰うのさ。ラミセ化っていう現象を起こしてL型アミノ酸をD型アミノ酸に変異させるためには 200℃から250℃で過熱する必要があるんだけど、アソウギが率先してそのラミセ化を起こしてくれるってわけね。 でも、他の肉じゃダメ。その原因についてはまだ解明出来ていないんだけどね。昨日の夜にさ、交通事故があった でしょ? そいつらはね、本当はねぇ」

「俺が喰ったに決まってんだろ。っひゃひゃひゃひゃ」

 羽部の浮ついた言葉を、伊織が笑い混じりに遮った。つばめは青ざめ、うえ、と声を潰す。

「何それ、有り得ない」

「有り得ているから、クソお坊っちゃんは絶好調なんじゃないの。馬鹿じゃないの?」

 羽部は心底馬鹿にした目でつばめを一瞥した後、幾重もの怪人の輪に囲まれているポンティアック・ソルスティス の運転席に留まっている寺坂を見やった。

「ねえクソお坊っちゃん、あいつって本当に手出ししちゃいけないの? なんで? この僕が優れた頭脳で考えるに、 ここでクソ坊主の右腕をぶった切って持ち帰った方がいいんじゃないの? あいつは遺産を操る力もないし、触手は 遺産そのものでもないはずなのに、どうして変な協定が組まれているわけ? 変すぎない?」

「俺が知るかよ。面倒臭ぇから、クソ坊主はマジどうでもいい」

 伊織の複眼が、つばめを捉える。つばめはひっと小さく息を飲み、コジロウの腰に縋り付く。

「俺は、俺の仕事をするだけだ」

 伊織の下半身が伸び切り、跳躍すると、凄まじい力を受けた電柱が風に煽られた草のようにしなる。鎌のような 鋭い弧を描いた黒い影は、つばめに確実に狙いを付けていた。コジロウはすぐさまつばめを抱えて退避行動を取る も、伊織の動きは曲線的だった。コジロウの目の前に着地して泥を跳ね上げた、かと思いきや片足を軸にして体を 回転させてコジロウの背後に滑り込み、つばめを守る左腕に爪を突き立ててきた。
 コジロウは左腕を出して伊織の爪を受け止めようとする。だが、伊織は突き出した爪がコジロウの左腕の外装に 噛む寸前に曲げて真下に滑り込ませ、比較的外装の薄い肘関節に爪を滑り込ませる。目の前でヒューズが飛び、 肘関節の回転軸を固定しているナットがずり上げられ、太いシャフトが露出する。伸び切ったケーブルのゴムカバー が裂けて銅線が弾けると、コジロウはつばめの頭部を右手で庇い、背を丸めた。

「ちゃちなオモチャで俺をどうにか出来ると思ってんのかよ!」

 伊織の罵声と同時に、コジロウの破損した左腕が薙ぎ払われて泥を抉った。ナットとシャフトの緩衝材が脱落し、 オイルと冷却水が混じり合った飛沫が熱く肌を濡らす。残った左上腕を構えつつ、コジロウはつばめを守る。

「つばめ。その場から動かないでくれ」

 聞き返す間もなく、コジロウは抱えているつばめを軸にして右足を泥に踏み込み、機体を回転させた。回転の勢いを 付けたまま左足を高く伸ばして伊織を痛烈に蹴り付け、伊織を仰け反らせる。片足立ちの姿勢を保ちながら左足の タイヤを出して急速回転させ、それを伊織の胸に擦り付ける。悲鳴のようなスキール音、蛋白質の焦げる匂い。

「うげぁっ!」

 途端に伊織は後退し、タイヤ痕と焦げ跡が付いた胸部を押さえ、両のあぎとを全開にする。だが、彼の胸郭からは 罵倒も負け惜しみも出てこなかった。無邪気ささえ感じられる笑みを漏らした伊織は、タイヤ痕が痛々しい胸部に 爪を添え、ぎしぎしと両肩、いや、上両足の根本を軋ませる。
 伊織が態勢を整え直す前に、コジロウは追撃を行った。破損した部分を庇うどころか、その傷さえも生かす戦い方 をした。伊織の頭部を鷲掴みにして懐に引き寄せると、過電流が弾ける左上腕の先を、比較的外骨格の薄い関節 にねじ込んだ。泥水によって通電率が高くなっていたからだろう、ばちぃんっ、と閃光が爆ぜて伊織の体が勢い良く 吹っ飛んだ。どれほどの電圧かは解らないが、人型ロボットの電圧であれば余程のものだろう。田んぼに太い筋を 付けながら数メートルもの距離を移動した伊織は、薄く煙の昇る口を開き、触角を痙攣させている。

