機動駐在コジロウ




ギフトは寝て待て



 吉岡家に戻ると、玄関に明かりも付いていなかった。
 りんねも伊織もいるはずなのに、と訝りつつ、文香は玄関のドアノブを回した。鍵は開けっ放しで、呆気なく開いて しまった。限られた人間しかいない集落とはいえ、いくらなんでも不用心だ。手探りでスイッチを入れ、オレンジ色の 明かりが点ると、玄関のあがりまちに制服姿のりんねが座り込んでいた。長い髪が垂れていて顔を覆い隠していた ので、文香は心臓が跳ねてしまったが、すぐにその正体が娘だと悟って気を取り直した。

「ただいま、りんね」

「……うぇ」

 ぎこちなく顔を上げたりんねは、目元が赤らんでいて頬には涙の筋がいくつも付いていた。その顔を拭ってやろうと 文香が近付くと、りんねは文香の足に縋り付いてきた。幼い子供のような仕草に、りんねは少し戸惑った。

「どうしたの、一体?」

「だ、だぁってぇ、おかあさんがかえってこなかったんだもぉん」

 りんねは文香の履いているジーンズに顔を擦り寄せながら、ぼろぼろと涙を零した。文香は泣きじゃくるりんねを 離してから抱き締めてやり、その背を撫でてやった。りんねは力一杯文香に抱き付いてきて、上擦った声で何度も お母さんお母さんと繰り返した。余程寂しかったのだろう。体は大きいが、中身は本当に子供なのだ。最後のりんね に産まれ直してから、三年と数ヶ月しか過ぎていないのだから。

「ごめんね、りんね」

 様々な思いを込め、文香が謝ると、りんねはしゃくり上げながら言った。

「お母さん、具合悪いって言ったのに、学校から帰ってきたらどこかに行っちゃって、でも、私も伊織君も遠くに捜し に行けないし、だけど、捜しに行こうにもお母さんがどこに行ったのかも解らないし、だから、だから、だから」

「ごめんね、本当に……本当に……」

 鼻声で言葉を詰まらせながら、必死に喋るりんねに、文香は居たたまれなくなった。自分は、なんて下らないことで 悩んでいたのだろう。家族になったことが不安なのは、何も自分だけではない。まともな人生経験が皆無のりんねの 方が、文香よりも余程不安に決まっている。体ばかり大きくなり、知能ばかりが発達していても、心はまだまだ幼いの だから、寄り添って支えてやらなくてどうする。文香は娘の髪に頬を寄せ、自分の愚かさを痛烈に恥じ入った。

