機動駐在コジロウ




老いてはコマンドに従え



 雪が止んだ。
 雲の切れ間から差し込んだ日差しが、長年張り替えを忘れられていたせいで風化した障子戸を擦り抜けて、畳を 暖めてきた。名残惜しく思いながらもコタツから出た美月は、障子戸を開けて結露の浮いた窓も開け、鉛色の隙間 から覗く鮮やかな青空を認めた。日差しは気持ち良いのに、重苦しい不安が胸中で疼いた。
 それもそうだろう、と美月は手入れの悪い庭に潜んでいる戦闘員達を見やった。雪原迷彩の白い防護服に身を 固めた男達が、白い布で覆った自動小銃を携えていた。ヘルメットとゴーグルに隠されているので、彼らの表情は は窺えないが、決して好感情は抱いてくれていないだろう。複雑で暗澹としている内情を知らなければ、つばめと共 にフカセツテンに向かった者達は、ハルノネットや新免工業の恩恵を受けたサイボーグや世間に馴染んで暮らして いた人間もどきを再び死に至らしめる原因を作ったことになる。だから、捜査令状が出てもおかしくはないし、大量 殺人犯として目を付けられても不思議はない。これ以上、遺産とそれに関わる者達を野放しにしておけば、政府の 沽券にも関わるからだろう。散々遺産を利用してきたくせに、と美月は歯噛みし、障子戸を閉めた。

「連中のことは気にするな。俺が指示するまで何もしないからな」

 美月が余程不愉快げな顔をしていたのだろう、コタツの一角に座っている迷彩服姿の男が宥めてきた。

「ちょっと見ないうちに偉くなりやがって。つか、あたしを逮捕しに来たんじゃないのかよ」

「それは俺の管轄じゃないが、立件されるのは間違いないから覚悟しておけよ。拾得物横領、職権乱用、服務規定 違反、他にもまだまだある。小倉重機に頻繁に出入りしていたことからして、かなり拙いんだ」

「現場の判断でどうこうしねぇと解決出来ない案件だらけだっただろ。だから、結果オーライだ」

「そういう問題じゃないだろうが。特に行政は」

 男の隣に座っている小夜子はミカンの皮を剥いて白い筋も取ってから、ほいよ、とりんねに差し出した。りんねは それを受け取り、食べたが、酸味が強かったのか顔をしかめた。あたしはこれぐらいが好きだけどな、と言いつつ、 小夜子は皮がまだ青いミカンを頬張った。美月はまたコタツに足を入れたが、つばめのことが気掛かりだったので、 小夜子が段ボール箱ごと持ち込んだミカンを食べる気にはなれなかった。

「ミカンを食べたら皮が残るね」

 コタツにも入らずに居間の隅に正座しているシュユの言葉に、熟れたミカンを手にしたりんねが頷く。

「ん」

「残った皮はどうするかな」

「む」

 りんねがゴミ箱を指すと、シュユは数本の触手をそちらに向ける。

「そうだね。大体はそうなる。だけど、その皮を後生大事に持っているとどうなるかな」

「黴びるだろ。でなきゃ、干涸らびる」

 小夜子が投げやりに答えると、シュユは凹凸のない顔を彼女に向けた。

「そう。それが当たり前。土に埋めたら微生物によって分解されるし、自治体のルールに則って処理されたら焼却炉 で灰になるし、生ゴミ処理機で加工して肥料にすることも出来る。価値はそうやって生まれるものだ。だけど、その皮 が非常に稀少な成分を宿している、という情報が流布されていたらどうだろうか。ミカンの皮なのに、万能の霊薬と して扱われるようになる。ミカンの皮を巡って、人々の間で争いが起きる。ミカンの皮ばかり執心して、肝心の中身 が蔑ろにされる。ミカンの皮に付加価値を与えて神格化してしまう。でも、ミカンはミカンだ」

