機動駐在コジロウ




水泡にキス



 だが、しかし。
 決心したからと言って、そう簡単に実行に移せるようなものでもない。つばめは日陰に座り込み、膝を抱えていた。 コジロウはと言えば、ナユタの警護に戻っている。常に視界につばめの姿が入る位置に立っているので、時折目を 向けると必ず彼と目が合った。それが一層気恥ずかしさを煽り、焦燥感すら湧いてきた。
 暑さと船の揺れと羞恥とその他諸々の感情で、つばめは脳が煮えてしまいそうだった。心なしか、ナユタと甲板の 間にある空間が広がっていて、頑丈なワイヤーがぎしりと鈍い音を立てた。頭上を行き交うヘリコプターをなんとなく 目で追っていると、隣に人影がやってきた。武蔵野だった。

「飲んでおけ」

 また倒れるぞ、と言いながら武蔵野が差し出してきたのは、良く冷えたミネラルウォーターだった。つばめは喉の 渇きを思い出したので、それをありがたく頂いた。一口ずつ飲んでいると、武蔵野はつばめの隣に腰掛けた。

「これは俺の持論なんだが」

 武蔵野はサングラスの下で瞼を狭めるが、その右目が義眼であるとは思えないほど自然な動作だった。

「キスというか、性行為とそれに準じた行為ってのは相手に無防備な姿を晒すことなんだ。口なんてのは弱点だらけ だし、舌を噛み千切られれば致命傷だ。首も差し出す格好になるし、抱き付かれた時に刃物でも使われたら、一発 で心臓を抉り取られる。防弾、防刃ジャケットにしたって、至近距離で何度もやられたら効き目が弱まる。セックスに したって、急所を丸出しにするわけし、文字通り丸腰になる行為だから、ある程度は信頼関係がなければ出来るもの じゃねぇ。もっとも、世の中には性欲が警戒心を上回る奴が山ほどいるようだがな」

「何が言いたいの?」

 つばめが小声で聞き返すと、武蔵野はつばめを見下ろしてきた。

「道子の言っていたことは極論ではあるが、間違っちゃいないってことだ。俺の感じた限りでは、ナユタはつばめの 精神状態と連動している。つばめが本気で心を許さなければ、遺産もつばめに気を許してくれない、ってことだ」

「でも、道子さんはそんなこと言っていなかったよ?」

 ナユタとつばめに繋がりがあるなんて初耳だ。つばめが驚くと、武蔵野はナユタを指し示した。

「そりゃ、道子はあいつを解析し切れていないからな、解るものも解らんさ。俺だって遺産のことを充分理解している わけじゃないが、外側から見ているからこそ解ることもあるってことだ。つばめ、うんと小さい頃にケガか病気をした ことがあるか?」

「あ……うん。生後半年だったかの時に、足を切っちゃったことがあるの。でも、それがどうしたの?」

「前回、ナユタが暴走したのも同時期だ」

「え? だけど、私はそんなの、全然」

「俺だって理屈は解らん。聞かれても答えられん。だが、そういうことなんだってのはなんとなく解ったんだ。だから、 つばめはあいつらを信用してやれ。そうすれば、ナユタもお前のモノになる」

 お前は他人を信用しないからな、と武蔵野は若干自虐を込めた口振りで言った。思い当たる節が多すぎるので、 つばめは言い返す気も起きなかった。心の底から信用している人間なんて、つばめにはいないだろう。自分の境遇 と背後関係が複雑になればなるほど、気を許せる相手は限られてくるからだ。無条件の好意を向けてくれる人間は まずいないし、吉岡一味から分離して雇った面々は信用してはいるが、無防備になったわけではない。金銭による 主従関係を築く時点で、相手の好意を信用していない証拠だからだ。
 その点、コジロウはどうだろう。コジロウは感情を持たないロボットであり、つばめには頑なな忠誠心を抱いている から、感情的になってつばめを見限ることもないし、見捨てることもないし、手のひらを返すこともない。だから、彼に 特別な感情を抱いてしまうのだ。どれだけ好きになっても、コジロウはつばめの好意を受入はしないが無下にしない と解っているからだ。なんて打算的で自分勝手な恋だろう。