「お帰り」

 狭い廊下を通って暗がりの奥からやってきたのは、人型軍隊アリ、伊織だった。

「ただいま、伊織君。この子、ずっと玄関にいたの?」

 文香はりんねを抱き締めたまま、伊織を見上げると、伊織は爪先で自身の顎を軽く引っ掻いた。

「俺は部屋にいた方がいいっつったんだけど、どうしても玄関から動かなくてよ。で、具合、どうなんだよ」

「もう大丈夫よ。それより、御夕飯にしましょう。つばめちゃんから、お裾分けしてもらったのよ」

 文香はタッパーの包みを伊織に手渡してから、りんねの乱れ放題の髪を撫で付けてやった。

「その前に、お風呂に入った方がいいかもしれないわね」

「お母さんと一緒がいいーぃ」

 りんねは文香から頑なに離れようとしなかったので、文香は娘の手を引いて立ち上がった。

「はいはい、解ったわ。伊織君、悪いけど、お風呂を沸かしてくれるかしら」

「おう」

 素っ気なく返事をしてから、伊織は大きな体を縮めて廊下を通っていった。ぐずぐずと洟を啜り上げているりんねを 宥めてやりながら、文香はりんねに握られている手を握り返してやった。何の苦労も知らない、柔らかく瑞々しい肌 と小枝のような細い骨で出来ている、脆弱な子供の手だった。
 それからしばらくして、風呂が沸いたので入ることにした。長風呂になりそうだったので、先に米を研いで炊飯器に セットしておいた。座り込んでいたせいでぐちゃぐちゃになってしまった制服とブラウスを脱いだりんねを先に入れて から、文香も風呂に入った。軽く汗ばんでいた肌と髪を洗うと、気分が晴れ晴れとしてくる。りんねの長い髪はくせが ないが、伸ばしている分手入れが必要なので、トリートメントを付けてやってからタオルで巻いてやった。広い湯船 に身を沈めると、りんねは弛緩した。泣きすぎたせいで詰まっていた鼻も通りが良くなり、鼻声も治っていた。

「あったかぁい」

「そうね」

 文香が髪を巻いたタオルから零れた後れ毛を掻き上げると、りんねは目を細める。近眼だからだ。

「お母さん」

「ん、なあに?」

「今度、御飯の炊き方とか、洗濯物の畳み方とか、御掃除の仕方とか、教えて。伊織君にも」

「いいわよ、私がやるから。あなたはちゃんと学校に行って、御勉強して、ゆっくりしていればいいのよ」

「何も出来ないのは嫌なんだもん。つばめちゃんはなんでも出来る。美月ちゃんもなんでも出来る。でも、私は何も 出来ない。今日だって、何をしていいのか解らないから何も出来なかった。いつまでもそんなんじゃ、ダメだもん」

「いいのよ。そんなこと、気にする必要はないわ」

 文香は首を横に振るが、りんねは頑として譲らなかった。

「もう、何も出来ないのは嫌。だって、やっと自由になったんだもん。お姉ちゃんも、まどかちゃんも、たまきちゃん も、めぐりちゃんも、ずっとずっとそうしたかったのに出来なかったんだもん。それって悪いことなの?」

「そういうわけじゃ」

「だったら、色んなことを教えてよ。本を読んでいるだけじゃ解らないことも、一杯あるんだもん」

 りんねが食い下がってきたので、文香は根負けした。

「解ったわ。今度から、家の仕事を教えてあげる。伊織君も一緒にね」

「うん」

「その代わり、一つ、教えてくれないかしら。どうして、りんねは私を許してくれたの? だって、私はあなたに とてもひどいことをしてしまったし、一度は殺されかけるほど嫌われたじゃない。それなのに、なんで?」

 文香はりんねの頬に手を添え、娘の目を見下ろした。夫と良く似た眼差しが、躊躇いなく文香を見返してくる。

「うん。一度は、お母さんのことが凄く嫌いになった。どうしても許せなかった。私のこと、利用していたから。だけど、 お母さんはずっと私の傍にいてくれた。伊織君のことだって見捨てなかった。あの病院で、私が起きるまで同じ部屋 にいてくれた。この家に引っ越してきた日に、私の部屋を作ってくれた。私の話も、伊織君の話も、ちゃんと最後まで 聞いてくれた。毎朝、学校に持っていくお弁当を作ってくれた。行ってらっしゃいって送り出してくれた。帰ってきたら、 ただいまって出迎えてくれた。だから、もう、嫌いになんてなれない」

 気恥ずかしげな笑みを見せた娘に、文香は胸中で凝っていたものが氷解した。りんねには、今まで自分が親や 他人からしてほしかったことをやってきた。文香の中での、正しい母親の在り方を出来る限り実践してきた。普通と いう言葉に当て嵌まるような、生活を送れるように尽力してきた。上っ面だけでもまともになろうとしたからだ。そんな 紛い物の愛情でも、貫き通せば本物に近付けるということか。

