機動駐在コジロウ




捨てるカードあれば拾うカードあり



 線香の匂い。金色の仏具。黒漆の仏壇。
 板張りの天井が、朧気ながら見えてくる。触角に触れる畳からは埃っぽい匂いが立ち上り、鈍った感覚を少しずつ 刺激してくる。自分は死んだのだろうか。だとすれば、こんなにも嬉しいことはない。自分が死ねば捕食される人間は 激減するし、無意味な死を迎える人間もいなくなるからだ。他人の葬式を見かけるたびに、いつも羨ましいと心の 隅で思っていた。桐の棺に入れられて火葬されてしまえば、いかにアソウギに満たされた化け物であろうとも、一握 の灰になれるからだ。そうすれば、伊織は生まれ変われるかもしれない。何の変哲もない人間に。

「起きたか?」

 足音が近付き、伊織の頭上に影が掛かった。反射的に飛び起きた伊織が身構えると、そこにはだらしなく法衣を 着た禿頭でサングラスを掛けた男、寺坂善太郎がいた。伊織はぎちぎちとあぎとを軋ませながら、爪を広げる。

「てめぇ、なんで俺の傍にいやがる」

「なんで、ってそりゃ、俺の方が聞きてぇよ。奥只見から船島集落までは結構な距離があるってのに、わっざわざ ここに帰ってきやがったのはお前の方だろうが、いおりん。あれか、帰巣本能みたいなやつか?」

「り、りん?」

 なんだ、その渾名は。伊織が面食らうと、寺坂は包帯で戒めている右手を振ってみせる。

「感謝しろよ、いおりん。デロンデロンでスライムなんだか粘菌なんだか解らねぇ状態のお前に、俺の右腕の触手を 一本喰わせてやったんだからな。もっとも、アソウギの機能は大分落ちていたみたいだから、怪人体に戻るだけが 精一杯だったようだが、固体化しただけでも充分すぎるだろ」

「てめぇの触手ぅ!?」

 知らぬ間にそんなものを喰っていたなんて。伊織が声を裏返すと、寺坂は包帯を少し緩めて触手を数本出す。

「そうだよ。俺だってお前みたいな半端なクソガキに貴重な触手を喰わせるのは嫌だけどさ、お前には利用価値が まるでないわけじゃないから、仕方なーく喰わせてやったんだ」

「いらねぇよ、そんなもん。つか、余計な御世話だし」

 伊織は毒突くが、寺坂は動じることもなく包帯を締め直した。

「だが、俺は人喰い怪人をタダで居候させてやるほど優しくはねぇからな。そこんとこ、弁えておけよ」

「いらねぇし。つか、てめぇと一緒に住むなんてクソすぎだし」

「そりゃ俺もだよ。でも、放り出すわけにはいかねぇだろ。クマ以上の害獣をよ」

 そこにいろ、なんか持ってきてやるよ、と言い残して寺坂はいずこへと去った。この隙に逃げ出してしまおうか、と 伊織は辺りを見回し、背後にあった障子戸を開けた。庭に面した板張りの廊下があったが、壁際にはずらりと壷が 並んでいた。寺坂の手製と思しき不格好な棚が壁沿いに作られていて、白磁の壷が大量に置いてある。一つ一つ に人名と日付が書かれた札が貼り付けてある。ということは、つまり。

「あ、それ、骨壺だよ」

 不意に話し掛けられ、伊織はぎくりとしながら振り返った。寺坂はスポーツドリンクのペットボトルを二つ持って いて、その片方を伊織に投げ渡してきた。寺坂はその場に胡座を掻くと、世間話をするかのように言った。

「お前らフジワラ製薬が利用した集落の住民を皆殺しにしたんだよ、一乗寺が。弐天逸流に虫を食わされている奴 を見つけるためにな。んで、一人見つけたんだが、それ以外はなんでもなかった。普通の人間だった。だから、全員 火葬して骨壺に収めてやったっつーわけ。なんだったら喰うか? 全部はダメだけどな」

