機動駐在コジロウ




災い転じてフェイクと為す



 板張りの天井には、細切れの日差しが注いでいた。
 小さな埃の粒が煌めき、空気の流れと共に漂っている。深く息を吸うと、青々とした畳の香りが肺を満たしてきた。 肺が膨らむ、ということは人間体に戻ったのだろうか。両手に触れるのは柔らかな布で、頭の下には心地良い弾力 の枕がある。薄い掛布に包まれた体を捩ると、糊の効いたシーツが歪んだ。
 布団に寝かされている自分に気付いたが、伊織は抵抗する気持ちは起きなかった。敵意と殺意を漲らせて誰かと 戦うことよりも、心身を安らがせていたかったからだ。だから、胎児のように背中を丸めて薄い掛布を抱き締めて、 その肌触りを味わった。暑くもなく寒くもなく、ただひたすら穏やかだ。生まれてこの方、伊織はこんなに気を緩めて 寝入っていたことがあっただろうか。いつも血生臭い場所に身を置いて、己の狂おしい空腹を堪えながら、化け物に なりたい肉体と人間でいたい精神を鬩ぎ合わせていたから、一人きりになろうとも緊張は抜けなかった。布団の中 に潜り込もうとも、いつ飢えに襲われるのかと内心で恐れていた。だから、もう少し眠っていたかった。
 とろりとした睡眠と辿々しい覚醒を何度も繰り返していたが、次第に意識が晴れ渡ってきた。瞼を閉じていることが 億劫になり、縮めていた体を伸ばしたくなってきた。目覚めたら、どうせまたろくでもない現実と立ち向かわなければ ならないのに、とは思うが、生理現象には敵わない。渋々、伊織は瞼を上げた。
 枕と掛布を離して上体を起こすと、やけに視界が低く、狭かった。複眼の視界ではない。人間体に戻ったとしても、 伊織の身長は百八十センチ近くあるのだが、この高さではまるで子供だ。藤原忠の悪辣な攻撃を耐え抜いて生き 延びたはいいが、生命維持のために生体組織を犠牲にしたのだろうか。

「意識が戻るまでに一週間と十八時間か。この僕の優秀すぎる頭脳による計算よりも少し早いけど、まあ、誤差の 範囲内ってことで特別に許してあげようじゃないか」

 この、忘れもしない馬鹿げた口調は。伊織が反射的に振り向くと、部屋を囲んでいるふすまが開き、一人の男が 滑り込んできた。羽部鏡一である。相変わらず悪趣味極まりない服を着ているが、なぜか和装だった。原色だらけ で目に痛いデザインの着流しの裾から伸びるのは足ではなくてヘビの尻尾だった。

「意識が戻ったのなら、どっちの意識なのかを説明してくれる? この僕は未来永劫讃えられるほどの知能と技術 を持った科学者の中の科学者だけど、超能力者じゃないから、君の意識までは読み取れないんだよねぇ」

 するすると畳の上を這ってきたヘビ人間の羽部は、伊織に近付いてきた。伊織は思わず後退る。

「はぁ!? つか、なんでてめぇが俺の傍に」

 と、叫んでから、伊織は自分の声が高いことに気付いた。しかも、物凄く聞き覚えのある声だ。

「ふむ。クソお坊っちゃんの方か。ということは、肉体の形状は御嬢様が優先されたけど意識はクソお坊っちゃんが 優先された、ってわけね。いや、ちょっと違うかな。御嬢様とクソお坊っちゃんが互いに欠けているものを補い合った 結果、融合したと考えた方がいいかな。遺産の産物同士の互換性もなかなか捨てたものじゃないねぇ」

 羽部は布団の周りで渦を巻き、伊織を凝視してきた。

「……なぁ、鏡、ある?」

 羽部の言ったことは信じられないし、信じたくないが、確かめなくては。伊織がおずおずと頼むと、羽部は心底面倒 そうな目で伊織を一瞥してから、部屋の隅にあった小振りなタンスを開けて手鏡を出し、渡してくれた。黒い漆塗りで 繊細な蒔絵が施された丸い手鏡を覗き込むと、そこには吉岡りんねが写っていた。だが、表情が違う。至るところの 表情筋が引きつっているし、寝乱れた長い髪はぼさぼさで、おまけに滑らかな黒髪がまだらに脱色していて部分的 にメッシュを入れたかのような色合いになっている。表情と髪は明らかに伊織だった。だが、顔はりんねだ。