「や……やった?」

 つばめはコジロウの背後に近付きながら、昏倒した伊織とコジロウを交互に窺った。瞼もなければ顔色も解らない ので察しづらいが、時折痙攣していることからして、感電した伊織は当分は起き上がれないだろう。異形の怪人達が 動揺する、かと思いきや、彼らは反応しなかった。伊織が倒されてもざわつきもせず、無様な姿を晒している軍隊 アリをそれぞれの目で凝視しているだけだった。寺坂は鬱陶しげだったが、つばめには信じがたいことだった。
 仮にも伊織は仲間ではないか。それが倒されたのに、誰も反撃もしてこないのか。それどころか、心配する声すら も上がらない。特に冷ややかなのは羽部鏡一で、携帯電話をいじっていた。これでは、敵ではあるが伊織が可哀想 になってくる。つばめが一言文句を付けてやろうかと口を開きかけた時、田んぼが波打った。

「え?」

 泥が意志を持ち、水が粘り気を持ち、蠢いた。耳障りな水音を立てながら渦を巻いた田んぼは、成長するための 時間と水と栄養を与えられる機会を奪われてしまった哀れな苗を巻き込み、無造作に吐き出した後、大口を開けた。 粘着質な水と泥が唾液のように糸を引き、プランクトンを喰らうジンベエザメのように、つばめを飲み込もうとして きた。もちろん、つばめはその場から逃げようとするが、両足が動かない。こちらもまた粘液に縛り付けられている からだ。つばめは懸命に手を伸ばして彼の名を叫ぶが、コジロウがつばめの手を掴む前に、泥と粘液の怪物は 少女を喰らった。ぎゅるぎゅると汚らしい渦が狭まり、曲がりくねり、タンクローリーの蓋に向かっていく。

「つばめ!」

 コジロウは粘液の渦を追おうと駆け出すが、やはり粘液に足を戒められる。両足のタイヤを出して回転させるも、 スポークに粘液が挟まり、固定されてしまう。強引に足を引き抜こうとすればするほど、粘液は重みを増していった。 守るべき少女を求めて懸命に右腕を伸ばすが、銀色の手の甲に黒い爪が貫通する。

「チョロすぎじゃねぇの、これ。マジウケるし」

 伊織だった。過電流の余韻からか、先程よりは動きは鈍かったが、つばめに集中していたコジロウの隙を確実に 衝いていた。合金製の手のひらが割れて指の根本が覗き、オイルが垂れる。伊織はコジロウの手のひらから爪を 引き抜き、その反動でコジロウの上体が少々仰け反った拍子に痛烈な拳を加えた。
 二百キロ超の機体が鮮やかに吹っ飛び、電信柱に激突する。各種センサーに等しくもたらされたダメージによって 一時的に機能が低下したコジロウが項垂れると、伊織は、尻尾でタンクの蓋を閉めている羽部を見上げた。

「これで終わりかよ? てか、なんで今までこんなのに手ぇ焼いてたんだよ? あ?」

「そりゃあれだよ、この僕の上に立っていやがる御嬢様の顔を立てるために決まってんでしょ。コジロウにしたって、 動力源がオーバースペックってだけで機体性能はガタガタだから、そこを突いちゃいえば一発だし。まあ、その情報は 設楽道子の脳を経由して得たものだけど、ちょっとは役に立ってくれたね。さ、行こ行こ、社長がお待ちかねだ」

 羽部は怪人達に命じてタンクローリーを元に戻させると、運転席に滑り込み、エンジンを掛けた。怪人達は次々に タンクローリーに貼り付くと、皆、液状化して蓋の隙間からタンク内部に滑り込んでいった。泥まみれの伊織は体中 の泥を爪である程度削ぎ落としてから、助手席に収まった。下半身を人間に戻してから靴を履いてアクセルペダルと ブレーキペダルに足を掛けた羽部は、座席がぐしょ濡れになるほどの泥水まみれの伊織を見て顔をしかめた。

「なんでそこに来るわけ? 普通さ、そういう状態だったらタンクの上に乗るもんじゃないの?」

「うるせぇ死ね」

 伊織は上両足を組み、下両足も組んでダッシュボードに投げ出した。

「そういう格好していると、急ブレーキを掛けた時にすんごいことになるけど?」

 まあでもそれぐらいじゃ死なないか、と独り言のように言いながら、羽部はステアリングを回した。怪人達とつばめを タンクに格納したタンクローリーは、羽部のいい加減な運転で不安定に揺れながら農道に出ると、エンジンを盛大に 噴かして走り抜けた。後に残されたのは、ポンティアック・ソルスティスと寺坂、そして破損したコジロウだった。
 ポンティアック・ソルスティスの運転席から下りた寺坂はサングラスを外し、タンクローリーに目を凝らした。かなり スピードを出したようで、早々に集落から消えていた。寺坂は触手を戒めた右手で、禿頭を掻き毟る。

「ゴミ捨てに来ただけで、ひっでぇ目に遭わなきゃならねぇんだよ」

 寺坂はぼやきながら、オープンカーのトランクに詰まっているゴミ袋をゴミ集積所に無造作に投げ入れ、トランクの 蓋を閉めた。両手を叩き合わせて汚れを払った後、電信柱の下で項垂れているコジロウを一喝した。