「ありがとう、りんね」

 文香がりんねを抱き寄せると、りんねははにかむ。

「ふへへ」

 嘘、偽物、虚構、作り物、見せかけ、フェイク、デッドコピー。だが、それらは過去のことだ。腕の中の娘は本物の 人間であり、体温があり、心臓が脈打ち、意志を持って生きている。だから、打てば打っただけ、感情は響くのだ。 それに気付くまで、随分と遠回りしてしまった。簡単なことほど難しいとは、よく言ったものである。
 文香とりんねが風呂から上がって髪を乾かし終えると、御飯も炊き上がった。文香は味噌汁を煮立てると、つばめ からのお裾分けである肉じゃがを器に盛って食卓に出した。文香が作るものより若干甘みが強く、牛肉の細切れが 入れてある関東風の味付けだった。お母さんのとは違う、でもおいしい、と言いながら、りんねは泣いたことで消耗 した体力を補うためなのか、いつもより少し多めに食べた。伊織は外骨格で出来た爪では箸が滑ってしまって上手く 掴めないので、行儀は悪いが、スプーンを握って食べていた。
 夕食が終わると、りんねは昼間に美月から贈られたちくわのぬいぐるみを持ってきて、それがどんなに可愛いかと 力説してくれた。以前にも美月からプレゼントされた、同じデザインだが二回りほど小さいちくわのぬいぐるみも居間 に持ってきて、小さい方がちーちゃんで大きい方がわーくん、と名前まで教えてくれた。今日から一緒に寝る、とまで 言うりんねに、伊織は動揺したのか触角を強く立てた。伊織君もこの子達と仲良くしてね、とりんねに微笑まれる と、伊織は触角を下ろし、文句も言わずに頷いた。文香は二人のやり取りを眺めながら、娘の誕生日プレゼントを どうしたものかと考えあぐねた。六月二十八日まではまだ一週間はあるのだから、じっくり考えよう。
 もう、頭痛は起きなかった。




 そして、六月二十八日。
 りんねの誕生日パーティーは、家族だけでこぢんまりと済ますつもりでいたのだが、あれよあれよという間に話が 大きくなり、浄法寺の本堂でりんねの誕生日パーティーが行われることになった。主催者は当然ながら住職である 寺坂で、ここんとこ暇だったから騒ぎたい、というのが動機である。
 御本尊と仏壇以外はこれでもかと飾り付けられ、白い布が掛けられた長机には皆が持ち寄った御馳走が並び、 年齢と同じ本数のロウソクが立てられた二段重ねの大きなバースデーケーキも鎮座していた。主役であるりんねは フリルが多めの白いワンピースを着て、皆から贈られたプレゼントに囲まれ、終始上機嫌だった。中でも特に喜んだ のは、文香が思い付く限りのちくわ料理を盛った、ちくわのオードブルだった。
 つばめからは可愛らしい花柄のエプロン、長孝からはRECの関係者にだけ配布されているスタッフ専用Tシャツ、 武蔵野からは先述通りにチクワ入道のフィギュア、小夜子からは先述通りにやけにリアルな軍隊アリのフィギュア、 一乗寺からは水色で上品なレースが付いたポーチ、周防からは一乗寺のポーチと同じブランドのコームとバレッタ のセット、道子からは先述通りにお手製のシュシュがたっぷり、寺坂からは先述通りにバラのレリーフのコンパクト ミラー、そして伊織からはヒナギクの押し花を挟んだ栞。シュユは誕生日の概念を理解していないらしく、プレゼント は持ってきていなかったが、御誕生日おめでとう、とりんねに言ってくれた。
 御馳走が平らげられ、ケーキも食べ終わると、大人達は酒を酌み交わし始めてしまった。こうなるとパーティーの 主役が出る幕はなくなるので、りんねは早々に宴席から抜け出した。誕生日プレゼントを全部入れた紙袋を下げ、 大人びたデザインのローヒールのサンダルを履き、白いワンピースを翻しながら駆けていった。文香がそっと酒席 を抜けて娘の後を追っていくと、伊織も付いてきた。彼もまた、りんねが気になって仕方ないらしい。
 りんねが向かった先には、浄法寺の裏手にある墓地があった。りんねは迷わず吉岡家の墓まで進み、ワンピース の裾を膝の裏に入れながら屈み、誕生日プレゼントを広げていった。