「てぇことは、つまり、こっちの方もお嬢なのか?」

 好奇心に駆られた伊織は、死に装束に似た白い寝間着の襟元を広げてみた。案の定、そこにはふくよかな乳房 があった。慎重に股間をまさぐってみるが、伊織が慣れ親しんだ手応えはなかった。赤面した伊織が唇を歪めると、 羽部は伊織の手から手鏡を奪い返し、タンスに戻した。

「気が済んだのなら、人を呼ぶけど? 身支度をしてもらわないことにはねぇ」

「ウゼェ。なあ、クソヘビ野郎」

「この僕に対してその呼び方をしていいとでも思ってるのかい、クソお坊っちゃん。ていうか、その顔と声でその言葉 遣いはやめてくれない? いくら美少女が粗暴な振る舞いをするのが萌え要素として普及しているとしても、許される 範囲ってものがあるんだから。ちなみにこの崇高なる僕は、二次元に対しては性欲は微塵も感じないけど」

 じゃあまた後でね、と言い、羽部は足音も立てずに部屋から出ていった。出ていく際に尻尾の先で器用にふすまを 閉めていったので、モンスターのラミア状態になってからは割と時間が経っているのかもしれない。伊織は布団の上 に胡座を掻こうとしたが、白く薄い襦袢のような寝間着の下には下着を着けていないのだと悟り、止めた。さすがに 気が咎めてしまうからだ。意識は伊織と言えども、肉体は吉岡りんねそのものなのだから。
 枕元に置いてあった水差しの中身をコップに注ぎ、中身がただの水であると確かめてから、伊織はコップを傾けて 喉を潤した。粘ついた唾液が解けていき、空っぽの胃袋が少しだけ膨らみ、存在感を持つ。喉越しの良さと程良い 冷たさが甘みすら感じさせてきて、いつになく水をおいしいと思った。二杯目の水を飲み干してから、伊織は日差し が降り注いでくる障子戸を開けてみた。板張りの縁側が伸びていて、広い庭に面していた。更にその庭は瓦屋根が 乗った漆喰塀に囲まれていて、城郭を思わせる造りだった。
 外に出ようかと思ったが、躊躇した。伊織が伊織のままであったなら、迷わずに飛び出していっただろう。そして、 空腹に任せて暴れ回っていただろう。だが、今の伊織はりんねなのだ。あの後、何が起きたのかは明確には覚えて いないが、命を落とす寸前に高守信和にりんねを頼むと伝えたことは覚えている。だとすれば、高守信和は伊織の 願いを聞き届けてりんねを助けてくれたのだろうか。となればこの建物は、高守信和の母体組織である新興宗教、 弐天逸流の施設なのか。だとしても、敵対組織の人間に対して待遇が良すぎる。
 伊織がそんなことを悶々と考えていると、再度ふすまが開いた。今度は羽部ではなく、清潔な服装をした女性達が 入ってきた。彼女達は伊織を部屋の中に連れ戻すと、あれよあれよと言う間に着替えさせ、寝癖が付いた髪も綺麗 に梳いてくれた。女性達が深々と礼をしながら出ていくと、伊織はすっかり小綺麗にされていた。顔も濡れタオルで 丁寧に拭かれ、さっぱりした。色鮮やかな振袖を着付けられた伊織は、着物の足捌きの悪さに戸惑ったが、脱ぐに 脱げないので、着物に慣れるために部屋の中をぐるぐると歩き回った。

「きれい」

 不意に、伊織の口から意図せずに言葉が漏れた。他に誰かいるのか、と伊織が辺りを見回すと、再度口が勝手 に動いて声が出てきた。舌っ足らずで語彙も貧弱な、幼い少女のものだった。

「今の、俺じゃねぇよな?」

 ん、と一度口を閉じてから、伊織は自分自身に語り掛けた。

「もしかして、お嬢なのか?」

 こくん、と伊織の意志に反して首が勝手に動いた。だが、それきり、彼女との意思の疎通は出来なかった。伊織が りんねに話し掛けようとしても、りんねにどうやって話し掛けたらいいのか解らなかったからだ。一つの肉体に二つの 意識を宿すだけでも大変だが、片方の意識が脆弱だと尚更扱いづらい。結局、伊織はりんねと言葉を交わすことを 諦めた。この状況に戸惑っているのは、何も伊織だけではないのだから。
 まずは、慣れることから始めなくては。




