機動駐在コジロウ




背水のジーン



 再び、つばめは突き飛ばされた。
 それは、ポケットから飛び出してきた高守の仕業だった。拳大の種子とは思いがたい筋力でつばめの体を後方 へ押し出し、自身はひび割れた地面に落下した。胸を強く突かれて勢い良く仰け反ったつばめは、またもコジロウに 背中を支えられてから立ち直り、高守に文句を言おうと口を開いた。が、文句が喉の奥で詰まった。
 一滴の水を浴びた高守が溶解し、千切れた触手をうねらせながら、細い煙を上げていたからだ。あの水は何だ、 とつばめが混乱していると、巨大化した軍隊アリは顎を大きく開いてぬるりと体液を纏った舌を伸ばした。涎のように 幾筋もの水を落としながら首を捻る伊織が狙いを定めたのは、文香だった。

「ひっ!」

 文香は泡を食って逃げようとするが、足腰に力が入らないのか、ハイヒールの底は土を削るだけだった。伊織は 死に神の鎌を思わせる爪が生えた前右足を差し出し、泥まみれになりながら這いずる文香のスカートの裾を差して 地面と縫い付けた。文香は震える手でスカートのホックを外そうとするが、汗ばんでいる指ではホックを抓むことも ままならず、何度も滑っていた。つばめは文香を助けにいこうとしたが、コジロウが阻んできた。

「……コジロウ?」

「現状の藤原伊織は非常に危険だ。よって、つばめは行動するべきではない」

「でも、このままじゃ!」

 つばめは二の腕を掴んでいるコジロウの手を振り解こうとするが、銀色の指は緩まなかった。引き抜こうとしても 微動だにせず、腕を抜けるほどの隙間も作ってくれなかった。これでは文香を見殺しにすることになる。それだけは 絶対に嫌だ、藤原忠の二の舞だ。文香が心底つばめを疎んでいるとしても、目の前で死なれたくない。
 死にたくないそれだけは嫌絶対に嫌お願いだから、と早口で命乞いをする文香に、伊織は最大限に恐怖を与える ためなのか、間延びした動作で迫っていく。舌から垂れ落ちる水の量も目に見えて増え、不規則な水の帯が地面を 濡らしている。それが徐々に文香に近付き、ストッキングが破れた足に向かっていった。その雫が文香の冷や汗が 浮いた肌を濡らすかと思われた、次の瞬間。
 突如、地面が盛り上がった。重機で硬く締められた地面が割れ、泥と砂利が入り混じったものが急激に膨張し、 人型を形成する。全長二メートル大の泥の固まりは二本足で直立すると、丸太のように太い二本の腕で伊織の爪を 抱え、捻った。思い掛けない攻撃で右前足の関節を逆方向に曲げられた伊織は、その角度に従って胴体が捻れ、 巨体を支える五本足が傾いた。泥の固まりはすかさず腰を据えて拳を放ち、伊織を仰け反らせ、転倒させた。

「体を作り替えても、結構覚えているものだなぁ……。合気道なんて使ったの、何年振りかな」

 泥の内側から、鈍い声が聞こえた。では、こいつの正体は。つばめがびくつきながら、泥の固まりを眺めている と、泥の固まりは恐ろしく太い首を捻って振り返った。砂利を握り固めたかのような顔の中心には、拳大の種子が 触手を使って埋まっていた。ということは、これは高守なのか。

「高守、さん?」

 つばめが目を丸めると、泥人形の肉体を得た高守は四本指の分厚い手で自分を示した。

「まあ、うん、そういうことになる。緊急事態だからこの姿になったけど、見ての通り耐久性は低いし、僕自身の体力 も限られているからあまり長くは持たない。早く片を付けないと」

「だけど、どうやって?」

 つばめが問い返すと、高守は顔に埋まった種子の触手を蠢かせながら思案した。

「そうだなぁ……。ここは一つ、ナユタでいこう。そうすれば、事態の収拾は付けられる。二人の命は捨てることに なるけど、二人を生かしておけば被害は恐ろしいほど拡大してしまうからね」