「殺したのか? あの集落の連中を?」

 伊織が戸惑うと、寺坂は訝ってきた。

「なんだよ、殺人鬼のくせして人殺しにキョドるのか? らしくねぇなー、いおりん」

「喰わねぇんだったら殺すんじゃねぇよ! 無駄なことしてんじゃねーし!」

 伊織は声を荒げながら寺坂に詰め寄るが、寺坂は逃げる様子もなく、真っ向から伊織を見返してきた。

「そう思うのか」

「当たり前だろうが!」

 人を喰わなければ生きられない化け物としての、必要最低限の覚悟だ。伊織は激昂してあぎとを全開にしたが、 寺坂は悠長にスポーツドリンクを開けて口を付けた。

「じゃ、お前はまだまともだな。少なくとも、一乗寺よりはクレイジーじゃねぇな」

「まあ……あいつは俺もドン引きしたっつーか、うん」

 笑いながら乱射してくる一乗寺を思い出した伊織は、触角を下げた。まあ座れって、と寺坂にやんわりと促され、 伊織は腰を下ろした。空腹と疲労感が相まって、戦意が起きなかったからでもある。爪でキャップを挟んでスポーツ ドリンクを開けようとするも上手くいかず、苦労していると、見るに見かねたのか寺坂が開けてくれた。礼を言うべき か否かを一瞬迷ったが、柄でもないので、何も言わずに口腔から胃袋に流し込んだ。

「まず最初に説明しておく。ここは俺んち、っつーか寺だな。だから、ちょっと外に行けばそこら中に墓があるし、山を 下りてしばらく歩けば船島集落にも辿り着くし、デレ要素皆無のツンツン御嬢様の別荘も遠くない」

 それを聞いた途端、伊織は無意識に触角が上がった。りんねにまた会えなくもないということか。

「だが、だからってほいほい外出するなよ。勢い余ってつばめを襲うんじゃねぇぞ。今のお前は弱り切っているから、 今度やられたら、ろくに再生出来ない。そりゃ、ついこの前まではアソウギはいおりんの支配下に置かれていたような もんだが、今はもうつばめのものなんだ。タイスウの中に入れたやつをあの子がべたべた触ったからな。だから、 いおりんも不死身じゃねぇ。身体能力だって落ち着いたはずだ。無理をすれば、確実に死ぬぞ」

 寺坂はペットボトルの底で伊織を指してきたので、伊織は複眼を背ける。

「なんでそんなことを俺に教えやがんだよ、意味解んねぇし」

「アソウギにどれだけ融通が利くか、それを知りたいんだよ」

「は?」

「てなわけだから、いおりんは実験台みたいなもんだな。俺の触手がいかなる影響を及ぼすのかを観察して経過を 見守るためにも、コロッと死んでもらっちゃ困るんだよ」

 実験台。聞き慣れた言葉だ。だから、そういう扱いをされることにも慣れているが、軽い嫌悪感を覚えるのも常だ。 伊織を拾って生き延びさせてくれた寺坂に謝意を示すべきか、殺人鬼を長らえさせた罪の報いを思い知らせてやる べきか、思い悩むが、それすらも無駄なのだと即座に思い直す。実験台に意志は必要ないからだ。そもそも伊織は 人間ではないのだから、一人前に悩むことからして無益なのだ。
 この男もやはり、人間なのだろう。甘酸っぱく味覚を刺激してくるスポーツドリンクの味に感じ入りつつも、伊織は 内心で諦観した。右腕が人智を離れた物体に成り果てていても、それ以外は至って普通なのだから、感覚も人間の それと同列に決まっている。これまで伊織を扱ってきた人間達は、皆が皆、伊織を恐れていた。拒んでいた。怯えて いた。父親は伊織を愛してくれているようだったが、その根幹が畏怖だと知っている。羽部でさえも、自身が怪人化 するまでは伊織を遠巻きにしていた。適度に餌を与えておけば従属してくれる、屍肉喰いだと思われていた。実際、 そんなものだった。いいように利用されて使い古され、廃棄されるのだと。どこへ行こうともそんなものだ。
 だからこそ、伊織の価値を認めて買い取ったりんねには、微妙な感情を抱いている。りんねは伊織を単なる怪人 ではなく、一個人として扱っている節がある。それがたまらなく嬉しかった。重要な仕事を任された時も、自分の能力を 認められたのだと思えた。だが、りんねは人間だ。人喰いである伊織が好意を持つべき相手ではないし、りんねも 伊織を部下の一人であるとしか見ていないだろう。だから、好意を敵意にすり替えて歪曲させていた。その方が、 誰にとっても楽だと解っているからだ。だから、寺坂に対してもそうするべきだ。その方が楽だからだ。