 この施設での伊織は、御鈴様おりんさま、と呼ばれていた。
 素っ頓狂な状況を甘受した伊織は、それから色々と試してみた。部屋の外に出ようとすると、すぐさま見張りの者が 駆け寄ってきて伊織を部屋に押し戻した。雨戸の変わりに掃き出し窓を填め込んだような縁側と中庭に出ることは 許されたが、そこから先に行こうとするとやはり押し止められた。畳敷きの部屋には時計もなければテレビもない ので、時間の感覚が失われそうだったが、時折身体検査という名目で訪れる羽部に教えてもらったのでなんとか なった。中庭を囲んでいる屏を乗り越えようとも企んだが、二つの意識を宿した少女の肉体は異様に疲れやすい上に 筋力がほとんどないので、懸垂すら出来ずに、中庭に転げ落ちただけだった。怪人体に変化しようとしてみたことも あったが、中途半端に外骨格が皮膚から迫り出してくるだけで、身体能力を向上させられなかった。
 御鈴様、御鈴様。今日もまた、そう呼ばれた伊織は、女性達が運んでくる御膳に載っている食事を口にした。品の 良い味付けの和食で、消化の良い料理ばかりが並んでいる。柔らかく炊けた白飯に野菜を多く煮込んだ味噌汁に、 豆腐と鶏挽肉のハンバーグ、ダシの効いた茶碗蒸し、柚子が散らされた白身魚の煮付け。どれもこれも味が解る ばかりでなく、まともに消化出来るのが、伊織にはとてつもない喜びだった。それまでは血生臭い肉と骨と内臓しか 食べることが許されなかったので、生まれて初めて食事の快感を味わっていた。
 心行くまで食事を堪能した伊織は締めの緑茶を飲みながら、心身を暖める充足感に満たされていた。出来ること ならもっと食べていたいところだが、りんねの肉体は胃袋があまり大きくないので、食べ過ぎると消化不良を起こして しまう。普通の食事を食べ慣れていない頃に許容量を超えた食事を詰め込んでしまい、その日は丸一日トイレ に籠もる羽目になったからだ。あの時は、本当にりんねに悪いことをしてしまった。
 食事中は誰も入ってこないので、それをいいことに伊織は着物の裾を割って座っていた。さすがに胡座を掻くのは 気が引けるが、足を曝す程度であれば問題はないはずだ。これでもう何日目になるだろう。外界ではどうなっている のだろう、遺産争いはどう展開しているのだろう、父親はどうなったのだろう。胸中を過ぎる懸念に、伊織は少しだけ しんみりした。けれど、外に出られないなら、それはそれでいいのかもしれない。少なくとも、伊織と共にあるりんねは 平穏に暮らしていけるのだから。
 御膳の下には、懐紙に包まれた粉薬が用意されていた。この薬は恐ろしく苦いので、薬を飲むとせっかくの食事 の余韻が台無しになってしまうのだが、飲めと羽部から厳命されているので渋々懐紙を解いた。コップに入れた水 を手元に置いてから粉薬を舌の上に載せ、流し込んだが、舌の根本に苦味がこびり付いて伊織は顔をしかめた。

「食べ終わった? で、薬も飲んだ?」

 ふすまを開けて入ってきたのは、世話係の女性達ではなく羽部だった。伊織は一応裾を正す。

「あー、おう」

「なー、ヘビ野郎。てめぇはなんで下半身を元に戻さねぇんだ?」

「ちょっとしたトラブルでね、人間体に戻せなくなったんだよ。だけど、特に支障はないからこのままにしているのさ。 この優れたる僕が案内してあげようじゃないか、付いてきてよ」