「ダメよっ! あんな虫野郎はどうなってもいいから、りんねだけは助けてよ! それがあんた達の役目でしょ!」

 懸命に這いずって遠のいてから、文香が絶叫する。高守はその様を見、触手を一本曲げる。

「それは無理な注文だ。僕が感じた限り、御嬢様がじわじわと己の肉体に影響を与えていた固有振動数は、御嬢様 の遺伝子だけに強く効くように調整されていた。でなかったら、御嬢様の歌をライブで聴いた観客全員が水になって いたはずだからね。伊織君も御嬢様に逆らう気はないようだしね。この姿を見る限りでは」

「どうして? 吉岡りんねは、自分で自分を殺そうとしているの? お母さんまで殺そうとしたの?」

 つばめと違って、あんなに恵まれているのに、こんなにも生を望まれているのに。つばめが仰向けに転がった巨大 な軍隊アリを見上げながら、苛立ちと羨望を交えた言葉を漏らした。高守は大きな石が埋まった肩を竦める。

「御嬢様は生まれ付いて聡い御方だ。自分が生きていることで産まれる利益と、それを上回る弊害も理解なさった んじゃないだろうか。御嬢様がお決めになったことだ、外野がごちゃごちゃ言うようなことじゃない」

「だから、アソウギごと伊織も吉岡りんねも蒸発させろっていうの? ダメだよ、そんなの」

「それは綺麗事だよ、つばめさん。伊織君が御嬢様に逆らわずに肉体を明け渡している。それを鑑みれば、伊織君 が御嬢様に尽くすと決めたことは解るし、御嬢様の完璧な自殺を阻む理由はない。だって、君がいるじゃないか。 遺産を扱える人間がつばめさん一人だけなら、無用な争い事も減るし、遺伝子を完全に破壊してしまえば御嬢様 の複製体が新たに生み出されることもなくなる。遺産を巡る不幸の連鎖は、少なくとも御嬢様の分だけは途切れる ことになるんだ。それはきっと、喜ばしいことなんだ」

 高守の弁舌は滑らかで、至極真っ当なことを並べ立てていた。確かに、それはそうなのだ。吉岡グループは、吉岡 りんねという鍵を握っているからこそ、絶対的な権力と財力を得られていた。だが、りんねは利用されながら生きる ことに嫌気が差し、複製体が生み出されてしまうことを嘆き、死を望んだ。つばめにも、悔しいかなその気持ちだけ は痛いほど理解出来た。しかし、りんねはまだ子供だ。佐々木長光の手で複製された際の外見年齢を操作されて いたとしても、三かける五で、実際に経験した時間はせいぜい十五年、つまり十五歳だ。そこまで達観していいはず がない、していたとしても苦しい強がりだ。良い子でいようとしているだけだ。

「出来るかぁっ、そんなことー!」

 誰が好き好んで、自殺幇助などするものか。つばめはスカートのポケットから出したナユタを力一杯握り締めると、 その精神の高ぶりに伴って青い光が迸った。指の間を擦り抜けた光条は高密度のエネルギーを含み、僅かばかり 重力を弱めてくれた。その影響でつばめの前髪やスカートの裾が持ち上がり、潮風を孕んで翻る。

「誰かが死んでどうにかなるんだったら、世界はとっくの昔にパーフェクトに平和だろうが!」

 りんねも、伊織も、文香も、高守も、誰も彼も言い分が頭に来る。そんなふうに腹を立てる自分が一番身勝手だと は頭の隅で解っていても、押さえようがなかった。コジロウはつばめに若干気圧されたのか、身動いだ。