「まあ、無理強いはしない。俺だって、お前のことを全面的に信用しているわけじゃないしな」

 武蔵野はつばめから視線を外すと、大型客船の残骸の回収作業を続ける巡視船の群れを見つめた。

「うん……。それについては否定しないよ」

 つばめは武蔵野と同じ方向を見、少し悩んだ末に、思い当たった結論を話した。

「この際だから言うけど、遺産争いの原因ってお爺ちゃんなんじゃないかって思うの。だって、遺産がお爺ちゃんの 手元にあって管理されていれば、何も起きなかったはずなんだから。何らかの理由でとんでもない額の大金が必要 だったから遺産を売り払ったんだろうけど、遺産とお金の価値を天秤に掛けてみると遺産の方が比重が重いのは 誰だって解るよ。それなのに、遺産よりも集落とお金を選んだ理由が解らないんだ。お父さんとお母さんが離れ離れ になった理由も、そこにあるのかなぁって……。そう思っちゃうと、余計に気を張っていないと不安になるんだ。誰が 敵で誰が味方なのかも、解り切っていないから」

「それもまた、これから調べていこうじゃないか。お前の父親の居所は見当が付いているからな」

「じゃあ、お父さんにはすぐに会える? お母さんの話も聞ける?」

「それは……俺からはなんとも言えんな。下手に近付くと、事態が混迷するかもしれんし」

「うん、そうだよね、そうだもんね。今、会うとお父さんを困らせちゃうだろうしね」

 つばめは期待に膨れ上がりそうだった心を抑え、俯いた。

「気が済むまで考えておけ。行動に出るのは、それからでいい」

 それが管理職ってもんだ、と言い残し、武蔵野は船内に戻っていった。つばめは生温くなったミネラルウォーターを 口に含んでから、武蔵野とのやり取りを反芻した。つばめがナユタと連動している。だとすれば、ナユタがこれまで は誰の管理も受け付けなかったのも、どんな攻撃を受けてもほとんど壊れなかったのも、納得が行く。だが、つばめ 自身の精神が作用しているのだとしたら、ナユタをどう扱えばいいのかが余計に解らなくなってしまった。自分の心 ほど手に余るものはないし、ややこしいものもないからだ。
 ナユタの前に佇むコジロウは、つばめを見守り続けている。つばめは日陰から直射日光の下に出ると、太陽から 降り注ぐ強烈な日差しに視界が白んだ。海の照り返しが激しく、目が眩みそうになる。つばめが近付くと、コジロウは つばめと向き直った。ナユタの分子構造を変換して造った両手足は、見た目だけではそれまでとなんら変わりない ように思える。だが、コジロウがひとたびその気になれば、この巡視船は消し飛んでしまうのだ。

「ナユタが手足になったままで大丈夫?」

 つばめがコジロウの手に触れようとすると、コジロウは動作を躊躇った。破壊力を自覚しているからだ。

「ナユタのエネルギー活性を制御し、押さえているため、胴体に対する負担は最大限に軽減している」

「どれくらい保つ?」

「ナユタが安定を保っている限りは、本官の分子構造もまた保たれる」

「じゃあ、早くなんとかしないとね。で、早く上陸して、コジロウもちゃんと修理してもらわないと」

 つばめがナユタに近付いてブルーシートの下に入ると、コジロウも連れ立ってきた。色は青々としていていかにも 涼しげだが、甲板の照り返しが入って空気が籠もっているので、直射日光の下よりも暑く感じる。薄暗くなると、彼の 赤いゴーグルから零れる光を捉えられるようになる。青と赤が入り混じり、夕焼け空のような淡い紫色がつばめを 照らしてきた。つばめは彼の胸に触れ、白い胸部装甲に貼った片翼のステッカーを慈しむ。

「つばめ」

 その手を、コジロウが掴んできた。思わぬことにつばめは身動ぎ、照れた。

「な、何?」

「ナユタはその高度かつ強力な機能故にセキュリティが堅牢であり、管理者権限所有者に対しても同様だ。先日の 戦闘に値する緊急事態を除き、安易に中性子エネルギーを発することが出来ないように設定されている。よって、 ナユタがつばめに管理を委ねていないというわけではない」

「ああ、さっき武蔵野さんが言っていたこと?」

「そうだ。よって、武蔵野戦闘員の発言には大いに誤りがある」

「また妬いたの?」

「本官には、その語彙に相当する主観はない」

「はいはい、解っていますって。心配性なんだから」

 つばめがからかうと、コジロウは否定を繰り返した。

「つばめの言葉に準ずる言動を行った記憶はない」

 だから、彼が好きだ。つばめを裏切らないし、変な期待を持たせるようなことも言わないし、どんなことが起きても 必ず守ってくれる。ナユタで出来ている銀色の手を取り、握り締めると、冷たい手触りが返ってきた。そのまま彼に 寄り掛かると、コジロウはもう一方の手でつばめの背を支えてくれた。体格差が違いすぎるので、つばめはコジロウ の腹部装甲に額を寄せる形になった。以前ほど駆動音が大きくないのは、ナユタの影響だろうか。