 羽部が手招いたので、伊織は立ち上がった。が、これまでのことを思い返して足を止めた。

「また中に押し戻されたりしねぇ?」

「しないよ。ていうか、この素晴らしき才能の泉である僕を何だと思っているんだい」

「てめぇの一人称、ちょっと会わない間に輪を掛けてひどくなってねぇ?」

 羽部の自画自賛振りに伊織が呆れるが、羽部は意を介さずにふすまを開き、廊下に出た。

「ほら、行くよ。先方をお待たせするものじゃない」

 開け放たれたふすまの先に伸びる廊下では、世話係の女性達が正座して頭を垂れていた。彼女達だけではなく、 他の人間達も廊下の両脇に整列して頭を下げていた。伊織と羽部の姿を直視したら目が潰れる、と言わんばかり だった。さながら、大名行列を囲む農民達だ。伊織は散々歩き回ったおかげで慣れてきた振袖の裾を捌きながら、 羽部に続いて歩いていった。大勢の人間に敬われるのは悪い気はしない。
 だが、そう思ったのも最初だけだった。最初の廊下を抜け、角を曲がっても、人々はずらりと並んで伊織と羽部に 頭を垂れていた。二人が通らない廊下も同じ光景で、引き戸が開いている部屋の中でも同じで、何百人という人間 が伊織と羽部に従っていた。否、御鈴様と呼ばれている伊織にだ。伊織本人の人格や能力を認めたわけではなく、 何らかの理由で御鈴様と命じた偶像に対して礼儀を尽くしているのだ。それだけは勘違いしてはいけない、と伊織 は気持ちを引き締めながら、少し前を進む羽部の尻尾を追い掛けていった。
 いくつもの部屋を通り、朱塗りの渡り廊下を通った先に、本殿がそびえていた。観音開きの扉の両脇にもやはり 人々が這い蹲っていたが、伊織と羽部が本殿に入るとすぐさま立ち上がって扉を閉めた。本殿の中は薄暗く、独特 の匂いがする香が立ち込めていた。線香でもなければ白檀でもない、奇妙な香りだった。赤い布が敷かれた板張り の床を通っていくと、その両脇にある燭台でロウソクの炎が揺らぎ、二人の長い影も曲がった。

「やあ」

 羽部が不躾に声を掛けると、本尊の前にうずくまっていた小柄な人影が振り返った。高守信和だった。薄汚れた 作業着姿ではなかったが、かなり使い込まれた法衣を身に付けていた。彼の丸まった狭い背中を覆っている曲線 には馴染み深さがあり、幅広い袖に短い手足を隠している様は長年修練を積んだ僧侶のようだった。濁った目と 定まらない視線は相変わらずだが、様になっている。

『待ち兼ねていたよ、伊織君』

 高守が袖口から出したのは携帯電話で、テキストを打ち込んでホログラフィーに表示させた。

「前々から思っていたけど、あんたって普通に喋れねぇのか? お嬢と同じような理由か?」

 伊織は親指を立てて自分を指し示す。思い返してみれば、水晶玉のペンダントを失ったりんねの状態は高守の 言動に酷似していたからだ。高守は小さく頷いてから、別の文面を打ち込む。

『そうだ。彼女はとても哀れな身の上だ。僕はまだ幸せな方だ。彼からは、幾ばくかの自由を許されている。だから、 文面であれば意思を伝えられるし、弐天逸流の中でもそれなりの地位を授けられている。だが、彼女達はそうじゃ ない。自我を認められてすらいなかったんだ』

「彼ってぇのは」

『彼だよ』

 そう言った高守は一歩身を引いて本尊を指し示した。羽部が尻尾の先で燭台を持ち上げると、暗がりが和らいで 本尊の姿が目視出来た。最初に見た時、それは千手観音かと思った。伊織が寺坂の書斎で読み漁った仏教関係 の本には何度となく登場していたし、かなり名の知れた仏だからだ。だが、そうではなかった。シルエットこそ無数の 腕を持つ慈悲深い仏に似ていたが、それには顔がなかった。目もなければ鼻もなく、螺髪もなければ蓮の花の上にも 座っていない。大量の腕を四方八方に伸ばして、後光のような輪を背負っているが、仏とは似て非なる化け物だ。 その奇怪な化け物の全長は三メートル足らずで、全ての腕が鈍く光る鎖で拘束されていた。

『彼の名はシュユ。我らが弐天逸流の本尊にして教祖、そして偶像だよ』

 高守はまた新たな文面を打ち、見せてきた。伊織は眉根を寄せ、訝る。

「その触手の化け物と、俺とお嬢がどう関係あるってんだ?」

「色々とね。この僕が特別に語って聞かせてあげようじゃないか、彼じゃまどろっこしくてならないから」

 羽部は尻尾を使って分厚い座布団を二枚引っ張り出すと、本尊の前に敷いた。高守に促されたので、伊織はその 片方に座った。羽部は座布団の上で下半身を丸めると、手持ち無沙汰になった腕を組む。

