機動駐在コジロウ




泣きっ面にピンチ



 寺坂善太郎は、本尊のいない本堂の大黒柱に磔にされていた。
 これって宗教観が混ざりすぎじゃねぇの、と内心で思うが、それを言葉にすることは出来なかった。寺坂は心臓の 位置を貫通している楔を見下ろし、細い吐息を漏らした。これでもまだ、生きているのだからおぞましい。ホタル怪人 としての本性を露わにした美野里に切断された右腕の根本からは、新たな触手がにゅるにゅると生え始めていた。 夥しく出血して体力は底を突いているのに、どこにそんな余力があるのだろう。
 触手の生命力の強さに少しだけ感心しながら、寺坂は荒涼とした景色を見渡していた。恐らく、ここは弐天逸流の 本堂が建っていたのだろう。無数の木片は年季が入った色味で、太い梁には分厚く埃が積もり、散乱した屋根瓦は 風化して色褪せている。寺坂が磔にされている柱の下には祭壇があり、供え物と思しき水や酒や米と仏具が粉々に 砕けていた。罰当たり極まりない。もっとも、罰を下すべき神はいなくなってしまったのだが。

「よう、みのりん」

 寺坂が喉だけで掠れた声を出すと、屋根瓦を踏み砕きながら近付いてきたホタル怪人は触角を曲げた。

「まだそんな元気があるんですか、寺坂さん」

「そりゃあな。みのりんが相手なら、一晩中頑張れるな」

 寺坂が血と体液に汚れた頬を持ち上げると、美野里は不愉快げに顔を背けた。

「まだそんなことを……。いい加減にして下さいよ、私はあなたのそういうところが嫌いなんですよ。女と見れば誰彼 構わず声を掛けて、手を出して、金をばらまいて。どこの女からどんな病気を移されたのかも解らない男になんて、 触られたくもありません。気色悪い」

「おーおーおー、言ってくれるじゃねぇの」

 姿形が変わろうとも、中身は相変わらずだ。寺坂は楔に貫かれた状態で再生した横隔膜を使い、喋った。

「いいから、素直になれよ。安心しろって、デタラメなことはしねぇから。優しくするからさぁ。中に出さねぇし」

「黙って下さい! でないと、もう一度その体を切り裂きますよ?」

 美野里に凄まれるが、寺坂は臆さなかった。それどころか、悪役を気取ろうとする姿がいじらしいとすら思う。

「可愛いぜ、その格好も。考えてみたら、全裸なわけだし」

「あっ、うっ、あ、ば、馬鹿なことを言わないで下さいよ!」

 そう言われて自覚したのか、美野里は身動いで上両足を曲げ、胸を隠してから寺坂に背を向ける。

「なあ、みのりん。俺に好かれるのが、そんなに迷惑か?」

 寺坂が笑みを零すと、美野里はぎちりと顎を軋ませる。

「……当たり前です。あなたみたいな頭も悪ければ倫理観も欠如した男に好意を寄せられたところで、鬱陶しいだけ なんですから。あなたと過ごした時間は私の人生に置いて最大の汚点です、あなたと関わったことで浪費した労力 は極めて無駄でした、あなたの傍にいたせいで被った迷惑の損害賠償を払って頂きたいものです。それと、どうして へらへらしていられるんですか。私はあなた方を裏切ったんですよ? それなのに、なんでまだ笑えるんですか」

「すっげぇ可愛いから」

「ふざけないで下さい、私は本気なんですよ?」

「俺だって本気だよ、美野里」

 彼女の複眼を見つめ、寺坂は声色を落とした。嘘ではない、心からの本音だ。美野里がいつ、どんな事情で怪人 になる道を選んだのかまでは寺坂は把握していない。けれど、それが美野里が己の人生を捧げるに値するほど の理由であったのは確かだ。そうでもなかったら、ここまでマスターに尽くしはしない。捧げたものが大きすぎたから、 美野里は自分を省みる余裕すら失ったのだ。それが寺坂の心を締め付けてくる。
 男の意地、とでも言うのだろうか。最早、寺坂の美野里に対する恋心の軸は、美野里への同情心や好奇心ですら なくなっていた。どうにかしてこの女を振り向かせたい、マスター以外の男を教えてやりたい、寺坂なしでは呼吸すらも ままならないような人生に引き摺り込んでやりたいという、加虐的な衝動すらも生じるほどだ。
 愛称ではなく名前で呼んだことで、美野里は微妙に反応したが、それだけだった。長い触角の尖端が波打つが、 振り返りもしなかった。そのまま、彼女は飛び去ってしまった。当然、羽を振るわせて飛ぶ美野里の下半身を真下 から見上げる構図になるので、寺坂がそれを茶化すと本気で怒鳴られた。だが、それすらも可愛らしく感じ、寺坂は にやけてしまった。攻撃的な意地を一枚残らず剥がした後に現れる美野里の本心を想像すると、尚更だった。
 かすかな地鳴りと共に震動が起き、本堂の残骸が浮き上がっては落下した。深い霧を掻き分けながら、寺坂の 元に迫ってきたのは、光輪を背負って無数の触手を生やした巨体の異形だった。弐天逸流の本尊だ。

