機動駐在コジロウ




捨てるカードあれば拾うカードあり



 釈然としなかった。
 だが、この条件に同意したのは他でもない自分だ。羽部鏡一は必要物資が詰め込まれている段ボール箱を一つ 一つ開封し、中身を確認しては並べていった。そうしないと落ち着かないからだ。羽部の趣味に合った衣服が二箱、 フジワラ製薬の研究所でも使用していた実験器具と必要な薬品と機材が五箱、その実験に不可欠な高スペックな パソコンが三箱に別れて入っていた。残りの箱は、また後日開ければいいだろう。

「なんで、この僕がこうなっちゃっているわけ?」

 羽部は来客用の布団に寝そべり、吊り下げ型の蛍光灯が下がっている板張りの天井を仰いだ。今頃、藤原忠と 藤原伊織はどうしているのだろうか。生きているのか死んでいるのかすら定かではないが、あの二人は羽部以上に しぶといから、そう簡単に死にはしないだろう。だが、会いたいとは思わなかった。羽部は藤原親子とフジワラ製薬 を見限った、つまりは裏切ったということになるわけであり、今のところは弐天逸流の配下に収まっている。生きて いくためだとはいえ、自分の信念の薄っぺらさが笑えてくる。だが、それが自分なのだろう、とも思う。
 枕元に置いてある古びた目覚まし時計を掴み、時刻を確かめる。午後八時半前。羽部に分け与えられた部屋は 二階の角部屋で、それまではこの家の長男が使っていたものらしく、色褪せた学習机と擦り切れそうな地元中学校の 通学カバンが隅に追いやられていた。少し毛羽立った畳と埃っぽさからして、本当に急な話だったのだろう。布団も 心なしか湿っぽく、干している余裕すらなかったことが窺える。なんとなく気が引けてしまうのは、羽部にも一抹の 良心が残っていた証しだろう。もっとも、そんなものはすぐに消えてしまうだろうが。

「えー、と。まずは状況を整理しようじゃないの、この僕が」

 羽部は起き上がると、胡座を掻いた。奥只見ダムで戦いを起こしたのは一週間前のことである。大方の予想通り の敗北を期し、アソウギは佐々木つばめの支配下に置かれた。その後、錯乱気味に遁走していた羽部は弐天逸流 の信者達に回収された末、吉岡りんねの元クラスメイトであり、佐々木つばめとも面識を持つ娘、小倉美月の住む 家に転がり込むことになった。当初は弐天逸流の手広さに感服したのだが、小倉美月の母親の実家である美作家 に来ると、その理由がすぐに解った。美作家の仏壇には先祖の位牌は祀られておらず、その代わりに弐天逸流の 御神体である異形の像、万寿様が収められていたからだ。信者同士の上下関係とネットワークを利用したのだ。

「で、その、この僕の仕事って何なんだよ」

 女子中学生同士の会話の盗聴、或いは監視をしろというのか。冗談じゃない、と言いかけて羽部は飲み込んだ。 きちんとした契約書をやり取りしたわけではないが、弐天逸流とは条件を交わしあったからこそ、今の状況がある。 あの時、弐天逸流の信者に見つけてもらえなかったら、今頃は羽部は飢えに負けて正真正銘の化け物になって いたかもしれない。筒状の妙な肉を口にしてからは、L型アミノ酸も少しずつ消化出来るようになり、美作家の家人が 出してくれた夕食も吐き戻さずに消化出来た。味の方は解らず終いだったが。
 やらせたいことがあれば、指示が来るだろう。それに、未だに遺産の一つであるアマラとの接続は切れておらず、 羽部の脳は常にどこかが働かされている状態だ。余計なことを考えると無駄なカロリーを消費してしまうし、体力が 回復するまでの間ぐらいは頭脳労働も休んでいたい。

「あの」

 躊躇いがちにふすまが細く開き、声を掛けられた。件の少女、小倉美月である。

「なんだよ」

 羽部がぶっきらぼうに返すと、美月は怯えながらも言った。

「お風呂、空いたので、どうぞ」

「ああ、そう? でも、君が先の方がよくない? この僕はそう判断するんだけどね」

 羽部は面倒に思いながらも立ち上がり、ふすまを全開にした。廊下の明かりに照らされている美月は、機械油が 染み付いた作業着のままで、髪も肌も汗でべとついていた。すると、美月は顔を伏せる。

