機動駐在コジロウ




知らぬがホームルーム



 朝からどっと疲れてしまった。
 どうせなら、このまま今日は学校を休んでしまいたい、とつばめは思っていた。一乗寺は教師としても大人としても いい加減だから、一日ぐらいサボったところで文句は言わないだろう。だが、一日休んだ分だけ翌日の授業内容が 濃くなってしまう。普通の教師であれば数日分に分けて教えるものを、一乗寺の場合はたったの一限で教え込もうと してくるのだ。そのせいで、一学期の半ばであるにも関わらず、既に二学期の指導要領にまで及ぶ始末で、夏休みの 宿題に相当するものもとっくの昔に終わってしまった。教える方は手っ取り早くて楽なのだろうが、教えられる方は たまったものじゃない。復習するだけでも大仕事になるのだから。
 堕落と勤勉の狭間で揺れながら、つばめは美野里の車に乗った。コジロウは車中にいては行動が妨げられる と言って、今回はトランクには乗らずに後続してきた。助手席に座ってシートベルトを締めたつばめは、電気自動車 特有の穏やかな振動に身を委ねながら、ぼんやりと車窓から景色を眺めていた。
 ハンドルを握っている美野里の横顔を見、つばめは胸が少し痛んだ。奥只見ダムでの戦いの後の記憶は曖昧 ではあるが、目の前で藤原忠が狙撃されたショックが抜けず、ひどくうなされて悪夢を見続けたことと、美野里がずっと つばめの傍にいてくれたことはよく覚えている。何度か目を覚ましたが、その度に錯乱したことも。

「お姉ちゃん」

「ん、なーに?」

 船島集落に至る八重山方面に向かう交差点で止まり、美野里は助手席に向いた。つばめは姉に笑いかける。

「なんか、色々とごめん。でも、もう大丈夫だから」

「辛いって思ったら、ちゃんと言うのよ。私も、出来るだけのことはするから」

「お姉ちゃんは事務所が出来たばかりだし、仕事があるんだから、前みたいにべたべた甘えられないって」

「ねえ、つばめちゃん。私って、そんなに頼りにならない?」

 美野里は愛車を緩やかに発進させてから、語気を低めた。

「そうじゃないけど……。でも、どうしたの、急にそんなこと言い出すなんて」

 美野里らしからぬ態度につばめが戸惑うと、美野里はバックミラーに映るコジロウを捉えた。

「そりゃ確かに、私はコジロウ君みたいに頑丈じゃないわ。一乗寺先生みたいな無茶苦茶なことなんて出来ないし、 寺坂さんみたいに変な体をしていないわ。政府の人達みたいにしっかりしていないし、弁護士って言ってもまだまだ 駆け出しで、本当なら今もお父さんのところでイソ弁をしているべき身分と腕前で、独立なんて以ての外で。そんな ことぐらい、自分が一番解っているわ。だから、私が出来ることをしようって、ずっと思っているの」

 いつもよりも少しだけ速度を上げながら、軽自動車は山間の細い道に入っていく。

「それなのに、どうしてつばめちゃんはいつもそうなの?」

 人通りの気配すらない交差点で一時停止し、美野里は悲しげな目でつばめを見下ろしてくる。

「だって、私はお姉ちゃんとは違うもん」

 つばめはその眼差しが耐えられず、目を逸らすと、美野里は身を乗り出してくる。

「違うって、私とつばめちゃんは何も違わないわよ! ずっと同じ家で暮らしてきたじゃない、お父さんとお母さんが 育ててくれたじゃない、何度もケンカだってしたじゃない! どうしてそんなことを言うのよ!」

「だって……」

 そう言われて嬉しいのに、腹立たしくもなる。つばめは俯き、美野里の視線から逃れようとした。自分一人だけで 生きていけるように、いつ備前家からも世間からも放り出されてもいいように、ずっと気を張って生きてきた。それは これからも同じで、遺産相続争いにしても、コジロウさえ傍にいてくれれば乗り越えられると信じている。美野里には 迷惑は掛けたくないし、つばめの傍にいるせいで無用な被害を被ってほしくない。だから、出来ることなら、美野里は 東京に帰ってほしいとすら思っていた。一緒に住むのは楽しいし、落ち着くが、それは姉のためにはならない。