「禅問答だな、そりゃ」

 小夜子は二個目のミカンの皮を剥き終えると、房を大きめに千切って口に放り込んだ。

「その物事や物体に対してどういった価値を見出すのか、それが問題だってことだ」

 雪原迷彩の戦闘服を脱ごうとしない男は、皮膚が引きつった左目の瞼を細めて義眼を狭めた。戦闘服の胸元 には、周防国彦、と名前を刺繍されたワッペンが縫い付けられていた。

「俺がここに差し向けられたのは、お前達に報告を行うためだ。吉岡グループは解体されることが決定した」

「えぇ!? それじゃ、りんちゃんはどうなるんですか!?」

 美月が腰を浮かせると、周防は美月を諌めてきた。

「どうもこうもならんさ。人が死にすぎたんだ、どこかに責任をおっ被せなければ世論は納得しない。吉岡グループと ハルノネットと新免工業がサイボーグ化した人間の数は、合計すると三百万人近い。更に、弐天逸流が生み出した 人間もどきの数は、把握出来ているだけで二万人を超えている。警察や医療機関に申告されていない連中も当然 いるだろうから、それを含めれば被害者の数は増えるだろう。戦争でも、一度にここまでの人数が死ぬことは滅多 にない。誰も彼も、死から目を逸らした結果がこれだ」

「だから、吉岡グループの資金を後始末の財源にしようと?」

 コタツの一角で正座している長孝が呟くと、周防は頷く。

「そうです。関係者に支払う賠償金にしても、国庫には限界がある。その点、吉岡グループならば、国内外で荒稼ぎ していたから金は唸るほどある。ハルノネット、フジワラ製薬、新免工業の三社からも搾り取れるだけ搾り取って、 全て賠償金や補償金や事後処理の費用として使う予定だ。路頭に迷う人間も山ほど出るのは間違いないだろうし、 吉岡グループを失えば国の経済も大きく傾くのは目に見えているが、そこから先は政治家の先生方の腕の見せ所 だよ。俺達、現場の人間の仕事じゃないからな」

「そんなに大事になっていたんだ……」

 全然気付かなかった、と美月が打ちひしがれると、小夜子が慰めてきた。

「ミッキーが気にすることはねぇ。どいつもこいつも自分勝手だったってだけだ。で、そのシワ寄せが宇宙一我が侭 なクソ爺ィのせいで表に出たってだけだ。そりゃ、あたしだって死んでほしくなかった人はいるし、顧みるものが特に なくても、うっかり事故にでも遭って瀕死になったら死んでも死にきれねぇーって思って、サイボーグ化していたかも しれねぇよ。けどな、それは当事者の責任なんだよ。そいつらの人生だったんだよ。ただ、その中心にあったのが 吉岡グループで、佐々木長光で、遺産だったってだけなんだよ」

「吉岡グループの上層部には、佐々木長光に遺産をちらつかせられて顎で使われていた連中が何人もいる。今、 そいつらから罪状を炙り出している最中だ。脱税、賄賂、談合、密輸、買収、隠蔽、インサイダー、どれだけ出てくる のか楽しみだよ。そうなれば、俺もまた仕事に駆り出される。まあ、元の仕事に戻らなきゃ機密漏洩だのなんだので リアルに首が飛ぶかもしれなかったんだ、背に腹は代えられんってことだ」

 周防がぼやくと、小夜子は目を据わらせる。

「政府もいい加減になりやがって。スーみたいにぺらぺら裏切るような野郎を捜査員に戻しちまっていいのかよ?  普通だったら、とっくの昔に謎の事故か他殺にしか見えない自殺で墓の下だぞ?」

「それだけ人材が枯渇している証拠だ。政府関係者も、公安も、調査室も、人間もどきが何人もいたんだ。シュユが 備前美野里にやられなければ、一生正体を悟られずに本人に成り代わって人生を謳歌していたと考えると、ぞっと しちまうよ。人間もどきが、本人以上の出来の良さだったってのは疑いようがない事実だがな」