「おい、起きやがれ!」

「……つばめは」

 ゴーグルを瞬かせながら顔を上げたコジロウに、寺坂は集落の先を示した。

「連中なら、とっくに行っちまったよ。俺は今から一乗寺の奴に連絡する。お前も遺産で出来ているんだから、連中の 行く先ぐらいは解るだろ?」

「機体の破損によりセンサーの感度が若干低下しているが、タンクローリーの追跡に問題はない」

「じゃあ行け、すぐに行け」

「無論だ」

 コジロウは立ち上がると、両足のタイヤを回転させて粘り気を払った後、タイヤを地面に噛ませた。

「俺はこれ以上手を出さねぇからな。ここから先は政府の仕事だ」

 寺坂は愛車に元に戻ると、ダッシュボードから携帯電話を取り出したが、ボンネットを見て声を潰した。怪人達に 囲まれた時に誰かしらの爪が掠ったらしく、数本の傷が付いていた。コジロウは寺坂を一瞥した後、破損した左腕 を回収してから農道に出て走り出した。排気を残して走り去っていった警官ロボットの背を見送って、寺坂は一乗寺に 電話を掛けた。かなり眠たげな声が返ってきたが、事の次第を伝えると一瞬で覚醒した。

『解った! んじゃ、俺は現地に向かうから! うっはー!』

「現地ってお前、フジワラ製薬の連中が行く場所が解ってんのかよ?」

 寺坂が訝ると、一乗寺は浮き浮きしながら答えた。

『そんなもん、とっくの昔にね。てか、むしろ、敵の方が率先してバラしていたって感じ?』

「は? なんだよそりゃ」

『ま、俺は人殺しが出来ればなんでもいいんだけどねー。うふふ、ジャムるまで撃っちゃうぞー』

「適当なところで止めておけよ。つばめも攫われちまったんだから」

『ありゃ、そりゃ大変だね。で、コジロウは?』

「なんだよ、その薄っぺらーいリアクションは。まあいい、突っ込むのも時間の無駄だ。コジロウはフジワラ製薬の車を 追っていったが、機体に大分ガタが来ている。追い付いた頃にはバラバラになってんじゃねぇの?」

『ふーん。で、よっちゃんはこれからどうすんの?』

「うちに帰るに決まってんだろ。余計な荒事に巻き込まれるのは趣味じゃねぇ」

『あっそ。じゃ、よっちゃんのアヴェンタドール借りていくね! きゃっほう!』

「きゃっほうじゃねぇよ! アヴェンタドールは四千万もするんであってだなぁっ!」

 寺坂は携帯電話に噛み付かんばかりに絶叫するが、一乗寺は通話を切ってしまった。あれは本気だ。一乗寺に 限って、冗談ではあんなことは言わない。スポーツカーのキーが鈴生りになったキーケースはジャージのポケットに 入っているが、一乗寺であればドアを撃ち抜いてエンジンを直結させて動かしかねない。今から車を飛ばして帰った ところで、一乗寺の魔の手を防げるとは思えない。

「いや、待てよ?」

 一乗寺の軽トラックは廃車も同然だ。となれば、徒歩か、美野里の車を奪い取ってくるかのどちらかだ。一乗寺の 性格からして、馬力の出ない美野里の電気自動車は好みではないだろうから、奪い取りはしないはずだ。徒歩だと したら、船島集落から寺坂の寺に来るまでは小一時間は掛かってしまう。一乗寺の体力がいかに底なしであろうとも、 体が人間なのだから限界がある。
 この集落と自宅の寺までの移動時間は十五分足らずだ、それだけあれば一乗寺を阻める。これで勝った、と寺坂 は口角を吊り上げながら運転席に乗り込むが、シートベルトを締める前に手を止めた。視界の隅に掠めた古ぼけた 小屋に焦点を合わせ、シートベルトを離してからサングラスを掛け直す。地蔵が収まるべき小屋には、千手観音に 似た形状の石像が収まっていた。円盤状の光輪を背負い、細長い腕を何十本も伸ばし、柔和な笑みを湛えている、 五十センチ足らずの石像だった。寺坂は運転席から出ると、右腕の包帯を外して触手を解放した。

「道理で、ここの連中が素直に怪人共の言うことを聞いていたわけだ」

 単純に脅されただけでは、人間の心などそう簡単に動かないものだ。だが、元から掌握されていたのであれば、 話は別だ。寺坂は百二十八本の触手を解し、一際太い触手を十六本出した。それらを石像に巻き付け、ぐっと力を 込めて捻ると、石像は砂糖菓子のように呆気なく砕け散った。汚物を触ったかのような仕草で触手に付着した石像 の破片を振り払ってから、触手を引っ込めた寺坂は、右腕に包帯を巻き付けながら舌打ちした。
 どいつもこいつも、心が弱い。





 


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