「……ん?」

 伊織は何の気なしにスポーツドリンクのラベルを眺めて、気付いた。フジワラ製薬の製品ではあるが、今まで見た こともないデザインと柄のラベルが貼り付けてあった。新製品であるらしく、味が今までになくよく解る。つまり、D型 アミノ酸を多く配合してあるのだろう。父親の仕業なのか。

「いおりん、一つ良いことを教えてやろう」

 早々にスポーツドリンクを飲み終わった寺坂は、空になったペットボトルを振った。

「L型アミノ酸をD型アミノ酸にするラミセ化っつー現象は、いおりんが人間を捕食した時に体内で発生するもんでも あるが、普通の肉を200℃から250℃の間で過熱しても出来なくもない。だから、それ、作ってやるよ。で、喰える ものかどうかを教えてくれ。味の善し悪しもな」

「あ?」

「だーから、実験台だよ、実験台。俺の料理を食え」

「何だよそれ、意味不明すぎだろ」

「意味は解るだろうが。俺の料理を食え、それが実験だよ」

「つか、坊主が肉なんか喰うなよ。罰当たりすぎだし」

「意外と賢いな、いおりんは。だが、生憎、俺は見ての通りの破戒僧なんでね」

 寺坂はにっと笑うと、台所に向かうために仏間を後にした。その場に取り残された伊織は、血糖値を上げてくれる スポーツドリンクを少しずつ飲みながら、拍子抜けしていた。自身の触手を喰わせた上で実験台にするのだから、 余程えげつないことをされるものだと腹を括っていたのだが、まさか生臭坊主の手料理を食わされるのが実験だ とは思ってもみなかった。たったそれだけのために、生き延びさせたというのだろうか。
 死を免れた寂しさと、りんねに再会出来るかもしれないという淡い期待が、外骨格に包まれた胸中にじわりとした 熱をもたらす。父親と羽部鏡一は死んだとは思いがたいが、また会いたいとは思えなかった。二人に会えば、伊織は また下らないごっこ遊びの延長である戦いに身を投じることになるだろう。たとえフジワラ製薬の後ろ盾を失ったと しても、あの父親が悪に対する情熱を失うとは考えられないし、羽部も拗くれた性癖を満たす機会を欲しているだろう から、伊織を口実に殺人を繰り返すだろう。しかし、どちらも受け入れがたい。伊織の理念に反するからだ。
 寺坂の元を逃げ出すのは容易だ。戦闘能力ならば、伊織は弱体化しても尚、寺坂を凌駕している。りんねの元に 戻れば、両手を挙げて喜んでくれはしないだろうが、適切な利用価値を見出してくれるだろう。
 だが、それでいいのかと腹の底がざわついた。このまま誰かの道具として消耗されるべきなのかと、奇妙に冷静な 自分が問い掛けてくる。それまでの自分はそうだった。抜き身の刃として振る舞うべきなのだと盲信してすらいた。 けれど、今はどうだろう。誰の手中からも滑り落ち、刃こぼれしている。拾い上げた寺坂は伊織を刃として使うことは せず、同居人のように扱おうとしてくる。それが疎ましく、腹立たしい反面、どうしようもなく安堵した。

「ウゼェ」

 安易に気を許すなと自分に言い聞かせる。だが、それもいつまで持つだろうか。

「ん」

 ぱらぱらと瓦屋根が叩かれる音が聞こえてきた。雨が降ってきたのだろうか。伊織は障子戸を開けて骨壺の並ぶ 廊下に出ると、窓を閉ざしているカーテンを爪で抓み、引いてみた。外は既に真っ暗になっていたが、窓から漏れる 明かりが岩や木々を薄く照らし出したので、庭があるのだと解った。手入れの悪い庭先では雑草が雨粒に叩かれて 揺れ、干涸らびかけた池にいくつもの波紋が生まれては消えていく。細い銀色の糸が暗澹とした空から滴り、梅雨の 訪れを感じさせた。湿気を含んだのか、外骨格に生えている短い毛に重みが加わったような感覚がある。

「ウッゼェ」

 伊織はカーテンを閉ざすと、身を翻した。昆虫と似た構造の体を持つ伊織にとっては、雨は厄介だからだ。空気が 乾いている場所を探そうと歩き出したが、背を向けた際に足先が骨壺の一つに引っ掛かった。白磁の壷がごろりと 転げてもう一方の足先に引っ掛かり、転びそうになったので、伊織は思わず飛び跳ねた。