「だが、つばめ。高守幹部指導員の意見は」

「理に適っている、とか言うんでしょ? そりゃその方が綺麗さっぱりだし、後腐れもないかもしれないけどさ、私が 気に食わない。遺産の所有者はこの私、でもってその遺産を使っているんだから伊織もこの私のもの、でもって、 その遺産の産物である吉岡りんねも私の所有物! だから、私の所有物は私がどうにかする!」

「だが、つばめ。具体策は」

「どうにかする!」

「具体策は」

「それは、えー……うー……」

 コジロウの無表情なマスクフェイスに問われ、つばめは勢いを失った。啖呵を切ってみたはいいが、どうにかする 手立てがないのもまた事実なのだ。そうこうしている間にも、ひっくり返った伊織は六本足を動かして起き上がろうと している。また起き上がられたら、今度こそ大事だ。先程の衝撃で外骨格が綻んだのか、関節の間からは例の水を 漏らしていて、辺りに水溜まりが広がりつつある。作業員達の避難はまだ済んでおらず、まばらに人影がある。
 どうする、どうする、どうする。つばめは焦りながら懸命に頭を働かせ、考えた。またアソウギを使って重力を変動 させて伊織を浮かばせれば、あの恐ろしい水が地面伝いに流れていくことは一時的に防げるが、根本的な解決 には至らない。むしろ、足場をなくした状態で伊織が暴れ出してしまったら、今度こそ手に負えなくなる可能性の方 が高い。ナユタのエネルギーでアソウギを蒸発させたとしても、二人が元の人間になる保証はない。細切れにされた 遺伝子の繋ぎ方なんて知らないし、知っていたとしてもつばめの頭ではどうにも出来ない。ならば、遺伝子の繋ぎ方 を知っている者の力を借りればいい。フカセツテンが機能停止しているのであれば、シュユを利用した妨害工作も 止まっているはずだ。つばめは自身の携帯電話を取り出すと、異次元宇宙に飛ばされた道子を呼び出した。

「もしもし、道子さん?」

『はいはーいっ、ネットの都市伝説になることがちょっとした目標になりつつある電子の妖精ですよー!』

 一秒も経たずに送話器から明るい声が返ってきて、つばめは拍子抜けした。が、気を取り直す。

「道子さん、そっちのネットからこっちの状況、解る?」

『そりゃもう! オンラインでリアルタイムで情報が垂れ流しですからねー、しっちゃかめっちゃかだなーって思って いたんですけど、フカセツテンとシュユのせいで自力では物質宇宙にアクセス出来なかったんですよ。パスワードも アカウントも書き換えられちゃった、みたいな具合で。だから、つばめちゃんから御電話してもらって大助かりです。 んで、早速ですけどコジロウ君の記憶容量に無線接続しますから、御嬢様がいじくったアソウギのプログラムを修復 して改良を加えたプログラムを送ってアップデートさせますね。他に御注文はありますか?』

「ドライブスルーみたいなことを言わないでよ、気が抜ける。えーと、吉岡りんねの遺伝子の再構築と、伊織も 同じのをお願い。出来る?」

『御注文を承りましたー。御嬢様の遺伝子情報が……うわぁひどいですね、これ。遺伝子を崩壊させると同時にL型 アミノ酸の分解酵素になっちゃってますよ。伊織君も似たような状態ですね。二人とも、アソウギ自体に遺伝子情報の バックアップがあるので、それを使えば出来ないこともないです。でも、つばめちゃんの方で物理的に働きかけて くれないと上手くいかないですね、損傷がひどすぎるので。この数値の固有振動数をお二方に与えてアソウギの 分子構造を一時的に崩壊させてくれませんか? その後、再構築させるので』

 と、道子が言ったので、つばめがコジロウに振り返ると、唐突にコジロウの両耳に付いているパトライトが回転して サイレンが鳴り響いた。これが道子が作ってくれた、固有振動数を含んだ音なのだろう。

「御嬢様と伊織君に抵抗されたら面倒だ。僕も手を貸すよ」

 泥の固まりの高守は瓦礫の中から鉄パイプを引き抜くと、それを素手で握り潰しながら滑らせて圧縮し、一振りの 刀へと変貌させた。それを振り下ろして鮮やかに風を断ち切り、砂を払う。