「こいつがシュユか」

 高揚の抜けない寺坂がへらっとすると、シュユは腰を曲げて寺坂に凹凸のない顔を寄せた。

「お久し振りですね、善太郎君。あの頃から、お変わりないようですが」

「ねぇよ、そんなもん。変わったことがあるとすりゃ、俺の経験人数が増えまくったってことだな。あんたに拾われた 頃の俺はまだまだ大人しいもんでな、女を引っ掛けるのも下手くそだったからな。で、そっちはどうだ。未だに惚れた 女に惚れられてないんだろ? だから、俺や他の連中を巻き込んで大騒ぎしているってわけだ。良い迷惑だよ」

「迷惑だなんて、とんでもない。善太郎君や他の皆さんが、私とクテイの間に割り込んでくるのではありませんか」

 シュユは触手を曲げ、寺坂に突き立てられた楔を捻る。激痛に襲われ、吐血したが、寺坂は平静を保つ。

「馬鹿言え、あんたがろくでもねぇことばっかりやらかしているから、俺達が火消しに回ってやっているんじゃねぇか。 感謝してほしいぐらいだよ。勝手にマス掻いていやがれ」

「私の全てはクテイに捧げていますので、そのような言葉で罵倒されたところで何も感じませんが」

「そうやって言い返すってことは悔しいんだろ、おい」

 寺坂が笑い出そうとすると、シュユの触手が右腕の根元に押し込まれ、生えかけてきた若い触手が千切られた。 若芽を千切られるたびに赤黒い体液が噴き出し、剥き出しになった神経と肩の骨の付け根を抉られ、寺坂は舌を 突き出して喘いだ。先程の痛みならば耐えられたが、骨と神経を直接痛め付けられるのはさすがに耐えきれずに 絶叫を上げていた。体が仰け反りかけるが、楔で柱に繋ぎ止められた体は下半身しか自由が効かず、その両足も 地面から浮いていたので救いは何もなかった。
 寺坂の血と体液と肉片が絡み付いた触手が離れても、激痛の余韻で痙攣した。寺坂はびくつく手足を垂らしながら も、少しだけ気が晴れていた。あの日、あの時、寺坂があの男の本性に気付いていれば、こんなことにはならずに 済んだのだから。つばめも、美野里も、一乗寺も、武蔵野も、りんねも伊織も羽部も他の面々も、平穏な人生を送る ことが出来たはずだ。だから、これは寺坂の責任だ。

「長光のクソ爺ィがぁああああっ!」

 余力を振り絞り、寺坂は叫ぶ。再び千切れた横隔膜と潰れた肺のせいで、思うように声は出なかったが、それでも 無駄ではないと信じて声を張り上げる。

「惚れた女を靡かせられなかったのがそんなに悔しいか! ああ解るね、俺だって何度口説いても振り向きもして くれねぇ女がいるからな! だがな、その女を逃がさないためとはいえ、手足を潰して半殺しにして閉じ込めておくのは 大間違いなんだよ! 女は男の道具でもなんでもねぇ! それでも股間にブツをぶら下げてんのかよぉっ!」