「んだよ!」

 煩わしいことこの上ない。伊織はその骨壺を乱暴に掴み、握り潰さんばかりに力を込めた。だが、骨壺に貼られて いる名札を見た途端、伊織の爪から力が抜けて骨壺が滑り落ちた。一度バウンドした骨壺は円を描きながら仏間に 入り、シワの寄った名札は蛍光灯に照らされた。

「……どういうことだ?」

 握り潰すつもりでいたのに、なぜ。伊織は訝りながら爪を動かすが、力は戻っていた。試しに軽く振るってみると、 簡単に障子戸を切り裂けた。畳の上に木片と紙片を散らしながら、伊織は今一度骨壺を見下ろす。腰を捻って勢い を付けて振りかぶるも、爪が骨壺にめり込む寸前で制止した。まるで、他人が伊織の意志を阻んだかのように。

「何をドタバタやってんだよ、ってうおい!」

 台所から戻ってきた寺坂は、切り裂かれた障子戸を見て仰け反った。

「なー、クソ坊主」

 伊織は骨壺を差して寺坂に問おうとするが、寺坂は額を押さえた。

「一乗寺の馬鹿もそこまでやらかさなかったがなぁ。ああもう、どうしてくれんだよ」

「んなもんどうでもいいし。つか、これ、何?」

「どうでもよくねぇっての! 修学旅行で旅館を滅茶苦茶にする中高生みたいなこと言ってんじゃねぇぞ、いおりん!  壊したものはきっちり弁償しろ、俺のピックアップトラックの塗装も凹みもな! 色々あって金が足りなかったから、 直すに直せなかったんだよ! 良い機会だから弁償しやがれ、居候!」

「誰も居候するなんて言ってねーし」

「その割には、障子戸を台無しにするぐらい寛いでくれてるみたいだけど?」

「んなわけねーし。つか、質問に答えろ、クソ坊主」

「その前に俺に弁償すると言え、約束しろ、誓約書を書け」

「はあ?」

「それが筋ってもんだろ」

 噛み合っているようで噛み合っていない。伊織は寺坂の妙に強気な態度に辟易し、承諾した。

「解ったよ。つか、金払えばいいんだろ。俺の口座が凍結されてなきゃ、引き出せるはずだし」

「それで足りなかったら働いて返せよな」

「あー、おう」

「よおし言質は取った、後で誓約書を書かせちゃるからな! 覚悟しておけ!」

 寺坂は意味もなく胸を張るが、法衣にエプロンという奇天烈な服装なので格好は付いていなかった。この男と 直に接するのはこれが初めてではあるが、伊織は早々に後悔した。こんなことなら、寺坂が席を空けている間に とっとと逃げ出すべきだった。寺坂に付き合わされるぐらいなら、雨に降られた方がマシだ。

「で」

「で、ってんだよ」

「俺に何を聞きたいんだ、いおりんは」

「だーから、これだよ。ぶっ壊せねーんだけど。マジ訳解んねーし」

 無駄なやり取りを繰り返してから、伊織はなぜか破壊出来ない骨壺を指した。寺坂は骨壺を拾うと、サングラスを 上げて目を凝らした。名札を確認し、骨壺を眺め回してから、寺坂は神妙な顔をした。

「桑原れんげのだよ。だったら、壊せるはずがねぇよ」

「は? つか、誰だよ?」

「誰って、そりゃ」

 寺坂は骨壺を抱えて立ち上がり、窓際の棚に戻しに行った。

「桑原れんげだよ」

 おっと焦げる、と寺坂は慌てて廊下を駆けていった。骨壺の主の名を言われただけで意味が解るとでも言いたい のだろうか。んなわけねーじゃん、と伊織は反論したくなり、桑原れんげの名と命日が書き込まれている名札を爪で 挟んだ。それを千切ろうとした瞬間、複眼の端に人影が過ぎる。本能的に振り返り、伊織はそれと対峙した。薄暗く 細長い廊下の奥、仏間を囲む廊下の角に、佇んでいた。
 桑原れんげ。教えられるまでもなく、名乗られるまでもなく、伊織は理解した。否、させられた。佐々木つばめと同じ 分校の制服を着た少女は黒髪をショートカットにしていて、両サイドの髪を銀のヘアピンで留めている。顔の部品は どれもこぢんまりとしていて、丸顔であることも相まって地味極まりない。それが桑原れんげなのだ。伊織は痺れを 伴った頭痛を感じてよろめくと、桑原れんげは目を上げた。
 一際、雨音が強まった。





 


12 7/16