「いいんです」

「よくないよ。君が先に入りな」

 人間体に戻っていても嗅覚が鋭敏な羽部にとっては、人間の皮脂と機械油の混じり合った臭気は強烈で、美月の 傍に長居したくなかった。だから、早く追いやる口実を兼ねて、先に入れと言った。だが、美月は承諾しない。

「いえ、それは困るんです。だって、そうしないとお母さんが怒るし……」

「は? なんで? 意味解らないんだけど? たかが風呂の順番で?」

「だ、だって、その……羽部さんは本殿の人達が連れてきた人だから、一番偉いって」

 美月は羽部に凄まれたと思ったのか、身を縮める。羽部は心当たりがないので、更に粗野になる。

「知らないよ、そんなもん。この僕が全宇宙の支配者に相応しい知能を持ち合わせているのは周知の事実だけど、 こんな狭い一般家庭で偉ぶるなんて馬鹿の極みなんだよ。大体なんだよ、その本殿って。ああ、あいつらのことか。 でも、あいつらとこの僕は利害関係が一致しているというだけであって、君の母親みたいに触手だらけの変な神様 を拝んでいるわけじゃないんだよ。ビジネスライクなんだ。そこんとこ、履き違えないでくれる?」

「えっ? でも、お母さんも本殿の人達も、羽部さんは」

「そりゃあれだ、君の母親とこの家の人間を丸め込むための詭弁に決まっているよ。大体、いつどこでこの僕がこの 僕以外の何かを信仰した? 信じるわけがないじゃないか、自分以外を」

「だったら、なんであの人達と一緒に来たんですか」

「死にたくなかったから。色々なことを説明すると面倒だから割愛するけど、まあ、そういうこと」

「そう、なんだ」

「で、君はどうなの? あの変な神様、信じているわけ?」

 羽部が問うと美月は口を開きかけたが、階段の下を窺って黙り込んだ。家人か母親に聞かれたら困るのだろう。 それを察した羽部は、美月の腕を掴んで室内に引っ張り込んだ。ふすまを閉ざして窓もカーテンも閉めると、美月は 羽部と二人きりになったことに戸惑うよりも前に、窓に駆け寄っていった。締めたばかりのカーテンを開けてガレージ を見下ろした美月は、今にも泣きそうになった。そういえば、小倉美月の資料にレイガンドーというロボットに関する ものがあった。今や吉岡りんねの配下である人型重機、岩龍と幾度となく競い合った情緒豊かなロボットだ。だが、 そのレイガンドーは稼働していない。地下闘技場で岩龍と対戦した際、抜け殻も同然の状態で戦ったために人型重機 のボディが大破してしまったためだ。と、弐天逸流が寄越してくれた書類に記載されていた。

「レイ、元気かな」

 美月は窓に貼り付き、額を押し当てると、絞り出すように言った。

「私、あの神様を信じたくなんかない。お母さんは、お父さんがロボット賭博に夢中になっておかしくなったのは、あの 神様を信じていなかったからだって言っているけど、私はそんなことはないと思うの。お父さんもおかしかったけど、 お母さんはもっとおかしくなっちゃったから。だから、レイだけが頼りなの。レイは私の話を聞いてくれるし、ちゃんと 受け答えてくれるから、レイさえいれば頑張れるって思っていたんだ。だけど、お母さんはレイを動かしちゃいけない って言って、でも、お母さんはレイの新しいボディを組み上げることを許してくれなくて、レイと話すことも変な神様の 教えにないことだからって禁止しちゃって、だからずっとレイと話も出来ていなくて……」

 羽部は美月の肩越しにガレージの屋根を見下ろすと、美月は唇を噛み締めながら頷いた。

「で、君もそんな感じなのね。うん、言わなくても解る」

「う」

 羽部の言葉に、美月は目元に涙を溜めた。ああ鬱陶しいな、とは思ったが、ここで美月を無下にして逆上されでも したら後始末が厄介なので、宥めてやることにした。口だけではあったが。

「んじゃ、この僕がなんとかしてやろうじゃないの。家庭内カーストの最上位がこの僕で、最下位が君とレイガンドー ってことなら、この僕がどうにか出来ないわけがない。ついでに、君が先に風呂に入れるようにもしてやる。でないと、 この僕の繊細な神経が参っちゃうからね。でも、タダでとは言わせない」