「シュユも遺産の一つではあるんだけど他の遺産とはちょっと違っていてね。彼は命を生み出すことが出来るんだ。 といっても、死んだ人間を生き返らせたり、無機物に魂を与えたり、ただの計算機に感情を植え付けたり、とかいう ファンタジーな代物じゃない。生命体を構成する分子に固有振動数を与えて生体電流を発生させる、それがシュユ とそれに準じた遺産であるゴウガシャの能力なんだよ。この宇宙にあまねくものは全て、揺らぎによって誕生した と言っても過言じゃないからね。固有振動数とそれによって発生する脳波のパターンを記録しておけば、一度死んだ 人間に生前と全く同じ記憶を与えて復活させることも不可能じゃない」

「弐天逸流の信者共は、それを信じているってわけか?」

 伊織が頬杖を付くと、高守は答えた。

『事実だからね。事実を信じることは宗教とは少し違うけど、人智を越えた事象を信じることはれっきとした宗教では ないか、と僕は思っている』

「でも、そのシュユとゴウガシャの能力を行使するためにはシュユの生体組織を摂取する必要があるんだよ。この僕も 変な触手を喰わされたことがあってね。その時は色々と大変だったから、喰わざるを得なかったし、死ぬのだけは 嫌だったから弐天逸流と関わったってだけであって、この凄まじき才能の権化である僕が、新興宗教になんか傾倒 するわけがないじゃないか」

「じゃ、俺も喰わされたのか?」

 この化け物を、と伊織が舌を出すと、羽部は否定した。

「いや、クソお坊っちゃんと御嬢様は別物だから喰っていないよ。ていうか、高守が運んできた時はクソお坊っちゃん はヘドロみたいなもんだったし、御嬢様もアソウギなんだかクソお坊っちゃんなんだか解らない液体に溺れて窒息 していたから、喰わせられなかったっていう方が正しいね。で、その後、御嬢様も溶けた。この僕を小倉美月の元から 呼び戻すのがもう少し遅れていたら、この叡智の結晶たる僕の知能とアソウギが発揮出来ずに、クソお坊っちゃんと 御嬢様は排水溝行きになっていただろうね」

『あの時は焦ったよ。りんねさんまで死んでしまったら、計画に差し障りが出るからね』

 高守が文字で言うと、羽部は肩を竦める。

「で、更にその後、クソお坊っちゃんと御嬢様は混ざり合って今の形に落ち着いたってわけ。ニコイチってやつ」

「は? なんでだよ? なんでお嬢まで溶けるんだよ?」

 伊織がぎょっとすると、羽部は先の割れた舌をちろりと出す。

「それはこの世界の至宝たる僕が考えることであって、クソお坊っちゃんのお粗末な脳みそなんかで考えるものじゃ ないよ。思い当たったとしても、理論までは組み立てられないだろうしね。まあ、アソウギ自体が状況に応じて性質 を変化させる機能を持っているから、その延長線上の事象なんだろうけど」

「つか、俺とお嬢を回収した理由を聞かせろよ。でねぇと、すっきりしねぇし」

 少し焦れてきた伊織が急かすと、羽部は両袖に手を入れる。

「シュユの意思だよ。彼は事を急いている。ほら、アマラが佐々木つばめの管理下に置かれてアマラと直結している 電脳体である設楽道子が、ここぞとばかりに青春を謳歌しまくっているだろ? その影響で、シュユの信者に対する 支配力が薄れてきたんだ。遺産同士の互換性については馬鹿みたいに繰り返して説明しているけど、遺産同士も その互換性を互いに利用し合っているんだよ。だから、この前起きた、新免工業とナユタの騒動のせいでシュユも かなり不安定になったんだ。アマラが人間の意識を統制して知的生命体を一括管理するためのツールだってことが 判明しているんだけど、シュユとゴウガシャはその次のレベルを支配するものなんだ」