「コジロウ、あのね」

 好きだよ、大好きだよ。そう言えたら、どんなにいいか。言ってしまったら、この心地良い主従関係が歪んでしまう ような気がするからだ。傍にいることはイコールで愛情というわけではないし、守ってくれることがイコールで好意で あるわけでもない。自分が大事に思っているからといって、相手もそうだとは限らない。増して、相手はロボットなの だから尚更だ。感情は打てば響くものだと武蔵野は言っていたが、ロボットはどうなのだろう。どれだけ打っても全く 響いてこないのだから、打てば打つだけ無駄ではないのか。そんな理性が、つばめの気持ちに制動を掛ける。
 と、つばめが感傷に浸っていると、前触れもなく腰に手を回された。手の主は当然コジロウで、つばめは予想外の ことに心底驚いた。コジロウらしくもない、いやに色気付いた行動だ。

「う、え、あっ」

 つばめがたじろぐと、コジロウは空いた右手でつばめの顎を掴み、目線を合わせてくる。

「あ、あうっ」

 これはまさか、さっきのアレではなかろうか。つばめは背を曲げて身を屈めてきたコジロウと真っ向から向き合い ながらも、目を合わせられなくなった。このままではああなってこうなってそうなっちゃうんじゃ、との妄想が頭の隅々 まで駆け巡っていったからだ。つま先立ちになったつばめは、期待と不安で震えそうになる体を縮めた。

「本官の管理システムを経由してナユタの管理システムにアクセスし、各種設定を行う。本官のプログラム言語にて つばめの管理者権限情報を変換し、ナユタに転送すれば、より確実にナユタを制御出来ると判断した」

「そっ、そのためぇ!?」

 だからって、何もこうしなくても。つばめが声を上げると、コジロウはつばめの汗の浮いた頬に指を添えた。

「つばめが望まないのであれば、中断するが」

「どこでそんなの覚えたの」

 気障ったらしいったらありゃしない。だけど、悪くない。つばめが少し笑うと、コジロウは更に腰を曲げる。

「本官のマスターは、つばめだ。他の遺産も同様だ」

「だからって、これはないでしょ……」

 こうなったら、コジロウのしたいようにさせてやるだけだ。ようやく開き直ったつばめは、コジロウの首に腕を回して かかとを上げた。すると、コジロウはつばめの右手を取って胸部装甲の中心に触れさせてきた。

「本官の中枢であるムリョウは、ギアボックスの真下に位置している。緊急停止装置もそこに位置している」

「ああ、そっちの意味ね」

 つばめはコジロウの心臓部を確かめながら、彼の行動の意味を悟った。つまり、コジロウは武蔵野の発言と寺坂の 行動を複合的に考えて判断したらしい。キスをするのは相手に無防備になることだから、わざわざつばめに弱点 を知らせてくれたのだ。それが嬉しくもあり、なんだかくすぐったくもある。

「今後、本官が領分を越えた行動を取った場合、機能停止を要請する。外装を開き、ムリョウに触れて制御出来る のはつばめだけだからだ」

「大丈夫だって。だって、コジロウだもん。何が起きても、守ってくれるのがコジロウなんだから」

 ね、とつばめはコジロウの首に回した腕に力を込め、抱き締めた。コジロウもまたつばめを抱き締め返した。それ が反射的な行動に過ぎなくとも、胸の奥が暖かくなる。ほのかに光を感じたので瞼を上げると、ナユタが二人を包み 込むように青白い光を強めていた。だが、あの夜のように攻撃的な閃光ではなく、緩やかなエネルギー波が微風を 生み出してブルーシートを波打たせていた。前髪を舞い上げられたつばめは、コジロウの肩越しに身を乗り出して ナユタの六角柱に額を当てた。そして、顔を少し傾けて唇を添えた。
 もう怖がらなくていい、強がらなくていい、意固地にならなくていい。コジロウが傍にいるのだから。つばめが遺産 に内心で語り掛けると、光が収まっていった。それに応じてナユタ自身の体積も収縮していき、青白い光が小さな点 と化した頃にはナユタは全長五センチ程度の結晶体に変わっていた。つばめが手を差し伸べると、矮小な結晶体は つばめの手中に収まってくれた。それを握り締めて胸に押し当ててやると、光は完全に消えた。