 苦々しげに述べ、周防は嘆息した。そこで、美月はふと疑問を抱いた。

「だったら、どうしてその人達は私達に成り代われなかったんですか?」

「簡潔に言うと、人間もどき達は個体差と呼称すべき固有の自我を持てなかったんだよ。僕やクテイを通じて異次元 宇宙に転送され、保存されていた過去の記憶を元にした人格や意識を仮初めの肉体にダウンロードして、それまで の当人よりもほんの少しグレードアップした個体になったけど、異次元宇宙に転送された時点で彼らの記憶や自我 や経験は統合されてしまった。極小単位の次元宇宙、すなわち意識が並列化されると、その延長で膨大な情報量 を一瞬で処理出来るほどの演算能力が生じるから、生命体としての知的レベルは底上げ出来るけど、個体として の価値は底辺に下がる。個性がないからだよ。生前の記憶を引き摺っている人間もどき本人は個性が残っている と思い込んでいたとしても、それは生前の記憶が再構成されたことで生まれる錯覚であって真実ではないからね。 サイボーグ化された人達も、手術する過程で脳の一部を切除されて僕かクテイの生体組織を移植されているから、 人間もどきとなんら変わりのない状態にされてしまっていた。だから、皆、自分を見失って溶けてしまった」

 シュユが穏やかな口調で答えたが、その内容に美月の胸中は更に暗澹とした。

「じゃあ、私が会った、警官ロボットの中に入った羽部さんの意識もそうだったんですか?」

「いや、羽部君の例は少し特殊でね。僕は異次元宇宙との接続が切れていたから、未送信のまま、僕の記憶容量 に羽部君の意識が保存されていたんだ。それをムジンに入れてから警官ロボットに搭載させたんだ。だから、彼は 本物の羽部君だったよ。それについては、僕が保証する」

 シュユの言葉に、美月は少しだけ安堵した。けれど、それが何かの救いになるわけではない。美月は弐天逸流 に母親を奪われたとばかり思っていたが、母親は生きていた。政府の療養所の住所も教えてもらって、父親が先日 出向いて面会してきたし、美月も電話越しに会話した。少し疲れ気味ではあったが、母親は生きていた。だが、他の 人々はそうではないのだ。もしも母親も人間もどきだったら、と考えるだけで胸が潰れそうになる。

「情報を蓄積しただけでは人格とは言えないし、記憶も知識も一纏めにしてしまえば尚更だからね」

 シュユはぬるりと触手を伸ばしてミカンを取ると、複数の触手を使って器用に皮を剥き、白い筋も取った。

「あれ、あんた、モノ喰うんだっけ?」

 小夜子が不思議がったので、美月も訝る。

「そういえば、シュユさんって昨日の夜も今朝も何も食べていませんでしたよね?」

「物質宇宙に下ってからの僕は様々な刺激を受けたんだけど、中でも特に強烈だったのが食欲なんだよ。異次元 宇宙に溶けている他のニルヴァーニアン達もまともな肉体があった頃の記憶が目覚めたらしくて、僕に何か食べて くれってせっついてくるんだよ。だから、美野里さんに分解酵素で溶かされた部分の臓器を修復するついでに、少し 改造してみたんだ。嗅覚はまだ未完成だけど、味覚は急拵えで作ったんだ。味、解るかなぁ」

 口と思しき部分に隙間を空けたシュユはミカンの房を放り込み、わあ酸っぱい、と率直な感想を述べた。

「ニルヴァーニアンは停滞していた。だから、僕の変化を許容したんだ。クテイは進化の過程で不可欠な突然変異で あり、一度遠ざけた物質宇宙への出入り口でもあり、数多の蠱惑的な刺激を異次元宇宙全体に蔓延させるための インターフェースでもあったんだ。全く、おかしなものだよね。精神世界こそが至高であり、異文明の神様になること が究極の生命の形だとばかり思っていた種族だったのに、些細なことで物質宇宙が恋しくなっちゃうんだからね。 僕も昔はそうだった。だから、フカセツテンの中に異次元を作り上げて閉じ籠もって、これまでしてきたことをやろうと 弐天逸流を立ち上げさせて信仰心を掻き集めて生き長らえてきたけど、皆喪さんのお母さんに求められたせいで 綻びが出来ちゃったし、道子さんに御説教されたおかげでニルヴァーニアンの在り方自体に疑問を持っちゃったし。 でも、一番の切っ掛けはあれだよ。あの時食べた、おいしいものだよ」