『そして、シュユとゴウガシャは信仰心とも言うべき人間の意識をエネルギー源にしている。彼はそれを欲している。 それがなければ、立ち向かえないからだ』

 高守が話を続けたが、伊織は舌を出した。 

「んだよ、電波すぎ。つか、立ち向かうって何とだよ?」

「ラクシャだよ。それもまた遺産の一つでね、ついこの前まで御嬢様の首に下がっていた水晶玉の正体がそいつ なんだよ。あれは無限情報記録装置で、馬鹿みたいな量の情報を記録しておくことが出来るんだ」

「それだけなら無害なんじゃねぇの?」

『それだけ、であるならばね。あれは悪意が凝固した毒物だ。だから、滅ぼさなければならない』

 高守はその文面を二人に見せてから、佇まいを直した。

『というわけだから、伊織君。ではなくて、弐天逸流の新たな巫女である御鈴様。手っ取り早く信者を集めるために、 布教活動をしてくれないかな。その外見さえあれば、十万人は軽いね』

「はぁ?」

 伊織が面食らうと、羽部は尻尾の尖端を左右に振る。

「要するにアイドルだよ。ネット発のアイドルなんて、今じゃ珍しくもなんともないしね」

「ちょ、ちょっと待てよ、俺はそんなの絶対に!」

 伊織は腰を上げて逃げようとするが、羽部はすかさず尻尾を伸ばして伊織の帯を掴んできた。

「逃げたら、命の保証はないよ? シュユの生体組織を摂取させていないから、クソお坊っちゃんと御嬢様の肉体の 融合はいつ崩れてもおかしくないんだよ。毎日一定量の薬を与えているから、人間の形を保てているけど、投薬が 途絶えたらドログチャになるのは間違いない。この僕が言うんだからね。クソお坊っちゃんも、御嬢様がスライムに なるのだけは嫌でしょ? そうじゃないとは言わないでしょ?」

 ねえ、と羽部に念を押され、伊織は言い淀んだ。確かにそうだ。伊織はりんねを守りたいがために単身で別荘に 戻り、その挙げ句の果てに父親に倒されてしまったのだ。羽部の言葉の真偽は定かではないが、非力で体力もない 現状では、弐天逸流の世話にならなければ生き延びられないだろう。それに、下手なことをしてりんねの体に傷でも 付けたりしたら、取り返しが付かなくなる。伊織は吐き出したい文句をぐっと飲み下し、座り直した。

「仕方ねぇな。やってやるよ。つか、なんで俺の呼び名がオリンなん? それが解らねぇんだけど」

 伊織が不機嫌さを顔に出しながら裾を割りながら座り、長い髪を背中に払った。

「鈴が神聖視されてんのは神道でも仏教でも変わりはねーけどさ、俺の服に鈴が付いていたことは一度もねーし。 つか、俺もりんねも鈴とか関係ねーし」

「あれ、意外と学があるじゃない、クソお坊っちゃんのくせに。じゃあ、この類い希なる僕が特別に教えてあげようじゃ ないの。クソお坊っちゃんと御嬢様の名前をくっつけたんだよ、ただそれだけ。御鈴ってのは当て字ね」

 羽部がやる気なく手を振ると、高守が文字を打ち込んだ。

『伊織君とりんねさんの名前をくっつけて、その中間を抜き取るとオリンになるんだよ。今の伊織君は、りんねさんであり 伊織君であるという微妙な状態だからね。だから、御鈴様だ。当て字の理由は、伊織君が言ったことと大して変わりは ないよ。鈴って付いていればなんとなくありがたみが出るし、ミステリアスな方がそれっぽいしね』

「薄っぺらくて胡散臭ぇなぁ」

 伊織が毒突くと、高守はしれっと答えた。

『だって、新興宗教だからね。ある程度は胡散臭くないと、誰も引っ掛かってくれないよ』

 この男も、意外に強かだ。だが、それぐらいの腹積もりでなければ新興宗教の幹部など務まらないのだろう。アイドル なんて心底興味がないし、そんなもので本当に信者を掻き集められるのだろうか、と疑わしいが、弐天逸流に 生かされている身の上では文句も言えまい。それに、りんねが美しく着飾った姿を見てみたいと朧気に思って いた。中身が伊織なので仕草は粗野だが、姿形は伊織が執心した美少女であることに変わりはないからだ。
 物言わぬ千手の御神体は、異形の娘を見下ろしていた。





 


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