 美月が不意に青ざめたので、羽部は言い直した。

「ああ、そっちの意味じゃない。この僕はね、生身の女の子には毛の先程も興味がないの。だから、別に君を生きた まま取って喰おうだなんて思わないから安心してよ、とりあえずはね」

「でも、私はお金なんてないし、その……他にも何も」

 美月がまた泣きそうになったので、羽部は強めに言い放った。

「佐々木つばめと仲良くしてよ」

「えっ?」

 きょとんとした美月に、まあそうだろうな、と羽部は内心で笑った。自分でも変な要求だと思ったのだから。美月が 美作家の中で最低の扱いを受け続けている限り、美月とつばめが仲良くなる機会は得られず、二人が友達になって くれなければ弐天逸流の求める情報も引き出せるわけもなく、その情報を横流し出来なければ羽部もお払い箱に なる。美月もつばめも損をせず、羽部は弐天逸流に義理立て出来る。最良の判断だ。

「なんで佐々木さんのこと、知っているんですか? お母さんにも話していなかったのに」

「あー……まあ、色々とね。この僕は極めて優秀だから、知らないことなんてないんだ」

 羽部があらぬ方向を見上げていい加減な返事をすると、美月は徐々に笑顔になった。

「じゃ、羽部さんは佐々木さんのアドレスも知っているんですね! 聞きそびれちゃって!」

「うん?」

「じゃ、教えて下さい!」

 目を輝かせて迫ってきた美月に、羽部は及び腰になった。知っているようで知っていないようで、記憶のどこかに 入っているような気もするが、そもそも目にしていたのかどうかすら怪しい。羽部がフジワラ製薬で目にした佐々木 つばめの個人情報は遺伝子の塩基配列や心拍数や過去の通院歴といったものばかりで、船島集落での住所まで は目を通していなかったような。かといって、インターネットで調べたところで吉岡グループと政府が手を回して隠蔽 しているだろう。しかし、答えられなければ事態は困窮する。そこで、羽部は設楽道子の脳内に収まっているアマラ を経由して、佐々木家に関する情報を得ようとした。
 すると、羽部の脳内に現れたのは、設楽道子の記憶している関係者のアドレス帳でもなければ吉岡りんねの住む 別荘の映像でもなかった。佐々木家そのものの映像だった。だが、羽部は船島集落の分校に行っただけであり、 佐々木家には一歩も踏み入れていない。ならば、これは一体何なのか。合掌造りの民家、火の気のない囲炉裏、 ハンガーに掛かった制服、元の機体を取り戻して稼働しているコジロウ、備前美野里、そして鏡に写った見知らぬ 少女。ショートカットで両サイドの髪を銀のヘアピンで留めている、地味な顔立ちの。

「……桑原、れんげ?」

 とは、誰のことだ。羽部は口から出てきた名前に困惑すると、美月ははっとした。

「そうだ、れんげちゃん! れんげちゃんから教えてもらっていたんだった! なんで忘れていたんだろう!」

「ねえ、それって」

「ありがとう、羽部さん。おかげで思い出した!」

 そう言って、美月は身を翻した。羽部が引き留めるよりも早く、羽部の部屋から出ていった美月は、足音を立てて 階段を駆け下りていった。案の定母親から叱責されたらしく、階下から金切り声が聞こえてきたが、美月は怯むこと なく駆け戻ってきた。再び羽部の部屋に入ってきた美月の手には、携帯電話があった。

「ねえ、桑原れんげって、誰?」

 突如として思考に割り込んできた名前と少女の顔に戸惑い、羽部が問うと、美月はにんまりした。

「決まっているじゃないですか、私とつばめちゃんの一番の友達!」

 そんな人間がいるとすれば、とっくの昔に気付いているはずだ。だが、今の今まで、桑原れんげという名前は羽部の 記憶になかった。桑原れんげという名を持つ人間の顔も知らなかった。それなのに美月は、桑原れんげはつばめと 自分の一番の友達だという。降って湧いたような話だ。怪しくないわけがない。
 しかし、美月はれんげの存在を疑うどころか、嬉々として電話を掛けている。最初に電話に出たのはれんげという 正体不明の少女らしく、美月はしきりにその名を呼んでいた。愚にも付かない話題をやり取りした後、電話の相手が つばめに代わった。美月はやっと電話出来たと言い、感涙しそうなほど喜んでいた。電話口から聞こえてくるつばめ の声もまた嬉しそうで、年相応にはしゃいでいる。それから二人は、今週末に待ち合わせて出かける約束をした。