「これも僕が蒔いた種だ。汚れ役は引き受けてあげるよ」

 重苦しい外見とは裏腹に、高守は身軽だった。地面を踏み切って高く跳躍し、緩やかな放物線を描きながら瓦礫 の積み重なった山に飛び移り、そこで新たな鉄パイプを調達して握り潰し、刀に変える。太く硬い六本足を不規則に 動かしていた伊織は爪先を手近なトレーラーに引っ掛け、そのコンテナを抱え込むようにして起き上がると、瓦礫の山 に立つ高守を見咎めた。ぎちぃ、と伊織のあぎとが擦れ、威圧的に触角が上がる。
 粗野な刀が赤らんだのは、振動による熱を含んだからだ。筋肉もなければ骨も入っていない足が踏み切った瓦礫 が荒く砕け、後方に散る。巨体の甲虫はトレーラーのコンテナを丸い腹部で押し潰しながら上体を起こすと、高守を 迎え撃つべく、前両足を大きく広げた。左前足が怠慢な動作で振り下ろされると、高守は伊織が胴体の下に抱えて いるトレーラーの屋根を足掛かりにして再度跳躍し、伊織の外骨格に鮮やかな軌道で斬り付けた。黒く分厚い鎧が 滑らかに裂け、怒濤の如く体液が噴出する。高守は種子の埋まった頭部を庇いながら前進し、今度は伊織の頭部 と胴体の繋ぎ目に切っ先を向ける。が、高守の胴体が中右足に突き破られた。

「痛くないけど面倒臭いな、もうっ!」

 高守は外骨格を裂いた切り口に刀を一本没させると、胴体を貫いた中右足を断ち切ってから引き抜き、無造作に 投げ捨てる。あの水を多量に吸っただけでなく、土を寄せ集めただけの仮初めの体は呆気なく崩壊を始め、胴体に 空いた穴から土塊が零れ落ちていく。高守は伊織の死角である真下に滑り込むと、残った刀を真上に向けて刺し、 駆け出した。トレーラーの屋根を抉り、歪んだコンテナのステンレスで足を削られながらも、高守は進んでいったが、 伊織は高守を潰そうと巨体を支えていた足を曲げて空間を狭めてきた。
 伊織の圧倒的な重量に負けて両足の膝から下が崩壊し、続いて膝から足の付け根が潰れ、更には腰から胸が 粉々にされた。下半身を犠牲にしながら直進した高守は、伊織の胴体がコンテナに接する直前、頭部の口に当たる 部分で銜えていた刀を縦一線の傷口に突っ込んでから、種子の触手を用いて首だけを外界に放り投げた。直後、 伊織の胴体はコンテナを圧殺し、一枚のいびつな鉄板に変えてしまった。
 きぃんっ、と甲高い金属音が響く。伊織の体内で鉄パイプの刀が接した音だった。その金属音が広がると、伊織の 胴体の傷口から流れ出す水が一瞬にして沸騰する。外骨格も煮え、胴体の下の切り口からは溶けた内臓と思しき 物体がでろりと溢れ、体液が沸騰したことで節を繋ぐ膜が破れ、間欠泉のように水が迸る。