「一人にはしないわ、絶対に」

 美野里はつばめが膝の上で固めている右手を取り、握り締めてきた。少し冷たい手だった。

「だから、お願い。私のことも頼って」

「う、うん」

 気圧される形でつばめが頷くと、美野里は見るからに安堵した顔になった。もっと自分のことを考えてほしいと思う からこそ、つばめの方から美野里と距離を置こうと考えていたのに、結局こうなってしまうのか。心配されるのも大事に されるのも可愛がられるのは嫌ではないし、もちろん嬉しいのだが、少し前までの生活とは大違いなのだ。命が危険に 曝されることも少なくないし、敵は美野里でさえも利用してくるのだから、もっと危機意識を持ってほしい。
 けれど、途端に上機嫌になった美野里を見ていると、何も言えなくなってしまった。にこにこしながら運転を再開した 姉の横顔に釣られるように、つばめも自然と顔が緩んできた。頭は良いのに生活能力が皆無で、優しくて心配性 な美野里を放ってはおけないし、変に突き放せば大泣きしてしまうだろう。だから、今のところは美野里のやりたい ようにさせてあげよう。ならば、差し当たって出来そうなところから頼ってみよう。

「それじゃお姉ちゃん、今日からお米研ぎしてよ」

 つばめの提案に、美野里は勇ましく親指を立てた。

「解ったわ! お姉ちゃんの本気を見せてやろうじゃないの!」

「力は入れすぎないでねー。デンプン糊になっちゃうから」

「大丈夫よ! あの時は、研げば研ぐほど水が濁るって知らなかったから、やりすぎちゃっただけなんだから!」

 そう言った美野里の横顔は、自信と不安が鬩ぎ合っていた。たかが米研ぎ、されど米研ぎ。ちゃんと出来るか どうか見張ろうかな、とつばめはちらりと考えたが、任せると言った手前、横から口出しすると鬱陶しがられてせっかく の美野里のやる気を削いでしまいかねない。だから、御飯が炊き上がるまでは何も言わないことにしよう。つばめは いつになく気合いの入った美野里に頬を緩めつつ、パワーウィンドウを下げて風を入れた。
 少しだけ、気持ちが晴れた。




 一旦自宅に戻って制服に着替えた後、つばめは登校した。
 きっと今頃は、一乗寺が退屈していることだろう。職員室でぼんやりとパソコンをいじっているか、教室中に手持ち の武器を広げて恍惚としながら手入れをしているか、暇潰しにトレーニングでもしているか、のどれかに違いない。 そして、つばめが運んでくる弁当を心待ちにしているはずだ。一乗寺もまた、美野里と同等かそれ以上に家事には 疎く、食生活は散々たるものだ。だから、一食でもまともな食事を与えなければ、栄養失調で倒れてしまうだろう。 そうなれば被害を被るのは確実なので、少々手間は掛かるが、弁当を持って行くに越したことはない。
 弁当箱が二つと麦茶を詰めた水筒の入った重たいトートバッグと通学カバンを肩に提げ、つばめはコジロウと共に 歩いていった。コジロウはつばめに弁当箱だけでも持とうかと言ってきてくれたが、なんだか気が引けるのでその 申し出を断った。これを食べるのはつばめと一乗寺なのだから、食べる当人が持ち運ぶべきだ。
 分校の昇降口に入り、スニーカーから上履きに履き替えながら、つばめはふと違和感を感じた。生徒の数に比例 しない大きさの下駄箱はほとんど空で、つばめの上履きと雨の日用の長靴と、一乗寺のジャングルブーツと上履き とスニーカーがねじ込まれている程度だ。の、はずなのだが、見覚えのないローファーが一組収まっていた。

「ねえコジロウ。私、ローファーなんか、履いていたっけ?」

 つばめは使い込まれた茶色のローファーを眺め、首を捻った。

「本官は記憶していない」

 と、コジロウがすかさず捕捉してきたので、つばめは腕を組んだ。

「だぁよねぇー。ローファー、好きじゃないんだもん」

 東京に住んでいた頃も、船島集落にやってきてからも、つばめは通学時にはスニーカーを履いている。ローファーは 靴擦れを起こしてしまうし、どうにも履き心地が今一つだったので、ローファーを履いて通学したのは入学式ぐらいな ものである。美野里の両親が送ってくれたつばめの私物の中にはほぼ新品のローファーが入っているが、それ を出して履いたことはない。もしも履くことがあるとすれば、雨に降られてスニーカーがびしょ濡れになった場合だ。 だが、梅雨に突入したにもかかわらず、ここ数日は雨も降っていないので、つばめは今日も履き慣れたコンバースの スニーカーを履いている。かといって、成人している美野里がローファーを履いて分校に来るわけがない。