「で、何を食べたんですか?」

「む?」

 美月が問うと、りんねも首を傾けた。

「カレーパンと缶コーヒーだよ」

 そう言って、シュユはミカンの房を一口で半分も頬張った。歯が生えていないからだろう、口に似た隙間を狭めて 全体的に波打たせ、咀嚼の真似事をしている。だが、やはり酸味が強かったらしく、凹凸のない顔を花の蕾のよう にぎゅっと窄めてしまった。なぜ、そこでカレーパンと缶コーヒーなのだ。そんなチープな食べ物がニルヴァーニアン という異星人に、どれだけ多大な影響を与えたのだろう。確かに、どちらも刺激的な食べ物ではあるが。美月は、 ニルヴァーニアンがカレーパンと缶コーヒーのどこがそんなに気に入ったのかが無性に気になったが、難解な単語 ばかりシュユに尋ねても、回りくどい答えしか返ってこないだろうと判断して、疑問を胸の内に押し止めた。
 ふと気付くと、長孝の姿が消えていた。この非常時に外に出たら危ないのでは、と美月は長孝を呼び戻すことを 提案したが、大人達は好きにさせてやれと言うだけだった。りんねもそれに同意した。長孝の身辺に何かあったら、 つばめが戻ってきた時に心配を掛けてしまう。だが、美月は佐々木家の内情の外側しか知らない。長孝は父親とは 古い付き合いの友人ではあるが、それだけだ。だから、長孝を引き留める方が酷かもしれない、と思い直した美月 は、またコタツに潜ってミカンに手を伸ばした。今はただ、つばめの帰りを信じて待つしかない。
 無力な友人に出来ることは、それだけだ。




 つばめ、と少女の名が慟哭された。
 武蔵野、一乗寺、寺坂、伊織、道子、そしてコジロウ。全員の声が重なり合った、不協和音の叫声がざらついた 空気を震わせた。胸に開いた穴から赤黒い飛沫を撒き散らしながら仰け反り、倒れ込んだ少女は、手足をあらぬ 方向に投げ出していた。それでも、目には生気が宿っていた。まだ間に合う、出血を止めて人工臓器を接続させて 気道を確保して意識を安定させて体温を維持させれば、つばめは死なない。死なせてはいけない。
 拘束していた赤黒い根を力任せに千切って真っ先に駆け出したのは、道子だった。メイド服のスカートの下に隠し 持っていた大振りなサバイバルナイフを振るって寺坂を解放すると、右腕を失った彼を引き摺ってつばめの元へと 駆けていく。寺坂のサイボーグボディを分解して人工心臓をつばめの動脈に接続すれば、応急処置は出来ると判断 したからである。失血によって小刻みに手足を痙攣させているつばめを目指し、根を越え、跳び、駆ける。

「つ」

 つばめちゃあんっ、と叫ぼうとした道子の目の前に、血塗れの爪が翻った。バラバラになった美野里の外骨格の 一部にして、つばめの心臓を抉り抜いた凶器だった。生身であれば総毛立つほどの怒りに煽られた道子は、その 黒い爪にサバイバルナイフを斬り付けるが、未知の力で浮遊している爪は難なく道子の激情を受け止める。

「あなたという女はっ! どこまでも屑なんですかぁあああっ!」

 美野里さえいなければ、美野里さえまともならば、美野里さえ、美野里さえ、美野里さえ。

「そりゃ他人に全てを求めるのは楽でしょう、簡単でしょうっ! だけど、その通りにならないのが普通なんですよ!  何度死んでもそれが解らないなんて、あなたは正真正銘の馬鹿ですねぇええっ!」