「ん!」

 つばめは身を下げると、勢いに任せてコジロウのマスクに唇を重ねた。すると、コジロウの両手足からも青白い光 が漏れ出し、溶けていった。それはつばめの手中にある結晶体に吸い込まれて、質量を失った。ナユタがつばめの 管理下に置かれたため、分子構造の変化も失われたからだ。胴体と首だけとなったコジロウがコンクリートの上に 転がると、ナユタのエネルギー波を受けて舞い上がっていたブルーシートも落ち着き、二人の上に被さった。
 その重みと息苦しさを感じながらも、つばめはコジロウの傍に寄り添った。コジロウは手足がないので、つばめを 覆うブルーシートを剥がせないのが歯痒いのか、しきりに身を捩った。つばめは彼のいじらしさに笑みを零しつつ、 思う存分コジロウに体を寄せた。空気が薄く、蒸し暑かったが、心地良いものがつばめを満たしていた。
 心身を覆っていた、薄い泡が爆ぜたような気分だった。




 それから、数時間後。
 手のひらサイズになったナユタを握って、つばめは近付きつつある地平線を望んでいた。道子の言っていた通り、 ナユタが沈静化したので上陸許可が出たからである。再び手足を失ったコジロウは巡視船の格納庫に搬入されて しまったので、しばしのお別れだ。日が暮れる一歩手前の空は茜色に染まり、千切れた雲が流れている。
 スクリューが巻き起こす白い泡と裂けた波をぼんやりと眺めていると、いつのまにか皆が揃っていた。見るからに ほっとしている顔の寺坂に、にこにこしている道子に、覚悟を決めた面差しの武蔵野だった。

「先生、まだ起きてこないの?」

 つばめが一乗寺の姿を探すと、寺坂が首を捻った。

「そういえばそうだなぁ。メシは毎回届けた分を平らげていたから、たまに起きてはいるみたいなんだが」

「そんなことを言うと湧いて出てくるぞ、ああいう輩は」

 武蔵野が渋面を作ると、やたらと勢い良く船室のドアが開放された。ほら言った通りだ、と武蔵野が指し示すと、 寝起きで髪がぼさぼさの一乗寺が現れた。だが、何かが違っていた。日常的に見慣れているはずだが、違和感を 覚えたつばめは目を凝らした。鮮やかな西日を浴びたシルエットが、どことなく丸いような気がしたからだ。

「やっほー! あーよく寝たぁ、傷もすっかり治っちゃったー!」

 そう言うや否や、一乗寺は甲板を駆けてきた。彼も借り物の服を着ていて、シンプルな紺色のTシャツにだぼっと したズボンにスニーカーを履いている。一乗寺はつばめに飛び付くと、力一杯抱き付いてきた。

「ねえねえつばめちゃん、コジロウとは何をどこまでしちゃったのー? 先生に教えてよぉーう!」

「ちょっ……ん?」

 つばめは一乗寺を押し返そうとしたが、妙な弾力を感じた。顔に押し当てられているのは、痩せ形ではあるが筋肉が 付いた胸板ではなかった。二つの丸い膨らみが付いている。これは、まさか。つばめは怪訝に思い、一乗寺の胸 に触れてみた。途端に一乗寺は高い声を出し、いやんえっちぃ、と身を捩った。
 確かに、アレである。つばめは一乗寺から離れると、声も出せないほど驚いた。この数日間の出来事であらゆる 感情が大いに掻き混ぜられたが、最も驚いたのはこの瞬間だった。いつも通りの幼い笑顔を浮かべている一乗寺 はこれ見よがしに胸を張ってみせると、二つの大きな膨らみが暴力的に躍動した。ノーブラだからである。

「いえーい! 今日から俺は女の子だーい!」

 最初に絶叫したのは誰だったのか。少なくとも、つばめが叫ぶ前に誰かが叫んでいたのは確かである。あまりの 驚きように何事かと自衛官達が飛び出してきたほどで、彼らもまた一乗寺の変貌を見て驚いた。何人かに説明を 求められたが、そんなことが解るはずもない。当の一乗寺はなんだか楽しそうで、柔らかなラインの体を見せつけては 感想を求めてきた。だが、つばめは何も言えなかった。
 開いた口の塞ぎ方を忘れてしまったからだ。





 


12 10/9