「善太郎君の恋愛観を私に押し付けないで頂けますか。それは君の主観であって、私の主観ではありません」

 シュユの顔が歪み、シワを刻んで表情を作った。口に当たる部分に弓形のシワを寄せて吊り上げたが、目元に 出来たシワは深く、敵意が滲み出ていた。笑顔ではない、威嚇だ。

「あんたの息子共だけじゃなく、その嫁さん達も、孫も道具にしやがって。俺の親も巻き込みやがって」

 寺坂が息も絶え絶えに吐き捨てると、シュユは触手を緩やかに波打たせる。

「実に正義感溢れる言葉ではありますが、善太郎君らしくありませんね。そういった青臭い言葉がお似合いなのは、 巌雄さんではありませんか?」

「俺だってな、ちったぁ良心はあるんだよ。これでも坊主だ、死人をあの世に叩き込むのが仕事だ。経文読んで線香 上げて鐘を叩いて木魚鳴らして、供養してやったじゃねぇかよ。それなのに、どうして潔く死のうとしねぇんだよ。納骨 だってしてやったじゃねぇか。四十九日の法要だって済ませてやったじゃねぇか。戒名だって書いてやった、卒塔婆も 仕立ててやった。なのに、まだ生き返ろうってのかよ。死人のくせに、未練たらしくこの世にしがみついて迷惑掛けて んじゃねぇよ。クソ爺ィ、あんたは今、最高に格好悪いぜ」

 最後まで言い切った瞬間、寺坂に触手が襲い掛かった。シュユは寺坂の胸の傷口に細めの触手を割り込ませ、 皮膚と筋肉と骨の間に押し込んできた。めきめきと骨から肉が剥がされていき、皮膚が捲れ、破れて潰れた内臓 がぼろりと零れ出し、肋骨が外気に曝された。原形を止めていない鈍色の肉塊が転げ、潰され、体液が散る。

「お黙りなさい、善太郎君。美野里さんと同じように私に従っていれば、あらゆる苦痛や苦悩から解放されていた というのに。痛いでしょう、痛いでしょう、痛いですよね、痛くしているのですから」

 けひっ、かひゅっ、と最早吐息にも至らない空気が喉から押し出され、寺坂は喉を逸らした。

「片思いの辛さを理解しているのでしたら、私の苦悩も理解して頂けたと思っていたのですが、見当違いでしたね。 そこまで自我がお強いのでは、もう少し失血して頂いて意識を失ってからでなければ、私は忌々しく穢らわしい肉体 から離れることすら出来ませんね。段取りが狂ってしまいます。美野里さん、私はラクシャにコピー済みのムジンの プログラムの微調整とムリョウのセッティングがありますので、後はお願いしますよ。弐天逸流がこの空間をかなり いじくり回してしまったせいで、機関室を見つけ出す手間が増えてしまいましたのでね」

 シュユは踵を返し、下半身の触手を器用に使って瓦礫の山から去っていった。寺坂はその様を目の端で捉えては いたが、それだけで精一杯だった。露出した肋骨の隙間を擦り抜ける外気が恐ろしく冷たく、血を垂れ流す筋肉に 掠める霧の水蒸気ですらも痛みを呼び、軽口を叩ける余裕は失せていた。柱に寄り掛かっているだけでも傷口が 歪み、死体のように冷え切った手足は少しも動かせなかった。指先も凍り付き、肌を舐める血の雫が痒い。
 ぼやけて狭まってきた視界には、美野里の姿があった。止めを刺しに来たのか、それとも。こんな時でも期待して しまう自分の欲深さが可笑しくなるが、表情筋を動かせるほどの血圧は残っていなかった。ぶちゅり、ぐちゅ、づぷ、と 黒い爪で内臓を切り分けられる。弱り切った意識を手放す寸前、寺坂は彼女の言葉を耳にした。
 ああ、清々する。




 日が暮れ、夜気が忍び寄ってきた。
 明日になったら、全て元通りになるのだろうか。否。つばめは虚ろな自問自答を繰り返しながら、膝を抱えて体を 縮めていた。どこに行くこともなく、ドライブインの木造平屋建ての裏口に隠れていた。どこへ行こうと、つばめを迎え 入れてくれるわけがないのだ。手持ちの現金も少なすぎて、リニア新幹線の代金には程遠い。それが足りていたと しても、どこに向かえばいいのだろうか。備前家の両親も、きっとつばめを蔑むだろう。経緯はどうあれ、美野里が 蛮行に走る原因となったのだから、備前家の両親がつばめを喜んで出迎えるはずがない。
 タイヤが砂利を踏む音と共にヘッドライトが差し込み、駐車場に車が入ってきた。山道に入り込んだドライバーが 休憩しに来たのだろうか、それとも政府の人間が戻ってきたのだろうか、或いは吉岡グループの差し金がつばめを 捉えにやってきたのだろうか。だが、もうどうでもいい。誰に何をされようが、辛いとすら思わない。
 車から降りた足音は、真っ直ぐに裏口へと向かってきた。あら、との声で目を上げると、ジーンズとスニーカーを 履いた足が目の端に入った。つばめが恐る恐る見上げてみると、それはドライブインの店主である中年女性だった。 彼女はつばめの傍に屈むと、少し戸惑いがちではあったが労ってきた。