 二度三度と斬り付けたが、刃が掠るだけで叩き落とせない。道子は生身であったら喉が裂けんばかりの怒声を 放ったが、左腕を振り上げた。敢えて美野里の爪の攻撃を受けて、特殊合金のフレームに爪を食い込ませて爪の 動きを止める。そのまま左腕の肘関節に膝を入れて砕き、腕ごと地面に転がした。その上で、ナイフを突き刺す。

「そんなんだから、万年発情期の寺坂さんに萎えられるんですよ?」

 思い付く限りの最大級の侮蔑を言い捨ててから、道子は、ねえ、と根の隙間に転がっている寺坂を一瞥した。

「まあ、な」

 寺坂は人工外皮が破損して頬骨に当たるフレームが垣間見えている顔を背け、素っ気なく応じた。美野里の爪に 手間取った分、つばめの命は衰えている。道子は残った右腕で寺坂を抱えて駆け出そうとしたが、つばめの傷口 は既に別のもので塞がれていた。それは、クテイの眠る桜の木を中心にして成長した、赤黒い根の尖端だった。
 反り返った背中を根に支えられて姿勢を維持され、半開きになった唇の端からは唾液と血の混じったものが一筋 垂れ落ち、つばめのシャツの肩口が汚れた。今し方失った心臓の代わりにねじ込まれた異物は、彼女の動静脈に 細い触手を繋ぎ合わせているのか、水気のある異音が僅かに聞こえてくる。今朝もまた、手際良く人数分の朝食を 作っていた小振りな手からは血の気が失せ、指先は力なく虚空を掴んでいる。

「御友人方、御安心を」

 ラクシャとアソウギを併用して若かりし頃の姿を取り戻した佐々木長光は、親しげな笑みを浮かべる。

「我が孫は死んだわけではありません。クテイが最も好む感情を際限なく与えるために、生と死の狭間にて意識を 保つように加工したまでです。ごく普通の人間として生かしておけば、我が孫は年齢を重ねていき、世俗にまみれて 味が落ちますからね。クテイもさぞや喜んでくれるでしょう。我が孫の管理者権限と、思春期特有の振り幅の激しい 感情を動力源にすれば、クテイと外界を隔てている悪しき異次元も突破出来ましょう」

「加工、って、人間に使う言葉じゃねぇだろおがぁああっ!」

 武蔵野が自身を拘束している根を殴り付けながら叫ぶが、長光は微笑みを絶やさない。

「私にしてみれば、あなた方は人間ではありませんよ。人間とは、ニルヴァーニアンのように完成された姿と精神を 持ち合わせた高潔な種族を指す言葉であるべきです。私は常々そう感じていましたとも」

「人間ってのは自分が人間だと思った瞬間から人間になるのであって、そのために人間の肉体が不可欠なんだ!  触手の異星人を人間にすり替えたとしても、それは人間って名称が付けられた別物だ!」

 一乗寺が髪を振り乱しながら喚くが、長光の態度は変わらない。

「では、あなた方は人間だと言い張る獣に戸籍を与えて人並みの教養と生活を確保するのですか? 明らかに人間 から逸脱した種族であると知りながらも、一切の差別感情を抱かずに相手をするのですか? 出来ないでしょうね、 それが人間ですよ。似たような姿の生き物が多いというだけで、少しばかり文明を発達させたというだけで、驕りを 捨てられないのがあなた方です。ですが、クテイは違います。私を人並みに扱い、私を評価し、私を受け入れ、私を 愛してくれました。親兄弟に穀潰しだのみそっかすだの何だのと散々罵られて家畜以下の扱いを受けてきた私を、 この私を、同等に扱ってくれたのはクテイだけなのですよ。だから、クテイは全人類に、全知的生命体に、全宇宙に 肯定されるべきなのです」