「羽部さん、えと、これでいいんですよね?」

 興奮冷めやらぬ様子の美月は、先程とは別人のように覇気があり、目にも力が戻っていた。友達になったばかり のつばめと電話出来ただけなのに、こうも様変わりするとは、随分と抑圧されていたのだろう。

「ああ、うん。じゃ、適当に話を付けてきてやるから」

 羽部が言うと、美月は礼を述べながら深々と頭を下げてきた。そこまでありがたがられることはしていないのに、と 若干複雑な思いを抱きつつ、羽部は一階に下りた。仏間からは母親と家人達が読み上げる経文が聞こえていた。 声色は真剣そのもので、彼らは心の底から弐天逸流を信じているのが伝わってくる。仏間の周囲には異様な空間 が出来上がっていて、近付くだけで寒気がしてきたが、約束は守らなければならない。利益を得た分だけ労働する のは世の常だからだ。羽部がぞんざいな手付きでふすまを開くと、経文がぴたりと止まった。
 美月の母親、直子は敵意すら込めて羽部を注視してきた。仏壇で灯っているロウソクの光を受けているからか、 見開かれた目は奇妙にぎらついていた。羽部は少々臆しながらも、付け焼き刃の弐天逸流の用語を使って美月の 行動は神託によるものだと、美月とレイガンドーを引き離すとよくないことが起きると言われたから羽部がこの家に 派遣されたのだ、と言うと、直子は拍子抜けするほど呆気なく了承してくれた。
 二階の部屋に戻って美月にその旨を報告すると、美月はすぐさま駆け出してガレージに飛び込んだ。レイガンドー も再起動させたらしく、ガレージからは成人男性の機械合成音声と少女の弾んだやり取りが聞こえてきた。それを 耳にしていたが、羽部はまたも釈然としない思いに駆られた。

「この僕がいいことしちゃってどうすんの、ええ?」

 それもこれも、弐天逸流の書いた筋書き通りなのだろうか。だとすれば、余計に面白くない。フジワラ製薬の馬鹿な 計画は羽部自身も気に入っていたから最後まで付き合ってやったが、弐天逸流に対しては義理はあれども情は ない。ギブアンドテイクの分を越えた役割をさせられそうになったら、その時はさっさと裏切って別の会社に鞍替え してやろう。そうでもしなければ生き残れないからだ。
 それから小一時間後、レイガンドーと話し込んでいた美月は、名残惜しげではあったが母屋に戻ってきた。風呂に 入って体中の汚れと心中の淀みを洗い流した美月は、羽部に何度も礼を述べてから、自室に戻っていった。美月の 残り香である甘ったるいシャンプーの匂いに、羽部は腹の底がむず痒くなってきた。機械油の匂いさえなくなれば、 美月も充分捕食対象になる。日焼けした首筋に噛み付いて神経毒をほんの一滴流し込んで血液を凝固させ、チア ノーゼを起こして青紫になった唇を甘く噛み、筋肉の収縮によって迫り上がってきた嘔吐物を吸い取って吐き出して やり、その代わりにたっぷりと水を流し込んで洗い流してやる。腸の内容物が一通り出たら、そちらからも水を流し 込んで洗ってやる。内臓を出来る限り綺麗にしておかないと、腐敗が早くなるからだ。室温を極力下げて、防臭剤と 防腐剤を用意し、ビニールシートを敷いた布団の上に横たわらせる。死斑が出ないように時々体を動かしてやり、 死後硬直が起きる前に関節を曲げて好きなポーズを取らせておく。瞼を開かせておく。そして、貪る。
 人間の美しさは、死した直後にこそ頂点に達するものだ。孤独の恐怖に負けてフジワラ製薬を裏切らなければ、 今も尚、死した女性に欲望を注げていただろう。だが、羽部は、社長秘書であり実質的に会社経営を掌握している 三木志摩子を人間的に好きになれないし、あちらも羽部を蛇蠍の如く嫌っている。事実ヘビなのだが。だから、三木 志摩子に始末されるよりも、怪しい新興宗教に恩を売って生き延びた方がマシだ。けれど、己の性癖を満たせない のはやるせない。冷たく弾力のない死体の手触りを思い起こしながら、羽部は嘆息した。
 とりあえず、風呂に入ってこよう。





 


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