「謎が謎を呼ぶねぇ」

 つばめが不思議がると、コジロウはローファーを取り出し、靴底を上向けた。

「所有者の名前は記名されていない」

「サイズは23.5かぁ。私は24でお姉ちゃんは24.5だから、ちょっと小さいね。まさかとは思うけど、吉岡りんねが 分校に転校してきたってこともないよねー」

 そう言いつつ、つばめは上履きのつま先を軽く小突いてから、通学カバンとトートバッグを持って教室に向かった。 コジロウは謎のローファーを下駄箱に戻してから、両足の裏を雑巾で丁寧に拭い、天井に頭を引っかけないために 少し腰を屈めながら付いてきた。この中にいるのが誰かは解り切っているが、礼儀は弁えるべきなので、つばめは 引き戸をノックしつつ声を掛けた。

「失礼しまーっす」

「あいよー」

「はーい」

 返事が二つあった。片方はやる気が心底抜けている一乗寺の声で、もう一人は。

「……女の子、だったよね?」

 つばめが戸惑いながらコジロウを見上げると、コジロウは答えた。

「本官もそう判断し、識別する。だが、先程の声は吉岡りんねの声ではない。小倉美月にも当て嵌まらない」

 もしかして、転校生だろうか。だとしても、そんな話は聞かされていない。そもそも、こんなド田舎の分校にどこの誰 が転校してくるのだ。つばめの身の上を哀れに思った政府関係者が手を回してくれたのかも、と思ったが、今までの 事例を顧みると、一乗寺を含めた政府関係者はつばめに対して優しくない。むしろ、刺々しいほど辛辣だ。同年代 の子供をクラスメイトに宛がってくれるような思い遣りを持っているとは考えられない。だとすれば、吉岡りんねが 手を回して転校生を派遣し、つばめを陥れようとしているのだろうか。だとすれば、断固戦うべきだ。

「何してんの? さっさと入ってきてよ」

 すると、痺れを切らした一乗寺が内側から引き戸を開けた。片手に箸を持ったままで、行儀が悪い。

「あー、もうそんな時間ですか」

 つばめは一乗寺の肩越しに、教室内の掛け時計を見やった。とっくに昼休みに突入している。

「そうだよぉ。だから、さっさと今日の分のお昼を上納してくれよぅ。れんげちゃんのだけじゃ足りないんだもん」

 一乗寺はぼやきながら教卓に戻っていったが、つばめは面食らった。

「え? れんげ、ちゃん?」

 そんな名前、聞いたこともない。一乗寺は面倒そうに振り返る。

「何、その変なリアクション。記憶喪失ごっこ? 流行んないよー」

「いや、その、そうじゃなくて、れんげちゃんって誰ですか?」

 つばめが一乗寺を引き留めると、一乗寺は片眉を曲げる。

「だから、れんげちゃんはれんげちゃんじゃないの。何言ってんの、さっきから。みのりんと出かけている間に宇宙人 に攫われて記憶を引っこ抜かれでもしたの? でなきゃ、中二病に目覚めた?」

「だーかーらー!」

 まるで話が噛み合わないことに苛立ち、つばめが声を荒げると、教室の中からまた声が掛かった。

「早くおいでよ、つばめちゃん。今日の御料理はね、結構自信あるんだから」

 先程と同じ、つばめと同年代の少女だった。もういいでしょ、と一乗寺はつばめを振り払って教室に戻っていった。 こうなったらコジロウだけが頼りだ、とつばめが祈るような気持ちでコジロウに振り返ると、コジロウは言った。

「つばめ。あの通学用革靴と声の主は、つばめのクラスメイトである桑原れんげだ」

「だから、それって誰のこと!?」

 コジロウまでおかしくなってしまった、とつばめが半泣きになると、教室の引き戸が開いた。

「あーあ、冷たいんだー。私のこと、忘れちゃうだなんて。お弁当、分けてあげないんだから」

 視界の隅に、紺色のスカートが過ぎった。その言葉を発した人影は、確かな重みを持った足取りでつばめの背後 に近付いてくると、つばめの肩に手を掛けてきた。色白でほっそりとした指先がブラウスに掛かり、夏服の薄い布地 越しに柔らかな感触と体温が染み込んできた。生きている人間だ。と、いうことは。
 恐怖すら感じながら振り返り、つばめが目にしたものは、柔和な笑顔を浮かべた少女だった。丸顔で目鼻立ちは こぢんまりとしているが、それ故に親しみやすさがある。身長はつばめと大差はなく、量が多めの黒髪を短く切って いて、両耳の上に銀色のヘアピンを留めている。制服もつばめと同じ、紺色のジャンパースカートだ。
 これが、桑原れんげなのか。つばめは彼女をまじまじと眺めたが、全く記憶になかった。東京で通っていた中学校 にもいなかったし、船島集落に引っ越してきてからも、同年代の少女とまともに接したのは、美月が最初で最後だ。 だから、面識もなければ記憶にもない。つばめは混乱が極まってしまい、その場に立ち尽くした。