「コジロウ!」

 今だ。つばめがコジロウに命じると、コジロウはつばめを抱え、両足から出したタイヤを回転させた。

「了解した」

 普段は一切使わない赤色灯を回転させてサイレンを鳴らし、コジロウは急発進する。砂埃を巻き上げながら瀕死 の甲虫に向かっていくコジロウの肩に横座りしたつばめは、耳元で鳴らされている凄まじい音量のサイレンに辟易 したが堪えた。高守と道子にお膳立てしてもらったのだから、ここで尻込みしては元も子もない。ナユタを思い切り 握り締めると光量が増し、蒸気が一瞬にして蒸発し、行く手を切り開いてくれた。大きく腕を振るって光を一周させる と、その光が及んだ部分の水分子が一粒残らず消滅し、円形の安全地帯が築かれる。
 猛烈な蒸気の白煙に覆われ、巨体の軍隊アリは悶えている。胸郭を震わせて吼えているようだが、肝心の胸郭が 煮えて溶けてしまったのか、顎をがちがちと打ち鳴らすだけだった。蒸気ですらも危険だと判断したのか、コジロウ はしきりに左腕を振って進行方向の蒸気を振り払いながら、煮えた体液が散らばっている浅い海の隙間を抜けて いき、潰れたコンテナから外れたハッチの傍に辿り着いた。伊織の真後ろで、裂かれた腹部が頭上にある。

「今、どんな感じ?」

 つばめは携帯電話を耳に当てて道子に問うと、道子は答えた。

『もう一押し、ってところですねー。高守さんのおかげでアソウギとお二方の生体組織の分離は完了しましたけど、 遺伝子の再構築には至っていません。コジロウ君のサイレンを、もう十六秒聞かせれば』

「解った、十六秒だね!」

 つばめが言うや否や、コジロウはサイレンを鋭く鳴らした。一、二、三、四、五、と、つばめは胸の内で数えていた が、コジロウの足元に溜まっている透き通った体液が凝固した。それは軟体動物のように身をくねらせ、つばめを 狙って跳ねてきた。コジロウはすかさずその体液を叩き落とすが、水の礫は見る間に増えていき、つばめの毛先を 掠めていく。つばめはナユタの光を収束させてコジロウと自分を包むが、それでも防ぎようがない熱さに臆して身を 縮めていると、不意にコジロウのサイレンが止まった。

「どっ、どうしたの!?」

 すると、コジロウは自身の音響装置ではなく、つばめの耳元の携帯電話を経由して答えた。

『地中から噴出した水によって背面部のスピーカーが浸食され、機能を損なった。これではサイレンを放てない』

「携帯じゃダメ?」

『音域と情報処理能力が足りない。これでは、事態の収拾は』

 言い淀んだコジロウに追い打ちを掛けるように、煮えたぎった水が吸い寄せられるように一つに固まり、ぶにゅり と不定形に歪みながら地面を叩き、高く跳ねた。不良品のレンズのように、伊織の巨体と冴えた空の色をいびつに 混ぜ合わせながら、一抱えもある水の固まりはつばめ目掛けて降ってくる。コジロウはタイヤを急速回転させて退避 しようとするも、鋭い破裂音が二つ響いてタイヤが動かなくなった。超高圧の水が、パンクさせたらしい。コジロウは タイヤを諦めてつばめを抱え、右手で頭部、左手で胴体を守りながら、姿勢を低くして水の固まりから逃れた。
 だが、コジロウが没した先はまた別の水溜まりだった。着地する寸前に体を反転させてつばめを上に向けたが、 コジロウは背面部を泥に突っ込ませて盛大に飛沫を散らした。彼の犠牲のおかげでつばめは少しも濡れなかった が、これではスピーカーは完全にダメになってしまった。地面に激突した水の固まりは磁石に砂鉄が集まるように 寄せ集まり、手近な水分も取り込み、膨張していく。つばめはコジロウの胸に抱かれながら、コジロウの倍以上の 体積を得た水の固まりを見上げ、息を詰めた。ナユタを突き出して光を放つも、貫通した部分が即座に修復されて しまうばかりか、固有振動数を用いて分子構造を変換しているのか、ナユタすらも通じなくなっていた。