「お姉ちゃん、まどかちゃん、たまきちゃん、めぐりちゃん、他の沢山のお姉ちゃん。ほら、こんなにもらったよ」

 りんねは誇らしげにプレゼントを示してから、墓石を見上げた。昨夜の雨が乾き、水の筋が付いている。

「皆、御誕生日、おめでとう」

「だったら、後でケーキも持ってきた方がいいかしら」

 文香が声を掛けると、りんねは二人に振り返る。

「うん、それがいい。あのケーキ、二段重ねで大きかったからまだ余っているしね」

「それから、私からもプレゼント」

 文香がノートを差し出すと、りんねはそれを受け取り、怪訝そうに広げた。

「これって、何?」

「私の料理のレシピよ。書けるだけ書き起こしてみたの。これから、家のお手伝いをしてくれるなら、御料理も出来る ようにならないとね」

「うん。嬉しい!」

 りんねはノートを抱き締めてから、墓石に向けて広げてみせた。

「ほらほら、お母さんの御料理だよ。練習して上手になったら、作って持ってきてあげるからね。そしたら、皆で一緒 に食べようね。もちろん、お父さんもだよ」

「そうね、きっと喜んでくれるわ」

 文香が頷くと、りんねは文香を見上げてくる。

「今度、お母さんの御誕生日、お祝いするね。だから、教えてね」

「あら、いいの?」

「だって、私、皆から祝ってもらえて嬉しかったんだもん。だから、お母さんも嬉しくなってほしいの」

 伊織君もだよ、とりんねに笑顔を向けられ、伊織は顔を背けた。

「……ウゼェ」

「そうね、伊織君もお祝いしてあげないとね。うちの子だものね」

 文香がにやつくと、伊織はぎちりと顎を噛み合わせる。

「ウゼェっつってんだろ」

「嬉しいんだってさ。伊織君、そういう時っていつもこんな感じだから」

 りんねが伊織の言動の意味を解説すると、伊織は居たたまれなくなったのか触角を伏せた。

「クソが」

「ところで、伊織君。このヒナギク、どこに咲いていたの? よかったら教えてよ」

 伊織からのプレゼントである栞を取り出したりんねに朗らかに尋ねられ、伊織はぎりぎりぎりと顎を砕かんばかり に噛み締めていたが、勿体振った仕草で振り返った。腰を屈めてりんねと目線を合わせ、爪を上げて懇切丁寧に 道順を教えてくれた。りんねは目を輝かせながら、伊織に詰め寄っている。二人の世界が出来上がっているので、 文香はそっと二人から離れた。本堂からは、すっかり出来上がった大人達の騒ぎが耳に届くが、宴席に戻る気は なかったので、文香は境内で立ち止まって晴れ渡った初夏の空を仰ぎ見た。
 細切れの雲が散らばる青空は高く、清々しかった。確かな夏の気配を含んだ風が心地良く、十五年前のあの日 のことを思い出す。六月二十八日は、りんねを死産した日でもなければ、ラクシャとアソウギとゴウガシャの能力で りんねが産まれ直した日でもなければ、過去のりんねが自殺を繰り返していた日でもない。吉岡八五郎と文香の間 に生じた赤子の存在を、文香が知った日だ。これで八五郎と添い遂げられる、金に不自由せずに済む、辛いことから 逃げられる、と十五年前の文香は人生の勝利を確信していた。だが、理想と現実は大違いだった。
 それでも、あの馬鹿げたおままごとの生活よりも、今の方が余程充実している。生きている実感が湧く。年甲斐も なく泣いてしまうほど悩んだおかげで、ようやく自分の醜悪さを認められるようにもなった。何もかもこれからが本番 なのだ。文香は娘とその思い人を遠目から眺め、改めて、我が子という世界からの贈り物を受け止めた。
 これからは、愛し、愛されることを恐れはしない。







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