「どうしたの、こんなところで。あらまあ、ひどい顔」

「あの、えっと」

 気まずくなってつばめが目を伏せると、彼女はつばめの腕を取って立たせようとした。

「こんな薄着でこんな場所にいちゃ、風邪引いちゃうわ。ほら、私の車に乗って。自分の家に帰りづらい事情がある んだったら、今夜はうちに来ればいいわ。どうせ独り暮らしだもの」

「でも」

 きっと、この人にも危害が及んでしまう。つばめは彼女の手を振り払おうとするが、乾いた泥が貼り付いている袖 から染み込んでくる人間の体温と手の感触に、強張らせていた気持ちが緩みかけた。尽きたと思っていた涙が少し 蘇ってきて、嗚咽が漏れた。彼女はつばめを宥めながら、ヘッドライトが点灯したままの軽自動車に乗るように促して きた。その好意の暖かさにはどうしても逆らえず、つばめは助手席に収まった。
 それから十数分のドライブの後、彼女の住まいに到着した。集落から外れた山奥に佇む、こぢんまりとした一軒家 だった。言われるがままに風呂に入り、泥だらけの体を洗って涙の筋が付いた顔も洗い流してから風呂から上がる と、温かな食事が用意されていた。白い御飯に豆腐の味噌汁に大根と鮭の煮物だった。
 つばめは気後れしながらも箸を取り、口にしてみると、優しい味わいの料理だった。御飯は炊き立てで柔らかく、 味噌汁は少し煮詰まっていたが疲れ切っていた体には丁度良い塩気で、大根は箸を入れただけで崩れるほどよく 煮込まれていて、鮭には味がしっかりと染み込んでいた。自分以外の手料理を食べるのは、久し振りだ。船島集落 に引っ越してきてからは、つばめが料理するしかなかったからだ。

「おいしかった?」

 女性に明るく尋ねられ、食事を綺麗に平らげたつばめは素直に頷いた。

「色々とありがとうございます。お風呂も、御飯も、着替えも」

「いいのよ、気にしないで。一度、あなたとちゃんとお話がしてみたかったよ、つばめちゃん」

 女性は微笑みを保ちながら、髪を下ろしたつばめを眺めた。その眼差しに、つばめは少し照れ臭くなった。

「こうしてみると、やっぱり似ているわね」

「小母さんは、私のお母さんのことを知っているんですか? それとも、お父さんのことですか?」

「いいえ、私の娘よ」

 そう言ってから、女性は腰を上げた。狭い居間から台所に戻ってきた彼女が携えていたのは、写真立てだった。 つばめの前に差し出された写真立ての中には、今よりもいくらか若い彼女と、彼女に寄り添う制服姿の少女が写る 写真が収まっていた。その洒落た制服にも、少女にも見覚えがある。吉岡りんねだ。ということは。

「私の名前は、吉岡文香」

 つばめに写真立てを手渡してから、彼女はつばめを見下ろしてきた。

「つばめちゃんのお父さんの弟の妻、つまり、あなたの叔母さんに当たるわ」

「じゃあ……」

 つばめが言葉を失うと、文香は向かい側の席に座り直した。

「明日の朝には、ここを発って吉岡グループの本社に向かうわ。長旅になるから、充分休んでおいてね」

 つばめは写真立てを見つめながら、頷くしかなかった。逆らえるわけがない。文香はつばめに危害を加えてくる様子 はなかったが、油断させるための作戦かもしれない。だが、抗う余力が一欠片もないつばめは、文香に言われるが ままに促されて和間に敷かれていた布団に潜った。今のつばめに、コジロウや皆を助ける手立てはない。だが、 だからといって、こうも呆気なく吉岡グループの手中に落ちていいものか。疲れ切った頭では対抗策を考えること も出来ず、つばめは次第に暖まってきた布団の中で丸まり、瞼を閉じた。
 自分の不甲斐なさに、また少し泣いた。





 


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