 長光は波打つ根に乗って移動し、胸を貫かれているつばめの元に至ると、少女の青ざめた顔に触れた。

「クテイは管理者権限を私には与えてくれませんでした。クテイは私を愛していると言っていたのに。ですが、それは 私に課せられた試練だったのです。課題だったのです。障壁だったのです。愛とは言葉で表現するだけではとても 脆弱で希薄な概念ですから、行動に移さなければ形になりません。故に、クテイは私を試したのでしょう。なんとも 可愛らしいではありませんか、クテイは」

 子供の頃の面影が残る丸い輪郭をなぞった手が、つばめの唇から滴る血を拭い取った。

「では、管理者権限に基づいて、ムリョウとムジンに下された命令を変更いたしましょう」

 鮮やかな血に濡れた指先が、コジロウを示した。先程まで長光が立っていた桜の木の根本に右手の拳を深々と 埋めていた警官ロボットは、拳を引き抜く際に根を握り潰した後、各関節から高圧の蒸気を噴出しながら真っ直ぐに 立ち上がった。光学兵器の如く鮮烈な光を放つ赤いゴーグルが、若返った男を照らす。

「ムリョウ。あなたは私にとって必要なのです。我が孫から抽出した生の感情は刺激が強すぎますので、直接クテイ に差し出すと、よからぬ変化を起こしてしまいかねません。ですから、ムリョウを一度通して雑念や余剰分の感情 を濾過したものを、クテイに味わわせてあげたいのです」

「現時刻を以て、佐々木長光をつばめの敵対勢力として認識。攻撃目標として設定」

「クテイの庇護下でマスターが永遠に長らえるのです、あなたのような道具にとっては幸福だと思いますけどねぇ」

「それは本官の主観ではない」

 コジロウの背後に、猛烈な白煙が噴き上がる。その凄まじい熱風は桜の花弁を大量に散らすと同時に、コジロウ の機体を急速発進させていた。次の瞬間には、コジロウの迷いも躊躇いもない銀色の拳が佐々木長光に埋まり、 白いシャツを着た背中が大きく曲がったが、長光は吹き飛ばされなかった。

「クテイの眷属と称すべきあなたでさえも、私を肯定しないのですね?」

 肌色の、どうということのない人間の手がコジロウのマスクフェイスを鷲掴みにする。骨張った指が曲がっていき、 コジロウの積層装甲に指の形に穴が開いた。ゴーグルがひび割れて欠片が飛び散り、マスクも潰される。視界を 奪われたコジロウが僅かに身動ぐと、長光は空いている左手を振りかぶり、コジロウの腹部装甲に埋めた。直後、 二百キロ以上もの重量を持つ機体が軽々と吹き飛ばされ、バックパックで根を削りながら仰向けに倒れた。
 割られたマスクフェイスと抉られた腹部装甲からヒューズを飛ばしながら、コジロウは起き上がろうとするが、長光 が妙に間延びした足取りで近付いてきた。本人は慈愛に満ちた微笑みを浮かばせているつもりなのだろうが、傍目 からでは底なしの悪意しか感じられなかった。ふと、長光はコジロウの胸部装甲のステッカーを見咎める。

「これはこれは、子供らしいことを。ですが、それが何になりましょうか。私とクテイの前では、正に児戯です」

 長光は片翼のステッカーをついと撫でてから、胸部装甲に親指をめり込ませた。黒い片翼が破られて穴が開き、 その下の積層装甲も紙のように呆気なく破られ、回路ボックスやギアボックスが垣間見える。長光はステッカーの 部分を入念に引き千切ってから握り潰し、投げ捨てると、コジロウの胸部装甲を両手で掴んで毟り取った。
 捻れた分厚い金属板、ムリョウが露わにされる。長光はつばめの血が付いた親指をムリョウに添え、一筋、赤を 塗り付けた。ムリョウの傍で青い光を零していたムジンが光を失い、ムリョウから剥がれ落ちる。何本ものケーブルが 絡み付いたムリョウを無造作に握り、引き抜いた長光は、勝ち鬨を上げるように高々と掲げた。
 主人と動力源を失った警官ロボットは、沈黙した。





 


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