「え……?」

「ほら、一緒に食べようよ」

 そう言って、桑原れんげと思しき少女は机を指した。つばめの机の右隣にもう一つの机がくっつけられていて、もう 一つの机の上には小さな弁当箱が置いてあった。その中身は白と黄色だけだった。その正体が気になったつばめが 目を凝らしてみると、白飯と炒り卵しか入っていなかった。二段重ねで楕円形のファンシーな弁当箱なので、余計に 単調な色彩が目立ってしまうようだった。一乗寺の分の弁当箱もティーンエイジャー向けの小さなもので、その中身も 白飯と炒り卵だけだったのだろう。家庭科を習ったばかりの小学生でも、もう少し頑張れそうな気がするが。

「いいよ、私のを分けてあげるから」

 この少女の正体がなんであれ、弁当の中身が二種類だけでは不憫だ。そう思ったつばめは、自分の机に弁当箱 を広げた。二段重ねで円形の弁当箱はつばめの分、平べったいアルマイトの弁当箱は一乗寺の分だ。ちなみに、 このアルマイトの弁当箱は食器棚の奥から出てきた年代物であり、一乗寺のために新しく買ったわけではない。

「わーいわーいわーい! これで夜まで持つぞーぅ!」

 すぐさま、一乗寺は自分の分の弁当箱を掠め取っていった。

「はい、麦茶も」

 毎度ながら大袈裟な喜びように呆れつつも、つばめが水筒を差し出すと、一乗寺は自分のコップを出した。

「うんうん、これがなくっちゃねぇ。冷たいのが好きー」

「それぐらい自分で沸かして冷やして下さいよ」

「冷蔵庫が空いてないんだもん」

「それはお酒が無駄に多いからです。あと、お菓子とアイスと冷やす意味がないレトルト食品と……」

「いいじゃんかよぉ、職員室と冷蔵庫は俺の世界なんだからぁ。だらしなくしても罪はないだろ?」

「罪はなくても害はあります。たまには掃除機ぐらい掛けて下さい、窓も毎日開けて換気して下さい」

「えぇー、面倒臭い。つばめちゃんのことは好きだけど、そういうところは嫌っ」

 小学生のような文句を言って、一乗寺は弁当箱を抱えて教室から逃げ出した。コジロウは一乗寺を止めることも せず、体を引いて避けただけだった。どうせ、逃げ込んだ先は職員室だからだ。肉体年齢に応じた精神年齢に達して ほしいものである。つばめは苦笑しつつ、自分の席に付いて弁当箱を開けた。

「午前中の授業の分のノートを取っておいたから、見せてあげるね」

 れんげは机の中からノートを出すと、広げてみせた。一乗寺の内容と順番にばらつきがある板書をきちんと整理 して書き込んであり、おまけに字も綺麗で見やすかった。これがあれば、今日の授業内容は完璧だ。

「ありがとうっ、れんげちゃん!」

 それを見た途端、つばめは歓喜してれんげの手を取った。暖かく小さな手だった。れんげは照れ笑いする。

「へへ、そりゃどうも」

「じゃ、お弁当の中身、分けてあげる。何がいい?」

「えーとねぇ……」

 つばめが弁当箱の上段を開いてやると、れんげは目を輝かせた。内容はこれといって特別なものでもなく、昨夜の おかずを作るついでに作ったピーマンの肉詰めと春雨サラダにホウレン草を巻いた卵焼き、キュウリのぬか漬けと いった具合だ。れんげは散々迷っていたが、気恥ずかしげに頬を赤らめながら卵焼きを差してきた。既に炒り卵を 食べているのにまだ卵料理が食べたいとは、余程の卵好きらしい。つばめはれんげの弁当箱の蓋にホウレン草 を巻いた卵焼きを分けてやってから、水筒の蓋のコップに麦茶を注ぎ、それを飲みつつ昼食を摂った。
 重大な疑問を残したままではあったが。





 


12 7/10