「これって最強アイテムじゃなかったのぉ!?」

 つばめは理不尽さを感じて声を荒げるが、コジロウはそれに言い返せるほどの余力がないのか、携帯電話から は何も返ってこなかった。せめて水を遠ざけようとナユタを両手で握り、つばめの手が熱するほど光量を高めるが、 水の固まりはそれをものともせずに距離を詰めてくる。じゃぼじゃぼと弛んだ水音が光の球体の外側で弾け、水の 球が接触すると同時に蒸発する。だが、それも長くは保たず、水の球の質量が増えるとナユタで蒸発しきれなかった 水滴が落下し、つばめの頭上や肩や足に触れそうになる。コジロウの手を握り締めながら、震え出しそうな奥歯 を力一杯噛み締める。死ぬ覚悟を決めたくはないが、腹を括った方が良さそうだ。
 ごく短いハウリング音の後、瓦礫の山に埋もれている破損した音響装置から、聞き覚えのある歌が流れ出した。 あいらぶらぶゆー、アンダーテイカーッ、との少女の上擦った歌声だ。御鈴様の持ち歌の一つであり、あのライブで 大好評を博した曲、あいらぶアンダーテイカーだ。つばめは呆気に取られつつも、カウントを再開した。六、七、八、 九、十。水の固まりは泥を吸い上げて濁ったかと思うと、水風船を破ったかのようにぱしゃりと破れる。十一、十二、 十三。伊織の動きが止まり、外骨格が綻び、蒸気が晴れていき、体液の沸騰が止まる。十四、十五、十六。
 カウントが終わると同時に、御鈴様の歌も止まった。つばめがか細く息をしていると、コジロウの胸部装甲の上に 転がった携帯電話から道子が話し掛けてきた。異次元宇宙から音響システムを乗っ取って、御鈴様の歌を微調整 して流したのだという。抜け目ない。つばめは安堵してコジロウの上で弛緩し、ナユタの光も止めた。

「あー……ヤバかったー……」

『その意見には、本官も全面的に同意する』

 道子の音声にコジロウの声が割り込み、つばめはちょっとだけ自負した。

「でも、なんとか出来たでしょ? 伊織も、吉岡りんねも」

『ええ、なりました。アソウギが完全に機能停止しましたから、御嬢様と伊織君の状態は危ういですけどね。お二人が 安定するまで、つばめちゃんが傍にいてあげて下さい。その方が、私も調整が進めやすいですから』

「解った。んで、どのぐらい?」

『単純計算で八時間は必要ですねー。だから、一晩は一緒にいてあげて下さい』

「まあ、それぐらいなら」

 つばめはコジロウの上から上体を起こし、土塊の中で藻掻いている高守の種子を見つけ出して土を払ってやり、 肩の上に乗せた。どうせ体中が汚れ切っているのだから、多少汚れが増えても気にならない。外骨格の名残である 濁った水が至るところに溜まっているコンテナに近付くと、コジロウが後から追ってきた。彼はつばめの足元に散乱 しているコンテナの破片や瓦礫を払って危険物を取り除き、道を造ってくれた。
 巨大化した伊織の形に添って擂り鉢状に歪んだコンテナの中心には、少女と虫が横たわっていた。つばめと遜色 のない年相応の幼い体形と、派手さはないが整った顔立ちと、黒く濡れた長い髪。これが本来あるべき吉岡りんね だ。つばめはパーカーを脱いで裸体のりんねに掛けてあげてから、りんねを放すまいと懸命に上右足を差し伸べる 人型軍隊アリを見下ろした。りんねの白く細い指と伊織の黒く鋭い爪は、尖端だけを弱く絡み合わせていて、互いを 狂おしく欲しているのが如実に伝わってくる。
 それが猛烈に羨ましくもあり、切なくもあった。つばめは二人の手をそのままにしておいてやり、つばめの背後 に膝を付いたコジロウを見上げると、コジロウはつばめの肩に手を添えて支えてきてくれた。だが、それだけだった。 パンダのコジロウに戻っていた時に言っていたように、道具と使用者の境界線を保っているからだ。けれど、伊織と りんねの間にはそれがない。伊織はりんねの道具であろうとする一方で、己の人格や感情に素直だからだ。
 だから、りんねは幸せになれる。





 


13 1/3